メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』   作:いずさわ

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2025/6
レプリカ


「大人一枚、学生一枚で」

「学生証の提示をお願いします」

「はい」

「お支払いは?」

「あ、一緒で」

 

千円札を三枚、カウンターに手際よく差し出す。いつのまにやらとっくのとうに手元染み付いた動作に、僕はほんの僅かばかり、不思議な安心感を覚えた。

 

「さてと、自分から誘っといてなんだけど、今は何の展覧会やってるんだっけ?ゴッホ?モネ?」

「フェルメール、です。ふふ、本当に『自分から誘っておいて』ですこと……ね?トレーナーさん♪」

 

爽やかな日曜日の午前中、自然光を模した、柔らかなエントランスの照明。その照り返しを受けながら呆れ交じりで僕の眼を覗き込んできたのは、もちろん我が担当ウマ娘、メジロアルダンである。

普段は朗らかで温和な印象の、少し重たく下がる彼女の二重まぶた。それも今日ばかりは、アカデミックな雰囲気を醸し出す黒縁の伊達眼鏡に彩られ、ショーケース内のアメジストのように、まるでこちら側を見定めるかのような鋭い輝きを纏っていた。

 

「あはは……そうだった、フェルメールだ。あれだよね?『真珠の耳飾りの少女』の」

「ふふ、そのとおり♪あとは『牛乳を注ぐ女』や、『デルフトの眺望』などが有名ですかね?」

 

上階の特別展示室に向かう階段を、珍しく一段飛ばしで登っていくアルダン。先程覗かせた大人びた雰囲気はどこへやら、彼女の急くようなえくぼの震えを感じ取り、僕はしばし、口を噤んで微笑を浮かべる。

 

「彼の作品の持ち味と言えば、なんと言ってもその特徴的な光と影の使い方ですね。例えば『牛乳を注ぐ女』では、左側に描かれた窓を光源として、中央の女性、奥に描かれた部屋の壁、それと女性の手前のテーブルやパンが照らし出されているのですが……その光と、それが作り出す影の描き方によって、それぞれの対象の位置関係、奥行き、時間帯、物の重量感まで、現実と遜色ないほどのリアリティを演出しているのです」

「ふむ……なるほど、『光』と『影』か」

「最も有名な『真珠の耳飾りの少女』もそう。顔の形そのものではなく、左上から差し込む光と目鼻の凹凸によって生じる影の描写で、その表情、感情すらも描き表してしまっている……私も僅かばかり絵は嗜んでおりましたが、それでも理解しきれない程の技巧です。後世に伝わる名画とはかくあるべし、と言ったところでしょうか?」

 

なんとも鼻息荒く、まるで教材ビデオの早送りのような速度で言葉を紡ぎだす彼女に、思わず緩み綻んでしまう僕の口元。

と、それはそれとして、『光』と『影』か。

ふと、まだまだ蘊蓄のアクセルが止まらない彼女の、やや彫り深い白磁器のような素顔、その陰影をいつもより意識して覗き込んでみる。展示室に繋がる薄暗い通路、丁度左上の小さなライトで照らし出されたその素顔は、やはりなんとも捉えようがないほど美しい。果たして現実に存在するウマ娘たる彼女を、このように評していいのかは分からないが──それこそ、後世に伝わる名画、その登場人物かのように、である。

 

「彼の絵画の素晴らしい部分はまだまだありまして、例えば……あら?」

「えっ?あれ、って……」

 

通路の壁に敷き詰められた漆黒のタイル、その中にぼうと浮かび上がった彼女の白い肌。僕の視界いっぱいに飾られたその強く儚げな陰影に見蕩れていると──

不意にその彼女は、自らの鼻筋にきっちり固定されていた伊達眼鏡を余計そうに取り去って、目の前の道先を、その剥き身の瞳でしかと見据え始める。

そして、また僕も。

 

「……『真珠の耳飾りの少女』、だ」

「ふふふ、まさか真っ先に展示されているだなんて。私の蘊蓄などより、実際に観ていただいた方が早そうですね♪」

 

通路の先、一際薄暗い展示室の中心。

自然光を模した柔らかな照明の照り返しを受けながら、ぼうと浮かび上がったその絵画に、思わず僕は目を奪われる。光に満ちてぼやけた輪郭や、目が冴えるほど爽やかな色合いの青いターバン……そして何よりも、その若々しく瑞々しい、朗らかで温和な印象の、少し重たく下がる彼女の二重まぶたに、何故だか僕は、ひたすら『やさしさ』を覚えたのだった。

