メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
ストロボメモリー
「あっ、トレーナーさんっ♪」
「あ、ああ、おはようアルダ……ン……?」
「ふふふっ♪おはようございます♪」
午前八時四十分、本来の集合時刻二十分前。なかなか来ないエレベーターに痺れを切らし、駆け足で階段を下った先に待ち構えていたのは、他でもなく、我が担当ウマ娘メジロアルダン。ホテルのロビー備え付けのティーパックで優雅にお茶をする、彼女の姿であった。
「今回も私の方が早かったですね?これで三連勝中です♪」
「う、うん、次は負けないよ……って、それはそれとして、そんな服持って来てたの?」
「まさか?昨晩急ぎで取り寄せました。せっかくの『デート』ですもの、制服では味気ないでしょう?」
「あ、ああ、まあ…………」
僕の姿を目線に収めるやいなや、半分ほどカップに残ったお茶をくいっと飲み干し、飛び上がるように席を立つアルダン。昨日がレース本番だったとは思えない程の溌剌さももちろんだが、彼女のその想定外の出で立ちに、思わず僕は目を奪われる。
夏本番を先取りしたような、麗しいデコルテが露になったノースリーブの純白ブラウス、そして彼女の長い脚を更にシャープに色付ける、シンプルなタイトパンツ。真っ赤に染められたペディキュアが目を引く、ヒールサンダルを履いた足元は、あまりにも彼女の『自由』を体現しているようで……
「…………ん」
「うぐっ!?う……ん?」
「……言いたい事があるのなら、はっきりおっしゃってみてはいかかです?」
「あ、はは……えーと……」
僕が意識を宙に放り出してる間に、吐息すら聞こえそうな位置までこちらに忍び寄ってきた彼女。上目遣いで僕の肩を小突いてくるその仕草の火力に、せき止めた僕の口も、あっさりと開城してしまう。
「可愛いよ、アルダン。その服、本当に似合ってる」
「…………ふふっ。ま、及第点ですね?トレーナーさんもその髪型、実にお似合いですよ?とってもかっこいいです♪」
「あ、ありがと……いやまあ、君が『デート』とか言うから、その、まあ、一応ね?」
「ふふふふっ♪」
彼女のしたたかな目線に何故だか、高校時代初めてヘアワックスを付けた日のことを思い出してしまい、火照りだす僕の頬。そうだな、一応『デート』なんだもんな、デート、デート……
……ええと、なんでこんなことになったんだっけ?
──────────────
それは、遡ること丁度十二時間前。今と同じ、このホテルのロビーでのことだった。
「ふう、ようやく着いた……ウイニングライブ後の取材周りも、重賞制覇ともなればこんなに大変なんだなあ……」
「ふふっ、本当ですねぇ……半年分はお喋りした気分です……♪」
高松宮杯、彼女が劇的な勝利を飾ったレースの、その直後。鳴り止まない声援と終わらない取材陣からの質問を何とか煙に巻き、僕らは予約していたホテルまで命からがら辿り着いたのであった。
「さてさて、積もる話もあるだろうけど……流石に今日はもう九時近いし、必要な事だけ手短に伝えて解散にするね」
「名残惜しいですが、そうですねぇ……恥ずかしながら先程から、瞼が半分しか開かなくって……」
「それは、送迎バスの中であんなにはしゃぐから……まあ、今日くらいはいいけどさ」
ふにゃふにゃと、あまり呂律の回らない口調で話すアルダンの姿。思わず吹き出してしまいそうな口元を抑えながら、携帯を取り出しこれからのスケジュールを入念に目視確認する僕。
そうだ、レースが終わっても『彼女を無事に学園まで送り届ける』という大切な仕事はまだ道半ば。彼女の醸し出す緩い雰囲気に流され過ぎないように、僕は改めて、襟元を正す。
「はい、まずこれが君の部屋の鍵。君が五階の502号室で、僕が四階の401号室。何かあったら何時でも、夜中でも連絡していいからね?」
「ふふふ、では、寂しい時も呼び出して良いですか?」
「いっ……いいけど、部屋には来ないからね?それとホテルの食堂はもう閉まっちゃったから、ご飯はルームサービスでなんでも頼んでいいよ。僕が払うから」
「なんでもですか……ええ、なんでも良いのですね?」
「うん、ごめん。やっぱ三……いや、二品まででお願いね?あと明日は名古屋駅、十一時発の新幹線で帰るから……十時にはこのロビーに集合しよっか」
「トレーナーさん、お土産を買う時間を忘れていませんか?ねえ?お土産を
「じゃあ九時!九時集合でいいね!」
「ふふっ、了解です♪」
「それで、無事に学園に着いてから、その後、は……」
「……?」
「……その、後は」
……学園まで送り届ける。その大切な仕事の計画を話し終えてから。僕は暫し俯いて、すっかり泥まみれな自分の靴を、ただ眺める。
無事に学園に着いてから、その後。たった一日先の将来のことだと言うのに、ロビーの眩し過ぎる照明に眼が眩んで、今の僕には、上手く視つめることができなかった。
「……トレーナーさん、本当に帰りの新幹線、予約してますか?」
「えっ?え、いや、もちろんちゃんとしてるよ?」
「本当でしょうか?おっちょこちょいなトレーナーさんの事です、レースに集中するあまり、すっかりポカンと忘れてしまっていたりして……」
「えっ、そんなこと言われるとちょっと怖くなるじゃん……!えっ、予約したよね僕?予約……したよね僕?」
「やれやれ、仕方の無いトレーナーさんですね?私も確認しますので、携帯、お借りしても?」
「う、うんうん是非とも!………………あ、その、予約ページ以外は見ないでね?」
僕の携帯をひょいと掴み取り、彼女は手際よく操作を進めていく。あれ、なんか自信無くなってきたぞ?あれ?なんか僕、いつ予約したんだっけ?あっ、不味いぞこれ、全然思い出せない……!これ、どう考えても僕、予約し忘れ……!
