メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「今日も、いい天気だなぁ……」
遠く流れ行くうろこ雲を眺めながら、登りたての朝日に照らされる、午前八時。普段は少し味気ない缶コーヒーが、なぜだか妙にじんわりと身体に染み込んでいくのを感じる。
「今日も皆、元気そうでなにより、だね」
就業時間前、登校してくる生徒たちを眺めながら学園の屋上でコーヒーを啜る。最近の僕のマイブームと言うやつである。当然こんな時間から屋上に用がある者などいやしない……のをいい事に、ただ一人で静かに朝の澄んだ空気をたっぷりと脳に取り込む。その気持ちよさ、開放感たるや、まさしく筆舌に尽くし難いというものだ。
「……おっ!アルダンだ!」
という訳で、ぼんやりと高みの見物を決め込んでいた僕の視界へ僅かに入り込んできた、あの大空よりも鮮やかなスカイブルーのロングヘア。
ここからおおよそ直線距離一キロメートル、ほんの豆粒程度しか見えないながら、それでも分かる程の圧倒的な存在感を醸し出しながら学園の門をくぐっていたのは……もちろん、当然、我が担当ウマ娘メジロアルダンであった。うむうむ、流石はアルダン、ただ登校しているだけだと言うのになんという優雅さなのだろう。まるでレッドカーペットを練り歩く大女優もかくやといったところである。
「おーい!アルダーン……なんちゃって、こんなとこから聞こえるわけないか……って、んん?」
「……!」
「───!────!」
「……誰だあれ?」
屋上に誰も居ないのをいいことに、ちょっとだけはしゃぎ倒……していると、なんだ、あれは。
彼女に、アルダンに走り寄る影をひとつ、僕は確かに見つけ出す。どんな人相で、どんな服装なのか、男性か女性かすらここからではとても判別出来なかったが……彼、ないし彼女に猛烈な勢いで話しかけられたアルダンが、僅かに困惑と恐怖を織り交ぜた表情を浮かべているのだけは、間違いなく、わかっ
「お願いします!なんとか繋げていただけないでしょうか!」
「え、ええと……突然仰られても……なんのお話で……」
「はいはいはい!下がった下がった!彼女にご用があるのなら!この僕を通してからにしてください!ね!」
「…………うわぁああっ!?何っ!?誰っ!?いつの間にそこにいたんですかっ!?」
「と、トレーナーさん!?今、何やら空間を無視して現れませんでした?」
二人の間に強引に割って入った僕は、そのまま全身を使って彼女の身をその視線から覆い隠す。見ればかなりファッショナブルな服装をした、僕と同年代くらいの男性が一人……
「……トレーナーさん?もしかして、メジロアルダンさんのトレーナー様ですか!?」
「ええ!そうです!僕が!彼女の!トレーナー!です!」
「……そう、でしたか」
「繰り返しますが!彼女にご用があるのなら!この僕を!通し……」
「でしたら!お願いいたします!どうか!どうか!」
「てっ……!?て……はい?」
「どうかこの私を、『メジロラモーヌ』さんに繋げていただけないでしょうか!」
「……メジロ、ラモーヌ?」
「まあ、姉様に?」
几帳面そうに整えた髪型が崩れるのも厭わず、今度は僕に向かってきっちり90度頭を下げてきた彼。彼が一体どこの誰で、何がどうなっているのかは相変わらず訳が分からないが……とにもかくにも、アルダンに危害を加えようなんて輩ではないことは確からしい。
「……ああ!も、申し遅れました!私こういう者でして!」
「なになに……雑誌の、編集者、さん?」
「まあ……!こんなに有名な雑誌の……!」
これまたきっちりと、名刺を二枚取り出して僕とアルダンそれぞれに丁寧に手渡した彼。見れば、どうやら有名ファッション雑誌の編集者、との事らしい。雑誌名を見てもあまりピンとこない僕をよそに、今度はアルダンが、なにやら気を利かせたように話し始める。
「姉に繋いで欲しいとのお話でしたが、それは、もしや……」
