メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
三番目の夢を、探していた。
宇宙飛行士になりたいと思ったのが小学一年生の頃で、トレーナーになりたいと考え始めたのが、確か四年生くらいだった。
という事は、人生のだいたい三分の二以上の間、僕は夢と共に生きてきたわけで。なおかつ、僕は正直小学生に上がる前の記憶なんて、ほとんど覚えていないわけで。
すなわち僕は『夢を持たない僕自身』というものを知らない。
故に、怖いのだ、夢を持たない自分が果たして、どうなってしまうのか、が。
まるで、支柱を無くした棒きれのように。どこにも寄りかかれず、自立も出来ず。ふらふらと倒れ込むのを待つだけの存在、それが今の……『立派なトレーナーになりたい』という夢が霧散してしまった、今の僕。
このまま倒れ込んで、地面に手を着いてしまえば……きっと僕は、もう二度と自力で起き上がることは叶わないのだろう。分かるのだ、僕という人間は、常に僕以外の何者かに生かされてきたから。今さら『一人』で生きていけるはずがないのだと。
故に僕は、三番目の夢を探していた。夢を見つけて、そこに進んでいるのだ。という自分の姿を……これまでの人生と変わらない自分の姿を鏡で見て、それで、安心したかったのだと思う。自分は『一人』ではないという証拠が、欲しかったのだと、思う。
今日この場所に、こんな豪華な菓子折りを持ってやってきたのも、そうだ。まるで言語化はできていないが、きっと僕は彼女に期待していたのだろう。
彼女が、僕の新しい『夢』になってくれることを。
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「1、2、3……1……1、2、3、4……」
「……!」
重厚なドアノブを、回し、開き、一歩、立ち入った第一ジム室の中。熱々としたウマ娘達がひしめき合うその渦中に……居た、本当に居た、間違いない。
僕の脳裏に深く深く刻まれた、あの日見た『未知』のウマ娘、『メジロアルダン』。あの日見た軽やかなブラウス姿ではなく、お馴染みの学園指定ジャージに身を包んだその姿。けれども、そのロングヘアも白い肌も、その瞳も、やはりあの日と同じように、僕の眼の中で燦々と瞬いていた。
「ふぅっ、はぁっ、はぁ……3セット完了……さて、負荷は今ので……」
「レッグカールの後は、アダクションか。随分と下半身を追い込むんだな……じゃなくて、ええと、ええと……」
しきりに手元のタブレットを覗き込みながら、様々なマシンを点々とする彼女。その真剣な表情に、一瞬見入ってしまう僕……まあ、トレーニング中に話しかけられるのも迷惑だろうし、ここは終わるまで待っていた方がいいよな、うん、うん。
「……3、4。ふぅ……さて、次は……」
「……今度は、レッグエクステンション?」
なんて、心の中。誰が聞いている訳でもない言い訳を呟いた僕は、部屋の端に設置されたベンチにどっぷりと腰掛け、顎に手を置き、その様子を何気なく観察する。
……別に、僕がここにやってきたのは、この万華鏡を返すだけの用事なのだから。だからこれは、実に余計なお世話、なのではあるが。
「………………」
彼女のトレーニングは……良く言えば実に多角的かつ総合的。高負荷をかけ過ぎないように、下半身を中心に様々な部位を少しすつ丁寧に、効率的に鍛えていく、と。
もちろん悪い訳では無い。いや、むしろこれほどまでに『身体負荷』や『試行時間』に対する『効率』を意識したウェイトトレーニングができるというのは、なんならそんじょそこらのトレーナー顔負けの試行錯誤を繰り返した証なのだろう。本当に、心から驚嘆の一言である。
しかしそこには、酷く『具体性』が欠けている。
僕の眼には、そう、視えてしまった。
「……彼女は一体、何になりたいんだろう」
クラシック路線であれば、何はなくともスタミナを。スプリントならば、特に股関節や足首の柔らかさを。ウェイトトレーニングの意義とは、すなわち自らの身体を理想の形に『デザイン』し直していくこと。しかし、彼女はどうだろう。
筋持久力を鍛えるマシンに乗ったかと思えば、今度は体幹を重視したバランスのマシンに。そしてその直後には、柔軟性に、瞬発力に……その後にまた、体幹を、と。
ぼやけている、はっきりしていない。クラシックかティアラか、スプリンターなのかステイヤーなのか……一体どこのどんなレースを走りたいのか、それが今一つ視えてこない。
というか、もはや『なんでもいい』のでは?
