メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
その夜、僕は不思議なものを見た。
夢か現か、今となっては到底分かりようもない。実に突拍子もない、聞けば誰もが鼻で笑ってしまいそうな出来事ではあったが……ひとつ、覚えている限りの事をここに記しておこうと思う。
あれは、そうだ、『夏合宿』のとある日。効きの悪いクーラーに魘されていた、寝苦しい夜のことだった。
──────────────
「……汽笛?」
ようやく寝付けそうだった僕の瞼を無理矢理こじ開けたのは、窓の外から射し込んできた、けたたましい警告音だった。
間近に海を望む立地に建てられたこの合宿所。となれば、なんだろう、こんな時間にどこかの傍迷惑な船が、近隣の港に停泊したのだろうか。時計の針は、午前二時をゆうに通り過ぎていた。
不可思議なことは、二つあった。
一つは、件の汽笛。
ここ最近、無人島に足を運ぶ機会があり、その際に『船の汽笛』というものは正直嫌になるほど耳にしていた。まるで僕の内臓全てがひっくり返されるような、地の底から響き渡る、特徴的な重低音。
しかし、どうだろう。今まさに聞こえてくるこの音は、まるでそれとは似ても似つかない。なんだか天から降り注いでいるような、鼓膜を穿く、甲高い音だった。
なんだろう、船じゃないな。実物を見た事がないので、想像でしかないのだが……この感じは恐らく、『機関車』……とか?
二つ目、僕の周囲の状況。
まるで耳を塞ぎたくなるほど、煩く鳴り響く汽笛の音。だと言うのに、僕の周りに寝転がる同僚トレーナー達は、何故だかこれっぽっちも目を覚ます気配がない。まるで時でも止まっているのかと錯覚する程に、微動だにせず、いびきの一つもかかず、皆一様に眠りに落ちていた。全く、危機感も何もない連中だ……と、呑気に思えていれば、まだよかったのだが。
たまらず立ち上がり、カーテンを開け放つ。しかし僕の眼前に広がっていたのは、いつもと変わらぬ景観。ここのところ毎晩眺めている月光に照らされた静かな水面が、なにも変わらず、そこに無機質に広がっている、のみなのであった。
「……え、あれは……アルダン……か?」
十数秒程目を凝らして、何の異変も無いことを確認した僕は、釈然とせぬ心持ちのままカーテンを閉め……ようとした、まさにその時。
視界の端に映りこんだその影に、僕は思わず、我が担当ウマ娘の名を呟く。それに呼応するように視線をこちらに向けた彼女は、そのアメジストのような瞬く瞳で、ぱちくりと僕を誘った。
「ちょ、ちょっ、ちょっと。こんな時間に、何してるの」
いてもたってもいられず、開け放った窓から僕は身を乗り出し、砂浜に降り立った。さわさわと触る砂粒の感触が実に不気味で、風ひとつ吹かない凪の感覚が実に奇っ怪で、あまり長居をしたくなかった僕は、慌てて水面のへりにしゃがみこむ彼女の元へと駆け出した。彼女の髪は、まるでオパールのように複雑なランダムパターンに輝いていて、ものの十歩程しか離れていないのに、何故だか白波に紛れて、今にも見失ってしまいそうだった。
「どうしたの?そこに、何かあるの?」
「……あら、ほんのすこしだけ、遅かつたですね。銀河鉄道は、もうとつくに出発してしまいましたよ。」
「……銀河鉄道?」
「そうです、銀河鉄道。あなたも、こんばんのお客さまなのでしよう。」
その、ホワイトトパーズのようにまっ白く浮かび上がる顔をこちらに向けながら、なんとも掴み所のない言葉を発する彼女。当然ながら意味は何一つ分からなかったが、不思議とその単語単語に、疑問や異議のようなものは、ひとつも沸いてこなかった。
「ほら、ごらんなさい。もうあんなに、遠くまで。」
「……ああ、あれがもしかして、その、銀河鉄道?」
彼女のさす指、石英のような爪先の、更に先。ぱちりと懐中電灯と同じくらいに灯る星々のどまんなか、ごうごうと蒸気を吹き出しながら力強く燃える星が一つあった。そうか、なるほど、さっきの汽笛は、彼のものだったのか。
「かわいそうに。じつに残念なことですが、つぎにいつ銀河鉄道がここへ留まるのか、だあれも知らぬのです。明日あさつてなのかも知れぬし、十年百年、かかつてしまうかも、知れぬのです。」
砂浜にくっきりと残った車輪の後を、軽く指でなぞりながら、彼女は実に寂しそうにそう呟いた。『銀河鉄道』なるものが一体どのようなものなのか、何故この海岸に停留し、今からどこへ向かうのか。僕には何一つ、到底想像すらつかなかったが……渓谷を流れる河辺の石の如く小さくうずくまる彼女の姿を見ていると、何故だか僕の胸にも、ぽっかりと同じような穴が空いてしまったような、そんな気が、したのだった。
「……そっか、行っちゃったんだね。それはなんとも、残念だ」