「あ、明日の十一時、ちゃんと予約取れてますね?」
「いっ……!良かったぁーーーーっ……!完っ全に忘れてるパターンだと思ったぁ……!」
「ふふふ、流石トレーナーさんは抜かりないですね?では、こちらの予約はきちんとキャンセルしておきましたので。携帯、お返しします♪」
「うんうん!でもほんとに忘れてたら危なかったからなぁ……ちゃんと気付いてくれて、ありがとうアルダ
「え?」
「あら?どうされました、トレーナーさん?」
「えっ?えと、いや……えっ?今なんて言ったアルダン?聞き間違いじゃなければ『キャンセルした』って言わなかった?」
「あー、これはこれは、私としたことが『うっかり』してしまいましたー。けれどもやはりトレーナーさんは抜かりないですね?前日キャンセルでも、手数料がかからないプランでご予約していただなんて♪」
「いやまあ、そこは念の為にね?じゃなくて、えっ?」
「さて、図らずも我々、明日一日暇になってしまった訳ですが……そうです、私に良い考えがあります♪」
「えっ?図らずもっていうか、えっ?いい考えっていうか、えっ?」
まるで狐に化かされたかのように、ただただ呆然と目を丸くすることしかできない僕に向けて、彼女はいとも簡単に、軽やかに一歩距離を詰める。そうして眠気混じりの細まった瞳を小さくウインクさせながら、これまた一切の惑いも憂いもなく、その言葉を紡ぐのであった。
「『デート』をしましょう、トレーナーさん♪名古屋デートですよ、名古屋デート、素敵でしょう?」
──────────────
「ええ、ええ、『デート』ですものね?お気遣いありがとうございます、トレーナーさん♪」
「まあ、流石に服までは用意できなかったから、かなり普段着のままなんだけどね?」
「それでも、嬉しいです。私の事を、できうる限りの努力をしてあげたくなるような大切な相手だと思ってくれている……女の子としては、それが一番嬉しいですから♪」
「そりゃもちろん、世界中の誰と歩く時より気合い入れるに決まってるでしょ?」
……いやまあ、結局どうして『デート』なのかは、やっぱりよく分かんないけど。
「あ、そういえばトレーナーさん、帰りの新幹線の予約は……」
「もう取り直してるよ!今日の夜八時!ええと、予約ページは……!」
「ふふふっ?そんなに心配しなくっても、昨日みたいなうっかりはもうしませんよ♪」
「……はは、まあ、お願いね?」
けど、ま、昨日まであんなに頑張ってくれたしな。
彼女だって一人の女の子、レースゲームのキャラなんかじゃない。せっかく遠方までやってきたのに、レースを走らせるだけ走らせて、はいおしまいなんて、たしかに純粋に可哀想だ。それに……
「ではでは、まずはどちらに参りましょう?昨日の夜、名古屋の名所や名物、沢山調べたのですが、あまりにも気になる場所が多すぎて……」
「それ、ちゃんと昨日の夜眠れたの?」
「ふふふっ、たまのうっかりも、なかなかいいものですね?昨日は本当に、うっかりしていてよかったです♪」
「……ああ、そうだね?たまには『うっかり』するのも、悪くないね?」
それに何より今、彼女がこんなにとびきりの笑顔でいてくれている、それならまあ。
「……今日は、思いっきり楽しみましょうね、トレーナーさん」
「……うん、楽しもうね、アルダン」
今日のところは『うっかり』って事にしといても、いいかもな。たとえ『真意』がどうであれ、だ。
「よしっ!それじゃあまずは腹ごしらえだ!という訳で……どこかの喫茶店で、朝ごはん食べない?」
「まあ……それはナイスアイディアです♪しかし朝食は、喫茶店でよろしいのですか?トレーナーさんは、もっと沢山食べられるようなところが良いのでは?」
「ふっふっふ……これは昔、テレビか何かで見たんだけどさ?名古屋の喫茶店って……」
もう一度、彼女の麗しいその姿を仰ぎ見て、僕も頭のスイッチを切り替える。そうだな、せっかく彼女がうっかりしてくれたんだ、今日ばかりは何も考えず楽しむのが礼儀というもの。雲ひとつ無い光に満ち溢れた、彼女の照らす新しい世界へ……ホテルの玄関をくぐり抜けて、僕はゆっくりと足を踏み入れるのであった。
──────────────
「お待たせいたしました、ブレンドと、カフェラテですね。それと、こちらモーニングセットです、ごゆっくりー」
「あら、トーストにゆで卵に、サラダまで……!こんなに沢山着いてくるだなんて、本当によろしいのでしょうか♪」
「ふふっ?ね、すごいよね?サービス精神旺盛過ぎだよね?コーヒー自体も凄く美味しそうだし、いい店見つけたなぁ……」
「ふふっ、欲張りなトレーナーさんに……いえ、欲張りな私達二人にピッタリですね?では早速いただきま……」
「うん、いただきまー……」
「す、の前に。先程メニューで見た小倉トーストも美味しそうだったので、先に追加注文しておきましょう♪あ、あとこのセットのミニナポリタンと、それとそれと……」
