メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
WENDY 〜It's You〜
「あれ、アルダン?」
「……あら、トレーナーさん?」
就業時間前、登校してくる生徒たちを眺めながら学園の屋上でコーヒーを啜る。最近の僕のマイブーム……と、缶コーヒー片手に扉を開けた僕の瞳に飛び込んできた、果てしない青空に融ける、水色のロングヘア。
「ふふ、おはようございます。目覚めのコーヒータイム、ですか?」
「うん、おはよう。まあ、そんなとこだね?」
「流石、良いご趣味で♪」
我が担当ウマ娘、メジロアルダン。僕の立てた物音に反応して振り返った彼女は、その特徴的な、星空をぎゅっと閉じ込めたような瞳でこちらを見つめてきた。その様が、寝起きの僕にはあまりにも眩し過ぎて、慌てて僕は目を逸らしながら次の話題を探す。
「ええと、アルダンこそ、なんでまたこんな所に?」
「…………」
「……アルダン?」
「うふふ、まあ、なんでしょうね?」
するりと踵を返して、再び屋上の柵に身を預けるアルダン。その長い髪に釣られるように、僕も緩やかに、彼女の隣へ向かって足を進める。
「……まあ、こんなに天気がいいんだから、たまには空でも見たくなるよね?」
「ええ、本当に、いい天気です♪」
彼女の隣に肩を並べ、彼女と同じように身を預ける。今日はいい天気だ。鼻から思い切り吸い込んだ空気は夜露で程よく湿っていて、僕の指先、足先、五臓六腑にまで潤いを与えてくれる。遠くから香ってくるよく干されたシーツの匂いも、なんだかむず痒く僕の寝ぼけ眼をくすぐってくる。本当に、今日はいい天気だ。
「毎日、こんな天気ならいいんだけどねえ」
「ふふっ、ええ、まったくです」
「はは、まあ、そういう訳にもいかないのは承知だけどね?」
「……ねえ、トレーナーさん?」
「ん?何かなアルダン?」
なんともとりとめもなく言葉を連ねる僕に……そのままの声色で、特に嬉しくも怒っても、悲しくも楽しくもなさそうな表情で、彼女は口を開いた。その手に先程から握られていた、一枚の書類を太陽に透かしながら。
「……それって、ああ!『クラシック登録書』の、控えか!これはまた、懐かしいね?」
「ふふっ、ええ、本当に懐かしいですね?」
先程まで軽く見て見ぬふりをしていたその書類を、ようやく僕は、はっきりと視界へ入れる。
『クラシック登録書』、トゥインクルシリーズにデビューを果たしたウマ娘達が、その年度内に一度だけ提出できる、読んで字のごとく、クラシック競走への出走意思を確認するための書類。この書類にサインをして、判を押し、トゥインクルシリーズの運営団体たるURAに提出を行うことによって、晴れてウマ娘達はその年のクラシック競走への出走資格を得ることが出来るのである。
「お部屋の掃除をしていたら、机の奥にしまっていたのを見つけまして。なんとなく感じ入るものがあったので、少し眺めていたのです」
「これを提出したのも、もう一年以上前かぁ。ほんと、長かったような短かったような……」
彼女の手に燦々と輝く、その書類。もちろん原本ではなく、提出後に送られてきたコピーの控えではあるが……彼女の名前と、そして僕の名前が二つ並んだその姿に、僕はほんの少しだけ、想いを馳せる。
──────────────
『クラシック登録、ですか』
確かそれは、今日のようなよく晴れた日の事だった。
『うん、今年の提出期間までもう間もないからさ。だから、君の意志を確認しておきたくて』
『…………ふむ』
まだまだ物が少なかったトレーナー室の中、僕の手の中に収まる書類を、まじまじと見つめていた彼女。その表情、感情がとても読めなくて、ひたすら気付けの缶コーヒーを啜って不安な気を紛らわせていたのを、よく覚えている。
そう、当時の僕はひたすら不安だった。
短くとも。儚くとも。ほんのかすかな光跡であろうとも。私は私自身の生きた軌跡を、『今』にひと筋、残したい。トレーナー契約を結ぶ時に、僕に対して強くそう語っていた彼女の姿が、瞼の裏にありありとこびり付いていたからだ。
『……まあ、これはただの登録でしかないから。こないだも言った通り、君の走りたいレースは、君自身で決めていい。僕はそれに従って、その都度ロードマップを組んでいくからさ』
『ええ、重々承知しておりますよ?』
