メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
二番目の夢は、ウマ娘のトレーナーだった。
『さあ残り200を切った、まだ伸びるのかまだ伸びるのか、大楽勝だ』
「うわーっ!凄いなあ!お父さんも生で見るの初めてだけど、こんなに速い子いるのかぁ!」
「うん……うん……!」
きっかけは、たまたま見たテレビ中継。堂々たる佇まいのウマ娘達が『自由』にターフを駆け回る姿に、憧れた。
世の中のしがらみとか、過去とか将来とかそんなもの関係なく、今、目の前にあるゴールだけを目指してひた走る姿に、猛烈に焦がれたのだ。
『まだまだ後続を突き放し7バ身……いや8バ身はあろうといったところです。凄い、凄い』
もちろん僕は人間であって、あんなに速くは走れない。けれど彼女達のトレーナーになれば、僕も彼女達のような凛々しくて、自由な人間になれると、本気でそう、思っていた。
『そのままの勢いで今、ゴールイン。いや、強かった。自身初のG1タイトル制覇に、まさしく感情が込み上げると言ったところでしょうか、その場で倒れ込みます』
子供ながらに、沢山勉強もした。スピードシンボリというウマ娘が何年か前に、凱旋門賞なる海外の大きなレースに日本出身者として初めて出走したというのを知って……何年か前に初出走、ということは今はもう、日本出身の優勝ウマ娘が出てきているものだろうと踏んでいた。
地元から車で二時間半、足の届く範囲にもウマ娘のレース場がある事も知った。突然の我儘に二つ返事で応えてくれる、両親の温かみにはまだまだ気付けなかったが。
『おっ、と、駆けつけたのはトレーナーでしょうか、ふたり目を合わせ、勝利を称えあっています』
「おお、うおおおお……!」
かくして僕はその日、目の前で土埃と轟音を上げながら一着でゴール板を踏み抜くウマ娘の姿と、目線を合わせ、対等に喜びを噛み締め合うトレーナーの姿を目撃した。
紙吹雪と人々の拍手喝采に包まれたその逞しい背中。彼女は一体、どこまで勝ち進んでいくのだろうか。日本ダービーに有馬記念、凱旋門賞……いや、そんな見知ったレースなんか目じゃないくらい、もっともっと熾烈で名誉ある『未知』のレースに辿り着いてしまうのかもしれない。辿り着いた先で、これまた未知の強豪ウマ娘達と出会って、激しいデッドヒートを繰り広げ、また更なる未知の栄光を持ち帰ってきてくれるのかも、しれない。
そんな空想の未来が本気で楽しみで楽しみで、楽しみで。いつもは熟睡してしまう帰りの車の中でさえ、ものの一睡も出来なかったのを覚えている。クラシックでもティアラでも、誰もがどんなレースでも自由に一着を目指せる世界がやってくるのだと、40キロで走る車の外、笑顔で走り抜けるウマ娘達の姿を夢想していたのを、強く、覚えている。
あの日見たウマ娘とトレーナーは───
──────────────
「サブトレさーん!スポドリ出来てる?」
「サブトレさん?タオル乾いてる?」
「サブトレさん!教本でわかんないとこあるんだけど!」
「サブちゃん!脚疲れた!マッサージして!」
「サブトレさーん!」
「サブトレくーん?」
「サブトレ!」
「サブ……」
『激務』なのだった。
「ええーと、これから洗濯と、合間に蹄鉄の調整して……ああ、救命救急研修のアンケートも提出しなくちゃいけないんだった……あとは、ターフの場所取りに……」
選抜レースより遡ること、三日前。僕は自らの仕事場である、中央トレセン学園の学内で一番広く、高級感溢れるシックな内装に飾られた一級トレーナー室……
の、片隅。自分に割り当てられた狭苦しいデスクスペースをのたうち回り、必死に日々の業務に食らいついていたのであった。
「はぁーあ……疲れたなぁ……」
養成学校を卒業して、もう二年程になるだろうか。トレーナーライセンスを得て、学園に無事採用されて、真っ先に叩いたこの部屋の扉……まさしく僕にとっての『ヒーロー』であった、あの人の、トレーナー室。
◆
『おっ、と、駆けつけたのはトレーナーでしょうか、ふたり目を合わせ、勝利を称えあっています』
◆
今でも、瞳を閉じれば浮かんでくる。重厚感のあるダブルのスーツを颯爽と着こなし、日本最高峰G1の舞台に、少しだって取り乱すことなく堂々と立つ姿。まさしく、一人の人間の人生何もかも捧げて目指すに申し分ない……
「……なんか、違うんだよなぁ」
