メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「よいしょ……よいしょ……ふう……」
「……ん?」
雲ひとつない、清々しい程の青空が広がる日曜日の、朝。そんな情景に、なんだか誰かの面影を感じながら鼻歌混じりで歩く僕の視界に入り込んできた、のっぴきならない状況。
「ふぅ……私ももうダメね……」
「…………」
車通りの多い日曜の国道。そのど真ん中に架かる小さな歩道橋。通路に続く長い階段の一段目に座り込んでいたのは……何やら大きな荷物を抱えた、初老の女性。
頭にはシックな色合いの頭巾を被り、落ち着いた柿色の着物に身を包んだその姿。なんとも気品に溢れていて、けれども、そんな大荷物を抱えるのには、明らかに不釣り合いなように思えた。
「……もしかして、重くて登れない、のか?」
視覚情報から推測した、仮説。細かい事情は分からないが、恐らくあのおばあさんは、あの大荷物のせいで『困っている』のだろう。
ため息をつきながらチラチラと、道路の様子と向かい側の歩道の様子を確認しているのを見るに、本当はこの歩道橋で向こう側に渡りたい、が、荷物を持ったまま急な階段を登ることが叶わず、途方に暮れている……と言ったところか。
「ふむ……」
さて、となると。他でもないそれを目撃した『僕』はどうするか、ということであるが。
様子を見るに、あのおばあさんの背負っている荷物……おおよそおばあさんの背丈の半分程、ちょうど僕の膝上程度の、そこまで大きくもなさそうなダンボール箱が一つ。確かにあの年齢の女性が一人で運ぶのは苦労しそうだが、曲がりなりにも立派な成人男性たる僕にかかれば、それ程の労力を要さずに運べてしまいそうな代物である。
そして周りには僕以外の人影はなし、信号や横断歩道なんて、階段を登らずに済みそうな道も、なし、と。
……無意識に、『手伝わなくても大丈夫な理由』を探してしまう自分の野暮ったさに、なんとも嫌気が差してしまう。例えばこんな時、かつて憧れた漫画やアニメの主人公なら。これから観に行く映画の主人公なら。そして、我が担当ウマ娘『メジロアルダン』なら……
「……ふんっ!」
もう一度、眼前に小粋に広がる青空を仰ぎみてから……僕は自分の両頬を強く叩いた。そうだ、こんな時彼女ならどうするか。そして、『彼女に相応しいトレーナー』ならば、どうするべきなのか。答えは、一つしか無かった。
「あの!大丈夫ですか!?」
「……あら?」
ひりつく頬をそのままに、僕は肩で風切りながら彼女に駆け寄り、できるだけ丁寧に、柔らかい声で語りかける。これもまた、どこかの誰かのリフレイン。
「その、もしよろしければ、お荷物お持ちしましょうか?」
「あら、あなたとっても優しいのね?でも……大丈夫よ無理しなくて。これ、とっても重いから……」
「いえいえ、僕なんて全然優しくなんてないですし!ほんと!これくらい軽いもんですよ、ほんと!」
「本当……?ほんとにほんとに、とっても重いわよ?」
「ぜんっぜん!ぜんっぜん大丈夫ですから!鍛えてますんで、僕!」
首を傾げながら、心配そうに僕を見つめるおばあさん。本当に、僕なんて優しくもなんともないのだが……僅かな後ろめたさを感じつつ、けれども乗りかかった船、ここで降りるのは、トレーナーが廃るというものだ。
「……そうねえ、じゃあお願いしようかしら?本当に本当に、気をつけてね?」
「はい、はい。ほんと、そんな心配いいですって……」
念入りに念入りに、僕の瞳を見つめながら話すおばあさんの言葉を、あえて軽く受け流す。理由はどうあれ、やるからには精一杯カッコつけて、小粋にやってやるのが大人ってもの、だろう。
「それじゃあ、はい、どうぞ?」
「はーい、よっこい……」
もう一度、精一杯優しく笑いかけてから。僕はおばあさんがなんとか抱えている荷物を、軽々持ち上げ……
「……ぅぐっ!?」
も、持ち上げ……持ち……!?