 

「なるほど、『光』と『影』。わかるよ、確かに、なんだか思っていたより『やさしい』絵だ」

「ふふ、優しい、ですか?」

「君の教養溢れる考察の後で、こんな直感的なこと言うのもなんだけとさ……『やさしい』んだ。なんか、この絵を、彼女の瞳を見ていると、すごく心が軽くなる。なんでかは分からないけど、そう、思うんだ」

「ええ、いいんですよ。芸術とはきっと、元来そういうものなのです」

「なんでそう思っちゃうんだろう、すごいな……もちろん教科書とかテレビとかでは見た事ある絵だけど、『本物』は、やっぱりすごいってこと、かな?」

「……ええと」

「ん、アルダン?」

 

彼女のように立派な美術の知識などない僕は、ただ呆然と、なんとかたどたどしく、頭の中に浮かんできた言葉をひたすら羅列する。『光』と『影』と、そして『本物』……

と、そんな僕の言葉を受け止めた彼女の耳が、なにやらぴくりと、バツが悪そうに床を指す。

 

「少し、野暮な事を言ってしまいますが。この『真珠の耳飾りの少女』は……『本物』では、ありませんね」

「えっ?本物じゃない?」

「この絵のオリジナルは、フェルメールの故郷であるオランダのマウリッツハイス美術館が長らく所蔵していて……今、私達が見ているこの絵画は、展示用に作られた『レプリカ』だそうです」

「そう、なの?」

「ふふ、もしこれが本物なのだとしたら、流石にこんなに近くで鑑賞などできませんでしょうからね?」

「ああ、まあ、そりゃそうか……」

 

もう二歩、三歩と前に前に、いつの間にやら手を伸ばせば届くほどの距離で、僕らはその絵画を覗き込んでいた。アルダンの言う通り、絵画の脇に添えられた解説文には、

 

『真珠の耳飾りの少女』(複製)

 

と、嘘偽りなく正直に、この絵画が模造品の『レプリカ』である旨が記されている。

が、まあ、別に本物を見た事がある訳ではないが、正直僕みたいな素人にはこの絵画の真贋なんて、結局分かりっこないな。なんならぶっちゃけ、『偽物です』だなんてわざわざ書かなくったっていいのに……なんて一瞬、思ってしまったり。

 

「…………別に、すごくきれいだと思うけどね?」

「まあ、そうですね?レプリカとはいえ展示用ですから。各部のバランスに、絵の具の材質、塗り重ねの厚みに至るまで、相当緻密に、本物を再現しているみたいです」

「緻密に再現、かあ」

 

改めて僕は、目の前の煌びやかな額縁の中、彼女の少し重たく下がる二重まぶたをしかと見つめてみる。確かに視点は額縁の外の僕らの方に、けれども、何故だかちっとも、彼女と視線が合ったような気は、しなかった。

 

「……これは僕の、勝手な想像なんだけどさ」

「ええ、はい」

「あ、いや、想像というか、もしかしたら半分難癖というか、いちゃもんみたいなものかもしれないんだけどさ?」

「もう、余計な予防線なんて貼らなくったっていいんですよ。貴方と、私、でしょう?」

「……ふふ、そうだね?ありがとう、アルダン」

 

やれやれと肩を震わせる彼女に、少し湿っぽく笑みを返してから、僕は改めて言葉を塗り重ねていく。きっとこんな心配をしているのは、世界中僕くらいのものなのだろう、けど。

 

「至極当然の話だろうけどさ、『レプリカ』ってものはやっぱり、『本物』に近ければ近い程良いって事になるでしょ?本物から1ミリでも、1ミクロンでもズレを少なくして、限りなく精巧に作りあげる事が正解で、世の中だってそれを望んでいる」

「ええ、まあ、そうでしょうね?」

「もちろん、ピッタリ同じものを描き写すのだって相当な技術が必要なんだろうけど……でも、なんだろうな……こう、なんか、ううん、上手く言い表せない、けどさ」

 

なんて、偉そうに啖呵を切ったくせして。当の本人の言論技術も足りずに、しどろもどろグダグダと口元を歪ませる僕。それでも、何度でも彼女は、黙って僕と視点を合わせようとしてくれた。