「すっ……?こ、こらこら、二品までって言ったでしょ?」
「うっ……け、けれどもこんなに美味しそうなものが沢山あるのですよ?トレーナーさんも、食べたいと思いませんか?」
「う、まあ美味しそうだとは思うけど……でも今日は沢山、色んなとこ行くんだから。昼ごはんとかおやつとかも、いっぱい食べるんでしょ?」
「……ふふ、そうですね?ここでおなかいっぱいになってしまうのは、得策ではありませんね?」
「うんうん、いくら欲張りと言ってもね?」
「では、すみませーん、小倉トーストおひとつと、大盛りナポリタンおひとつ♪」
「二品はどうしても注文するんだ!?」
──────────────
「うおーっ!名古屋城だ!でっか!」
「まあ……!本当にご立派なお城ですね?直接見るのは初めてですが、思っていた以上に圧倒されてしまいます♪」
「ね?なんだろう、東京のビルとかタワーとかの方がサイズ的には大きいはずなんだけど、なんというか、サイズ以上にずっと強そうに見えるというか……」
「ええ、お城というものはただの住居ではなく、有事の際には籠城するための要塞になり、平時の際もまた、時の権力者の力を誇示する為のシンボルになるものですから、『強そう』という感想は、至極真っ当なものでしょうね?」
「そういや、名古屋城って意外とどこの誰が作ったのか知らないなぁ。大阪城は、豊臣秀吉だったよね?」
「あら、ではお教えいたしますと、現在復元されているこの姿の名古屋城を初めに建造させたのは、かの徳川家康公なのです」
「あら、あの家康なの?江戸城は?」
「もともとこの地には今川氏の一族が築いた那古野城という城がありました。しかしその城は室町幕府崩壊後、戦乱の世の中で織田信秀公……かの織田信長公の父が占拠し、織田家のものとなりますが、しかしその後すぐに廃城となってしまいます」
「へえ……なるほど?」
「それから信長公、そして秀吉公が没した後、関ヶ原の合戦にて天下を取った家康公ですが、不安定な情勢の中、江戸と上方を結ぶ東海道の守りを強固なものにするべく目をつけたのがこの那古野城で……あ……」
「…………?」
「ご、ごめんなさい、一人で盛り上がってしまって……せっかくのデートなのに、こんなお話を長々とされてもつまらない、ですよね?」
「ううん?全っ然つまんなくないよ?本当に大好きなんだね、歴史」
「……ふふ、ええ。正直に言えば今日ここに来ることができて、今すごく、すごくテンションが上がってしまっていて……♪」
「ふふふ、実は僕もクールぶってたけど、さっきからウキウキなんだよね?良ければ君の話、もっともっと聞かせてくれたら、僕も嬉しいよ?」
「ふ、ふふ?そうですか?それであれば……♪」
「そういやほら、あの……なんだっけ、上にある金ピカの、古代怪獣ツインテールみたいなやつ!あれって、なんの意味があるんだろう?」
「ああ!シャチホコのことですね?あれはですね、実は……」
──────────────
「ですのでね?関ヶ原で小早川秀秋公が裏切ったのは……」
「でもだって、石田三成だってさあ……」
「しかし当時の時代背景を鑑みると……」
「お待たせいたしましたー。宇治金時氷お二つですねー。ごゆっくりどうぞー」
「……………」
「……この話は、この辺でやめとこっか?」
「ええ、そうですね?せっかくのデートですものね♪」
交わした議論の刃を両者納めて、目の前に現れたかき氷でヒートアップした頭を甘く冷やす、僕ら二人。夏の日差しは、そんな僕らの姿をただ淡々と、克明に映し出していた。
「……いかがですトレーナーさん?今日は、きちんと楽しめていますか?」
「ん?うん、もちろん。本当に、心の底から楽しいよ、アルダン」
そんな茹だるような情景に、彼女の素直な質問。僕もまた、なんの捻りも無い返答を返してから、後先なんて考えず……ただ、へらへらと笑い飛ばす。
「ふふ、それなら良かったです……あ、トレーナーさん!ちょっとそのまま、動かないで!」
「えっ!?な、なに、なんかヤバいの憑いてる……?」
「いえ、舌が綺麗に緑色に染まっていたので、写真にでも撮っておこうかと思って♪」
「えっ、そんなこと?というかそれを言うならアルダンだって……!」
「えっ、あらほんと……ふ、ふふふっ!」
「ふふ、あははっ!人の事イジっといて自分だって────」
「ふふ、ほんとうですね?ああ、面白い……♪」
「───────」
───何故だか、その瞬間。窓の外から射し込んだ夏影に、喧しく鳴く蝉の声に、やけに響く心臓の音に、ストロボの、眩い光に。
君の存在が、掻き消されてしまいそうに、そう思えて。
「では、おあいこということで……トレーナーさんも、撮ります?」
「えっ?あ、えっと?」