瞳を開いたその先に広がるのは、ターフでも、愛する我が担当ウマ娘でもなく、パソコンの画面に映る本日の膨大なタスク、ただ、それだけ。
……特に、不満がある訳では、無い。こんな下積みは当然皆経験してきた事、こんなことで音を上げているようでは、一人前のトレーナーなど夢のまた夢……分かっている、そんなことは分かっている。けど、なんだろうな。
「……って、そうだった!?何を置いてもまずは明日の座学トレーニングの資料作らないと!?」
そんな本日のタスクの一番上、目を逸らしていたなんとも面倒な文字列が否が応でも視界に入って、慌てて気を叩き直し、溜め込んでいた資料を引き出しから引っ張り出す僕。明日開かれる、今季からチームに入ったウマ娘達向けの座学トレーニング。その配布資料の作成を任されていたのである。が……
『これ一冊でOK!レース戦術学入門』
『G1ウマ娘はこう育てろ!~名トレーナーが解き明かす、ウマ娘のすべて~』
『絶対は、ある。皇帝シンボリルドルフ、三万字インタビュー』
「………………」
見ているだけで胸焼けしそうな程の資料の山に、せっかく稼働し始めた手と脳が、まるで泥でも詰まったかのように急停止してしまう。これではいけないと空ぶかしする頭から湧き出てきたのは、何故だか今はまるで関係のない、自分の将来の事、なのだった。
「……そのうち、独り立ちする。担当ウマ娘が出来て、レースに出走させる。それで、重賞で勝てたら……うれしいな。G1勝てたら……万々歳。っていうのを、定年までだいたい四十年、か」
ふと窓の外、午前中いっぱい通り過ぎた後の、いつも通りそれなりに晴れた鱗雲混じりの空を眺めてみる。どうだろう、例えばいきなりあの空から宇宙船が降りてきて、その中から凄まじい能力を持ったスペースウマ娘が現れ、レース界に攻め込んできて。地球のウマ娘達、伝説級のウマ娘ですらまるで歯が立たなくって……
「そして、スペースウマ娘に支配されたトゥインクルシリーズを奪還すべく、地球のウマ娘達は今まででは考えられないような常識外れのトレーニングを……ふふっ……いいな、それ」
……なんだか、そっちの方がよっぽど面白く感じてしまった僕は……多分、相当疲れてるんだろうな。どうしようか、ちょっとくらい早退させてもらっても美竹さんなら許してくれるだろうけど……けどこの資料、明日までだしな……
「やぁ!精が出るな少年!」
「……うおっ!?お、お疲れ様です!『美竹さん』!」
なんて、文字通り上の空な僕の耳をぶち抜いた、凛々しく野太い、未だにあまり聞き慣れていない快活な男性の声。やってきたのは他でもない、この部屋の、このチームの本当の主。
「はっはっは!いやいい!立ち上がらなくてもいい!そうやって畏まり過ぎるのは、君の悪い癖だぞ!少年!」
「あ、は、はい、すいません……」
美竹トレーナー。指導者デビュー後、たったの二年目で教え子をG1勝利に導いた『神童』にして……それから十数年の間、二十個以上ものG1タイトルを教え子達に与えてきた『キングメーカー』。
「あっ!美竹さんおつかれー!」
「トレーナー!今日もよろしくねー!」
「ん?ああ!ポプラジェット君にキャッチャーロード君か!今日もよろしく頼むぞ!あと、廊下は気をつけて走る事、だな!」
「はーい!」
「わかってまーす!」
そして、現在ではウマ娘十八名、サブトレーナー六名体制の、学園屈指の巨大チームを束ねる、誰もが認めるトレセン学園の『トップトレーナー』。様々な異名を持つ彼こそが、僕の直属の上司にして恩人にして、子供の頃からの、僕の……
「さて!突然で申し訳ないが、君に一つ、頼みたい事があってな?」
「頼みたいこと……は、はい、なんですか?」
「はっはっは!何、大したことじゃない。彼女の今日の通院の、付き添いをお願いしたいんだ!」
「彼女?」
ゴロゴロゴロゴロ……
「はーい!私でーす!」
「……うわっ!『ピール』、いつの間に?」
「ひひひ、サブちゃん相変わらずビビりだねー?」
美竹さんの後ろから、車椅子の車輪を回しながら現れたのは……『アップルピール』。美竹さんのチームの一員のウマ娘である。数ヶ月前のトレーニング中の事故で、右足を複雑骨折してしまった彼女。しばらく学園で見かけなかったが……まあ、ひとまずは元気そうで良かった、と言うべきか。
「ほんと、そっちも相変わらずそうで……退院してるとは聞いてたけど……」
「報告が遅くなってすまない!復学手続きに手間取ってしまってな!今は通院しながら、復帰に向けて私と二人三脚邁進している途中、というわけだ!」