そんな様子を仰ぎ見て、一呼吸置いてから僕は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「……近付けば近付くほど、遠ざかる気がするんだ、なんだかさ」

「遠ざかる、ですか」

「フェルメールはさ、彼自身は、あの絵画がこんなに後世まで残る大名作になるなんて分からない状態で、それでもと筆を取っていた。まだ未来のことが何も決まっていない真っ白なキャンパスに、当時の最新の絵の具を、最高峰の技術を、惜しげも無く注ぎ込んだ。何もかも、無駄になるかも知れないのに」

「………………」

「そこにきっと、レプリカの限界があるのかな、って。緻密に、線の一本まで精巧に本物をなぞろうとすればする程、本物の『不安定さ』というか『迷い』というか、『未来への恐怖』というか……なんかこう、マイナスな……」

「……『影』が、失われていく」

「……!」

 

まるで、天上から光が差し込むように、あるいはスポッと靴が履けたみたいに、僕の心の心地好いところに響いたその言葉。流石はアルダン、やっぱり彼女には、敵わないな。

 

「すなわち『レプリカ』として、個人の作家性や創造性を排し機械的に本物に近づけようとすればするほど、それは既知のものの再生産でしかなくなっていく。『本物』の持つ、見えざるもの……未知への探究心が失われ、本質的には、本物とかけ離れた存在と化していくのではないか。と、そういったところでしょうか?」

「ああ、そう、その通り。あんな拙い説明で、よく分かったね?」

「ふふ、いかにも貴方の考えそうなことですので♪」

 

改めて覗き込んだ、額縁の中に囲われて時間が止まっているかのような、彼女の顔。

その爽やかに染められた頭の色と同じく、まだまだ世の中の仄暗さも知らぬかのように、その表情は青く澄みきっていた。けれども、もしかしたら、『本物』はそうではないのかも、しれないな。

 

「『真珠の耳飾りの少女』って、具体的にはいつ頃描かれた作品なのかな?」

「そうですねぇ……諸説ありますが、一般的には1665年頃とされていますね?」

「今から350年くらい前かぁ……これこそとびきり野暮な話かもしれないけど、きっと今なら当時よりずっと質のいい絵の具も画材も容易に手に入るだろうし、研究も進んで、人の顔をより印象的に魅せる新しい技法だって、何かしら確立されているのかもしれないね」

「それは、もちろん。芸術もまた学問の一つです、日夜信じられない程の速度で研究が進められ、幾度となく革新的な技術が……それこそ今日もまた、絶え間なく生まれ続けているのですから」

「……そういう年月の積み重ねみたいなものを無視して、わざわざ古い作品を寸分違わずそのまま描き写す。なんて、もしかしたらフェルメール自身の理想とはかけ離れた行為なのかもしれない。『かつて描かれた名画の存在を未来に繋げる』ためなのは重々承知してるけど、それでも、そのことだって忘れちゃいけないんじゃないかな、って」

「……確かに、そうかもしれない、ですね」

 

額縁に囚われた彼女の瞳。自然光を模した展示室の照明。そして僕の隣に確かに存在する、一人のウマ娘たる彼女の瞳。

それらをかわりばんこにキョロキョロと視界に収めながら、けれども、そのどれでもない、ここではないどこかへ向けて僕は言葉を紡いでいく。そんな僕の脳内に今、一筋のプラズマがパチリと火花を散らしていた。

 

「ま、そんなレプリカに対して僕は、『やさしい』だの『心が楽に』だの言っちゃってたんだけどね?ほんと、やっぱり芸術って、よく分からないなぁ……」

「……逆、なのではないでしょうか?」

「逆?」

「もし、ここに展示されている『真珠の耳飾りの少女』が本物だったとしたならば。トレーナーさんの口から、そのような感想は出てこなかったのではないか。なんて、私はそう思うのです」

「これがレプリカだったからこそ、僕はこの絵画を、『やさしい』と感じた……?」

「ええ、なぜなら貴方は私の……『メジロアルダン』のトレーナー、なのですから」

 

そのまま、明後日の方向に飛び出して行きそうになる僕の思考を、繋ぎ止めた彼女の繊細な指先。

彼女は優しく、やさしく、僕の手のひらを自らの手のひらで包み込んで。僕のこれまでの人生で積み重ねてきた不格好な手の皺を、まるで小さな星座を描くようになぞりながら言葉を紡ぐ。