なんて思ってしまいそうになるほど。彼女のその足取りは、酷く不安定に視えたのだった。
「さー筋トレ筋トレ!て……うわっ。今日も混んでるなぁ〜。えーっと、どっか空いてるスペースはー……」
「……すみません。よければこちら、使われますか?私はもう上がりますので」
「え、いいんですか先輩!ラッキ〜!じゃ、使わせていただきまーすっ!」
「ええ、どうぞ。では、失礼いたします」
「……ん?もう?」
新たにやってきたウマ娘にマシンを譲り、なんとも中途半端なタイミングでジム室から立ち去ろうとする彼女……トレーニングを初めて、そう時間は経っていないように思えるが。
「ああ、いやでも、昨日体調不良って言ってたしな。そんなに無理は……いや、それを言うならつい四日前まであの病院に入院してたんだよね?それなのに、あんなにすぐに選抜レースに出ようとして……」
考えれば考えるほど浮き彫りになる、彼女の足元の不安定さ。何はともあれ、とにかく僕はその背を追いかけるべく慌てて立ち上がる。
何故そこまで無理をして選抜レースに出ようとしたのか、今のトレーニングにはどんな意図があるのか、君は一体、何を目指しているのか。聞きたいことは、山ほど……
「い、いや、そうじゃない。僕はただこれを返しに来ただけであって……彼女に深く干渉しようだなんて、烏滸がましいにも程があるだろ。正トレーナーでもあるまいし……ん?」
「………………っ」
なんて、心の中。またしても誰が聞いている訳でもない言い訳を呟いていると。見つめていた彼女の身体、その重心が、ふわりと宙に浮かんだ気がして。
「……あ、危ないっ!」
「……!」
重力に引かれて、彼女が持っていたタブレットが床にこぼれ落ちる。それを完全に見届ける前に、僕は自らの足を全速力で駆け回し、彼女に向けて、必死に手を伸ばした。
「…………えっ?」
「っ、よ、よかった、間に合った……!」
彼女の、その華奢な身体が地に叩きつけられる、直前。何とか間一髪、僕は指先でその身を抱き寄せる。
全体重を僕の腕の中に預けた彼女の姿は、何故だか磨り硝子のように透き通って見えて、その身体はまるで羽根のように軽く、今にも風に飛ばされそうなほど、弱々しく感じた。
「って、だ、大丈夫!?ここがどこだか、分かる!?」
「あ、え、ええ、ここはジム室で、私はトレーニングをしていて、そして……ああ、貴方が、助けてくださったのですね?」
「いやいや、助けたって程じゃないよ。それより平気?痛いところとかない?」
「ええ、少々立ちくらみを起こしただけですので……ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございません」
「と、とりあえずそこのベンチに座って?あ、水!水飲む?これ新品だから安心して?あと、本当にどこか痛めてたりしない?湿布とか包帯とかもあるから、よければ……!」
「………………」
「ど、どうしたの?」
「……ふふっ♪いえいえ、本当に大丈夫ですので。お水だけ、いただきますね♪」
どこぞの猫型ロボットよろしく、身体中のポケットというポケットから様々な道具を取り出す僕をよそ目に、彼女はすっきりとした笑顔でこちらに一礼し、すぐ近くのベンチに優雅に腰掛ける。その様子なら本当に怪我の心配はなさそう、だけど……
「この程度はよくあることなので、本当にお気になさらず……なんて、そうもいかなさそうなご様子ですね?なんなら私よりも、お顔が真っ青ですよ?」
「いやその、だって……」
「お恥ずかしながら私、昔から身体が弱くて。改善の為いろいろと試行錯誤はしているのですが……ふふっ、世の中やはりそう上手くいかないもの、ですね?」
「身体が……そっ……か……」
ピンと繋がったのは、初めて彼女を目撃した病院での一幕。あの時彼女が、まるで家族や古い友人と話すかのような雰囲気で話していた医者や看護師達は……なるほどまさしく、彼女にとって家族や古い友人同然の存在、だったのだろうな。なんとも朗らかに語る彼女の様子と反比例のように、僕は改めて、己の佇まいを丁寧に正し直す。
「それよりも、ええと……私のタブレット、その辺りに落ちていませんか?」
「ああ、そういえば……あ、あったあった。これだよね?」
「そうです、それです!ふふっ、踏まれてなくて、良かった……♪」