「そう、だったんですね……いや、ほんとによかったというか……」
「そして今日がその通院の日。本当なら私が付き添わなければならない所、なのだが……」
「いいよいいよ、そんな顔しないで!美竹さんは私達みんなのトレーナーなんだから、私にばっかり構ってちゃダメだって!」
「……はっはっは!いやはや、教え子に諭されるとは、私もまだまだ半人前ということか!と、いうわけですまないが、今日は君にアップルピール君を任せたいんだ!頼まれてくれるな?」
「は、はぁ……」
頼まれてくれるな?とは……当然そう言われれば断れるはずもないが……どうだろう。彼女の入院していた病院まで、電車でだいたい片道三十分。そこから検査やら何やらとなると、帰りは間違いなく夕方、かぁ……
「……どれ、君の今日のタスクは?」
「え?ああ、まあ、こんな感じです」
「ふむふむ……よろしい!これは私が引き継いでおく!」
「えっ!?でもそんな、悪いですよ?」
「なぁに、たったこれだけの仕事一時間もあれば充分だ!君が心配することではないぞ!少年!」
「……あはは、それじゃあ、お願いさせていただきますね?」
なんとも堂々たる大股でこちらに歩み寄り、ズカズカと僕のパソコンの中身を見下ろす美竹さん。一時間、で、出来ちゃうんだなあ……日付跨ぐかどうかぐらいに考えてたんだけどな、僕は……
「では、アップルピール君!彼の言うことを聞いて、安全第一で向かうんだぞ!」
「ひひひ!もー、私そこまで子供じゃないよ?高等部だしね?」
「はっはっは!いやしかし、私にとっては皆子供みたいなものだ!アップルピール君も、それに、君も、な?」
「………………」
「………………」
「……ダービーは残念だったが、しかし私は……君なら絶対に、再び走り出せると信じている!」
「美竹、さん……」
アップルピールの、僅かに俯く目線をバッチリと見逃さず。彼女の前に立ち塞がって灼けるような熱い言葉を浴びせ倒す、美竹さん。
そしてその様を僕は……ただ、黙って見ていることしか出来なかった。
「今でも、瞳を閉じれば浮かんでくるんだ、君と初めて出会った時の事。かの皇帝『シンボリルドルフ』のような偉大なウマ娘になりたいと、熱く夢を語ってくれた、君の姿……!」
「………………」
「……具体的な方法は、私に任せたまえ!はっはっは!なに、私のこれまで見てきたウマ娘の中には、もっと酷い怪我から奇跡の復活を遂げてG1に勝利した娘もいたものだ!だから大丈夫!君だって、また走れる!」
「……あはは!もう、いつもの事だけど美竹さんは暑苦しすぎ!」
「おっと?そう……だろうか?」
「……でも、ありがとう。そうだよね、頑張らないといけない、ね」
「ああ!その意気だアップルピール君!」
彼女が逞しく上げた顔を、美竹さんは凛々しい仁王立ちのまま、ギラギラと輝く笑顔で見下ろしていた。パチリと僕の両の瞳に映りこんだ、彼女の口元の歪みは……美竹さんが何も言わないってことは、きっとこちらの見間違い、なのだろうな。
──────────────
「サブちゃんってさー、美竹さんの事苦手だよね?」
「えっ」
電車を降りて、徒歩五分。市内一の大病院に向かう途中の、季節の変わり目を感じる肌寒いプロムナード。僕がゴロゴロと転がす車椅子の上に乗る彼女は、屈託のない表情でそんなことを言い放ってきた。
「えっ、いや、いやいやいや。全然?全然そんなことないよ?み、美竹さんいい人だし?仕事めちゃくちゃ早いし?元気だし?声聞き取りやすいし?あと、ほら、そのーーー……」
「ひひひ!サブちゃん嘘下手すぎ!ああいう暑苦しくて無駄に仲良しこよしなの、苦手だって顔に書いてあるよ?」
「え、えっと……でもあの人は、僕を拾ってくれた恩人で、そもそも僕がトレーナーになろうって思ったのも、あの人がきっかけで……」
なんて、少し歩幅を狭めて、代わりに頭をブンブンと空回しさせる僕。苦手なんてとんでもない、だってあの人は僕の憧れで、恩人で……
「……それって、昔の話でしょ?『今』はどう思ってるの?」
「…………!」
「どう?将来ほんとに、あの人みたいなトレーナーになりたい!って、思える?」
「そ、れは」
『神童』『キングメーカー』『トップトレーナー』あの人の持つ肩書きは、どれも立派で、輝いていて、皆、羨ましがってて。しかし、どうだろうな。
僕はそんな、どこかで聞いたことのあるような肩書きが欲しくて、トレーナーになったのか?