「ほら、言ったでしょう?『重い』って?」
……持ち……あがら……ない……?
腕が、腰が、全身が悲鳴をあげる。まるで予想だにしていなかった重量に、思わず地面に引きずり込まれそうになる。これは……一体……?
「ぐ……こ、これ……何が入ってるんですか?」
「『鉄球』よ」
「は?」
「鉄球、孫に頼まれてねぇ。孫が通ってるジュニアレースクラブで使うらしくて……だから今、クラブまで持って行ってあげてるの。まったく、鉄球なんて使って、一体どんなトレーニングをするのかしら……今時の若い娘の考えることは、分からないものね……」
「レースクラブ……?トレーニング……!?」
なんだか、ものすごく馴染み深い単語が飛び出して、思わず目を丸くしてしまう僕。と、いうか、孫が『そう』なら、このおばあさんも、まさか……
「ふう、さて、ありがとうねぇ?あなたと話してる間に、私もすっかり回復できたわ?」
「えっ……え、あっ……!?」
不意に、僕の目の前で立ち上がったおばあさん。その背中には……予想通り、しなやかな一本の『尻尾』が、間違いなく生えていたのであった。
「無理はしなくていいから、力を合わせて一緒に運びましょう?ね?」
「は、はは……そう、ですね……」
──────────────
「なんてことが、今朝あってさ……っ、いてて……腕痛ぁ……」
「ふふふ、それはそれは……ご苦労さまでした♪」
本日の待ち合わせ場所に、先に到着していた彼女……メジロアルダンと、のんびり街角を歩く僕。何気なく、世間話でもということで、今朝あったなんともな笑い話を披露するのであった。
「やっぱり、ウマ娘ってすんごいなぁ……あれぐらいの歳の人でも、僕なんかより全然力があるんだもんなぁ……」
「確かに、走る速さはともかく、単純な筋力なら歳を重ねてもあまり変わりませんからねぇ、ウマ娘というものは」
「頭巾、被ってたから気づかなかったんだよね、遠くからじゃ……ああ、恥ずかしい……誰にも見られてなくて良かったよほんと……」
結局、十個ほど入っていた鉄球のうち二つだけ抱えさせてもらい階段を登った僕。であったが、たったそれだけでも僕の腕は限界を迎え、結局下りの方は手伝えなかったのだった……あの時のおばあさんの、なんとも言えない表情……思い出すだけでも恥ずかしい、穴があったら、今すぐ埋葬されたい気分である。
「ふふふ、けれども私には全てお話してくれるのですね?なんだかとっても嬉しいです♪」
「え?えーっと、それはまあ……アルダンなら、絶対バカにしないでいてくれるでしょ?」
「もちろんですし、そもそもバカにするようなことではありませんでしょう?たった二つぶんでも、トレーナーさんはそのおばあ様の役に立てたのです。間違いなく、誇っていい事なのです」
「……ほんと、そういうとこだよ、ほんとにね?」
「?」
こんなにも自然に、相手を立てて皆が幸せになれるように仕向ける、そんな言葉をさも当たり前のように言ってしまえる、なんて。
『粋』というのは、まさしくこういう事を言うんだろうなぁ……なんだか、彼女のその美しい髪が心地の良い青空に溶けて、ますます野暮ったく、ちっぽけに感じてしまう僕の影ひとつ……
「まあ、『情けは人の為ならず、巡り巡って己がため』とも言いますし。きっとトレーナーさんにも、いいことありますよ♪」
「うーん、例えばあのおばあさんが実はとんでもない大富豪で、お礼に……って、そんなこと考えるほうが野暮ってもん、かな。向こうも僕のことなんて、すぐ忘れちゃうだろうし」
「あら、そのおばあ様に名乗ったりは、しなかったのですか?」
「黙って立ち去る方がかっこいいから……なんて訳でもなく、純粋に疲れ過ぎてそこまで気が回らなかったなあ……ま、それはそれでいいけど、ね?」