『けど、まあ、もしも君の気がそっちに向いた時の為に。この書類一枚だけ、念の為、書いておいた方がいいんじゃないか、と、僕は思う』
そうだ、これは間違いなく彼女のため。将来彼女が後悔しないように、彼女の可能性を、少しでも広げておくための、そのための提案なのだ。
そう、心の中で何度も何度も反芻して、僕は彼女に書類を手渡した。握りしめた手のひらに感じた、くい込んだ爪の痛みは、今でもはっきりと思い出せた。
『……確かに、貴方の仰る通りですね?お待ちください、こちらにサインと……判子、ですよね?』
『……!う、うん、それで、大丈夫』
いとも簡単に、あっさりと、水飲み鳥のように首を縦に降る彼女。それを見て、僕はひどく安堵した。『メイクデビュー』のたった一本で、彼女の競技人生が終わってしまう。そんなことには、ならずに済みそうだ、と。
しつこいようだが、やはり当時の僕は、ひたすら、全ての物事が不安だった。
彼女のメイクデビュー戦、一着でゴール板を踏み切った後の彼女を見て……思わず僕は、その姿に手を伸ばしてしまった。彼女が『満足』してしまうのが、怖かったのだ。
焦がれていたトゥインクルシリーズへの出走がついに叶い、ターフへの、そしてこの世への未練が無くなってしまった彼女が、今にでも淡雪のように溶けて無くなってしまうのではないか。そんな幻覚が、頭の中にまでこびり付いていた、からだ。
だから、その書類に自らの名をしたためる彼女の姿を目にして、僕は安堵していた。
芝の中距離レースを得意としている彼女にとって『皐月賞』『菊花賞』そして『日本ダービー』。それらのレースは充分に『走り続ける理由』になり得ると思った。『たった一度の勝利なんかで、満足なんてできやしない』彼女がそう言い続けるための理由になってくれると、僕はそう、思ったのである。
『……はい、後はトレーナーさんのサイン、ですね?』
『ん?ああ……ありがとう、アルダン』
彼女から差し出し返された書類を、万感の思いで受け取った僕。そうだ、これでいい。後は僕の、『トレーナー』のサインと判があれば、彼女はこのまま、本能のままに走り続けることが出来る。沢山のレースに出走して、勝って、勝って、そうして彼女は、いつまでも『幸せ』に
───本当に、そうだっただろうか?
──────────────
「トレーナーさん?」
「……んおっ!?」
優しく首元に当たった彼女の吐息で、一年後の今に引き戻された僕。ふと見つめてしまった鮮烈な朝日に、思わず顔を顰めてしまう。
「……ふふっ、そんな顔をしないでください?『日本ダービー』。別にもう、引きずってはいませんから♪」
「ん、んん?」
「もちろん悔しいものは悔しいままですが……最近ようやく『もう終わったこと』だと、思えてきたのです。もちろんチヨノオーさんとだって、また別の場所できっちりと決着をつけるつもりですので、ね?」
「……アルダン」
「それもこれも、貴方が私の事を何度でも励ましてくれていたからですね。私が悩んでいる時は、いつも貴方が新しい選択肢を与えてくれましたもの。本当に本当に、感謝していますよ、トレーナーさん♪」
少しだけ的外れなことを語りながら、こちらに逞しく笑いかけてくるアルダン。慌てて僕も、下手くそな笑みを作り返す。
……引きずってはいない、か。本当に、本当にそうだと言うのならば、いいんだけどな。相変わらず彼女の手に固く握られたままの一枚の書類に視線を向けながら、僕はぼんやりと考える。
「……しかし、後悔はありませんが。少しだけ引っかかったままの事はありますね?」
「引っかかったままの事?」
「ええ、他でもない『オグリさん』のことです」
「んん?なんでまた、急にオグリキャップが?」
突然彼女の口から飛び出した、今や日本中誰もが知るスーパースターウマ娘『オグリキャップ』の名前。日本ダービーとオグリキャップ……なんだか繋がるような繋がらないような、小骨が刺さったような微妙な反応しか返せない僕に向けて、彼女がその心を語り始めた。
「忘れましたか?ほら、ダービー前のちょっとした騒ぎのこと……」
「……ああ!『オグリキャップをダービーに』って、署名までやってたやつか!」
「ええ、それですそれです」
『オグリキャップを、ダービーに』