「よっこいしょっと……うん、画面も割れてないね?よかったよかっ……」
「……?」
僕の足元に転がっていた、見るからに高性能そうなタブレットを慌てて拾い上げ、思わずその画面をまじまじと回し見る僕。うーむ、流石はリンゴのマークのタブレット。あんな勢いで落っこちたのに、傷のひとつもついていないなんて……
と、実に呑気に考える僕の眼に、思わず入り込んできたその高画質なディスプレイの中身。その中には……何十、何百ものパターンのトレーニングメニュー、その『方法』に『回数』、『セット数』『負荷係数』『テンポ』……様々な情報が、所狭しとファイリングされていたのであった。そうか……『試行錯誤』。選抜レースにエントリーしている、すなわち『未だ専属トレーナーも着いていない一介のウマ娘』が、これほどまでの情報を、自分の力で纏めあげる、なんて。やはりただただ、驚嘆の一言……
と、もし僕の眼がそれだけしか捉えていなかったのなら。ただ無責任に驚嘆して、無責任に彼女の努力を称えていただけで。それだけで済んでいたのかもしれない、けれど。
「……『ダート』『1200』?」
「…………!」
「って!か、勝手に中身見ちゃって!その、ご、ごめん!は、はいっ!これっ!」
『次走 選抜レース ダート1200M』
画面端にチラリと視えてしまった小さなメモ書きの内容を、思わず口にしてしまった僕。
それと、何故だろう。これまで柔和に細めていた彼女の瞳が、その虹彩が、まるで回転した万華鏡の世界のように予想外に円く、眩く拡がっていって……こればかりはとても直視できず、僕は僅かばかり虚空を見つめながら、彼女にタブレットを手渡した。
「……どうしてですか?」
「えっ?」
「今、選抜レースの予定を見て、驚いていましたよね?どうして、ですか?」
「いや、まあ、なんというか……なんで『ダート』の『短距離』なんだろうって、純粋に思っただけ、だよ?」
「ええと……ダートの短距離の、何処がそれほど不思議、なのでしょう?」
「だって君、どれかって言うと『芝』の『中距離』が一番得意でしょ?」
「……!?ど、どうして貴方が、それを……?」
「えっ?まあ、歩き方とか重心のバランスとかを、見る、限り……」
「………………」
「………………」
……何の気なしに開いた口を、慌てて取り繕うように噤む僕。確かに、間違いなく彼女の身体的な適性は芝の中距離にある。それは明らかな事。
だかしかし、『身体の適性』と『自身の意志』は、必ずしも一致する訳では無い。その事は、他ならぬ僕は痛いほど分かっているはず、だったのに。
「な、ななな、なーんてね?別に君がどんなコースを走ろうが、僕に口出しする権利なんて……」
「……あのっ!」
「はっ!はいっ!」
「その、つかぬ事をお伺いいたしますが……これから少し、お時間ございますでしょうか?」
「え?あ、ああ、今日は君に会う為に仕事全部終わらせてき……じゃなくて!うん!めちゃくちゃ暇だよ!」
「それならば……これからご一緒に、お茶でもいかがですか?」
「……えっ?」
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「申し遅れました、私は『メジロアルダン』と申します。どうそ、お見知り置きを♪」
「う、うん、よろしくね?」
放課後の、人気の少ないカフェテリア。制服姿に着替えてやって来た彼女は、向かいの席に腰掛ける僕に対して、実に丁寧に謙虚に、けれども自信に満ち溢れた表情で、頭を下げる。
「ええと、貴方は……どなたかの専属トレーナーさん、だったりするのですか?」
「え、いやいや、僕なんてただのしがないサブトレーナーだよ。誰かを受け持つなんて、まだまだ、とてもとても」
「まあ?なんだかもったいない気がしますね?あれ程の観察眼を持っていながら……」
「……いや、あんなの視えたって、仕方ないよ、ほんと」
「?」
その純真で誠意溢れる一つ一つの言葉に、僕は僅かばかり目を逸らしてしまう。しかし、初対面の生徒と突然お茶だなんて、本当に一体なんでこんなことになったんだ……目の前で黙々と湯気立つブラックコーヒーを啜りながら、ひとまず僕は、自らの気を叩き直す。
「……それで、本題なのですが。こちらをご覧いただけますか?」
「ん?これは……」