「ええ、私の企画した特集に、どうしてもラモーヌさんをモデルとしてお呼びさせていただきたく思いまして、ですね……!」
「なるほど、それでオファーをしに来たってわけですか?」
「ああいえ、オファー自体は既にさせていただいていて、一度は快諾していただけたのですが……」
「……突然、断られた。といったところでしょうか?」
「そ、そうです、その通りなんです!それも丁重に、丁寧に、礼儀正しく!」
「えっ、断られた……一回受けた仕事を?」
「ええ、しかもその後、一度も連絡が取れず……もうこうなったらと学園まで来てみたら、ちょうど妹さんがいらして!」
「なるほど、ことの次第はよく理解いたしました。ね?トレーナーさん?」
「…………うん、そうだね」
アルダンの言う通り、ことの次第は充分理解できた。そうだな、本当に、ことの次第『だけ』は、であるが。
「うう、どうしてあんなに突然……気まぐれな方とは聞いていたけど……」
「……まず改めて、姉に変わり非礼をお詫び申し上げます」
「……!」
今度は編集者さんに向かって、きっちり90度お辞儀を返したアルダン。指先まで揃えられた所作の美しさに見惚れつつ……しかし、見下ろしたその背が少しだけ自信なく、小さく丸まってしまっているのを目撃して。僅かばかり僕は、拳に力を込めた。
「……姉は確かにとても気まぐれな方です。ですが理由もなく、約束を反故にはいたしません」
「………………」
「誠に失礼とは存じますが、姉の気勢を削いだお心当たりは……」
「いいよ、そんなの考えなくって」
「……トレーナーさん?」
「トレーナー様?あ、あの、考えなくっていい、とは?」
「そのままの意味ですよ。そんなこと考えても仕方ないでしょう?そんなことは……彼女に直接、聞けばいい話です」
「……えっ?あの、トレーナーさん?」
いつものごとく、編集者さんに対しても全力で言葉を尽くそうとする彼女を、少し強引に制する僕。目を丸くする二人をよそに、まだまだ僕は、言葉を繋げる。
「……流石に、アルダンなら知ってるよね?メジロラモーヌの、連絡先」
「え?ええ、もちろん……ですが姉様は頻繁に携帯を放って出かけられますので、連絡がつくかどうかは……」
「ううん、そっか……ダメ元でいいからちょっと、メッセージ送っておいてもらえないかな?『貴方に、客人が来ている』ってね」
「……!」
「少しだけ、待っていてください。必ず僕が連れてきますよ、彼女……『メジロラモーヌ』を」
──────────────
「どこだぁ……どこにいるメジロラモーヌ……」
「あ、あの、トレーナーさん?」
「ん?」
時は少し流れて、放課後。本腰を入れて彼女を……『メジロラモーヌ』を血眼で探す僕。に対して、後ろから控えめに着いてきていたアルダンは口を開く。
「その、なにゆえに突然姉様の事を?トレーナーさんには、そこまで関わりのないことだと思うのですが……」
「……うん、確かに僕には関係の無いことだね。僕にも……そして君にも、だ」
「私、にも?」
「ああ、そうだ。こんな話アルダンにはまるで関係のない、メジロラモーヌと編集者さんだけの問題じゃない?そんなことで君がわざわざ頭を下げたり、言葉を尽くす必要なんてない。本当に言葉を尽くさなくちゃいけないのは……絶対にメジロラモーヌの方、でしょ?」
「……ふふっ。それで結局、そんな関係のない話に自分で首を突っ込んでいくなんて……トレーナーさんは本当に不器用ですね?」
「うっ……まあ、それはそう、なんだけど……」
確かに、それを言うならばこの話だってアルダンとラモーヌの、姉妹だけの問題だ。僕なんかが首を突っ込むことでは無いのかもしれない。かもしれない……が……
「……本当の本当に、悪い人という訳ではないのです、姉様は。私の全人生をかけてでも、それだけは言い切ることができます」
「………………」
「ただ、そうですね。本当に言葉足らずな性格ではありますので、どうしてもこういったトラブルは絶えないお人ではあります。それもまた、間違いはありませんね……」