他ならぬアルダンが出走した、昨年の日本ダービー直前。一人の記者が執筆した新聞記事が発端となり、日本中で署名活動が行われるまで激化した……読んで字のごとく、期限内にクラシック登録をしていなかったオグリキャップに、特例でダービーの出走権を与えるべきだという趣旨の運動。かの皇帝『シンボリルドルフ』までその主張に賛同していた。なんて眉唾物の噂話まで出回る程の騒動、流石に忘れるはずがない。というか、忘れたくても忘れられないだろう。
しかし、そんな騒動に対してURAは沈黙を貫き、結局は当初の予定通りのメンバーのまま日本ダービーの幕は開かれた。その後オグリキャップは天皇賞へ向かい、タマモクロス相手に激闘を繰り広げ、芦毛対決で再び世間を沸かせることとなる……と。
「ほんと、今思い出しても、なんだかなぁ」
「ふふふ、まあ確かにあの当時は他ならぬ当事者でしたので、私も暗澹たる思いでその様を見つめておりました。が……しかし、そうですねぇ」
「ん?どしたのアルダン?」
「……今、改めて第三者目線で考えれば。どうしてURAはオグリさんの出走を認めなかったのでしょう?」
「どうして、か」
「ファンの皆様側から考えてみれば、単純にダービーでオグリさんが観れて嬉しい。URAからしてみても、レース人気が上がって商業的に大成功を望める。客観的に見れば、これ程美味しい話はなかったのでは?なんて、考えてしまいますが……」
「まあ、それはもう、一理どころか百理ぐらいある話だね?」
当然、トゥインクルシリーズだってボランティアじゃない。莫大な金銭が流動する中で各々の利益を追求する、世の中に溢れる経済活動の、その一環である。
と、するならば確かに。名実共に日本一の栄誉あるレース『日本ダービー』と、注目度ナンバーワンのダークホース『オグリキャップ』。それらを掛け合わせた時に生じる利益を逃さない手は無いはず……だか、しかし、現実はそうならなかった。それは、何故か。
「そうだなぁ、これはあくまで僕の思いつきで、もしかしたらもっと専門的な理屈が、あるのかも、しれないけど……」
「ええ、大丈夫、大丈夫ですよトレーナーさん。笑ったりなんて、しませんから」
「……ふふっ、ありがとう、アルダン」
軽く目配せをしてくる彼女にまじまじと視線を合わせてから、けれども少しここでは無いどこかへ向けて、僕はとつとつと語り始める。本当にただの思いつき、というか最早、世の中がこうであって欲しいという僕の願望すら入り交じるような主張、なのかもしれないけど。
「それはきっと、クラシック競走が『全てのウマ娘のため』のレースだから、だと思う」
「全てのウマ娘のため、ですか?」
「うん、そう。確かにトゥインクルシリーズだってボランティアじゃない。ファンの期待に応えて、ファンが喜ぶような事をしてお金を稼がなきゃいけない。ファン投票が大きな意味を持つグランプリレースなんかはその最もたる例だ……けど、クラシック競走だけは違う。クラシック競走だけは、徹頭徹尾『全てのウマ娘』に平等であらねばならない」
「なるほど、なんとなく分かるような気はしますが……」
「そして、どうしてそこまで平等であらねばならないかと言うと……それはクラシック競走が、ウマ娘達にとっての『諦める理由』であり続けるため。なんだと思う」
「……???」
掴みかけていた感覚が、じわりと離れていくような……なんともすっきりしない表情を浮かべ始めるアルダン。けれども、それでも彼女はそんな僕の突拍子もない言葉を、真剣に、一度も目線を外さず真っ直ぐに聴いてくれる。思えば、初めて出会ったときからずっとそうだった。そんな彼女に、僕はどれだけ救われてきたことだろうか。
「メイクデビューで、初めて本物のレース場の本物のターフを、そして本物の『勝ち負け』を味わったウマ娘達。当然納得のいく結果じゃなかった娘だって……というか、納得のいく結果を残せた娘の方が、珍しいぐらいのものなんだろうけどね」
「ええ、それはもちろん」
「そして、そのタイミングで突きつけられるこの書類……『クラシック登録書』。形にしてみればただの紙切れ一枚なんだけど、言うなればこの書類は『これからも走り続ける覚悟があるかどうか』の意思確認って側面もあるんじゃないかな、なんて」
「走り続ける、覚悟……」
「この書類をメイクデビュー後のあのタイミングで、それも提出期限付きで突きつけられることによって、否が応でもウマ娘達は自身の理想と現実に目を向けざるを得なくなる。このまま走り続けて、本当に自分は『幸せ』になれるのか?と」