「ふふふ、かわりに私がめいっぱい褒めてあげますよ♪よしよし、えらいえらい♪」
「お、大人だから!僕だって!」
僕の頭に伸びてくる彼女の手を、僅かばかり名残り惜しさを抱えつつ、そっと躱す。教え子に慰められる程、僕は子供ではないのである。多分。
「まあそもそも、君とこうして一緒に映画を観に行ける事自体、僕にとって変え難いほどの幸せなんだけどさ……と、もうこんな時間かぁ。そろそろ急がないと、映画に遅れちゃうかな?」
「……ほんと、そういう所、ですね、貴方は」
「え、何が?」
「いいえ?さあさあ、急ぎましょう?ダッシュダッシュ、です♪」
「ええ……僕、ちょっとだけ筋肉痛なんだけど……ん?あれ?」
「どうされました?トレーナーさん?」
彼女に背中を押され、ばたばたと駆け始める僕の身体……も、束の間に、僕の視界に入り込んできた、のっぴきならない状況。
「ねえ、アルダン、あそこにいる娘……なんだか、様子が変じゃない?」
「ええと……あ、あの娘、ですか?」
僕の指さした先、歩道から外れた細い路地裏の先……そこには、なんとも不安げに眉を顰めて、ピンと両耳を立ち上げた、小さなウマ娘が一人……今にもぐずつきそうな顔模様で辺りをキョロキョロと見渡していたのだった。
「トレーナーさん、あの娘、もしかして……」
「迷子。なのかな、わざわざ子供が一人でくるようなところでもないし……」
ファッションビルや喫茶店が立ち並ぶ、恐らく子供が来ても、あまり面白くはなさそうなストリート。そんなところに一人で立ち尽くしているなんて、明らかに普通では無いことは一目瞭然。昼前の時刻でそれなりに人通りはあるが、しかし親御さんらしき人影はなく、誰も彼女の事を気にする様子も無し……
と、例によって例のごとく、僕がぶつぶつと状況観察に務めていると……
「どうしたの?貴方、一人なのかしら?」
「……!」
僕よりずっと、ずっと早く彼女に近づいて、目線を合わせて語りかけ始めたのは、もちろん、メジロアルダンであった。
ああ、やっぱりそういうところ、なんだよな。彼女はきっと『手伝わなくても大丈夫な理由』なんて野暮ったいこと、一瞬でも考えることは無いのだろう。
「……おねえちゃん、たちは?」
「そうね、まずは自己紹介からね?私はメジロアルダン、こちらは私のトレーナーさん」
「……トレーナー、さん?」
「は、ははは、どうもー?」
バツの悪い心を懐にしまいながら、僕も慌てて彼女達に駆け寄った。近くで見ると尚更小さいな、小学校低学年くらいだろうか。やんちゃそうなピンクのランニングシューズとは裏腹に、その瞳には今にも決壊しそうな程の涙が溜められていた。
「……誰か、知ってる人がいなくなっちゃったの?さっきから随分、辺りを探し回っているようだけれど?」
「……う……うぅー……」
「言いたくないなら、言わなくても大丈夫。けれども、落ち着いてからでいいから、貴方の会いたい人のこと、私達にも探させてほしいの……いい、かしら?」
「………………」
どこからどう見たって、『迷子』のウマ娘。けれども、そうだな。
自分が『迷子』だなんて、わざわざ言われて気持ちのいいものではないだろう。このくらいの年頃の娘ならば、尚更だ。だから、それが分かっているからアルダンは、そんな野暮な質問なんてしない。全て彼女に委ねて、彼女に『お願い』をする。一瞬のうちにそんな判断ができるなんて、本当に、やっぱり彼女は凄い娘だ。とても僕なんかが、真似できるようなことじゃない、か。
「……おばあちゃん」
「おばあちゃん?いなくなっちゃったの?」
「ううん、おばあちゃんと、ここでまちあわせ……けど、おばあちゃんぜんぜんこない……」