「ちょっと待ってくださいね……前髪、すこし直しますので……」
「……いや、舌が緑なのは良くて、前髪乱れてるのはNGなの、どんな基準?」
「っ!くくっ……!確かに、おかしいですね?」
「あははっ……いやほんと、面白いな。君といると」
「……まだまだ、これからですよ?食べ終わったら、どこ行きましょうか?」
──────────────
「名古屋テレビ塔……へえ、名古屋にもタワーってあるんだね?なんかちょっとレトロで可愛いかも」
「ええ、なんでも東京タワーより前の1954年に建てられたらしく、今では重要文化財にも指定されてるらしいですよ?という訳で……ほっ!」
「ん?何それ?ヨガのポーズ?」
「タワーのポーズですよっ♪記念写真、これで一緒に撮りましょう?」
「えっ?僕もそのポーズやんないとダメ?まあ、いいけど……ほっ!」
「ふっ!」
「はっ!」
「やっ!」
「……で、肝心の写真は誰が撮るの?」
「……確かにそうですね?これではただの、公園でヨガをする人達です……」
「ぶふっ……!」
──────────────
「うわーっ!ひつまぶしだ!」
「ふふふ、とっても美味しそうですね?早速いただきます♪」
「いただきます!……うわ、うっま!身が分厚過ぎる……そんでやっぱり名古屋なだけあってタレの味がめちゃくちゃ濃い……」
「んん……!確かにこれは美味しいですね♪お茶漬けにするのも楽しみです♪」
「うう、うまい、うまい……鰻なんて食べるの一体いつぶりなんだろう……出来るだけ味わって食べないとなのに……箸が止まらない……うう……うう……」
「……トレーナーさん、普段ちゃんとご飯食べれてます?」
──────────────
「熱田神宮……すごく立派な神社だけど、どんなとこなの?」
「三種の神器のひとつ、草薙剣を祭神とした神社ですね。伊勢神宮に次ぐ鎮守のお社として名高い場所です」
「へえ、伊勢参りは聞いた事あるけど、こんな都会の近くにもそういう所あったんだね?」
「それに、この神宮には必勝祈願のご利益もあるらしく、かの織田信長公も桶狭間に出陣する前に参拝したそうですよ?」
「へえ、必勝祈願!それはもうアルダンにピッタリな…………」
「………………」
「……ここ、昨日の時点で来るべきだったんじゃない?」
「ふふ……まあ、どっちにしろ勝ちましたから、結果オーライです♪」
──────────────
「うわーっ!味噌カツだ!」
「ふふふ、とっても美味しそうですね?早速いただきます♪」
「いただきま……ちょっと待って、さっきから僕ら、食べ過ぎじゃない?」
「ふふふ、まあせっかくの名古屋ですし……あ、見てくださいトレーナーさん、名古屋コーチンの唐揚げですって♪」
「うわーっ!コーチンだ!食べる食べる!」
──────────────
「い、急いで下さいトレーナーさん!最終入場まであと一分です!」
「こ、これ以上は……味噌カツと味噌おでんと唐揚げと天むすが出ちゃ……」
パチッ
「あ、赤信号」
「あ……すみません、やはり無茶でしたね、このスケジュール……」
灯った赤信号と共に、時計の針は午後五時を指し示す。足掛け八時間、時間を忘れて取り留めのない会話を繰り広げていた僕らは、その時初めて自分達に残された時間を認識したのであった。
「帰りの新幹線まで、あと三時間。この時間で回れる場所は、ええと、ええと……」
「……もう、大丈夫だよ、アルダン?」
「っ……と、トレーナー、さん?」
「大丈夫だよ、そんなに急がなくたってさ。色んな名所を見て回るのもいいけど、君と一緒に見知らぬ街を歩くってだけでも、僕はものすごく楽しいからさ」
「……しかし───」
「だからもう、ゆっくり歩こう?ほら見て、夕陽がすごく綺麗だよ?」
「────────」
じわり、じわりと変わりゆく空の色を、声のトーンを一音だけ上げながら、僕は指差した。丁度今は、厳しくも冷たくもない、優しい優しい、茜色の空だった。
「それにほら、『デート』ってさ、本来そういうもんでしょ?」
「………………ん」
「うぐっ!?う……ん?」
僕が意識を空の彼方に飛ばしている隙に、彼女は一歩、今までよりも一歩僕の元へと歩み寄って、そうして、脇腹を小突く。
「……トレーナーさんは、やっぱりずるいです」
「え、何が?」
「それなら、それが分かっているのなら……てっ、手のひとつでも、握ってみたら、いかがですか?」
「……あ、ああ、そうだね?『デート』だもん、ね?」
彼女から至極真っ当な指摘を受け、僕は慌てて、己が右手を彼女の左手に絡ませる。ウマ娘にしては体温が低い彼女のその手も、コンクリートから照り返す茹だる夏の暑さのせいか、しっとりと汗ばんで、まるで名残惜しむように僕の手のひらへと密に張り付いていたのであった。
「……いかがでしょうか、アルダンさん?」
「……及第点」
──────────────
