メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「運転、少しお上手になりました?」
「え?そう……かな?」
午後4時23分、少しずつ日が傾き初めてきた喧騒溢れる街並みで、サイドミラーに映り込む西日に少し目を細めながら、緩やかにハンドルを右に切る僕。そして、不意に助手席から優しく届いた、声。
「そうですよ。昔はもっと、右折の度に顔を顰めていましたから。そうでしょう?」
「ああー、まあ、確かに?」
助手席にすっぽりと、お行儀よく収まった我が担当ウマ娘、メジロアルダン。彼女を連れたドライブも、もう今回で何度目になるのだろうか。技術進歩の影響か、昔より目立たなくなったエンジン音に少しだけ耳を澄ましながら、ふと、その回数を指折り数えてみる。
「なんだろうな、ここ一年ぐらいは意識的に車によく乗るようにしてたからかな。それこそ、今日みたいななんでもない用事の時でもね」
どっさりと、買い込んだトレーニング用品をバックシートに詰め込んで、ゴロゴロと進んでいくレンタルのワゴンカー。マイカーも持たず、そもそも運転自体が大の苦手な僕のこと、昔はこれくらいの買い出しなら、バスか電車で済ませていたものである、が。
「……アルダンも毎日頑張ってるんだ。僕だって、何かしらちょっとは進歩しないとさ?」
「ふふ、日々精進、ですね?」
周りよりもずっとノロノロと、けれども誰よりも丁寧さを心掛けて、小石を避けつつ、転がっていく四輪車。彼女の言う通り、ほんとに少しは上手くなっているといいのだが……まあ、そんなことより。
「そんなことより、大事なのは君の話だよ。もうあと一週間切っちゃったんだなぁ、『メイステークス』」
「ええ、ふふ、時の流れというものは、本当にあっという間ですね?」
『メイステークス』
今週末、東京レース場にて開催されるオープンレース。そして、なおかつ、他でもなく。
昨年の五月、『日本ダービー』以来となる、メジロアルダンの公式レース。ちょうど丸一年ぶりとなる、彼女の復帰戦、その舞台なのである。
「今日は、ほんとに大丈夫だったの?レース直前に買い出しに付き合わせちゃうなんて……」
「ふふ、先程から言っていますよね?いつも通りのことを淡々とこなしている方が、かえって集中できるのだと」
「ううむ、やっぱりアルダンは凄いなぁ……」
「あら?トレーナーさんだって、なかなか粋な事をいたしますでしょう?」
「え?なにが?」
「東京、芝、2400……まさか復帰一戦目に、あの場所、あの距離のレースを提案されるなんて……」
「……そうだなぁ。当然一番の理由は、あの場所、あの距離が今の君の適正に一番合っていると、そう判断したからだ」
「ええ、それはもちろん」
「ただまあ、『他意』が全く無かったかと言えば、それは、嘘になる、かな」
「それも、分かっていますよ♪」
ハンドルを左に切って、喧々囂々とクラクション鳴り響く国道に背を向ける僕ら。車通りの少ない裏道に入り込んだ僕の視界を包んだのは、鮮烈な西日が作り出す、だだ広く伸びたビル影であった。
「一年前のあの日。私の、一生に一度のクラシックは、あまりに呆気なく幕を閉じました。当然今でも、後悔の念は溢れかえるほど残っています」
「…………」
「けれども、やっぱり私は『進みたい』。今更、何がモチベーションになっているのかは、正直私にも分からない。けれども、理由などなくとも、私はとにかく、前に『進みたい』のです」
「……ああ、もちろん僕もだよ、アルダン」
ぷつり、ぷつり、僅かな怯えを滲ませながら、それでも力強く宣誓してみせたアルダン。
と、同時に窓の外から何故か香ってくる、潮風の匂い。それらに急かされるように、僕はアクセルを強く踏みしめる。
「楽しみなんだ、僕は。あのターフで君が走る姿をもう一度……いや、今までよりもずっとずっと鮮明に見れるようになるのが。だから、君と同じように僕も、早く、早くこの先へ『進みたい』」
「…………!」
脳裏に浮かべてみる、まるで美麗なアニメーションのように大迫力で東京レース場を駆け抜ける、彼女の姿。熱いドラマのように壮大な劇伴を背負いながら、鮮やかにスパートをかけてライバル達を抜き去っていく、彼女の姿。この一年、夢にまで見た光景を、あと一週間足らずでようやく拝むことが出来る。その事が、やっぱり僕は、楽しみで、楽しみで仕方がなかった。
「……ふふ、貴方なら、そう言ってくれると思っていましたよ?早く、早く、真っ直ぐに、これからもずっと『進んで』参りましょうね。トレーナー、さん」