「えゝ、とてもざんねんなことです。銀河鉄道の車窓からのぞいてみえる風景は、とつてもとつても、きれいでうつくしいらしいのですよ。」
「あら、そんなに綺麗なんだ?」
「ええ、わたし自身は乗ったことなどございませんが。どうやら銀河鉄道の線路のへりには、いつまでもいつまでも、ずうつとうつくしい花が、満開で咲きほこつているそうなのです。すみれやりんどう、ぼたんにひなぎく。ぜんぶの花が、たとえペテルギウスがのぼるさむい頃でも、ずうつとずうつと咲いている。それと、銀河鉄道の線路は、鉄やブロンズではなくつて、きれいな飴の細工でできているのです。だれにも見つからないように、ほんのひときれをかじつてみれば、ぱちぱちと舌のさきつぽがしびれてしまうほど、あまくおいしい飴らしいのです。」
「へえ……!凄いなぁ……!」
情緒たっぷりに彼女が語り描く『銀河鉄道』の風景に、僕はすっかり心を奪われる。果たして本当に、この世のどこかにそんな美しい場所があるのだろうか。もし、あるとするならば、僕も。
「僕も、乗りたかったなあ。残念だ、本当に、残念……」
「あゝ、そう気をおとしてはいけません。確かにざんねんでしようが、けれども、とてもざんねんなことばかりでは、ないのですから。」
「えっ、それは?」
まるで子供の気を紛らわすかのように、立ち上がり、僕の肩にひやりとした手を置く彼女。優しい真珠のような色合いの浴衣に身を包んだその姿に、思わず僕も、立ちくらみを起こしてしまいそうになる。
「せつかくですから、えゝ、せつかくのことですから。あなたにも、どうぞおひとつ差し上げましよう。」
「ええと……これは、いったい?」
彼女が腕に提げていた、少し身の丈に合わないほど大きなバスケット。その中をおずおずと漁って出てきたのは、一つの大きな、透き通るような真透明の『宝石』であった。
「銀河鉄道のえんとつから噴きだしたすすは、そのまま海へとおちれば、それは潮水とぐるぐるまざりあつて、かたまりになる。そうして、やがて波打ちぎわに、クリスタルになつてうち上がるのです。」
「それが、このクリスタルってこと?」
「えゝ、そのとおり。」
「すごいなあ、確かにこれも、凄く綺麗だ……」
彼女から受け取った、手のひら程の大きさのクリスタルをまじまじと見つめる僕。その形は今まで他に見たこともないほど完璧な球体で、なおかつ、何の不純物も混ざっていない。天上から射し込む月光をその身に浴びても、ほんの少しも屈折せずに通してしまうほど、それは実に『純粋』なものなのであった。
「君は、これを集めるために今晩ここに来たのかな?わかるよ、こんなに綺麗なんだもんね。集めて部屋に置いておけば、いいインテリアになりそうだ」
「ふゝ、あなたはじつに、じつにご冗談がおじようずなのですね。確かにわたしはこんばん、こちらのクリスタルたちを拾いにやつてまいりましたが、それはなにも、庭や茶の間にならべるためなどでは、ございません。」
「あれ、違うの?こんなに綺麗なのに?」
「わたしはこちらのクリスタルたちを、みなさまにお配りいたします。みなさまにお配りするため、こうしてひとり波打ちぎわで、水しぶきにまみれているのです。」
「皆様?」
「トレーナーの、みなさまでございます。あなたもまた、そうなのでしよう。」
実に優しげで、慈愛に満ち溢れた表情でそう語る彼女に、息を呑む僕。突然ほろりと零れ落ちた、そのあまりにも馴染み深い単語……返す言葉を決めあぐねているうちに、まるで鍾乳洞の反響音のように、なにも変わらぬ優しげな声で彼女は言葉を繋いでいく。
「こちらのクリスタルは、ウマ娘、なのです」
「……え、クリスタルがウマ娘?なんだそれ?どういうこと?」
「こちらのぴかぴかひかったクリスタルは、みなさまの手で丹念に、ていねいにみがき上げることによって、いずれはうつくしいウマ娘のすがたかたちと成るのです。そんなこともわからぬなんて、ふゝ、あなたはきつとまだ、トレーナーになりたての、ひよこのようなトレーナーさんなのでしようね。」
「それはまあ、そうなんだけど……でも流石にそれは信じられないよ。このクリスタルがウマ娘に……『生き物』になる、だなんて」
「いゝえ、いゝえ、それはまちがいです。ウマ娘とは、いきものではありません。ウマ娘とは、クリスタルなのです。お空からふってくる星のひかりをはね返して、そうしてひかる、クリスタルでしかないのです。」
「…………」
ウマ娘とは、クリスタル。
相変わらず、当然ながら意味は何一つ分からない。けれどもやはり、相変わらず不思議とその単語単語に、疑問や異議のようなものは、ひとつも沸いてこない。なんとも、信じられないほど突拍子もない話だと言うのに。