「待ち合わせ?おばあちゃん何時くらいに来るって言ってたの?」
「十時ぐらい……」
「十時って、トレーナーさん……!」
「ああ、もう一時間以上は経ってるね……」
「どうしましょう?もしかしたら、何かどこかで、良くないことに巻き込まれていたり……って、トレーナーさん、どうされました?」
「……………………」
……そうだな、真似なんて出来やしない。けど、僕は、僕のやり方で。
じっくりと、彼女の身なり、手振り、口ぶりを。観察し、考察する。他ならぬ、僕がアルダンと毎日毎日繰り返してきたことである。
「……ジュニアレースクラブ」
「はい?」
「もしかして君は……レースのクラブチームとか、どこか、入ってたりするのかな?」
「……はいってる。けど、どうしてわかったの?」
「やっぱり?いやね、僕、トレセン学園のトレーナーだからさ。才能のある娘は、こう……ビビッ!ときちゃうんだよね?」
「と、トレセン学園……!」
先程まで涙で潤んでいた彼女の瞳が、また、別の意味で煌めきはじめた。ここまでは読み通り……と、いう訳で、ここで最後の『ピース』を、当てはめる。
「そうだな……見たところ君は、レースに重要な体幹に優れている。トレセンで例えるなら……あの『ジェンティルドンナ』に近いかもね?」
「ええと、トレーナーさん?突然何を……」
「……ジェンティル、ちゃん!?」
……どうやら、ビンゴらしい、かな。
「ん?もしかして……『ジェンティルドンナ』好きなの?」
「うん!あのね、わたしも大きくなったらジェンティルちゃんみたいに、いっぱいティアラとるの!」
「そっかそっか、じゃあさ、こないだの彼女の取材見たよね?あの……『鉄球を小さくする』トレーニングのやつ」
「……!?」
「見たー!すごかったよねジェンティルちゃん!だからねだからね!今日はおばあちゃんにお願いして、おんなじ鉄球、持ってきてもらうのー!」
「と、トレーナーさん……これって……!?」
「……いやー、ほんと、びっくりだよね?」
目を丸くするアルダンを少しだけよそにして、僕はしゃがみこみ、目の前の小さな彼女に目線を合わせる。これもまた、どこかの誰かのリフレイン。
「うん、そうだな。ジェンティルドンナは無理だけど……僕らなら、間違いなく君の会いたい人に会わせてあげられそうだ」
「?」
「君の通ってるレースクラブ、なんて名前かな?」
──────────────
「おばあちゃん!」
「あら?まあまあまあウーちゃん!どこに行ってたの〜!おばあちゃん、心配しちゃったわよ〜!」
「もうー!しんぱいしたのはウーのほう!あさごはん、お外で食べてからクラブ行くって、やくそくしたじゃんー!」
「あら……?あら!そうだったわね?おばあちゃん、すっかり忘れてたわ……」
「……なんとか、一件落着、かな?」
「ふふふ、ですね♪」
ネットで検索して探し出した、彼女が通うクラブチームの練習場所。そこに、なんとも大きな荷物を抱えて座り込んでいたのは……間違いない、シックな色合いの頭巾を被り、落ち着いた柿色の着物に身を包んだ、あまりにも見覚えのある、初老の女性であった。
「いやはや、奇遇なこともあるもんだなぁ……ほんと、びっくりしたよ、ほんと」
「そうですねぇ……それで、トレーナーさん?どうして彼女のおばあ様と、今朝出会ったおばあ様が同じだと気付いたのですか?」
「それは、まあ、さっき言った通り……こう、ビビッ!と……」
「……私には、何もお話してくれないのですね。なんだかとっても悲しいです……」
「い、いやっ!その……なんか、種明かしするのも、野暮じゃない?」
「しゅん……」
「…………あー、ええと、そのぉ……」
僕を焚きつけるための、大袈裟な芝居……なのは分かってる、分かってる……けど……もうっ!