「……本人のキャラクターというか、風格というか。そして何より、その圧倒的な『強さ』が、それを有耶無耶にしちゃうんだろうな。何があったとしても、人知の及ばない、天災に遭ったようなものだとして、受け入れてしまう」
「ふふふ、確かにそうかもしれませんね?」
「……けど、そんなの本当は関係ないはずだ。トリプルティアラだろうがなんだろうが、一介のウマ娘であるのは間違いない。神でも何でもないし、『速く走れる方が偉い』なんてことも、あるわけが無い」
「……!」
もちろん、当然、『ターフの中』は速さが全て、それ以外のものは、何もかも削ぎ落として然るべきだということは、僕だって分かっているつもりだ。
だが、それだけじゃない。ウマ娘達の生きる場所というのは、なにも『ターフの中』だけではない。彼女達は神でも、天災でも、レースゲームのキャラでもない、社会性を持った一人の生物、なのである。
「……なんだか、少し新鮮な気分ですね?」
「え?なにが?」
「皆、わざわざ口には出しません。でもやはり、うっすらとどこか、我々ウマ娘の共通認識としてあるのです。『速く走れる方が偉い』なんて意識が」
「……そうだね、それはトレーナー達だって、同じだよ」
「それを真っ向から否定するなんて、姉様や他の方々がどう思うのかは分かりませんが……私にとっては、とても気分が良いものです♪流石トレーナーさん♪」
「ふふっ、どういたしまして?」
口元を軽く抑えて、やや照れながら笑う彼女を見て、思う。やっぱり僕にとっての『品格高さ』というのは、こういうことなのだ。
姿勢を正し、言葉を尽くし、他人と争わずにいられる能力。それこそが『品』というものだと、僕は思う。まさしく、今僕の目の前で舞い踊る彼女が体現してくれている、ように。
「だから、まあ、僕だって一教育者だ。他人に迷惑をかけるような生徒はたとえ自分の担当じゃないとしても、首を突っ込まないわけにはいかないさ」
「ふふふ、やっぱり流石です♪」
「……それはそれとして、おのれメジロラモーヌ……!アルダンに頭を下げさせておいて自分は表にも出てこないなんて……許すまじ!ギャフンと言わせてやらないと、気が済まない!」
「……教育者、とは?」
思えば、こんなことは今回に限った話ではなかったか。これぞ年貢の納め時、きっちり今までの分をお返ししてくれよう……と、僕は再び拳にめいっぱい力を込めて、廊下をずんずんと踏み鳴らすのだった。
「……しかし、見つからないなぁ……今朝送ったメッセージはどう?」
「既読すら付きませんね……やはり本日は、携帯自体お持ちではないようです……」
「参ったなあ……彼女のクラスにも姿が見えなかったし、手がかりがないようじゃ……」
「あぁ……貴方。美術室の鍵、借りてきてくださらない?」
「んっ……?」
「この、声は……」
僕らの背後から突然聞こえてきた、特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない、淡々とした、声。二人揃って恐る恐る振り返ると、そこには……
「……いっ……いたーっ!?」
いた、間違いない。艶のある青鹿毛のまとめ髪に、ひと房垂れた青みがかった白メッシュ。神経を尖らせたかのように、こめかみに人差し指を置いた、その仕草……間違いない、『メジロラモーヌ』張本人である。
「わ、私が?なんで……?」
「職員室は、逆方向でしょう?美術室とは」
「いや、じゃなくて……なんで私が?そんなの……じっ、自分で行ったら!」
「誰かと話して……いや、話してるっていうか、なんか揉めてない?」
「お知り合い、ではなさそうですね?恐らくはたまたま通りすがった方に、姉様が一方的に『頼んでみた』のでしょう」
「ほんともう、噂をすればなんとやら……!」