「まだかな?もう少しで見えるかな?」
「ふふ、ええ、きっともう少しですよ?」
午後七時。すっかり日も落ち、僕らのこの長い長い旅もいよいよ終わりの時が近付いてきていた。間のスケジュールを白紙に戻して、のんびりと街並みを二人並んで、時にはふりふり怒って、けれどもその何倍も笑い合って、歩いて、歩いて。
辿り着いたのは、この街で一番の高さを誇るビル中、屋上の展望台、そして。
「───あ」
「───ああ、見えてきたね」
僕らの眼前に拡がっていたのは、これまで僕らが東奔西走歩き回ってきた世界の、その全て、なのであった。
「なんて綺麗な夜景……本当に、ここに来れて良かった」
「うん、平日だから人も少なくて、ほんとにいい所……あ、あそこ名古屋城だ!僕ら午前中は、あんなとこにいたんだね?」
「ええ、そして向こうの方がテレビ塔で、熱田神宮は、あの辺りかしら?」
「うわ、あんなに離れたところまでよく歩いたなぁ、僕ら……そういや、中京レース場は見えたりしないのかな?」
「どうでしょう?まあ、地球は丸いのです。たとえ見えなくとも、きちんと繋がってはいますよ♪」
「……そうだね、本当に、その通りだ」
赤、橙、黄、緑、水、青……まるで覗き込んだ万華鏡のようにフルカラーで輝く街並み。
を、横目に、その全てすらもバックライトにして美しく、逞しく、一人輝く彼女の姿を、僕は名残惜しむように網膜の底に焼き付けた。
……メジロアルダン。 既知のものに囚われず、ひたすら自由に、大きなスケールで、『未知』のものに手を伸ばすことの出来る、ウマ娘。
彼女と触れ合ってから、もう二年。すっかり僕の心の中に巣食っていた『退屈』も『虚無感』もいつの間にか雲散しきって、この世界も、人々もウマ娘達も、昔よりもくっきりとクリアに視通せるようになって。
……そうしたら、ずっとずっと、『自分自身』の事も、はっきりと視えるようになって。自分の性質も、才能も、手元に残った手札も、もう僕は、昔よりもずっとずっと、はっきりと認識できるようになっていて。
だからこの『選択』だって。
昔みたいな感傷と絶望によるものなんかじゃなくて、きちんと理論に基づいた、希望ある未来に向けて『選び取る』ことだって、今の僕なら、できるはず、なんだ。
彼女に貰った勇気を胸に、彼女と育んだ自信を拳に、僕は静かに、口を開いた。
「ア」 「トレーナー、さん」
午後七時三分。絞り出した僕の声は、彼女の声にかき消された。
「いかがでしたか?今日は、充分楽しめたでしょうか?」
「……ああ、本当に、心の底から楽しめたよ。ありがとう、アルダン」
「ふふ、それは良かったです」
そして彼女は、するりと僕の右手から左手を抜き取ると、そのままバランスを取るように両手を拡げて、まるで綱渡りのようにこの広い世界の最中をふらふらと歩み出す。
「……また、やりましょうね、こんな『デート』。また、何度でも」
「………………」
「阪神に小倉、新潟に札幌。ああ、船橋や笠松、デルマーにロンシャンもありますね?この世界には、まだまだ沢山のレース場が、『ウマ娘達の居場所』が、ありますから」
「………………」
「今日は『うっかり』でしたけど……今度からはきちんと予定を組んで、沢山デートをしましょう。綺麗なものを見て、美味しいものを食べて、今日みたいな……いえ、今日よりももっと、もっと、楽しい、デートを、何回も、何回でも」
「………………」
「……だから、トレーナーさん」
そのまま、ふらり、ふらりと。あの眩い世界に向けて一人自由に走り始めた……かのように見えた彼女は、その足取りのままくるりと踵を返し、そうして、そうやって。
「───どこにも、いかないで……ずっといっしょにいてください、トレーナーさん」
僕の胸元に弱々しく墜落して、まるで幼い雛鳥のように、そんな言葉を呟きだすのであった。
──────────────
それは、遡ること丁度二十一時間前。僕達が泊まっていた、あのホテルの客室でのことだった。
「はい、ほんとすいません……僕の『うっかり』で、こんなご迷惑かけちゃって……ほんと、できうる限り早く帰りますんで、理事長への説明は……」
『はっはっは!何、そんな今際の際のような声になる必要はないぞ少年!君が私のサブトレーナーだった頃は、この程度のフォロー日常茶飯事だっただろう!』
「あ、はは……その節はほんと、お世話になりました、美竹さん……」
僕のうっかりで帰りの新幹線をキャンセルしてしまったことの、理事長への初動説明。それと抱えていた雑務の消化を、僕はかつての直属の上司である彼に……美竹トレーナーに、電話越しに相談していたのであった。
「……それと、これはまた、学園に帰ってから正式にご相談しようと思っていたんですが」
『ん?なんだ少年そんなに畏まって!君と私の仲だろう!もっと力を抜きたまえ!な!』