少しだけ、鮮烈な朝日が雲に隠れて、肌寒い風が僕らの間を通り抜ける。けれどもまだまだ起きがけの、今の僕の瞳には、その光は実に丁度よく思えたのだった。
「もちろん、『それでも』と自分から栄光に手を延ばせるような娘は、本当に凄いと思う。けれども、クラシックじゃなくても」
「…………」
「例えば短距離路線やダートレースを極めるような選択をしたウマ娘だって凄いし、なんなら重賞なんて狙わずに、自分の走りたいレースを好きなように走りたいってだけの娘だって、それが当人の幸せだと言うのなら、それは誰にも否定されるような事じゃない。それに、言ってしまえば『走らなくっても』、だ」
「走らなくっても?」
「『ウマ娘は、走るために生まれてきた』なんて、そんなこと、あるはずがない。この世界にはレース以外にも、楽しい事ややりがいのある事なんて山のように存在するし、『レースに出て走るウマ娘の方が偉い』なんてことも、あるわけがない。スッパリとレースを諦めて、何か別の夢中になれることに尽力するウマ娘達だって、本当に、本当に美しいと思う」
そう、彼女達は神でも、天災でも、レースゲームのキャラでもない。社会性を持った一人の生物、なのである。
当然、クラシック競走ほどの激しいレースを行えば、その身が無事で済まなくなることだって、ある。そうして怪我をすれば、当たり前に痛みを覚えるし、歩くことも出来なくなるような致命傷を受ければ、レースどころか日常生活もままならなくなる可能性すらもちろんある。僕らが決して忘れてはいけない大事なこと。栄光に手を伸ばすとは、つまり、すなわち、そういう事なのだ。
「クラシック登録に厳格な規定があるのは、『それでも』手を伸ばせるだけの準備や覚悟があるのかどうかの確認と、その準備や覚悟がないウマ娘達に、走ること自体を『諦める理由』を作ってあげる……って意味合いもあるんだと、僕は思う。僕は思うし、その行為は翻って『全てのウマ娘の幸福のため』に繋がってるんだと、僕はそう、感じたんだ」
「……諦める理由を作ってあげる、ですか」
「そして、この世界では、それらは全て『ウマ娘自身』が判断できる。手を伸ばすも諦めるも全て何もかも自分で決めることだし、それに伴う痛みも後悔も、掴めた栄光も、全て彼女達自身のものだ」
「……!」
たとえ目の前に諦める理由が転がっていても、世界中の人達に無理だと言われても。自分自身が走りたいと思って、自分で登録方法の下調べをして、自分で書類を用意して、自分で期日までに提出すれば、クラシック登録は絶対にできる。逆に世界中に望まれていようと、期日までに登録しなければ、クラシック登録は絶対に出来ない。
手を伸ばすか諦めるかを、ちゃんと『自分の責任』だけで判断させる。クラシック登録の制度があれほど厳格なのは、全てのウマ娘達のそんな当たり前にある権利を、絶対に保証するため、なのだろう。
「だから、オグリさんの出走は認められなかった、ですか」
「詳しい事情は分からないけど、オグリキャップだって早いうちにちゃんと自分で下調べをしていれば充分登録も出来たわけで。彼女がダービーに出られなかったのも、結局はURAのせいでもなんでもなく、彼女自身が準備を怠った、彼女自身の責任でしかない。僕はそう、思うよ」
「…………」
「……なんて言うと、冷たく思われちゃうんだろうけど。けれどもやっぱり、僕はそうとしか思えない。オグリキャップだってただの一人のウマ娘だ。特別な存在でも、『主人公』でも、なんでもない」
「いいえ、冷たいなんてことありません。貴方は本当にこの世界が……『ウマ娘』のいる世界が、大好きなのですね?」
「大好き……?」
ようやくピントの合ったような瞳で、清々しくこちらを見つめてくるアルダン。どうやら僕の言いたいこと自体は、きちんと伝わったらしい、僕は安堵して、そっと、胸を撫で下ろす。
……けれども。
「いや、そんなんじゃないよ。こうやって思うのだって、ただ自分が痛い目を見たから、でしかないから」
「…………」
「……本当に、もう少し早くその事がわかっていたなら、な」
そうだ、クラシック登録がウマ娘達の『諦める理由』になってくれるのならば。