廊下の奥の方、特にこちらに気が付く様子もなく互いに言葉を浴びせあう、メジロラモーヌと通りすがりのウマ娘……まあ、メジロラモーヌの方はこれっぽっちもものともしていない……というか……
「あら、そう」
「な、なんなのよ急に……!バカにしてるの?ちょっと有名人だからって……ん?」
「ち、ちょっとまっ……!」
「ね、姉様……っ……!」
ただ一言言い残し、足早に去っていくメジロラモーヌを追って駆け出す僕とアルダン。だが……なんと言ってもやはりそこはトリプルティアラ。瞬く間にその背は、廊下の角に消えていったのだった。
「ぐぬぬ……逃げられたか……」
「逃げたわけでは、ないでしょうけどね?」
「え……?なに次から次へと……」
「私の姉が、非礼を働いてしまい申し訳……あ、い、いえ、その、大丈夫、ですか?」
「だ、大丈夫なんかじゃないわ!人を顎で使って……!やっぱりひとこと言ってやらないと気、が……?」
「おのれぇ……!メジロラモーヌぅ……!」
「え、なに、怖い怖い怖い……!」
「……少し聞こえていましたが、姉様は美術室に行くと言っていました、よね?」
「え、あ、まあ……そうだったけど」
「ですって、トレーナーさん?この場は私一人でも、大丈夫ですよ♪」
「……うん、分かった。ありがとう、アルダン」
小粋に目配せするアルダンに、できるだけしっかりと感謝を伝えてから、背を向ける僕。そうだな、やっぱり、やっぱり僕らはこうするのが一番だ。
「ふぅ……待ってろ……メジロラモーヌぅぅぅぅぅっ!うおおおおおっ!」
「ええ……はぁ、もうなんかどうでもよくなっちゃったわ……」
「ふふふ、自分より怒っている人を見ると、逆に落ち着いてくる……なんて言いますものね♪」
──────────────
ガララッ!
「メジロラモーヌっ!」
「………………」
扉を開けた瞬間、僕の鼻をくすぐってきた絵の具の匂いと、僅かな黴臭さ。その中心に……いた、間違いない、今度こそ。
「君に、言いたいことがある!数え切れないほどね!まず……」
「あぁ、丁度良いところに。貴方、この絵を見て、どう思うかしら?」
「……はい?絵?」
意を決して、その背に向けて声を荒らげる僕……なんてものはまるで歯牙にもかけずに、特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない、淡々とした声で語りかけてくる彼女。なんだかますます煽られているように思えて、さらに勢いよく続きの言葉をぶつけようとする僕であった、が……
「この絵、よ」
「…………っ」
そっと身を退けて、肩越しに見せられたその『絵』に、僕は思わず、口を噤んだ。
絵画の善し悪し……それもこんな抽象画の価値なんてこれっぽっちも分かりはしないが。しかし、この絵……まるで明けない夜を彷彿とさせる漆黒の絵の具で彩られた、この絵を見ていると、なぜだか。
途方もないものが轟々と渦巻いて、僕の中にある何か……言葉に出来ない何かが、火傷のようにずきずきと疼き出す、不思議な感覚に、落とされていく。
「綺麗、だ」
「…………!」
「……あっ!?あ、いや、今のは無意識っていうか……別に全然、褒めてる訳じゃないから!ほんとに!」
引きずり込まれそうになる、自分の精神を慌てて叩き直す。いけないいけない……僕は別に、こんなところまで楽しくおしゃべりしに来た訳ではないのだ。
「……ふふ、貴方、これを『綺麗』だと。そうおっしゃいますのね?」
「そ、それがなんだって言うんだ。た、確かに綺麗な絵なのは認めるけど……」
「『怖い』と言ったのよ、この絵のことを。私の、妹は」
「えっ……妹って……あ、アルダン?」
「ええ、まだ幼かった頃の私の情念が、恐ろしかったのだ、ですって」
「幼かった?その絵、今描いてるんじゃ……」
「まさか、これは十年ほど前に描いたもの、ですわ?」
「じゅっ……って、え?な、何歳?」
十年前って言うと、少なくとも一桁年齢の頃……?に?こんな絵を?って、そうじゃなくて……ええと……何を言おうとしてたんだっけ?