「ひよこのトレーナーさん。こんばんはとてもよい機会ですから、よおく、よおく、わたしのお話を、おぼえておくのですよ。」
「う、うん」
「そして、わたしのすがたかたちも、しつかりその両のまなこで観察しておくとよいでしよう。スケツチに残しておくのもよいですし、スナツプに撮つておいても、かまいません。」
「……えっ?ちょ、ちょっと、何を!?」
まるで赤子を抱く母親のような微笑みで、彼女は再び僕に目配せをしてくる。と、彼女はおもむろに羽織っていた浴衣をはだけさせて、ありのままの上半身、その白い肌を、僕にありありと見せつけて……
「───────っ」
「いかゞでしよう。わたしのからだ。胸元のすばらしいラウンド・ブリリアント・カツトなんかは、わたしよりうつくしいものは、とても見たことが、ございません。」
違う、『肌』なんかじゃない。彼女の言う通り、彼女の身体は職人の手で細かくカットされたかのような、星明かりを複雑に反射しキラキラと瞬く、『クリスタル』以外の何者でもなかったのだ。
「デコルテには、クリノクロアをかざつていただきました。ほかにも候補はございましたが、わたしにはこれがいつとうお似合いなのだと、そう、おしえていただいたのです。」
「…………」
「ふゝ、いくらでも、ごらんになつてください。手でふれてもかまいません。そのためにわたしは、この世にあらわれたのですから。」
その輝きに、僕は本当に思わず、目を奪われる。とてもこの世のものとは思えない程の美しさに、無意識に手も伸ばしかけてしまう。
けれども、待て、ちょっと待った。
「……いや、そんなことはない。そんな事は、ありえないはずだ」
「あら、それはどうしてでしよう。これでもまだ、輝きが足らぬとでも。そう、仰るのでしようか。」
「そういう事じゃない。やっぱりウマ娘は、『生き物』だよ。ご飯だって食べるし、トレーニングをして、筋肉もつく。そうやって成長できるんだから、そうやって成長する姿を、僕は何度も何度も、目の当たりにしてきたんだから」
「それは、そのようにみなさまがカットしてくださっているから、なのでしょう。ウマ娘は、おのれの力では進歩も成長も、できるはずなど、ありませんから。」
「そ、そんなこと!」
「ふゝ、じつにおかしなひと。ウマ娘がみずから成長などできてしまえば、あなたがたトレーナーなど、いらなくなってしまいますでしように。」
「……それは」
彼女の語ることに、僕はなにも、何一つ言い返すことが出来なかった。確かにそうだ、彼女達が真に自立し、自らの力だけで生きていけるというのならば……我々トレーナーの、そして僕の存在価値など、万に一つも、ありはしないだろう。
「……ふゝ、しかし、そうですね。もしも、もしもあなたの仰いますとおり、ウマ娘がいきものなのだとしたら、それはどんなにおもしろいことでしよう。もしわたしにも、海にあしが浸かつたときのつめたさがわかるのなら、もしわたしにも、飴をなめたときのあまさがわかるのなら。」
「…………」
「ねえ、ひよこのトレーナーさん、あなたはきつと、いきものなのでしよう。どうか、お話をきかせてはくれませんか。あなたはいつたい、どのようにしていきものに成つたのですか。」
「えっ?いや、どのようにって言われても……最初から、そうだったとしか……」
「では、なにかご存知ではありませんでしようか。いきものでないものが、いきものと成れる方法など。ほんのこれつぽちでもよいのです、なにか、なにかお心あたりなど、ございませんでしようか。」
「生き物じゃないものが、生き物になれる方法……そんなもの、あるわけが……」
あるわけが、ないだろう。なんて当然の事を口にするのすらはばかられるほど、彼女の瞳は純粋に……まるで、トレーナーに指導を仰ぐウマ娘のように輝いていて。バツの悪くなった僕は、ダメ元で自らの頭をひっくり返して、漁ってみる。
「……あー」
「おや、なにか、ございましたか。」
薄ぼんやりと、夜霧のように僕の頭に浮かんできたのは。
例えば、祖父母の家の居間にずっとずっと飾られていた、小さなアヒルの貯金箱だったり。幼い頃、寝る時もお風呂の時も、どこへ出かけるのにも一緒だったヒーローのソフビ人形だったり。
「……例えば、そうだなぁ。もしかしたらだけど、他の生き物に、永く、永く、愛される、とか」
「……あいされる。あいされるとは。」
「分からない?ううん……そうだなあ……口で説明するのは難しいけど、少なくとも、もう僕は君の事を『愛してる』つもりだよ」
その言葉は、果たして今目の前に存在する彼女に向けて言っているのか、それとも僕のよく知る、彼女に言っているのか。その両方か、そのどちらでもないのか。なんにせよ、嘘は全くなかった。僕は、君を、愛している。