「……ははは、そうですね」
そこまで仲良くなった覚えは無いんだけど……まあ、これから頼むことの大きさを考えればこの程度は些細なことか。ガンガンに音割れし続けている電話口へと、僕は一音一音丁寧に、言葉を紡ぎ始める。
「これから先、彼女の……メジロアルダンのトレーナーは、あなたにお願いしたいんです、美竹さん」
『………………まずは、理由を聞こうか、少年』
……流石の美竹さんも、何かを抑え込むかのような一瞬の間を作ってから、少しだけ冷静な声で次の言葉を探り出してくる。まあ、これくらいの反応は想定内。怯えず、怯まず、僕もまた、更に次の言葉を紡ぎ返す。
「今回の一件で、はっきりと痛感したんです。やっぱり僕にはこの眼……『プレイヤーズ・アイ』くらいしか特出した手札がない。指導力も知識も経験も何もかも、それ以外はやっぱり二流以下のトレーナーでしかない。故にこの眼を、この手札を切って彼女に与えた今の僕には、もうほとんど価値が残っていない」
『……ふむ?』
「逆に、美竹さん。なんだかんだありましたけど、やっぱりあなたは十五年選手の、大ベテラントップトレーナーに違いない。今日のレース、最後のバンブーメモリーの追い込み、バ場状態には恵まれなかったけれど、純粋なスピードも、タイミングも完璧の一言でした。煽てでもなんでもなく、もし彼女が同じ眼を持っていたら、負けていたのはアルダンの方だった」
「本当に、よく視えているな、少年」
暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない口調で、僕はその事実だけを淡々と述べていく。まるで推理ゲームの回答を、画面越しに入力するかのように。
「『プレイヤーズ・アイ』は強力な武器だけど、でもやっぱり『視えるようになるだけ』であって、走力や技術力そのものが向上するわけじゃない。その部分は結局、別で用意しないといけない、だから」
『だから、という訳か。しかしな少年、指導力も知識も経験も、やはりそればかりは場数を踏まねば着いてこないものだ。結果はどうあれ、今の自分に出来る最大限の技術を持って、一人のウマ娘を無事に最後まで導ききったという経験は、君の今後のキャリアを考えれば大切なことだろうと、私は思うがね?』
「……それでは、駄目なんです」
美竹さんの更なる返答……それもまた、想定内。いよいよラストダンジョンに勇者を送り込むように、僕は僕の頭の内を、堂々と彼に開示する。
「僕が幸せにしたいウマ娘は、後にも先にも『メジロアルダン』ただ一人なんです」
『…………!』
「確かに、僕だって貴方のように十年二十年経験を積めば、今よりは幾分かマシになるかもしれない。けれども、やっぱり一人のウマ娘の競技寿命は限られている。僕の成長なんて待ってる暇はない」
『………………』
「だから出し惜しみはしないし、今後に繋がる経験値なんていらない。僕の元にある手札は、全て彼女の勝利、彼女の栄光の為に捧げます。今の僕に唯一残っている、美竹さんとの縁……いえ、『あなたに売った恩』という手札も含めて、です」
『……はっはっは!なるほど一本取られたよ!『あなたにこそ、この技術を一番に伝えたかった』なんて口車に乗せられ、既に私は対価を受け取ってしまっていたとはね!末恐ろしいを通り越して、シンプルに性格が悪いな、少年!』
「ははは……まあ、僕の事はどう思ってくれても構いませんよ」
そうだ、『プレイヤーズ・アイ』という切り札を切ってしまった後、最後に僕の手元に残された……いや、残しておいた切り札。それこそが、美竹さんという存在。リバーシの最後の角を取るように、僕はその伏せ札を最後に開示して、この話に終止符を打……
『そんなにメジロアルダンが好きになったのか、少年』
「─────」
『では私もシンプルに問おう。果たして『メジロアルダン』自身は、それで良いと思っているのだろうか?』
「…………っ」
……やっぱり、流石は神童、キングメーカー、トップトレーナー。彼はガラ空きになった僕の自陣を穿つように、僕に向けて逆に、想定外のチェックメイトを突き付けてきたのであった。
『頼む少年。私と同じ才能を持った、若人よ。君だけは、私と同じ轍を踏まないでいてくれ。絶望に溺れ、利口な結論を導き、彼女達の生命を、蔑ろにしないでくれ』
「………………」
『……そうだ!恩ならば、別の形で返そうじゃないか!君はまだ、名古屋にいるんだったな!』
「え?ああ、まあそうですね?」
『ならば明日は出来るだけ早く帰ろうだなどとは、しなくて良いぞ少年!理事長達への言い訳は私が完全にこなしておく!君の溜まりに溜まった雑務もだ!今回のうっかりは、私の権限をもって完全完璧に無かったことにしてくれよう!』
「えっ?で、でも……」