「……この絵は、『不完全な愛』。いえ、もしかすると愛とすら呼べない。言うなれば、『怒り』かしら」
「……怒り」
「想うだけで、触れられない。目の前にあるのに、届かない。もどかしい。苛立たしい。欲しい、とにかく、欲しい。そんなプリミティブな、怒り……」
「………………」
何を言っているのか、は、もちろん分からない。結局この絵が何なのかも分からない。分からない、けど。
その『絵』はやはり、美しいと思えた。観察も考察も、する余地などないほどシンプルな絵だと言うのに。
「こんな絵を『綺麗』だなんて。貴方も飼っているのね、胸の中の『修羅』を」
「……貴方の中には?」
「さあ?昔は棲んでいたと思うのだけれど。今となっては、どうでもよくってよ」
「どうでも……?」
「感謝、いたしますわ。貴方のおかげで私は……『今の愛』を、より『愛せそう』ですもの」
「……えっ!?ちょ、何を!?」
投げかけられた言葉の、咀嚼も終わらぬうちに。
彼女は唐突に、持っていたパレットから爽やかな若草色の絵の具を筆に取ると……そのまま目の前の絵画の漆黒に向けて、ベッタリと塗り重ね始めた。
「い、いいの?そんな綺麗な絵に……それに、それは子供の頃の思い出の……」
「…………?」
「え、えっと?」
「良いから、塗った」
「え?」
「……それだけではなくって?」
「それだけ、って……」
相変わらずの、淡々とした声。恐らく煽っている訳でもとぼけている訳でもないのであろうことは、なんとなく分かる……分かるが、流石に思い切りが良すぎでは?
「感謝しているのは、ほんとう、でしてよ?この絵をどうするか。そのままにしておくか、続きを描き足すか……本当に、悩んでおりましたから」
「あ、そう、なの?」
「ええ、直近の予定を全てキャンセルする程度、には」
「…………あっ!」
彼女の言葉を聞いて慌てて思い出した、この場所に僕が来た理由。なるほど、ようやく見えてきた『ことの次第』の、その全貌……いや、なんだってそんなことで予定を全部キャンセルしなくちゃいけないんだか、相変わらずその意味は全く分からないが……
──────────────
『うう、どうしてあんなに突然……気まぐれな方とは聞いていたけど……』
『な、なんなのよ急に……!バカにしてるの?ちょっと有名人だからって……』
──────────────
「……ふふっ」
「………………」
夜闇のような漆黒を、陽の当たる芝生のような緑でどんどん塗りつぶしていく彼女。きっとこの光景に対しても、我々が『何らかの意味合い』を見出すのは、容易な事だろう。
けれども、『良いから、塗った』。きっと彼女にとっては、ただ、それだけのことでしかない。それに。
「……どうして、も何も『出来ないから、断った』だけか。『良いから、塗った』のと、同じように」
思えば、全てそうだ。先程他の生徒と揉めていたのだって、『鍵を取ってきて欲しいから、頼んだ』だけであって、それに『嫌だと返されたから、やめた』。
ただ、それだけだった。打算も思惑も傲慢も悪意もあったものではない、ちょっと有名人だからって、バカにしているわけでもない、本当に『ただ、それだけ』だったのだ。
「本当に誰も、そんなの考えなくってよかったんだな」
そうか、彼女は彼女なりに、『言葉を尽くして』いたのだ。ただ、少しだけ人より思い切りがいいだけ。『良い』と思ったものに飛びつくのも速ければ、『駄目だ』と感じたものを手放すのも、誰よりも速い。そんな、人より少し変わった娘。ただそれだけ、なのだろう、だが。
『速く走れる方が偉い』、なんて周りのうっすらした意識が、それを『それだけ』にさせなかった。本人のキャラクターが、風格が、その圧倒的な『強さ』が、彼女の意思すら有耶無耶にした。何気ない一挙手一投足にすら、皆して『意味』を見出そうとした。
