メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
八月、昼間の乾いた空気を震わせるクマゼミの声。僅かに開けた磨り硝子の隙間からは刺激的な潮風の匂いが漂ってきて、思わず顔を顰めてしまう、ささやかな、午前十一時。
「よーし、ここ一週間も異常なし。この分なら明日からのトレーニングは、もっと強度を上げられそうかな。となると、良いメニューは……」
トレセン学園名物行事の夏合宿……も、中盤に差し掛かり、もうこの合宿所の軋む床や机椅子にも慣れてきた今日この頃。本日はトレーニングの休息日ということもあり、僕はそんな合宿所に籠り、明日からのトレーニング計画の見直しに勤しんでいたのであった。
「……いや、まだ早いか。まだまだこのままで、基礎作りにたっぷり時間を割くべきだな。丁寧に、丹念に、一歩一歩……だ」
ノートパソコンの中、開かれたスケジュール帳の中、来週の予定を全て削除し……てから、再び元に戻す。そうだ、僕は彼女の、一人の女性の人生を預けてもらっている立場なのだ。彼女の心身に関わることは、細心の注意を払わなければ……
「いやでも、あまりにも刺激不足というのも、それはそれでか?強度は上げないにしても、もっとバリエーションを持たせたりして……」
……などと呟きながら、せっかく元に戻したスケジュールを再び白紙に戻す僕。凪と言うやつだろうか、先程まで磨り硝子の隙間から吹き込んできていた潮風がピタリと止んで、僕の額にも、じわりと汗が浮かんできた。
「……あら、本当に一人でお仕事をされているとは。働き者が、過ぎますよ?」
「んっ?その声は……」
暑さに耐えかね、停止させていた冷房のリモコンに手をかけようとした僕の鼓膜に反響してきた、あまりにも耳馴染みのよい、ゆらぐ声が一つ。
「ふふ、お疲れ様です、トレーナーさん♪」
「あ、アルダン……!」
振り向いた先に立つ、背筋をしゃんと伸ばした体操服姿の彼女。他でもない、我が担当ウマ娘、メジロアルダンである。
「トレーナーさんが、ここで一人お仕事をされているとお聞きしまして……ささやかながら、差し入れをお持ちいたしました♪」
「えっ!ほんと!?ありがとうアルダン!」
「ふふふ、いかがです?デキるウマ娘だと思いませんか?」
「いや、それはもちろん……前々からそう思ってたよ?」
クイクイと、かけてもいない眼鏡を押し上げながらおどけてみせる彼女に、思わず吹き出しそうになる僕。受け取ったプラカップのアイスコーヒー。その冷たさに、浮かんでいた汗もみるみるうちに引いていくのだった。
「んー!冷たくて美味しい……!これ、向かいの海の家で買ってきたやつかな?」
「ええ、その通りです♪食べ物も色々買ってきましたので、よろしければどうぞ?」
「おおー!これ、たこ焼きに焼きそばだ!最高!」
「ふふふ、出来たてアツアツのままお持ちしましたので、早いうちに……と、お仕事中で両手が塞がっていては食べづらいものばかりでしたね?これは、失礼いたしました……」
「あはは……まあ、それは仕方ないよ。せっかく持ってきてくれたんだし、ちょっと休憩して食べ」
「で、では僭越ながら、ここはひとつ、私が一肌脱いで差し上げましょう……」
「アルダン?」
「……あ、あーん……です、トレーナー、さん?」
「……!?」
丸々と大きなたこ焼きを一つ、割り箸でつまんでこちらに差し出してくるアルダン……ほんと、彼女のその毎度毎度の豪胆さは、一体どこから湧いてくるんだか……
「……あ、あー」
軽く周囲を確認してから、意を決して口を広げる僕。食欲そそる香ばしいソースの匂いと、爽やかなシャボンを彷彿とさせる彼女の髪の香りが混ざりあって、僕の思考を、甘くかき乱
「熱……っつぁ!?」
「あ、す、すみません……ふーふーするのを、忘れていました……」
「は、ハフッ……!は、はいひょーぶ……!はいひょー……ぶぶぉっ……!」
「あ、の、飲み物!飲み物飲んでください!トレーナーさん!?」
──────────────
「………………」
「………………」
「……ええと、アルダン?」
「はい?なんでしょうトレーナーさん?」
たこ焼きも、焼きそばも、しっかりと向き合い平らげてから、再びパソコンの画面とにらめっこする僕……と。
「その、退屈じゃない?せっかくの休息日なんだから、友達なんかと遊びに行ったりとかしないの?」
「あら……申し訳ございません、お邪魔でしたでしょうか……?」
「いやいやいや!全然邪魔って訳じゃないけどさ!」
「ふふっ、それならよかった。私も無理にここにいる訳ではないので、あしからず♪」
「そ、そうなの?」
僕の言葉を、何やらのらりくらりと躱して笑みを浮かべる、アルダン。相変わらず風の差し込まない蒸し暑い部屋に、二人の軽口だけがささやかにこだまする、午前十一時半。
「そしてその台詞、そっくりそのままお返しいたしますよ?せっかくの休息日にお仕事なんてして、トレーナーさんも嫌になったりしないのですか?」
「えっ?僕?」