「ああ、もちろん。メイステークスだけじゃない、もっと、ずっと、これまで我慢した分色んなレースに出て、沢山勝って、そうしてもっと大きな舞台に出て、それも勝って……そうやって、早く、早く、真っ直ぐに、『進んで』いこう、アルダン」
法定速度ギリギリで、路地裏をかっ飛ばす僕とアルダン。そうだ、今の僕らに怖いものなんて、ない。少し遠回りの道をくぐり抜けて、もう一度僕は、長く長く続く国道へと乗り込んでい
────カン カン カン カン
「……あら、トレーナーさん。踏切が鳴っていますよ?」
「あっ……あー……ここの踏切に捕まっちゃったか……」
午後4時27分、煩わしいサイレンが不意に耳を劈いて、渋々ブレーキを、踏みしめる。
「ここ、駅のすぐ近くだから、捕まると長いんだよねぇ……」
「ふふふ、まあまあ仕方ありませんよ?お話でもしながら、ゆっくり待ちましょう?」
「うん……まあ、そうだね?」
カン カン カン カン
鳴り続ける喧しいサイレン音に、ゆっくり下がっていく、危険色のバー。なんだかものすごく気勢を削がれて、思わず口を尖らせた僕。優しく宥める彼女の声も少し上の空で、意識だけが先へ、先へ、先へと『進んで』行く。
メイステークスが終われば、次はやっぱり重賞だろう。近い所で言えば、やっぱり高松宮杯か?いや、むしろいきなりG1を狙ってもいいかもしれないな。宝塚記念に、その後は秋天……ああ、もういっそ全部出るか?きっとアルダンなら、アルダンなら全部勝ってくれる。僕が見つけた、最強のウマ娘、『メジロアルダン』ならば、全部、全部……
カン カン カン カン
「…………」
カン カン カン カン
「…………」
カン カン カン カン
「…………」
カン カン カン カン
ほんとうに
このまま『進んで』いいのか?
「トレーナーさん?」
「……んっ?あ、ああ、アルダン」
「どうしました?少しぼーっとされているようですが?」
「あ、う、うん、大丈夫、大丈夫」
彼女の華奢な手が、僕の肩を撫でる。あれ?ええと、僕は今、何を考えていたんだっけ?
「あ、ああ、そうだ。メイステークスの次のレースを何にしようか、考えてたんだったな」
「ふふ、もう次のお話ですか?本当に貴方は、気が早いですね?」
「あ、ははは……まあ、まだまだ考えてるだけだよ?アルダンは、何か出たいレースとかある?」
「そうですねえ……まあ、順当にレベルアップしていければ良いですね?これからもっと、前に『進む』為にも……」
「う、うんうん、やっぱりもちろんそうだよね?」
相変わらず前向きな彼女の言葉に、慌てて気を叩き直す僕。そうだそうだ。ようやく、もうすぐ、ターフに立つ彼女が見られるんだ。野暮ったい考えなんて、どこかへ捨てなきゃ……
カン カン カン カン
「…………」
赤く点滅するサイレン。
下がりきった危険色のバー。
遠くから感じる列車の振動。
『とまれみよ』の看板。
嫌に目に付いた。まるで僕の歩みを必死に、必死に食い止めているかのように。
ほんとうに?
ほんとうに、僕らはこのまま、この勢いで進んでも、いいのか?
このまま進んで、ほんとうに、後悔しないのか?
思えば、『日本ダービー』、彼女の走りはまさしく完璧であった。完璧でありながら……負けた。
当人が完璧であっても、届かないものもある。それがレースの、勝負事の世界で、そんな世界に脚を踏み入れさせる。それは本当に、彼女の為、なのか。
「やはり、今度こそ重賞を勝ちたいという気持ちもありますね?なんでしょう?ちょうど良い時期に開かれるのは、やはり高松宮杯などでしょうか?」
いや、それは絶対に彼女の為だ。『日本ダービー』、あれだけ打ちのめされても彼女はまた、立ち上がった。また、ターフに立つことを望んだ。で、あるならば、トレーナーである以上、彼女を走らせてあげることだけが、彼女の覚悟に報いる唯一にして絶対の方法なのである。
カン カン カン カン
ハッキリと言ってしまえば、果たして彼女はあの怪物に、『オグリキャップ』に勝てるのか。
いつまでも、いつまでもあの圧倒的な才能の影に隠れ、常に二番手、三番手のバックダンサーに甘んじて、自らが『主役ではない』という証明ばかりさせられる競技人生。もし、そうなってしまったら、彼女自身は本当にそれに耐えられるのだろうか。
「むしろ、いきなりG1を狙ってもいいかもしれませんね?宝塚記念に……その後は、天皇賞秋でしょうか?」
メジロアルダンは、強いウマ娘だ。どんな逆境だろうと自らの力で跳ね除けてきた。僕は、そんな彼女の強さを信じる。
それにまだ、勝てないなんて決まった訳じゃない。この先の未来なんて、まだ誰も、分からないはずだ。
カン カン カン カン