神でも天災でもない、こうして目を輝かせて、胸を高鳴らせて絵筆を振るう、一人の純粋な少女。それだけが、彼女の本質だったというのに。
「……にしたって、後先考え無さすぎるでしょ……不器用っていうか、本当に『今』さえ良ければって……感……じ……」
「……ふふふ♪」
楽しげに筆を踊らせる彼女の背に、見慣れた誰かの面影を感じる。そうか、そうだよな。だったらこちらも、言葉を尽くせば、必ず。
「ねえ、ラモーヌ」
「……はい?」
改めて、襟元を正して僕は彼女に声をかける。特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない、淡々とした声で。
怒りは、もうない。ギャフンと言わせてやろうなんて、もうこれっぽっちも考えていない。けれども、そうだ、僕だって一教育者だ。他人に迷惑をかけるような生徒はたとえ自分の担当じゃないとしても、首を突っ込まないわけには、いかない。
「覚えてる?君がキャンセルした予定の中に……雑誌モデルの仕事があったこと」
「さあ?もう終わったお話、でしょう?」
「……今朝の話だけど、その雑誌の編集者さんがトレセン学園を訪ねてきてね。たまたま通りがかったアルダンに向かって、君に繋いで欲しいって酷く懇願してきたんだ」
「それで?」
「っ……」
たった三文字呟かれただけで、まるで凍りつくような寒気に襲われる僕……けれども、違う。
『それで?』と聞かれた、ただ、それだけだ。威圧されているわけでも、決裂したわけでもない。だから、大丈夫。落ち着いて再び、僕は言葉を紡ぎ出す。
「……確かに、君だけが悪いわけじゃないのは僕だって分かってる。本来関係のないアルダンに無理やり泣きついた編集者さんの方にも、問題はもちろんある」
「…………」
「けれども、それはそれとして。元より君が一方的に断りを入れるんじゃなく、きちんと編集者さんと話をして、どちらも納得いく形で着地出来ていれば……そもそもアルダンが巻き込まれることなんてなかった。そうでしょ?」
「それで、何が言いたいのかしら」
「君は、アルダンに謝るべきだ。謝ってから、改めて君と編集者さんの二人だけで話をつけるべきだと、僕はそう思う」
「…………」
「たとえウマ娘であろうと、年上の男の人に突然問い詰められるなんて、本当に怖くて恐ろしいことだと思うよ。君がもう少しだけ他人の気持ちをちゃんと考えていれば、君の妹はそんな恐ろしい経験をせずに済んだ。それはきっと、君にも分かるはずだ」
「……………………」
そうだ、それはきっと、彼女にも分かるはずなんだ。神でも、天災でも、レースゲームのキャラでもない、一介のウマ娘たる、彼女なら。
「姉様?トレーナーさん?」
間がいいんだか悪いんだか。不意に背後から聞こえてきた優しげな声……我が担当ウマ娘、メジロアルダンの声。それを聞いて彼女は、メジロラモーヌは僅かに、その両の耳をぴくりと動かした。
「……………………」
「……………………」
「……ええと、これは一体、どういった状況……」
「アルダン」
一言、妹の名を呼んだのは、他でもない、メジロラモーヌだった。彼女は手にしていた絵筆とパレットを無造作に放り投げ、立ち上がり、歩き出し、僕の隣をすり抜けて……そして、アルダンの目の前に立って。
「ごめんなさい」
「…………ええっ!?!?」
さも当然のように一言呟いてから。きっちり90度、頭を下げたのだった。
「ああっ、あ、頭を上げてください!?ど、どうされたのですか姉様!?そんな、そんな……!」
「聞いたわ、私のせいで怖い思いをさせてしまっていたのね。大切な妹をそんな目にあわせてしまって、本当に、反省しています」
「ね……姉様……あの、トレーナーさん?姉様に一体何を?」
「本当に、何もしてないよ。普通に話しただけ」