不意に打ち返された言葉のボールを、あたふたと受け止める。嫌に、嫌になったり……か……
「うーん……まあ、楽ではないけど、嫌って訳でもないかな?」
「あら……本当ですか?無理して強がっていたりしません?」
「そんなことないよ?辛くて面倒なこともあるけど、全部『幸せになるための準備』だから」
「幸せになるための……ですか?」
『幸せになるための準備』か、我ながら咄嗟に上手く言語化できたものだと感心しながら、僕はそのまま目の前の作業は止めずに、口を動かす。
「なんというか、幸せになるためには『準備』が必要なんだなって、ここ最近思ってて。もちろん溜めも振りもなく、ずっと幸せだけが続くんだったら、それに越したことはないかもだけれど、流石に人生、そうもいかないからさ」
「まあ、それはそうですね?」
「だから……例えば、カラカラに喉が渇いてる時に流し込むアイスコーヒーが最高に美味しかったり、トレーニングでたっぷり汗をかいた後のお風呂が最高に気持ちよかったり……幸せの数が限られてる分、それに向けてしっかり準備をしてた方が、より強く幸せを感じられてお得だよな……なんてさ?」
「ふふっ?確かにそれは、良い考えです♪」
まあ、それだって他でもない、君に教えて貰ったことなんだけど……
時に思い通りに動いてくれない、ウマ娘の肉体。彼女のトレーナーになったばかりの頃は、そういった想定外が起こる度に逐一自分を責めていたものだが……それでも、できることをできるだけ。注意深く、丁寧に、丹念に、一歩一歩走り続ける彼女の姿を垣間見て、僕はその姿に、憧れたのだ。
「で、それはこの合宿だって同じ。今しっかり頑張って、頑張って、頑張って……そうやって秋の重賞戦線でぶっちぎりの勝利を手にすることが出来れば、それって最高に幸せじゃない?」
「ふふふ、それはもちろんです♪」
「だから、嫌になんてならないよ。全部、全部幸せになるためなんだって考えたら……ああ、でもまあ、いまさっき君が美味しいもの持ってきてくれたみたいに、突然転がり込んでくる幸せは甘んじて受け取らせて貰うけどね?美味しかったなぁ、たこ焼き……」
「そうですねぇ……けれども、トレーナーさん?」
「アルダン?」
ふわりと、ようやく吹き込んできた南風に彼女の長い髪が揺れて……僕は思わず、パソコンの中の予定表から目を離して、『今』の彼女に見蕩れてしまう。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、彼女もまた、なんだか僕を誘い出すような蠱惑的な目線をこちらに向けてきた。
「働き者なのも素敵ですが、どうでしょう?『私がレースに勝利する』事だけが、貴方の幸せなのですか?」
「えっ?そ、それは……」
「私は、違いますよ?レースに勝つ事ももちろん幸せなことですが……美味しいものを食べたり、友人とショッピングをしたり。私にとっての幸せは、まだまだ沢山の種類が、あるのです」
「……ふふっ、うん、そうだね?僕だってそうだよ、アルダン」
不意に立ち上がって、僅かに開いた磨り硝子の外、青い空に白い砂浜をしかと見据えるアルダン。そのどこまでも続く自由さに、またしても僕は、強く強く憧れを覚えてしまう。
「そのお仕事……そんなに、急がなくてはいけないものなのですか?」
「うーん……うーーーん……ま、今日のところはこの辺でいいかな?丁度煮詰まってきたところだったしね?」
「ふふ、それなら……私と一緒に、今から幸せになりませんか?そのための準備も、済ませてきていますから、私♪」
「ん?準備って…………え?」
「ん、よいしょっ……よいしょっ……♪」
「え?えっ?え、ちょ、ちょっ!?アルダン?アルダン!?」
再びこちらに目配せをしてきたアルダンは……おもむろに、本当に唐突に僕の目の前で、着込んでいた体操服を、ぬ、脱ぎ捨て初めて……!?
「なになになになに!?ちょっと!?ダメだってアルダン!いきなりそんな……!そんな……!」
「……ふふっ?何をそんなに焦っているのですか?目を開けてください、トレーナーさん♪」
「え……?」
恐る恐る、固く閉ざしていた瞼を開け放った僕。その目の前に広がっていた、瞬くようなスカイブルーの、光景。
「……ふふ、いかがです?今年も新調してみたのです、水着♪」
「……あ、ははは……ほんともう、脅かさないでよ?最高に、最っ高に似合ってるからさ?」
「ふふふ、時間をかけて選んだ甲斐がありました♪そう言って貰えて、とっても幸せです♪」
「そりゃよかった。けど、まだまだこんなもんじゃないよね?君はまだまだ……僕のこと、幸せにしてくれるんでしょ?」
「もちろん、これ以上ない程アツアツの幸せを差し入れてあげますよ♪ですので……私の事も、とびきり幸せにしてください?約束ですよ?トレーナーさん♪」
パソコンの画面を畳み込んで、おおっぴらに開け放つ窓に、爆風のようなアツアツの南風。昼間の乾いた空気を震わせるクマゼミの声も聞こえなくなるほど、僕の胸は激しく、華やかに、幸せの訪れを告げる鐘のように壮大に鳴り響いていたのだった。