「私は……ボクはもう、これっぽっちも思ってないよ。『シンボリルドルフ』みたいになりたい、なんて」
赤信号、カチリとレバーを引いて、僕らはそこに立ち止まる。
「ボクはあの人みたいな三冠ウマ娘になりたくて……いや、もうあの人そのものにすらなりたくて。あの人の事を徹底的に調べあげて、トレーニングメニュー、食事、生活リズム。全部、何もかもあの人と同じようにやってきた……のは、サブちゃんも見ててくれたよね?」
「あ、ああうん、そうだったね?」
「……全く同じようにしてた、はずなのに。皐月賞じゃ何故かダントツ最下位、二十一着。そして怪我のせいで、ダービーには出走すら、出来なかった」
「………………」
「ホント、おかしいよね?同じようにやってるはずなのに、かたや三冠ウマ娘の栄光を手に入れることができて、かたや……」
彼女の努力は、よく覚えている。シンボリルドルフに憧れて、トレーニング中だけでなく私生活に至るまで、まるでその一挙手一投足を隅々までトレースするかのように暮らしていたこと。忌み嫌っていた座学も苦手だった野菜も、まるで自己暗示をかけたように、平気な顔でその身に取り込むことができるようになったこと。
「サブちゃんはさ、『ウマソウル』って知ってる?」
「あ、あー?なんか聞いたことはあるね?確か、ウマ娘は別世界の偉大な存在の名前を受け継いで産まれてきて、その意思に従って走る存在なのだ……ったかな?正直、何を根拠にって思うけど……」
「……最近、感じるんだ。それってもしかしたら、本当のことなのかもなあ、って」
「……と、いうと?」
「もしかしたら、こんなこと言うと怒られちゃうのかもしれないけど。あの人が、シンボリルドルフが三冠を取れたのは、過酷なトレーニングのお陰でも、覚悟の強さのお陰なんかでもなく、あの人が『シンボリルドルフ』の名前で産まれたから、なんじゃないかな、って」
「………………」
「もしかしたらこの世界って、その『ウマソウル』ってやつが作り出したアニメかゲームか、もしかしたら小説か何かで。ボク達はその中で『役』を演じてるんじゃないかな、って。あの人は、『三冠ウマ娘・シンボリルドルフ役』のウマ娘で、ボクは『その他トレセン学園生徒・A役』のウマ娘、みたいな、さ」
彼女がつらつらと語る、身も蓋もない話。けれどもその言葉達は何故だか僕の身体の中、まるでミネラルウォーターのようにするりと入り込んできた。ウマ娘という存在……いや、ウマ娘だけじゃないな、この世に生きる人間達も……というより、この世界自体、何か『既存』のものの『役』を演じているような感覚。僕自身にも、不思議と覚えがあったからだ。
すなわちこの世界には、『未知』のものなんて、ない。もしかしたら、あの青空だってそういうテクスチャを貼り付けられているだけで、その向こう側の宇宙なんて存在しないのかもしれない。何故かって、ウマ娘が走るのに『宇宙』なんて関係ないから。だから、宇宙なんて舞台は存在しないし、ましてやスペースウマ娘などという突拍子もない役なんて、あるわけが、ない。
「……サブちゃんは、分かるよね?サブちゃん仕事は遅いし、ビビりだし、めちゃめちゃ変人だけどさ」
「えっ、なんで急に罵倒されてるの僕?」
「ひひひ!ごめんごめん!……でもサブちゃんの、その『眼』だけは。それだけは、美竹さんよりとびっきりいいって、ボク知ってるよ?」
「………………」
「だから、もう視えてるよね?『アップルピール』って役が、この先この『作品』の中で、まだ『出番』があるのがどうか、って、さ」
「………………」
青信号、だというのに。何故だか歩みを進められずにいる、僕。