彼女は強い。彼女は傷付かない。彼女はずっと、前を向いていてくれる。それこそ、僕自身が押し付けてしまっている『メジロアルダン』のイメージなのではないか。
そして、そんな押し付けられたイメージのせいで、彼女はどんなに辛くとも弱音ひとつ吐くことが出来ないとしたら。
「ふふふ、もういっその事、全部出てしまいますか?私と貴方となら、なんだかなんでも、できてしまいそうです♪」
そうだ、たとえ僕のエゴだとしても、僕は彼女の『勝つ姿』が見たい。
まだ見ぬ彼女の姿が見たい。彼女の無限の可能性を、僕はまだまだ、この瞳に焼き付けたいのだ。
カン カン カン カン
そうだ、結局僕は臆病なのだ、僕は彼女の『負ける姿』を見たくない。
端役、脇役、誰かの引き立て役になる彼女を見たくない。彼女がただの賑やかしの消耗品として扱われる現実から、ひたすら目を逸らしていたいのだ。
だから僕は、彼女とこの先へ『進みたい』。
だから僕は、彼女とこのまま『止まりたい』。
「……トレーナーさん?大丈夫ですか?少し顔色が優れないような……?」
「あ、ああ、大丈夫大丈夫……」
再び、そして先程よりも強く僕の肩を叩く彼女の手の感触。その感触が、また、優しく僕を誘って……
カン カン カン カン
「………………」
「トレーナーさん?」
カン カン カン カン
「本当に、大丈夫ですか?」
カン カン カン カン
「トレーナー」 カン カン 「さん?」 カン カン 「やっぱり」 カン カン 「どこか調子が」 カン カン
『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』『進め』『止まれ』
両耳から囁かれ続ける矛盾した信号が、僕の脳内でエラーを起こす。果たして、僕はどうしたい?僕は、メジロアルダンの事が大切で、大事で、彼女の為になることをやりたくて、しかし、どうだ。
エアコンの効きが悪くて、ひやりと汗が、僕の額を流れ落ちていく。手の震えを抑えようとして、ハンドルに爪が食い込む。僕は、僕は、僕は、僕は。
「……ねえ、アルダン」
「はい?トレーナーさん?」
……そうだ、それは、僕自身が決めなくてはならない。先へと『進む』のか、ここに『止まる』のか。僕の意見は、僕自身が決めて、言葉にしないといけない。いつも彼女が、僕に言葉を尽くしてくれるように。
迷いは、ある。正解を選べる自身は、ない。けれども、僕は僕の責任で、彼女の事を作り替えなければならない。意を決して、僕はゆっくりと、口を、開いた。
「僕は、僕はこれから、君と……
ガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタンガタン
……たいんだ」
「……あ、ええと、申し訳ございませんトレーナーさん。電車が通った音で、よく聞こえなくって……もう一度、お願いできますか?」
「………………」
「……トレーナーさん?」
「……いいや、大したことじゃないよ。とにかくまずは、メイステークス、頑張ろうね」
「え、ええ、そうですね?あ、踏切開きましたよ?早く、『進み』ましょう?」
「あ、ああ、行こう、行こう……早く、早くね?」
……そうだな、そうだ。何を考えているんだか、僕は。
『進む』か『止まる』か?そんなもの、僕なんかが決められることじゃない。目の前のピタリと止んだサイレンの音みたいに、いつも僕は僕以外の、僕よりも強大なものの都合で止まらせられたり、進ませられたりしていただろう。
きっと、これからも、そう。この先に何が待ち構えていようとも、僕も、そしてアルダンも、これからしばらくは『進む』ことしかできない、のだろう。嫌でも、苦しくても、どうしても、『進む』しか、ない。
「あ!トレーナーさん!ストップ!ストップです!」
「う……おっ!?」
「急かしてしまって申し訳ございません、トレーナーさん……踏切を渡る前は、一時停止で左右確認。でした、よね?」
「……あはは、そう、そうだね?そうだった……ありがとう、アルダン」
「ふふ、まだまだ、日々精進、ですね?」
今一度、ブレーキを踏みしめて念入りに周囲を観察する、僕。そうだな、『進む』ことしか出来ないというのなら、せめて、その前によく見て、観察して、考察して。危険に、悲しみに。そして、どうしようも無い怒りにも、『備える』しかない。見たいものも見たくないものも、やっぱり僕は、僕だけは、目を逸らしちゃ、いけないんだろう。
午後4時30分、少しずつ日が傾き初めてきた喧騒溢れる街並みで、後続車に急かされ、僕は再びアクセルを踏み込む。せめて、この苦しみだけは彼女に気取られないように、周りよりもずっとノロノロと、けれども誰よりも丁寧さを心掛けて、小石を避けつつ、僕はまた『進んで』行くのだった。