彼女がこちらに向けてきたのは、先程見た彼女のタブレット。その画面の中に映し出されていたのは……『選抜レース対策』と銘打たれ、ダートでの脚の使い方に、短距離でのペース配分だの、様々な『情報』が所狭しと纏められていた、データフォルダであった。
「先程ご覧になられた通り、今から約一ヶ月後に行われる今期最後の選抜レース……私は、ダート1200Mのレースに出走することと相成ったのです」
「あ、やっぱりそうだったんだね?」
「ええ、しかし……先程貴方が看破したとおり、私の元来の適性は芝の中距離にあります。短距離レースはまだしも、ダートレースは現状、走ったことすらありません」
「走ったことすら、かぁ……」
「ですので、ひとまずはこのとおり。ダートレースの教本に目を通したり、ダートを中心に走っている友人に質問させていただいたりして、一晩かけて情報を集められるだけ集めたのです」
「えっ、たった一晩で、こんなに!?」
先程見た時も思ったが、未だ専属トレーナーも着いていない一介のウマ娘がこれ程までの情報を、それもたった一晩で集めてしまうとは。そこには彼女の、強い信念を……
いや、もはやこれは『執念』とすら呼べるのかもしれない。一体何が、彼女をそこまで駆り立てるのだろうか。
「ただ、やはりダートレース未経験の私には、どうしてもこの情報達の真偽や精度の判別がつかなくて……教わったトレーニングメニューについても、一つ一つ試してみて、身をもってその効果を確かめるような、あまりに『非効率』なやり方しか行えない現状、なのです……」
「まあ、そうだよね。なんせやった事すらないこと、なんだもんね」
「そこで、貴方のその観察眼を見込んでのお願いです。簡単にで構いませんので、ここにある情報達を精査していただき、『私の身体』に適していると感じたものを抜き出していただきたいのです」
「君の身体に、適したものを?」
「ええ、これから一ヶ月でダートを走れるようになるために、沢山の選択肢の中から、より『効率的』な道を、私は進みたいのです……勝手なお願いだという事は重々承知しておりますが、どうか、引き受けてはいただけませんでしょうか」
「………………」
先程よりも、更に深々と頭を下げる彼女の姿、その堂々たる、気品溢れる様子を覗き込んでから。僕はひとまず、差し出されたタブレットの画面に目を通す。
その中には、僕でも馴染み深い入門用の教本から、まるで見たこともない専門的な技術書の情報まで……また、何人ものダートで活躍するウマ娘の名前に、彼女達の普段のトレーニングメニュー、生活リズム、競走成績一覧まで……最早この内容だけで商売ができそうな程の情報が、貴重面にフォルダの中に纏められていたのであった。
「………………」
が、しかし。正直な所感を述べると。
この情報達の中に『彼女の身体に適している』と感じるものなど、一つたりとも、ありはしなかった。
これは何も、彼女が悪い訳ではない。もちろん彼女が参照した資料も、彼女の友人達も悪くはない。きっと『元来ダートの適性がある娘』からすれば、宝の山のような情報達なのだろうが。
何度も言うが、彼女の身体の適性は、やはり『芝』。見た限り筋肉の付き方も歩き方も、骨格も。そんな彼女がダートで勝利するなどやはり夢のまた夢の話であり、それどころか、このまま無理をして走ってしまえば、最悪……
……とにかく、こればかりは流石の僕でも安請け合い出来そうにない。『芝適性のウマ娘』がトップレベルのダートウマ娘の真似事をしたところで、『ダート適性のウマ娘』になれるはずが、ないのだ。
『その他トレセン学園生徒・A』が、真似事で『三冠ウマ娘・シンボリルドルフ』になれるはずがないのと、同じように。
「……今ならまだ『間に合う』か」
「……!」
ただ一つ、救いなのは。
彼女はまだ『走り出していない』ということ。走り出して、取り返しのつかない場所にまでは、まだ至っていないということ。
すなわち、まだ『間に合う』。今この瞬間の行動次第で、彼女が傷付き、失意のままこの『物語』から消え去ってしまう未来を、他でもないこの僕が『ひっくり返す』事もできるのでは、ないだろうか。
「……返事をする前に、僕からも聞いておきたいんだけどさ。選抜レース、そもそもどうしてダートの短距離を選んだの?」
「どうしてと言いますと、そうですね……」
目の前のブラックコーヒーを一気に流し込み、きりきりと目元を引き締めてから、僕は決心して、口を開く。