『そうして君は、明日丸一日中メジロアルダンと共に過ごすのだ!学園やレース、過去や未来など一瞬でも気にする事はない!ただ、今の彼女を観察し、彼女の真意を考察するのだよ!得意だろう?少年!』
「………………」
『……それでも、君の意思が変わらぬというのなら、その時はまた私の元に来るといい。恩などいらない。今でも君は、私の子供みたいなものだからな』
……そうだな、確かにもう、『デート』の約束しちゃったもんな。
「……分かりました、それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。美竹さん、ありがとうございました、やっぱりあなたは、僕の憧れの人です」
『うむ!では少年!最後に一つ言っておく!』
「は、はいっ!」
『ふぅ……少年!!!!!君は〇☆※×!!!だが△〇×□っ!!!☆□△※☆×〇ーーーーっ!!!!!』
「ひぎゃっ!?み、美竹さん音っ!?音割れしまくってますっ!も、もっと小さい声でっ!携帯!携帯壊れるっ!」
『〇×□△ーーーっ!×※〇☆☆っ!!!!!では、頑張りたまえ!少年!さらばだ!』
プツッ……
「…………え、えぇ……?」
──────────────
「……おかしいんです、私のこの眼。せっかく貴方から貰ったのに、この眼で何処を探しても、何処を映しても、肝心の、貴方と共にいる未来が、視えないんです」
「……アルダン」
「こんなの、絶対におかしい、ですよね?きっとまだ、私がこの眼に慣れていなくて、きっと、充分に使いこなせていないだけですよね?ね、トレーナーさん?」
───よ、かっ、た。うん、よかった。彼女は思ったよりもずっと早く、この眼を見事に使いこなせるようになったらしい。いや、本当によかった、やっぱりもう、僕から教えられる事は、ないみたいだな。
「なんとか言ってくださいよ。ほら、午前中お城であんなに議論したじゃないですか。あの時の勢いはどうしたんですか、トレーナーさん」
「………………」
「……あ、それともまた、お腹が空いたんですか?ふふふ、仕方の無いトレーナーさんですね?お店は難しくとも、駅弁くらいは買っていきましょう?ね?ほら?」
「………………」
「……だから、ほら。この眼に映ってるものは間違いだって。そんなはずはないって。そう、言ってくださいよ、お願い、ですから」
月の満ち欠けのようにふと見え隠れした、彼女の『うっかり』という事にした、その『真意』、けれども、それは、それ、として。
正直、美竹さんにどれだけ説得されても、やっぱり僕の意思は変わることはなかった。
彼女が、メジロアルダンが自身の生きた証を、トゥインクルシリーズという広大な歴史の中に刻み込み、誰も彼もから永遠に見上げ続けられるような、そんな太陽のようなウマ娘になる為には。やはり、どこをどう計算したって、どんなルートを辿ったって、まず初めに『僕』という存在が不要になる。指導力もカリスマ性も無くて、そのくせ無駄に偏屈で、変な拘りがあって。彼女に対して気の利いたプレゼントのひとつも用意できない、僕みたいなトレーナーは。
そんなこと、解っているだろう。君だってもう、その『眼』を使えるんだから。
そんなこと、解っているだろう。僕なんてもう、ずっと昔からこの『眼』を使ってきた、はずなんだから。
なのに、どうして彼女は、こんな僕の身体をそこまでして、掴んで離さない?
なのに、どうして僕は、こんなに弱々しい彼女の手を、振りほどけない?
解らない、説明がつかない、合理的じゃない。酷く不安定で、恐ろしく儚い、この先絶対に必要のない感情が、何故こんなにも、大切に思える?
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『そんなにメジロアルダンが好きになったのか、少年』
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「───────」
或いは、ひっくり返して考えてみれば。
徹底的に解体し、技術へと還元し尽くして、それでもなお言葉で説明しきれない『何か』。
容赦なく観察し、考察し尽くしても、それでもなお割り切れない『何か』。
この身を、眼を、手札の全てを、塵も残らないほど焼き尽くして、それでもなお残り続ける『何か』。
そんなものが、存在するのであれば。
それは最早、『愛』としか言いようがないのでは?
「─────アルダン」
「っ……!とれ、な、さん」
僕の鳩尾に頭をうずめながら、俯いたまま話す彼女に向かって。
僕はいつもより一歩近く踏み出して、そうしてその身体を、強く抱き寄せる。
そして、もしも僕らのこの感覚の正体が、
『そう』だったとしたならば、それならば。
どうせなら、この際なら、
長い人生、たった一度くらいだけだったら。
その『愛』だとかなんとかって奴にだって、
少しくらい、頼ってみてもいいんじゃないか?