「まあ、もし、ほんとうにそうであるのならば、わたしはじきに、いきものへと成れるのでしようか。」
「……ああ、きっとなれるさ。それを信じて頑張っていれば、きっとなれないものなんて、ひとつも無い」
「ふゝ、それはとつてもおもしろい、おもしろいことです。もしかすると、銀河鉄道でたびをすることより、たのしいことなのかも、しれません♪」
僕の言葉がよっぽど気に入ったのか、彼女は実に満開の笑みを咲かせながら、そのつららのような素足を足元の潮だまりにちゃぷちゃぷと浸しては抜き取って、感触を確かめるように足の指を広げたり、閉じたりしている。その様は先程とは正反対、まるで彼女の方が産まれたてのひよこのような、愛くるしい表情を浮かべていた。
「……おつと、いけません。あまりにおもしろすぎて、大切なおやくめを、忘れてしまうところでした。」
「大切な役目……ああ、もしかしてさっき言ってた……」
「すこしだけ、おまちくださいな。もうじきにあの月が、お空のてつぺんまでのぼりますから。」
「空のてっぺんまで?登ると、どうなるの?」
「お葬式が、はじまるのです。こんばんのお客さまの、お葬式が。」
「えっ、お葬式って……」
「あ、ほうら、ごらんなさい。あの砂浜のへり、葬列の人びとが、やつてまいりましたよ。」
彼女の、大人っぽさを取り戻したガーネットのような唇から発された声に従って、海岸線の向こう側を眺める僕。向こう側からやってきたのは、確かに彼女の言う通り、真っ黒い装束に身を包んだ、四、五十人はくだらない人々の列だった。
「みなみなさま、こんばんはよく、お越しいただきました。さあさ、こちらです、手の鳴るほうへ、ふるつてお集まりくださいませ。」
彼女が二、三度手を鳴らせば。彼ら彼女らの歩幅はどんどん速くなる。なんとも、一目見ただけでは形容し難い一団である。皆一様に顔の無い仮面を身につけて、深く肌を見せない衣服で全身を覆い隠し、そしてやはり、一様にその乾いた瞳を濡れたハンカチーフで、しめやかに、憐憫たっぷりに拭っていたのだった。
「あゝ、もうかれは、とうに旅立ってしまったあとなのかね。」
「えゝ、もうとうの昔に。」
「なんとまあ、なげかわしいことか。かれほど偉大でゆうかんなものは、もうあと十年は、あらわれやしないことだろうね。」
「あゝ、そう気をおとしてはいけません。確かになげかわしいことでしようが、けれども、とてもなげかわしいことばかりでは、ないのですから。」
どこかで聞いたような台詞を吐きながら、彼女は目の前の黒装束に向けて、先程のクリスタルを差し出した。黒装束は、先程まで握っていたハンカチーフを無造作に放り投げると、まるで彼女の手元からひったくるように、勢いよくクリスタルに手を伸ばす。
「さあさあ、みなみなさま。クリスタルはまだまだたくさんございますから。ご遠慮などなく、どうぞひとりいくつでも、おもちください。」
彼女の手元から、いくつもいくつもクリスタルを奪い取る黒装束達の姿を、傍らで眺める僕。なんだか胸の奥の方からどうしようもない不安が沸き立ってきて、僕はもう三歩ほど、彼女の方に身を寄せる。
「どおれ、今日はどのようにしてやろうか。まずは手はじめに、ブリリアント・カツトでも、ためしてみせようかな。」
「……えっ?ちょっと?あ、あの人何してるの?」
「おや、いかがいたしましたでしようか、ひよこのトレーナーさん。そんなにあわてて喋れば、舌をかみますよ。」
いの一番にクリスタルを受け取った黒装束が、どこからともなく取り出したのは……立派な『鑿』と『金槌』であった。クリスタルと、鑿と、金槌。嫌な予感は、すぐに現実のものとなった。
「そおれ、ふんつ。」
「っ……うわっ!?」
カツン。と鈍い音が、静かだった水面に反響してゆらめいた。僕の予感通りに、その鑿はクリスタルに突き立てられて、その美しかった球の一角が、呆気なくポロリと崩れ落ちる。
「おや、これはなかなか具合がよい。どれ、つぎはどの角度でけずり取ればよいのだろうかね。」
言葉に、ならなかった。ともすれば、何故そうも簡単にこんなことができるのか、僕にはそれが分からなかった。心臓のうちからどくんどくんと、燃え盛るような何かが湧き出してくるのを感じて、考えるより先に、言葉が出ていた。
「やめろっ!」
僅かばかりこちらを向いて、再び、何事も無かったかのように鑿を突き立てる黒装束。やがては他の者たちも、やはり一様にクリスタルを傷付け始める。中には、鑿だけでなくドリルや電動ノコギリまで持ち出す者すらいる始末。僕には、目の前の奴らがとても、とても同じ血の通った生き物だとは、思えやしなかった。
「嘘だろ……!?と、とにかく早く、やめさせないと……っ?」