「言ってしまえば、それしか枠が余っていなかった。ただ、それだけです」
「枠が、余ってなかった?」
「ええ、実はですね。本来であれば昨日の選抜レース、芝の1600Mで出走する予定だったのですが……直前に、今日と同じような立ちくらみを起こしてしまって……」
「それで、出走取消に……」
「ですので、その直後に次の選抜レースの出走予約を取りに行ったのですが、その頃にはもう、このレースしか残っていなかったのです」
「……なるほど」
淡々と、事実のみを語る彼女の口ぶりから、何となく見えてきた事の全貌。やはりダートも短距離も、彼女の本意ではなかった、のであれば。
「……だったら、君はどうしてそこまで『焦ってる』の?」
「…………!」
「確かに、君の努力は目を見張るものがある。適性外のレースに果敢に挑戦するのも、それだけの情報をたった一人で集めるのも……その行動力は間違いなく、尊敬に値する」
……退院してからものの三日で選抜レースに出走しようとするのもそうだけど……それに関しては、まあ、今のうちはそっとしておこう。
「けれども、僕はそれが『自然なこと』とは全く思えない。半年くらい待てば、また選抜レースの季節は巡ってくる。そうすれば、芝の中距離……君の一番得意なレースで、最高の状態の君をトレーナー達にアピール出来るかもしれない」
「………………」
「逆に今、無理をして走れば……適性外のレースはただ走り辛いってだけじゃない。消えないダメージを身体に刻んで、致命的な程に脚の寿命を縮めることになる……なんて、君くらいのウマ娘ならば、解らない訳がないだろうけど」
「……ええ、もちろんです」
「もし、万が一君が『それでもいい』とでも思っているのであれば、もし、そうならば。理由はどうあれ、申し訳ないけど僕は君に協力することは、出来ない」
僕はなんとか、無理やりに低い声を作って、先程から感じていた違和感の全てを敢えて包み隠さず彼女にぶつける。こんな事を言ってしまえば、もしかしたら僕は彼女に嫌われてしまうかもな、もしかしたら、もう二度と顔を合わせてくれなくなるのかも、しれない。それでも、僕は。
「……貴方は、本当に素晴らしい観察眼をお持ちなのですね。ふふっ……貴方と出会ってしまったのは、私にとって、幸運、不幸、一体どちらなのでしょう」
彼女の瞳孔が、レンズを絞るようにギュッと小さくなる。ようやく、初めてぴったりと目が合ったような奇妙な感覚に胸をはためかせていると、何やら観念したかのように、彼女はゆっくりと、口を開いた。
「貴方の、言う通りです、私は。次の選抜レース、ここで退くくらいならば、ここで何もかも終わってもよい。そう、思っている」
「……そこまでして、君は一体、『何になりたい』の?」
「それは、決まっています。私は、私に。『メジロアルダン』に、なりたい」
「…………!」
彼女の瞳が、その瞳孔と虹彩が、再び大きく弾け始める。まさしく宇宙の果て、ビックバンのような紫色の奔流、瞬く間に僕のちっぽけな眼は、その圧倒的な輝きに飲み込まれてしまう。
「他の誰でもない、私は。私自身の生きた証を、トゥインクルシリーズという広大な歴史の中に、遺したい」
「……本気、なの?」
「ええ、私はその為に、この場所にやってきたのですから」
「……君の言っていることは、実に無謀な夢物語だ。まるで小さな鳥が夜空の星を目指す物語のような……ただ空で、燃え尽きるだけの運命なのかも、しれない」
「構いません、もしこの身が燃え尽きる運命ならば。その時は、誰もが夜空を見上げてしまう程に眩く輝く、流れ星になってから燃え尽きましょう」
「…………」
ああ、くそ。なんなんだこの娘は。どう考えたって無謀なはずだ、彼女にダートなんて、走れるはずがない。
はずがない、のに。
「けれども、私には時間が無い。お伝えしましたよね?私は幼少の頃より身体が弱く、トレセン学園に入学してからも、肉体が本格化を迎えた後も、つい先日だって……入退院を繰り返し、いたずらに時間を空費してきた」
「………………」
「このままでは燃え尽きることすら叶わぬまま、この翼は腐り落ちてしまう。それは……それだけは、看過できない。私は『メジロアルダン』という、まだ誰も見た事のない一等星を創り出す為に。一秒でも早く、一ミリでも遠く、飛び立たたなければ、ならないのです」