そのまましばらく、彼女のその脚……以前の彼女からは考えられない程に骨盤が歪んで、重心が不均等で、普通に歩くだけでも絶望的なほど難しそうなその脚を、感情を押し殺しながら、ただ眺めていた。
「ごめん、それは、わかんないかな。やっぱりそれは、美竹さんに聞いた方がいいよ」
「……あはは!それってもう、ほとんど答えみたいなもんじゃん!」
「えっ!?え、いや、そんなことは……!」
「そっか、そうだよね。ごめんね答え辛いこと聞いちゃって。自分でも分かってたけど、うん、これでもう、スッキリした」
「……ピール?アップルピール?」
彼女の声が宙に浮かんで、思わず僕は、その名を二度、三度と口にする。この切なさは、丁度十数年前に、感じたことが、あるような。
「辞めるよ、あのチームも、トレセン学園も何もかも。きっと話拗れちゃうだろうから、美竹さんには、サブちゃんから言っといてくれないかな?」
「……うん、そうだね、ちゃんと伝えとくよ。短い間だったけど、ありがとう、アップルピール」
「……ひひひ!こっちこそ、ボクのこと見ててくれて、ありがとう!また、いつか」
青信号の点滅に急かされて、僕は歩き出す。押しだした車椅子は、さっきよりもずっとずっと、軽く感じた。
──────────────
「…………ふーぅ」
時計はもうすぐ午後五時を指して、病院食の薄く優しい匂いがふわりと漂いだした頃。市内一の大病院、そのやたらと広いエントランスにただ一人、僕は暇を持て余し座り込んでいた。
「さて、美竹さんにはどう伝えたもんかなぁ」
そして、脳裏に浮かんでいたのは先程の一幕。またまた、いつものごとく安請け合いしちゃったけど、どうにも気が進まないなぁ……
「……『眼』か」
……そして、どうだろう。僕の眼がこんなに良くなければ、今みたいに苦しむことなんて、無かったのだろうか。
骨格のバランス、普段の歩き方から見て『彼女』の元来の適正はせいぜい1600Mくらいまでで、それ以上の距離を走れば消えないダメージが身体に溜まり続けるだけだと……いや、そもそも彼女は芝よりダートの方が向いていたのではないかと……なんて、そもそも気付いてすらいなければ、きっと彼女が皐月賞を走った時も怪我をした時も、美竹さんと同じように、僕もただ無責任に悲しんで、それから無責任に希望を振りまいているだけで済んだ……の、だろうな。
だけど、僕は気付いていた。気付いていて、けれども、口には出来なかった。『シンボリルドルフのようになりたい』と語る彼女自身にも、それを応援する美竹さんにも、嫌われたくなかった。ただそれだけの理由で、だ。
だから、これは僕のせい、僕が責任を取るのは、当たり前の、僕の罪。
「ま、やるしかないよな。彼女の事が終われば、今度は『僕の番』か」
であるなら、そうだ。眼には眼を、罪には罰を、だ。こんな奴が独り立ちした所で、ただいたずらに、ウマ娘達を傷付けるトレーナーになってしまうだけだろう。それに、どちらにしても丁度ここらが潮時だったのかもしれないな。あの人が『トップトレーナー・美竹』役の人間だとするならば、僕は……
……せめてこの世界のどこかにいる、この『作品』の『主人公』に何かしら影響を与える役をやれていたのなら、いいな。これまでの僕がどこかのタイミングで話した言葉が、実はラスボス打倒の鍵になってたり、なんて……
カラン……
「……?」
なんて、物思いにふけっている僕の視界の端の端。エントランスから繋がるこの病院の出入口への通路の方から、かすかにこちらへと転がってくる小さな小さな物体を、僕は見逃さなかった。
「なんだ、あれ」
まるで何も考えず、反射的にその物体に向けて歩みを進める僕。やがて拾い上げたのは……ええと、拾い上げたのは……いや、ほんとになんだこれ?