「もしもし、もしもし。あなたはじつにいつたい、先程からなにを仰つているのでしようか。」
熱く沸騰しそうな僕の血潮を、僅かばかり冷ました彼女の冷たい手のひら。だか、しかしその表情はまるで晴れやかなものではなかった。彼女の、水晶のような瞳には、真っ赤に染まった僕の顔が、ぽつんとひとつ浮かんでいた。
「ど、どうして僕を止めるの?あのクリスタルは、だって、あのクリスタルは」
「ええ、クリスタルでしよう。クリスタルをけずり取ることの、いつたいなにが、そこまで許せぬことなのでしようか。」
「……え?」
「あなたのふだんよおく見ているダイヤモンドは、みな、このような玉のかたちをしているのでしようか。ルビーは、トパーズは。」
「……それは」
「そうでしよう、そうでしよう。クリスタルといふものは、そういふものなのです。ひかりをはねつ返さない宝石など、だれも見向きはしないのです。よりつよく、つよく輝くために、きずをつくり、よけいな部分は、けずり取る。じつに、じつにありふれた、あたりまえのこと、でしよう。」
彼女の語ることに、またしても僕はなにも、何一つ言い返すことが出来なかった。そうだ、それは彼女の言う通り、実にありふれた、あたりまえのことだった。より鮮烈に光を反射するよう、原石に傷を付け、小さく小さくなるまで削り取ったものが、ようやく初めて『宝石』と呼ばれるように。きっと、『ウマ娘』も、また。
「……でも、それこそ完全に君たちは『生き物』なんかじゃ、なくなってしまうよ」
「……!」
「うわつ、しまつた。」
ガツン、と、鈍い音が響いた。なにか不思議と、『致命的』だと思ってしまう、鋭く、鈍い音が。
「あゝ、せつかく先程までは、うまくいつていたのに。これでは、だいなしではないか。」
先程の黒装束が手に持つクリスタルに、いつの間にか、大きな、大きな、どうしようもなく、取り返しのつかない程大きなひびが入っていたのが、逸らす間もなく、僕の瞳にも、入り込んできて。
「あゝ、きみきみ、すまないがまた、新しいものをくれないか。いちいちに頼むのもめんどうなので、五つほど、いつぺんに。」
へらへらと、次のクリスタルを彼女に要求する黒装束。手元のひび割れたクリスタルを、実に興味無さげに、無造作にその辺の潮だまりに投げ捨てるのを目撃して、目撃してしまって、僕の中の、何かが焼き切れる音がした。
「……っ、ぅ、うぁあああああっ!!!うぉおおおおおっ!!!このっ!このっ!!!このぉおおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」
「おやつ、なんだね、きみは。」
自分でも、信じられないほどの絶叫を上げながら、僕は奴に、奴に掴みかかって、拳を向ける。僕の中で真っ赤に燃えていた血潮が、だんだんとどす黒く凝固していって、動脈や脳幹に根詰まりを起こす。そう、僕はとても冷静ではいられなかった。至極当然のことすら、考えが及ばなかった。この海岸が、皆が寝静まる合宿所のすぐ近くであるのだということも、すぐ後ろには、僕の愛した彼女がいるのだということも。
「っ……!トレーナーさん、危ないっ!」
「えっ……!?」
そして、僕の掴みかかった相手の手には、いまだ『鑿』と『金槌』が、しっかりと握られているのだ、ということも。
「うっ……!」
当然の如く、僕の眉間めがけて力いっぱい鑿を振るう黒装束。人生で一番の命の危機を感じて、思わずぎゅっと目を閉ざす、僕。
ドスリ、と、冷たい音が辺りに鳴り響いて、けれども、不思議と痛みは感じずに、恐る恐る僕は、瞳を開けた。
「─────」
何故だか、先程居た地点からずれた場所で、波打ち際の飛沫を浴びていた僕。恐る恐る目線を持ち上げると、そこには、予感してしまった、通り。
黒装束の振るった鑿が、深く深く右脚の付け根に突き刺さった、痛々しく砂浜に転げ落ちる、彼女の、姿。
「っ……う、ううっ……!」
「おい、なんだねきみは、どういつたつもりかね。わざわざこんな者を突飛ばすから、狙いがくるつたのだよ。あゝ、なんともつたいない。」
「──っ!────っ、ぁぁぁあっ!」
声にならない叫び声を、辺りいっぱいに撒き散らしながら。僕は砂浜を、地上にこぼれ落ちてしまった芋虫のように這いつくばりながら、彼女に向けて歩みを進める。頭から思い切り海水を被ってしまっているというのに、その冷たさは、何故だか微塵も感じなかった。
「はあっ……は……えっ?」
残酷に彼女に突き刺さる、その鑿に手が届くまで、あと一歩。というところで、僕は気が付いた。
「こ、これって、もしかして……」
何か、何か生暖かい液体が、這いつくばった僕の手のひらにべったりと付着しているのを。これは、これは、もしかして。