「………………っ」
眼が、離せない。彼女のその、無限を閉じ込めたような瞳から。
「……あ、ええと、その、申し訳ございません。こんなに熱くなってしまうだなんて、私……」
「………………」
「この翼が、蝋の翼であることは自分でも理解しています。ごめんなさい、私の自己満足に巻き込んでしまって……このお話は……」
「待ってくれ、メジロアルダン」
「…………!」
◆
初めての夢は、宇宙飛行士だった。
そして、初めて失った夢も、宇宙飛行士だった。
小学生の頃、ジャングルジムの頂上から宇宙の果てに向かって飛び立った僕は、そのまま重力に引かれて、地面に叩きつけられた。
悪くない気分だった。逆さまに転がった僕の身体から見た世界は、大地が上にあって、空が足元にあって、まるでこれまで見た事もない光景で、これ以上ないほど胸が高鳴った。
幸か不幸か、軽症で済んだ。僕の行動は、誰からも理解されなかった。宇宙に行きたかったのだと正直に言っても誰からも信じて貰えず、代わりに父さんからも母さんからも妙に優しくされ、病院帰りに何故だか欲しかったおもちゃをすんなり買ってもらえた。
……直接言われはしなかったけど、多分父さんも母さんも、宇宙飛行士になりたいなんて僕が言うのは、あまり好ましいことではないのだろうな、ということは何となく分かった。
まあ、おもちゃも買ってもらえてラッキーだったし、宇宙飛行士なんて難しい夢を抱くのは、丁度ここらで潮時だったのかもしれないな。
その時から僕は、二番目の夢を探し始めたのだった。
◆
……本当に、あの時の僕はそれで満足だったのか?
父さんからも母さんからも、もっと言って欲しかった言葉があったんじゃないのか?
彼女の瞳を見つめていて思い出したのは、あの日の、逆さまに転がった僕の身体から見た、あの光景……
『私は、私に。『メジロアルダン』に、なりたい』
「そうか、分かったぞ」
「?」
『その他トレセン学園生徒・A』が、真似事で『三冠ウマ娘・シンボリルドルフ』になれるはずがない。『芝適性のウマ娘』が真似事で『ダート適性のウマ娘』になれるはずがない。
では、『真似事』でないのであれば?
ようやく理解した。『ひっくり返る』必要があるのは……僕の方、だ。
「……うん、ありがとう。一生懸命答えてくれてありがとう、メジロアルダン。それと、僕の返事、なんだけど」
「っ……は、はい」
「正直に言えばこの情報の中に、君の身体に適していると感じるものは、一つもなかった」
「そう、ですか。それでは……」
「ああ、『この情報の中には』ね」
「……?」
僕はできうる限りの丁寧な口調で、胸に手を置きながら彼女に語りかける。彼女のその逞しい姿に、心からの敬意を払いながら。
「一日、とりあえず丸一日だけでいい。とにかく君は、明日までゆっくりと身体を休めてほしい。今すぐに寮に帰って、お風呂にゆっくり浸かって、ご飯を沢山食べて、たっぷりと、眠ってほしい」
「え?ええっと……は、はい……?」
「そして……明日の同じ時間に、もう一度カフェテリアの、この席に来てくれないかな?君にとって、絶対に、絶対に損はさせないから」
「…………わ、かり、ました。ええ、了解です。それでは今日は貴方の言う通りに、ゆっくりと休ませていただきますね?」
「うんうん、ちゃんと夜更かしせずに寝るんだよ?」
「ええ、かしこまりました」
「……あ!晩だけじゃなくて朝ごはんも昼ごはんも食べるんだよ!」
「ええ、もちろんです」
「あ!それから夜寝る前には……」
「ふふふっ♪はいはいわかりましたから、貴方もどうか、ご無理はなさらないようにしてくださいね?」
「えっ?う、うん!分かってるよ!」
「では……失礼いたします♪」
すっかりと落ち着きを取り戻した様子で、鼻歌混じりで去っていく彼女の背を、もう一度まじまじと仰ぎ見る。果たしてその華奢な背に、どれ程の重荷を、今まで背負ってきたのだろう。
「……さて、どうするかな」
しばし瞼を閉じて、この眼で視据えた彼女の姿を、出来うる限り精巧に脳内で再現してみる。何の役にも立たない、ちっぽけなこの眼。それでも、たった一つでもできることがあるのならば。僕だって、彼女のように。
誓いを新たに、僕はこの眼を見開いた。窓から射し込んでくる陽射しは、やはりこの間と同じように、既に優しげなオレンジに染まりきっていたのだった。