僕の手のひら程の大きさで、細かな装飾が施された、なんとも形容しがたい筒状のもの、としか言いようが無い……これは……
「今回も、大変お世話になりました♪」
「─────」
朗らかな声に誘われて、首を回して向けた目線の先。磨り硝子に乱反射した優しげな夕陽の照らす病院の玄関口に、僕が見つけた、彼女の姿。
……情けない話だが。初めに僕の脳髄へ強く突き刺さったのは、彼女のその何物にも例えようのない程の、『美貌』であった。
まるで何処までも何処までも、広大に拡がり続ける青空のようなロングヘアに、自由気ままに天空を跳ね回り続ける入道雲のようなきめ細かい肌に、そして、無限に変化を続ける、遥か『未知数』の宇宙をそこに内包したかのような、紫色の瞳に。
僕の特別でもなんでもないちっぽけな眼は、いとも簡単に、あっさりと、呆気なく、彼女の創り出す世界の一部分と化してしまったのである。こんなことは、この二十年あまりの人生でもちろん初めての経験だ。この世の中に、まさかこんなに美しいものが、あっただなんて。
「こちらこそ……ひとまずは、退院おめでとうございます、『アルダン』さん」
「……『アルダン』」
それが、彼女の。今僕の目の前で、華やかな薄手のブラウスに身を包み、頭からつま先までしゃんと背筋を伸ばした彼女の、名前……なるほど、そうか、間違いない。実に彼女に良く似合う『名前』だ、と、なんの根拠もなく、そう思ってしまった。まさしく彼女のためだけにあるような、そんな名前だと。
「あれ、向こうの方から転がってきたってことは。もしかしてこれ、あの子のものなんじゃないか?よ、よーし……す、すいませーん?これって……」
「しかし、くれぐれもご無理だけはなさらないでくださいね」
「耳タコだと思いますけど、オーバーユースはダメ絶対、です!ストレッチは入念に、アイシングもしっかりお願いしますね!」
「……骨折や捻挫は、繰り返せばそれだけ脚の寿命を縮めます。常に、慎重な判断を。いいですね?」
「はい、重々承知しております」
「……!」
こちらも出来うる限り背筋を伸ばして、襟元を正して、軽く咳払いをしてから。意を決して、僕は彼女に声をかけ……ようとしたところで。
オーバーユース、ストレッチ、アイシング、骨折、捻挫、脚の寿命。彼女の周りを取り囲む医者や看護師から発せられていたあまりにも聞き馴染みのある単語達を耳にしてしまい、脳内に様々なビジョンが浮かんでしまって。
「……もしかして、彼女も」
一瞬、ピタリと止まってしまった、僕の足。
「アルダンお嬢様。迎えの車が到着しております」
「あら、ばあや、ありがとうございます……それでは皆様、これにて」
「……あ」
そしてそのまま、病院の目の前につけた車に優雅に乗り込んで、あまりにあっさりと行ってしまった彼女。再び静寂が舞い戻ってきたエントランスから今さらよろよろと飛び出して……今の僕は、そのまま静かに走り去る車の背をただ、眺めることしかできなかった。
「間に、合わなかったかぁ……どうだろうな、また、いつか」
右手にすっぽり収まる、不思議な筒を強く握りしめる。目の前にはじわじわと沈みゆく熾烈な夕陽が浮かんでいて、僕はしばし、目を細めた。
冷静に考えれば誰か病院の人に尋ねるなり預けるなり、やりようは沢山あったのだろうけど……そんなアイデアがまるで思い浮かばなかったのは、きっと無意識に望んでいたからだろうか。彼女の未来を、この眼で視届けることを。
──────────────
『あの日』から、四日。
『選抜レース』の日から数えれば、一日。
「ええと、本日はお日柄もよく……なんて、相変わらず畏まり過ぎだよなぁ……ダメだダメだ、もっと爽やかに、軽やかに……よーし、やるぞ、いくぞ……」
左手に、見繕った菓子折り。羽織るのは、一張羅のジャケット。そしてそのポケットには、例の筒……ああ、『万華鏡』というのか……まあ、とにかく。
これでもかという重装備に、脳内の準備もまあ、それなりに。僕は意を決して、学園一の広さを誇る第一ジム室、その重厚なドアノブを、回し、開き、一歩。
今度こそ、間に合うように掛かり気味で、自らの足を踏み出すのであった。