「と、トレーナーさん?いったいこれは、なんなのでしょう……私の脚から、なにやら、暖かいものが、とめどなく……」
「……ああ、間違いない。これは『血』だよ。『血液』だ。やっぱりそうだった、僕の、思った通りだった。君は、君たちウマ娘は、間違いなく『生き物』なんだ」
「生き物……私、生き物に……?」
暖かく、真っ赤に染まった僕の手のひらを、瞳の奥の虹彩まで開いて見つめる、彼女。やがてすぐに、さらに当惑した様子で自らの胸元に手を置き、その内側から響いてくる振動をも、黙って感じ取っていた。
「……見ろっ!これが何か、解るかっ!」
その様子をまじまじと見つめたのち、僕はその手のひらを天に向けて大きく掲げて、騒ぎを聞いてぞろぞろと集まって来ていた黒装束達に、力強く見せつける。
「これは、『血』だ、『血液』だ。そして彼女には、心臓もある、きっと胃も腸も肺も、脳だって。解るだろう、これでもう、解っただろう、彼女は、彼女達はお前らが好き勝手に傷を付けて良いクリスタル、なんかじゃない!『生き物』なんだよ!命も意思もある、『生き物』なんだ!」
僕は強く、強く、つよく。喉の奥がかっ切れて、肺が破裂してしまいそうになるほど、強い力で奴らに言葉を叩き付けた。咄嗟のことで、もはや自分で自分が何を言っているのかも分からなかったが、とにかく自分の持てるありったけの、全身全霊の力を込めて、まるで拳銃やミサイルの弾を飛ばすかのように、一人一人の脳天目掛けて、ただただ僕は、叫んだ。
「………………」
「……どうだ、黙っていないで、なんとか言ったらどうだ!?」
「……なんと、汚らわしい。」
「は?」
「おゝ、なんと汚らわしいことだよ。なにがたのしくて、きみはそんなものをわざとらしくわれわれに見せるのかね。われわれはたゞ、つらい人生の息抜きに、面白おかしくあそんでいるだけではないか。じつに不愉快だ、悪趣味だ、理解できない、狂つている。きみのような狂人などとは、とても一緒には、居られない。」
実に冷めきった声色でそう吐き捨て、ぞろぞろと立ち上がる黒装束たち。やがて奴らは、まるで古いおもちゃに飽きた赤子のように、実につまらなさそうにクリスタルも鑿も放り投げながら、それぞれ別々の方向へと散り散りに歩き出した。そうしてものの数十秒で、この海岸にはかつての静寂が舞い戻って来たのだった。
「トレーナー、さん、皆様は……?」
「ああ、もう皆、いなくなったよ。君を傷付けて笑っているような連中は、もう誰もいなくなった」
「……そう、ですか」
少し、不安げに歪む彼女の顔に。その白くてきめ細やかで、けれども僅かにきちんと赤く染まった頬に、一本一本揺れ動くまつ毛に、はあはあと、息を吸っては吐き出す唇に……僕は優しく、そっと手を差し伸べた。
「でも、大丈夫。あんな奴らいなくても、僕が一緒にいるよ。一生、いや永遠に、いつまでもいつまでも、一緒にいるから、僕だけは君のありのままを愛し続けるから、だから安心して、いいんだよ」
そうだ、彼女はもう生き物なのだ。クリスタルなんかじゃない。きっと僕とだって……生き物同士なら、一方的に愛するんじゃなく、『愛し合える』。共に海に行って、その冷たさを感じ合えるし、共に美味しいものを沢山食べて、その美味しさも感じ合える。彼女の右脚から未だとめどなく溢れ続ける彼女の血潮をありありと眺めながら、僕の心は、ただただ喜びに満ち溢れていた。よかった、本当に、よかった。
今、『よかった』と言ったか?
「……あ、あれ、トレーナー、さん?」
「………………」
「私、なんだか、すごく、眠くなってきて……これも、生き物になったから、なのでしょうか……?」
「………………」
彼女に差し伸べた、己が手のひらを翻し、じっと見つめる。その手のひらは凝固した血液に塗れていて、じつに醜く、どす黒い色に染まり果てていて……慌てて僕は、彼女の視界からそれを覆い隠した。
『よかった』と、思った。僕は、『よかった』と。深く深く傷ついた彼女に向けて、そう、思ってしまった。その傷の下から現れたものが血液であった、すなわち『自分の思った通りのもの』であった事に、そうか、僕は安堵してしまった。彼女の身を案じるより先に、奴らを言い負かし、自らの主張を押し通すことができるという高揚感に、支配されてしまった。彼女が傷付いたのは、間違いなく僕の軽率で思慮浅い、愚かな行為が原因。彼女を傷付けてしまったのは、間違いなく僕自身、『僕の罪』だと言うのに。
そしてどうだ?その行為は、言動は、感情は、『奴ら』となにが違う?
彼女達に付けた傷を見て、思った通りになった、ならなかった、で一喜一憂する奴らと、僕は、なにが違うのだろう?
傷がついてよかった、血が吹き出して、よかった。なんていう感情は、それは本当に『生き物』に対する感情なのだろうか?