「大丈夫だよ。絶対に僕は、君の元からいなくなったりしない。約束だ」
「っ…………ほんとう、ですか?」
「ああ、本当だ。さっきまで君が視ていたものはきっと、いや絶対に『気のせい』なんだ」
「気のせい……気の、せい……なのですね……」
「だから、もう泣かないでいいんだよ。せっかくの『デート』なんだから、最後まで、笑っていていいんだよ、アルダン、アルダン」
なんの根拠も、策も、技術もない。『真意』を正直に述べれば、とてもそうとは思えない。まるで風前の灯のように、余りに不安定に、今にも消え去りそうに、僕らの眼前に広がる世界は、常に揺れ動く。
けれども僕は、今の僕はそれを『気のせい』という事にした。きっとこの世界は明日も明後日も、永遠に綺麗なまま続いていくものなのだと、今の僕は、そういう事にしておいた。もしかしたら近い将来、この選択を酷く後悔する時が来るのかもしれないけど、それでも、今は。
「………………ん」
「うぐっ!?う……ん?」
「……ん、ん、んっ!んっ!んんっ!」
「ちょ、痛い、痛いっ、普通に痛いっす、アルダンさん、アルダンさん?」
「だったらぁ……もうぅ……なんでそんな思わせぶりな態度取るんですかぁぁ……ほんと、トレーナーさんのおばか、おあほ、あんぽんたん……!」
「お、おお、罵倒のレパートリー昔より増えたね?流石アルダン」
「ふざけないでください……!ほんと、今日一日、私がどれだけ心細かったか、お分かりですか……!」
「うん、ごめんね、本当にごめん、アルダン」
「トレーナーさんは、落第です。落第点です、そのまま追試になって、留年し続けて……」
「………………」
「そうやってせいぜい、一生私と一緒にいてください。いいですよね、トレーナーさん」
「ああ、もちろんだよ、ごめんなさい。そして、ありがとう、アルダン」
「……こちらこそ、ありがとうございます、トレーナーさん……♪」
いつまでも僕の胸元を小突く、そのチクチクした痛みを受け止めながら、僕は彼女の麗しく長い髪を、手櫛で慎重に、優しく撫でる。
それは実に滑らかで、さらさらとしていて、確かに、確かに、間違いなく。そこにはひとつの『生命』が宿っているのを感じ取れて、僕はひとつ、大きな息を吐いた。
「……お土産、買いたいです。自分用のと、チヨノオーさんと、ヤエノさんと、バンブーさんと、あとクラスの皆に配る用の奴を」
「ば、バンブーメモリーにはいらないんじゃない?自分でも買ってるよ多分?」
「いいですよね?それくらいの時間は、作ってくれますよね?トレーナーさんですもの?」
「それは、明らかにトレーナー業の範疇外なんだけど……ええと、ちょっと待ってね……確か新幹線、八時ちょっと過ぎぐらいだからそれくらいの時間は………………」
「え?」
「えっ?どうしましたトレーナーさん?」
「……あのさ、その、言い訳じゃないんだけどね?」
「はい」
「その、アルダンほどじゃないんだけど、昨日の夜から僕も、まあまあ色々、考え事?しててさ、なんかこう、色々と上の空で……」
「……それで?」
「『うっかり』、してました。普通に、シンプルに」
「………………」
「………………」
ピッピッピッピッ
プルルルルルルルルル……
「……あ、もしもし美竹さん、お疲れ様です。あのぉー……ほんと、ほんと申し訳ないんですけど、かくかくしかじ
『×〇☆※□△ーーーーーーッ!!!!△※〇□☆×☆□☆ーーーーーーーッ!!!!!』
「ひぃーーーっ!なんて言ってるのか全然分かりませんけど、ごめんなさーーーいっ!」
『……交通手段を手配次第、追って連絡する。いいか、絶対に今日中にメジロアルダンを帰すんだぞ!分かったな!少年!』
「も、もちろん!了解です!!!」
プツッ……
「……お説教、回避したと思ったんだけどなぁ……でも、本当に助かりました。ありがとう、美竹さん」
「……ふふっ?初めて見た時は少し苦手でしたけど、やっぱり良い人ですね、バンブーさんのトレーナーさん♪」
「ははは……ま、そりゃそうだ、なんせ僕の、憧れの人だもん!」
「さて、図らずも『うっかり』と、少し時間が出来てしまいましたが……」
「そうだなぁ……じゃあもう少し、ここで景色を視ていこっか?せっかく来たんだしさ?」
「ふふっ!私もそう言おうと思ってました♪せっかくの『デート』ですものね♪」
そして僕らはもう一度、これまで僕らが東奔西走歩き回ってきた世界の、その全てをお揃いの眼で視詰め始める。少しだけ冷たく感じたその街並みと、不安定で、けれども確かに暖かな彼女の手のひらを交互に感じて、僕の視界も、グラグラと揺れ動く。
今はまだ、何も無いこの手のひらだけど。
いつか、この世界そのものすら、手札として彼女に『あげられる』ように……なんて。
「あ、そうです写真、写真撮りましょう?」
「えっ?ちょ、ちょっとまって、前髪、前髪整えるから……」
「ふふっ、はい、チーズ♪」
そうして彼女が指さしたストロボの光、夜闇一面に飛び散ったその光と、至近距離で照らし出された、僕の愛する、彼女の揺らぐ瞳。
例えるなら、それはまるで『炎』のような衝撃だった。