そのクラシック登録を『走り続けさせる理由』として使った僕は……きっと一人のウマ娘の意思を、権利を、自由を、奪ってしまったのだろう。そしてその結果は、言うまでもない。
彼女達は神でも、天災でも、レースゲームのキャラでもない。負ければ悔しいし、怪我をすれば、痛みを覚える。そんなことは当然で、当たり前の事……けれども僕はそんなことすら分かっていなかった。彼女には痛みや後悔ばかり押し付けて、掴めたはずの栄光も、別の人生に進む権利も、全て、全て僕は奪って……
「トレーナー、さん」
「んっ、アルダ……んぐっ!?」
……不意に僕の頬に柔らかく突き刺さったのは、他でもない。メジロアルダン、彼女の細く、白く、けれどもほんの少しだけ切り傷や火傷跡を残した、美しい指先であった。
「言いましたよね?私、もう全然、全く、これっぽっちも、後悔なんて、していないと」
「こ、これっぽっちとまでは言ってなくない?」
「そこ、話の腰を折らないっ!」
「は、はいっ!?」
ふっくらと頬を膨らませながら、ぐりぐりと、爪の後が残りそうなくらい僕の頬をつんざいてくる彼女。なんとも情けない絵面と、再び晴れ出した陽の光に晒され、じんわりと涙すら浮かんできた僕に対して、彼女はますます強い語句をぶつけ始める。
「貴方の気持ちなんて、私には全く分かりません。分からないけれども、貴方が何やらまたしても、ご自身を責めているのだけは分かります」
「えっ!?なんで分かるの!?」
「ええ、その反応が答えですね?」
「えっ、僕、カマかけられた?」
「……先程のトレーナーさんのお考えは、正しいと思いますよ。『走るために生まれてきた』なんて、そんなことある訳がないですし、それを理解せずにターフにしがみつき続けるウマ娘は、たとえどれだけの勝利を手にしようが、やはり『幸せ』には、なれはしないでしょうね」
「…………」
「……けれども、それはそれとして。『走る楽しみ』『勝つ喜び』を教えてくれたのもまた、トレーナーさんです。きっと貴方がいなければ、私はとっくの昔に『満足』してしまっていたことでしょう」
「……アルダン」
「だ、か、ら……」
「?」
「自分の事を責めるだなんて……調子に乗るのも大概にしなさい!トレーナーさん!!!」
「えっ!?ちょ、調子!?」
耳元で、今まで聞いた事もないほど言葉を荒らげる彼女に、僕は……えっ?調子?調子に乗る?何の話?
「貴方はいつもいつも、自分を過大評価し過ぎなんです!貴方はただの、どこにでもいる普通のトレーナーなんですよ!お分かりですか!?」
「へ、へっ?いやそんな、そんな当然なこと言われても……」
「いいえ、分かっていませんね!貴方はいつもいつも、自分のやる事ひとつで全てが決まると、そう思い込んでいるんです!」
「……あ」
彼女の口から飛び出した言葉に、思わず僕は感嘆の声を上げてしまう。『自分のやる事ひとつで、全てが決まると思い込んでいる』だなんて、そんな、それって……
……ああ、そうだな、まさしく『僕』のことだ。
「……確かに、貴方は私に『走る理由』を与えてくださいました。それは私にとって……進むべき道もなく、ただ一人この身を焦がすばかりだった私にとって、初めて出来た『生きがい』と呼べるものだったのです。その節は、本当にありがとうございました、トレーナーさん」
「で……でも、僕は」
「けれども。貴方に出来たのは『走る理由』を与える所まで。それを掴むかどうかは……間違いなく『私自身』が、決めてきたことなのです。貴方なんかには決定権も強制力も与えた覚えはない。昔も今も、そしてこれからも、貴方になんと言われようと……それだけは、譲れません」
「っ…………!」
「だ、か、ら……調子に乗るな!トレーナーさん!調子に乗って自分の責任だなんだと小難しい事を考える暇があるなら、貴方はこれからも、ずっと、ずっと、ずっと、ずーーっと!『私達二人』が幸せになれる方法だけを考え続けてください!その方法が良いなら良いと、嫌なら嫌と、私、ちゃんと言葉にできますから!」
まるで頭を強く殴られたかのような衝撃で、二歩、三歩と後ずさる僕の身体。思わず覆い隠したその頬には、くい込んだ爪の後、その痛みが、とても忘れられないほど残っていた。
「……本当に、強くなったね、アルダン」
「当然でしょう?何せ、あの日本ダービーで二着になるほどのウマ娘ですよ?私は」
「……ふふっ、あはははっ!そうだね?ほんと、ほんとにそう!」