……僕は、ぼくは、本当に、ほんとうに。
胸を張って、彼女の事をあいしていると、ほんとうに、言えるのであろうか。
そもそも、あいしている、あいしているとは、なにか。
「……トレーナー、さん?」
「……あゝ、そうだね。きみはすこし、つかれてしまったのだろう。大丈夫だ、大丈夫。あとのことはぼくに任せて、きみはゆつくりと、やすむがいいよ。」
ぼくはとうとう、考えることすらいやになつてしまいました。ぼくの頭の中は、なんだかどろどろのセメントが流しこまれたみたいにおもくなって、とても言葉がまとまりません。
「……ふふ、そう、ですね。それでは、お言葉に甘えさせていただきます……おやすみなさい、トレーナー、さん」
「あゝ、おやすみ。」
彼女がはたりと目をとじて、そうして風の音も、波の音もきこえなくなりました。ぼくはただただ、両のひざをついてその場にすわりこんでいました。てつぺんまで登っていた月がすこしずれて、まっしろな浜辺には、まるで宝石を透かせたようなきらきらの影が、どんどんながくのびていきました。
「……おや、これはいつたい、どういうことだ。」
静まりかえつた浜辺に、ぴいぴいとお空から汽笛が鳴りひびきます。もくもくとたくましい蒸気を巻きあげながら、ぼくのすぐとなりに停車したのはもちろん、おおきなおおきな、立派な機関車でした。なんとも珍しいことに、銀河鉄道はひとばんで二回も、この星に停まつたのです。
「そうか、これが銀河鉄道か。いやあ、じつに、じつに立派なものだ。」
「………………」
「ごめんよ、ごめんよ。けれども、なあ、目をさましてごらんよ。銀河鉄道だよ、銀河鉄道がまた、やつてきたんだよ。」
「………………」
「どうだい、こんなつまらない星なんてぬけだして、二人でいつしよに、旅をしようじやないか。線路のへりに咲く、うつくしい花々を、ともに見よう。あまい飴細工をつまみ食いするのも、二人でなら、そうこわくはないはずだろう。」
「………………」
「だからさ、はやく目をさましておくれよ。はやく、はやくしないと、銀河鉄道が、またお空へいつてしまうよ。」
ぼくの呼びかけもむなしく、彼女はぐつすりと眠りこけたまま、目をさましませんでした。ぼくはあせりました。あせつて、もういつそのこと、彼女のからだを引きずつてでも連れていこうかと思いましたが、なぜだがぼくの手のひらは、彼女のからだに触れることができません。
ぼくが途方にくれていると、とつぜん、不思議なことがおこりました。
「うわつ、なんだこれは。どういうことだ。」
なんと、眠つたままの彼女のからだが、ふわふわと宙にうきはじめたのです。まるで小鳥や落ち葉のように、ふわふわふやふやと彼女のからだは宙にたゆたつて、そうして、吸いこまれるように、銀河鉄道の客車のドアへと入っていきました。あわててぼくも追いかけますが、ドアはすぐにしまってしまい、おしてもひいても、うんともすんともなりません。
ぼくは、ふたつのことに気がつきました。
ひとつは、この銀河鉄道に乗ることができるのは、いきものだけだということです。銀河鉄道というものは、いきものをお空へと運ぶための、のりものなのです。だから彼女は、今までなんどもなんども銀河鉄道が留まつているのを見ても、それに乗ることは、できなかつたのでしよう。
ふたつめは、ぼくがもうすでに、いきものでは無くなつているということです。いきものでは無いものが、ほかのいきものから、あいされていきものに成るように。いきものだつたものも、ほかのいきものを傷つけてしまえば、それはもう、いきものではなくなつてしまうのです。ぼくの手のひらの、じつに醜い跡は、まるで装束のように、いつのまにかぼくのからだのすべてを包みこんでしまっていました。もうぼくは、うすくてかたいビニールのようなその跡にはばまれて、海の水のつめたさも、飴のあまさも感じることができません。
「はゝ、はゝ、そうか、わかつたよ。ぼくは、ぼくは罪人なんだ。ぼくみたいなものは、このせまくるしい檻のような星で、これからもずつとくらしていかなければならないんだね。ずつと、他人を傷つけながら、いやしく、あさましく、くらしていかなければ、ならない。あゝ、すまない、ごめんなさい。せめてきみだけはずつと、ずつと、えいえんに幸福でいてくれ。お空のどこかで、えいえんに、えいえんに、すまない、すまない、すまない。」
ぼくは、あの波うちぎわの白さに、彼女のおもかげを見いだしました。波うちぎわだけではありません、水平線の青さにも、あの宇宙のむらさきにも、まるでこの世のなかすべてが彼女のからだの一部分であるかのように、ぼくはそう、思いました。けれども、それもえいえんのものではありません。やがて夜は明け、海は枯れ果て、この星も、ちりぢりになってしまうことでしよう。ぼくは、じつにそのことがかなしくて、かなしくてしかたがありませんでした。
やがて、ほんの少しのあと、銀河鉄道はふたたびそのたくましい汽笛を二度ならして、ごうごうとそのからだを動かしはじめました。あたり一面が彼の散らかす、まつくろなすすに包まれます。あたりに散らばるクリスタルも、奴らが捨てていつたのみも、かなづちも、広い海も、お空も、砂も、岩も、空気も、ぼくの姿も。なにもかも、まっくろに染まつていきます。そう、いよいよお別れのときが、やつてきたのです。ぼくは思いきりすすを吸いこんでしまった、せき込むのどで、彼女の名前をさけんでいました。このすすが晴れるまで、いつまでも、いつまでも、さけんでいました。
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「トレーナー、さん?」