そうだ、僕は本当に普通に話しただけ。けれどもメジロラモーヌは、それでちゃんと『分かる』娘なのだ。なんせ、あのメジロアルダンと血を分けた姉妹、なのだから。
「……本当に、貴方は……ひゃっ!?」
「あぁ……アルダン。私は本当に貴方のことが大切なのよ……嘘ではないわ……」
「ね、姉様……そんなに強く抱き締められると、く、苦しい、ですよぉ……」
「よーくお顔を見せてちょうだい、その愛らしいお顔を……ね?」
「……いや、いくらなんでも極端だな!?」
アルダンの身を強く抱き寄せながら、その顔をぐいぐいと近づけるラモーヌ。ちらちらと恥ずかしそうにこちらに目線を向けつつ、けれども、心做しか満足げなアルダン。そうだな、多少変わってても、不器用でも極端でも、なにも大した事じゃない。世界中どこにでもいるただの仲良し姉妹の姿が、そこにあった。
「わ、私のことはもう良いですからっ……トレーナーさんにも、お礼を言ってあげてください?」
「……トレーナー、さん」
「………………」
「……あぁ、もしかして貴方、アルダンのトレーナー、だったの……かしら?」
「あっ、そうだよね知らなかったよね!?はじめまして妹さんにはいつもお世話になってます!」
「確かに、貴方にもご迷惑をおかけしましたわね?それに、『絵』のことも、改めて、本当に感謝しております……」
「絵のこと、とは?」
「いや、それについては本当によく分からないから……僕に聞かないで……」
僕に対してもお上品に、ふわりと頭を下げて見せたラモーヌ。慌てて僕も二、三度ほど、ペコペコと頭を垂れる。
……『メジロラモーヌ』か。なんだろうな、ずっと彼女のことは遠巻きに、『斜め』に見ていたような気がする。言葉を尽くすアルダンとは似ても似つかぬ、言葉を持たぬ怪物……なんて、天災として見ていたのは、僕も同じだったんだな。
改めて真正面から見た彼女の姿は……顔立ちも、背丈も、声色だって、確かに間違いなく、『メジロアルダン』とよく似ていたのだった。
「……アルダン?携帯電話を貸してもらえる、かしら?」
「携帯、ですか?よろしいですが……一体何を?」
「……アルダンの、トレーナー、様?」
「は、はい?」
「今回は、大変お世話になりました。御礼に今晩、ご一緒にお食事でも……と、思うのですが……いかがかしら?」
「え?ええと、それって……」
「もちろん、わたくし共がご馳走、いたしますわ?」
「まあ……!それは素晴らしいご提案ですね?流石姉様♪」
「い、いやいやいや、流石に生徒にご馳走になる訳にはいかないよ!?」
確かに、この二人との食事なんて願ってもない機会だけれども……それはそれ、これはこれ。
「あ、あーでも、割り勘とかだったら全然……」
「して、どちらにご連絡なされるのですか姉様?どこか、レストランでもご予約を?」
「ふふ、まさか。相変わらず冗談が下手なのね、アルダンは」
「?」
「お父様と、お母様に決まっているでしょう?子供達だけでおもてなしだなんて、御失礼にも程がありましてよ?」
「えっ」
「えっ」
あれ、なんだろう。なんだか急に、ものすごく行きたくなくなって来たぞ?
「ふふ、今日だけではありませんわ?貴方にはいつも、アルダンが世話になっておりますから」
「あっ、あー、いやー、そんな、全然、全然っすよ。むしろ僕の方がお世話になりっぱなしっていうかぁ、だからそんな、おもてなしなんて、全然、全然……」
「うふふ、またまたご冗談を……」
「いやもうほんと、全然、全然、全然」
「うふふ、うふふ、うふふふ……」
いやまあ、アルダンのトレーナーを務める以上、そりゃいつかはって思ってたよ?思ってはいたけど……え?今晩?今晩って……あの、今晩?
「……はは、ははは」
いや無理無理無理無理!無理に決まってる!せめて、せめて一ヶ月位は身辺と心の準備させて欲しいんだけど!?