「貴方に、具体的に何かしていただかなくても、私は自分自身で『それでも』と手を伸ばせるウマ娘なのです。自分自身の胸が高鳴る方へ、誰がなんと言おうと飛び出していける、そんな、ウマ娘」
「……ああ、それもそうだ、僕はとっくに、分かってた」
「だから貴方にはこれからも、私が考えもつかなかった、私の新しい『選択肢』を探し続けていただきたい。予想外、想定外、イレギュラー……そういうものを、私の中から見出していただきたいのです。それを選ぶかどうかは、もちろん私の勝手ですけれどもね?」
そうだな、僕はとっくに分かってたはずだ。『メジロアルダン』というウマ娘が走るのは、誰に頼まれたからでもなければ、本能なんかに従っている訳でもない。彼女が、彼女自身の意思でそうしたいと願ったからだということ。そうすることが自分自身の『幸せ』に繋がると、そう判断したからなのだということは。
調子に乗って、勝手に責任を負って、何もかも守れると勘違いしていた。僕は神でも、天災でも、レースゲームのプレイヤーでもない。この世界に生きる、ただの一人のトレーナーだというのに。
「……という訳で、早速ご相談なのですが。この、最早なんの意味もなくなってしまったクラシック登録書の控え……トレーナーさんはこれを、どうすれば良いと思いますか?」
「えっ?ごめん、質問の意味がよく分からないんだけど?」
「ちなみに私は、この屋上でビリビリに破り捨てて、空に放り投げてみようと思っておりました♪」
「あっ、だから屋上にいたの!?そんな理由で!?」
「まあ、それはそれでいいのですが、もう少しスッキリと気持ちよくなれそうなアイデアがありそうな気がするのです……いかがでしょう?トレーナーさん?」
「そう、だなあ……」
彼女の苦しみを、痛みを完全に取り去ることなんて、出来ない。世界だって、まだまだひっくり返せやしない。そんな今の僕に、果たして何が出来るのだろうか。
彼女から差し出し返された書類を見つめながら、僕はひたすら、頭を捻り続けた。今の僕に、彼女の『幸せ』の為に、できること……
「……紙飛行機に、してみない?よく飛ぶ折り方知ってるよ?」
「……っ、ふふふふっ!採用です♪」
とりあえず、『今』の君を、笑顔にできる。
それを続けていけば、いつかは、きっと。
「ではでは、私にもどう折るのか教えてくれませんか?私も後で、やってみたいです♪」
「おっ、いいよー?よく見ててね?まずここをこう折って……次にここを……」
「ふむふむふむ?」
「……あのさ、アルダン」
「はい?なんでしょう?」
「こんなことはこの先、今日この時のたった一回だけしか言わないから、よく、聴いてて欲しい」
「ええ、かしこまりました」
「もしも君が全てに『満足』してしまって、もうターフの上に未練なんか、ひとつもない。そう思う時が来たとしたら……その時は迷わず、真っ先に僕に言って欲しいんだ。もう僕は二度と、君を引き止めたり、しないから」
「……良いのですか?私がターフを去ってしまえば、私は貴方と『全く関係のない』存在になってしまいますよ?」
「ならないよ、絶対に」
「……!」
「もう僕は、君の好きな食べ物も音楽も番組もファッションも知ってる。レースなんてなくても、なんなら君がウマ娘ですらなくても、繋がりなんて、いくらでもある。それにもし繋がりすらも無くなったとしても、その時は絶対に、僕の方から君の方へ向かっていくよ。だから、大丈夫、絶対に大丈夫だ」
「……ふふっ、そうですね?貴方がそこまで仰るなら、そうさせてもらいます。来年か再来年か……百年後のことかもしれませんが♪」
「ふふふ、そうだね?楽しめるだけ楽しまないと勿体ないしね……と、ほら、出来たよ?」
「まあ、ありがとうございますトレーナーさん♪早速飛ばしてみますね?」
「おお、折った人から迷いなく奪い取るんだね?」
「ふふふ、それではいきますよ?せーの、そーれっ♪」
「……………………」
「……ふふっ」
彼女の掛け声と共に、優しげに輝く朝日に向かって飛び立った、紙飛行機。何者にも染まらないその純白の身体は、果てしなく自由に、どこまでも広がる青空へと、融けていった。
「さようなら、私のダービー」
小さく呟いた彼女の言葉を、ほんの少しだけ頭の中反芻して、すぐに捨てる。始業時間まであと少し、このコーヒーは、お昼ご飯の時にでも飲むことにしよう。