砂浜に一人立つ、僕の背後から声がして、思わず僕は振り返る。そこに立っていたのは他でもない、我が担当ウマ娘、メジロアルダンであった。
「そんな所で、何をしているのですか?もうすぐ朝の四時ですよ?」
「………………」
「……トレーナーさん?」
「ああ、いや、なんでもないよ。ただちょっと、暑くて寝苦しいから、眠れなかっただけ」
僕は彼女の、その顔と、胸元と、右脚と……そして自分の、手のひらをじっと見つめる。恐らく外へ出る時に、窓枠のふちで削ってしまったのであろう小さな傷と、それ以外には、なんにも残ってなど、いなかった。
「そういう君は……どうしてこんなところに?」
「あ、ええと……私もトレーナーさんと同じで、暑くって、眠れなかった、のですが……」
「ですが?」
「……あの、つかぬ事をお伺いしますが、トレーナーさん」
なんともバツの悪そうな表情で、うろうろと目を泳がすアルダン。その様子を僕は、何の気なしに、観察していた。
「『汽笛』を、聞きませんでしたか?」
「…………!」
彼女の口から飛び出した、実に聞き覚えのある単語。思わず僕は、目を逸らす。
「聞こえた気がしたのです、窓の外から。なんというか、船の汽笛とは少し違うような……あれは、恐らく……機関車……?」
「………………」
「いかがでしょう、トレーナーさん。お外におられたのであれば、恐らく私よりもはっきりと聞いているのではないかと、思うのですが……」
「……いいや、分からない、かな。ごめんね、アルダン」
「そう、ですか。そうですよね?こんな所に機関車だなんて、ふふ、不思議な夢でも、見ていたのですかね?」
「ああ、そうだね。きっと夢だ、きっと」
僕はもう一度、もう一度自らの手のひらを見つめながら、更に重ねて呟いた。
「きっと、夢だ」
「……それにしても、見てください、ほら、お星様が、とってもきれいですよ?」
「え?あ、ああ。ほんとうだ……凄く、綺麗だね」
「ふふ、妙な夢も、たまには見てみるものですね?」
彼女のさす指……爪先の、更に先には、ぱちりと懐中電灯と同じくらいに灯る星々が、たたぼんやりと広がっている、のみ。何の変哲もない綺麗な星空と、何の変哲もない、綺麗な砂浜だ。僕はもう一度、もう一度心の中で更に重ねて、呟いた。
「……あら?なんでしょうか、これは」
「え…………」
コトリ、と足元で小さな物音がして。彼女は海岸線のふちに、渓谷を流れる河辺の石の如く小さくうずくまる。そうやって、彼女が白波の中拾い上げたものを一目見て、思わず僕は、息を飲んだ。
「まあ、なんて綺麗な『クリスタル』……自然のものなのでしょうか?こんなにまん丸な結晶なんて、初めて見ました……!」
「……ああ、そうだね。君は、『君』は初めて、なんだよね」
「あら?トレーナーさんは見た事があるのですか?」
「………………」
少しだけ口を開いて、また、噤んた。彼女には、彼女には永遠に知って欲しくなかったから、このクリスタルのことも、あの汽笛のことも、己の正体も、そして、僕の罪も。
「……ええと、せっかくですし、トレーナーさんに差し上げましょうか?何やら、私よりもこれに詳しいの、ですよね?」
「……いや、いいよ、僕はいい。君が持っていてくれないかな、アルダン」
「…………!」
「これは、僕なんかより君みたいな『優しい生き物』が持っておくべき……いや、『優しい生き物』以外は、絶対に触れてはいけないもの、なんだよ」
「触れては、いけないもの?」
「ああ、絶対に、絶対に絶対に絶対に、僕みたいな奴の手に渡っちゃ、いけないものだ。だからどうか、君自身が、君の手で、持っていてほしい。お願いだ、アルダン」
「………………」
「って、はは。意味わかんないよね?ごめんね、ほんと、あんまり深く考えなくってもいいよ?」
こちらにずいと差し出されたクリスタルから、目を逸らす僕。そこに純粋に映し出される自分の顔を、直視するのが怖かった、からだ。
「……結局、これが何かは私には分かりません。が、きっとこれは、貴方にとってはとても忘がたい、大切なもの、だったのでしょうね」
「……ど、どうしてそう、思うの?」
「さあ、理屈は分かりません。けれども、あたり、でしょう?」
「………………」
「それなら、それは他人任せにしてはいけませんよ、トレーナーさん。大切なものは、自分で守るんです、どんなに辛くとも、何度失敗しても、です。自分にとって大切なものは、他の誰も、守ってなどくれない。『メジロアルダン』のトレーナーである貴方なら、解るはずでしょう?」
「………………」
そう言うと、彼女は半ば強引に、僕にそのクリスタルを手渡した。そのずしりとした重さに、僕は僅かに潤んだ瞳を、乾ききった手のひらで、強く拭ったのだった。
「そうだね、ああ、忘れないよ。君の苦しみは、痛みは、ずっとずっと、覚えてる、から」
「ふふ、それならよ……ふぁっ……あ……夜風にあたったからですかね……ようやく、眠くなって、きました……トレーナーさん、は?」
「僕は、そうだな、もう少しここで、星を眺めているよ」
「ふふ、そうですか……では私はお部屋に戻りますね……おやすみなさい、トレーナー、さん」
「ああ、おやすみ……また、あした」
「ふふ……もう今日、ですよ……」
合宿所に一人戻っていく彼女の、その肩の震え、頬と耳先の染まりを垣間見て、僕はもう一度、空に顔を向ける。思わず目を逸らしていた宙域、大きな大三角が浮かぶどまんなか、ごうごうと蒸気を吹き出しながら、力強く燃える星が、確かに一つ、あった。