 

「『メジロアルダン』というウマ娘はきっと、これから先もずっと『メジロラモーヌ』のレプリカである事を世界から望まれる、のでしょうね」

「……!」

「まあ、更に大きく歪に捉えれば『メジロ家』という存在自体、おばあ様のレプリカを生み出す為の器、なのかもしれません。もちろん姉様やおばあ様、当の本人達にそんな意図はないのでしょうが……世の中は無意識に、そこに『精巧』さを求めてしまう」

 

『ティアラ路線では、ないのですか?』

アルダンが日本ダービーに挑戦すると表明した頃、そんな質問を何人かの記者や同僚トレーナーから訊ねられた事があったのを、今更ながら思い出した。あの時は全く気にも止めていなかったが、そうか、あれこそまさしくメジロラモーヌへの『精巧』さを、アルダンは求められていたんだな。これまた今更ながら、僕は己の無頓着さを恥じる。

 

「そして、『真珠の耳飾りの少女』もそう。本物の彼女の、そのレプリカとして求められ描かれた少女は……ここだけではない、世界中に沢山いるのでしょうね」

「……ああ、そうだろうね。こんなに世界中で有名な絵画、なんだもんね」

「けれども当然、1ミリ1ミクロンすらもズレがないレプリカなど、まだまだ今の技術では難しいのでしょう。目の前の彼女で言えば……そうですね、特に目元の影の色が、本物よりも少し薄くて、本物より幼い印象になっている……ように、思います」

「目元……」

「……貴方の言っていた、思っていたより『やさしい』というのは、無意識にそれを感じ取っていたのではありませんか?教科書やテレビで見た本物と比べて、優しく感じたのだ、と」

「……!」

 

けれども、それでも、彼女はそんな僕の気を知ってか知らずか、その朗らかで温和な印象の、少し重たく下がる二重まぶたで、再び僕の姿を捉えてくる。

 

「本物と違った印象を与えてしまうなんて、それはきっと『レプリカ』としては失敗作以外の何物でもないのでしょうね。けれども貴方はそんなことには無頓着に、精巧さなんて求めず、ひたすら目の前にある一つの芸術作品として肯定してみせた。だから、貴方の言葉は矛盾などしていないのです。かつて、私にしてくれたのと、同じように」

「……ああ、ああ、そうだね。僕はこの絵画を、彼女の事をすごくきれいだと思った。たとえこれがレプリカで、『かつて描かれた名画の存在を未来に繋げる』使命のためだけに生まれた存在だとしても……それはそれとして、僕は彼女自身を、愛してあげたいな」

「ふふ、まったく、妬けてしまいますね♪」

「とはいえもちろん、君が一番、だけどね?」

「……もう、トレーナーさんったら?」

 

僕はできるだけ優しく、やさしく、彼女の手のひらを自らの手のひらで包み返して。彼女のこれまでの人生で積み重ねてきた美しく気高い手の皺を、まるで夜空の大三角形を描くようになぞりながら、彼女と目線を合わせる。けれども……何故だかそわそわと虚空を見つめ続ける彼女とは、いつまでも視線は合わないまま、なのであった。

 

「……この展覧会には、あといくつぐらいの絵が展示されてるのかな?」

「ええと……総数までは覚えていませんが、確かかなりの点数があったはずです。『牛乳を注ぐ女』に、『デルフトの眺望』、『絵画芸術』に『窓辺で手紙を読む女』……もちろん全てレプリカでしたけど……」

「ふふ、そんなに僕の知らない作品があるなんて……楽しみになってきたかも?」

「ふふふ、ええ、そうですね?貴方も、そして私も知らない作品がこんなに展示されているなんて……本当に、今日はお誘いありがとうございます。できるだけじっくり、ゆっくりと楽しみましょう、ね?トレーナーさん♪」

 

そうして僕らは、額縁の中から鋭い瞳の輝きを向けてきた彼女にしばしの別れを告げ、優しい月光のような照明が照らし出すムーディな順路を軽やかに歩き出す。

果たしてこれから先、どんな素敵な出会いが待っているのだろう。僕の半歩先を歩く彼女の急くようなえくぼの震え、そしてそれが作り出す若々しい不安定な影を感じ取り、僕はしばし、口を噤んで微笑を浮かべるのだった。

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