「ね、姉様……流石にそんな急には……それにお父様はお仕事で、今頃海外ですよ?」
「あら……今はどちらだったかしら?ニューヨーク?パリ?」
「確か、北京だったかと……」
「まあ、北京」
「……っ」
た、助かった……!流石アルダン、僕の自慢の担当ウマ娘……!後でたっぷり埋め合わせを……
「トレーナー様。パスポートは、お持ちでして?」
「は?」
「ふふ、なんと幸運なのでしょう……北京でしたら、今から出発すれば晩には間に合いますわね……?」
「ね、姉様ぁ……」
……分かってる、もう僕は、分かっている。
メジロラモーヌというウマ娘の吐く言葉には、嘘偽りなど一抹もありはしないということ。今だって、打算も思惑も傲慢も悪意もなく、純粋に僕に対しておもてなしをしたいと……本当に、『ただ、それだけ』なのだと。
分かって、いるのだ。
だからこそ、彼女は『恐ろしい』ということも……!
「少し、お待ちなさいな。まずヘリを用意して……道中でお母様を拾ってそのまま空港に向かって……」
「へ、へり……」
「そうね、敢えてお父様には伝えずにいるのも、良いかもしれませんわね?突然私達とトレーナー様が目の前に現れたお父様のお顔……うふふ、想像するだけで、愛らしい……」
「あ、あのー、ラモーヌ?ラモーヌ、さん?」
「はい?なにか?」
ダメだ、このままではいけない……ここは当事者たる、僕自身がまたガツンと言ってやらなくては……!
「………………」
「……な、に、か?」
「…………その」
ガツンと、言って……ガツン、と……
「……あー、その、せっかくのお誘いなんだけど、実は僕、どうしても中国行きのチケットが取れないんだ」
「あら、それはどうして?」
「ほ、ほら、僕ってアルダンのトレーナーでしょ?」
「ええ、そうね」
「……アルダン、トレーナー、アル、トレ……『アル』のチケットは『トレん』!って、ね?」
「…………………………」
「…………………………」
「…………………………」
「つ ま ら な い の ね」
「ひっ…………!?」
いつもの如く、特に暖かくも冷たくも、厳しくも優しくもない、淡々とした声で……
いや、なんかさっきの声は、心做しかちょっと冷たかった、そんな気もする、気のせいかもしれない、気のせいじゃないかもしれない、もうわかんない、消えたい、帰りたい。
「あの、トレーナーさん……別に『アル』は、中国を意味する言葉ではなくて……」
「アルダン」
「は、はい、姉様」
「お遊びはここまで。私を、件の編集者様の所へ案内してくださるかしら?」
「あっ、あ、そうでしたね!食事よりもまず、そちらが先ですよね!」
「ええ、丁度お暇ができましたから……きっと、良いお返事が出来ましてよ?」
「ふ、ふふふ……それはそれは……あ、その、トレーナーさ」
「アルダン」
「っ……後で、後で迎えに参りますので!どうか気を確かに……!」
ガシャン!
「……………………………………………」
ガララッ!
「施錠、お願いいたしますわね?」
「姉様!いいですからそんな事!」
ガシャン!
「……………………………………………」
勢いよく扉を閉める音だけが響いて、一人取り残される、僕。そうだな、もちろん、もちろん分かってるさ。『つまらなかった』ものは『つまらなかった』、ただ、それだけ……
『つ ま ら な い の ね』
『つ ま ら な い の ね』
『つ ま ら な い の ね』
……いや、あるだろ。絶対あるだろ、悪意。
「…………おのれ、メジロラモーヌぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!やっぱり……やっぱりギャフンと言わせてやらなきゃ!気が済まなぁぁあああああああああああい!」
狭く黴臭い美術室に、虚しくこだまする僕のありったけの叫び声……
イーゼルに架けられたままの、若草色の絵画の中。一人佇んだウマ娘はそんな僕の醜態を覗き見て、くすくすと、魔性の笑みを浮かべていたのだった。