「……そ、その。彼女が『おばあちゃん』って単語を出したときに、ふと今朝の事を思い出してさ?」
「あら!ふむふむ、それでそれで?」
「まあ、それ自体は連想ゲームというか、印象深かったからってだけなんだけど……でも、耳の形とか、尻尾の色とか、そういえば同じような雰囲気……かもなーって思ってさ?」
「まあ、確かに、言われて見れば似ているかも……ですね?」
「で、彼女ちょうどレースの練習に使うランニングシューズを履いてるでしょ?それに、ほんのちょっとだけど、アルダンが言った『トレーナー』って言葉に反応したからさ。きっと……それこそジュニアレースとか、そういうのやってる娘なのかなって」
「なるほどなるほど……しかし、そういった子は流石に沢山いますし、それだけで特定することなんて……」
「そう、だからちょっと、カマをかけてみたんだ」
「それってもしかして……ジェンティルドンナさんのお話の所、ですか?」
「……『トレーナー』って言葉には反応したけど、『メジロアルダン』って言葉には、反応しなかったんだよね。もしかしたら彼女、クラシックよりティアラ路線の方が関心あるのかも、って思ってさ。それで、今朝おばあさんが言ってた『鉄球を使ったトレーニング』……」
「なるほど……鉄球といえばジェンティルドンナさんの代名詞、ですものね?」
「正直、外れたら急にグイグイくる変な人になるとこだったから……ほんと、当たってよかったよ……」
白状して洗いざらい話す僕の事を、やっぱりちっともバカになんてせずに、顎に手を置きうんうんと頷きながら、彼女は見つめてくれていた。
「ふふふ、なんだか急に似合わない事を言い出して、びっくりしましたよ。ビビッ!となんて、一番貴方から程遠い言葉ですもの♪」
「そ、そうかな?」
「『観察して、考察する』それが貴方の本分ですもの。いい加減に私も、分かってきましたよ?」
「それは……ただ鈍感なだけだよ。君みたいに、なんでもすぐに気付けて行動を起こせる訳じゃないから、僕は」
「それでも結局、貴方はあの二人の事を見事に助ける事が出来たではないですか?貴方自身がなんと言おうと……私は、そんな貴方のことを心から誇りに思います」
「……ほんと、そういうとこだよ、ほんとにね?」
「?」
「っていうか、これ一人でもってきたの!?おとうさんかおかあさんにてつだってもらってって、言ったでしょ!」
「これくらいなら私一人でも、なんて思ったのだけれど……流石に、なかなか難しかったわね……ごめんねウーちゃん……おばあちゃんのせいで沢山心配かけちゃったわね……」
「ほんとに……ほん……と……うぁぁ……おばあちゃぁん……!」
「ああ、ウーちゃん……ごめんねぇ、ほんとうにごめんねぇ……」
「ん、ううん……ウーも、きゅうに、てっきゅう……ほしいなんてわがままいって……ごめん……なさいぃ……」
逞しく、ギリギリで保ってきた彼女の瞳に溜め込んだものが、ボロボロと音を立てて流れ出していく。その様子に、僕も、そしてきっとアルダンも、釣られてじんわりと熱いものが込み上げてくるのだった。
「……まさか、一日に二度も助けられるなんてねぇ。本当に、ありがとう、お兄さん?」
「え?ああ、いいえいいえ。大したことじゃないですよ?」
しばらくの後、僕に話しかけてきたおばあさん。ドタバタしてて今朝は気が付かなかったが、なるほどなんとも、優しげな笑顔で、きっと本当にいいおばあちゃんなんだろうな……なんて。
「ずっと心残りだったの。今朝は、お名前聞く余裕もなかったから……」
「……いいえ、いいえ、僕なんて名乗るほどの者じゃ……」
「この方は、私のトレーナーさんです♪そして私はメジロアルダン、以後、お見知り置きを……♪」
「ちょっ……!今度こそ粋に決めるチャンスだと思ったのにぃ……」
「あらあら……それじゃこれ、少ないけど、ほんの気持ちだから……」
「……ああ、それは、それは本当に遠慮します。ね、アルダン?」
「ふふふ、そうですね?」
「あら?遠慮しなくてもいいのに……」
「それは僕たちよりも、お孫さんに。彼女、ここに着くまで本当に、本当に少しも泣いたりしませんでしたから……だからちゃんと、沢山、褒めてあげてください」
「……ふふふ、貴方たち、本当に『粋』な人達ね?私だって、この御恩、一生忘れないわ?」
……なんか今、おばあさんの懐からちらりとものすごい迫力の札束が見えたような気がしたけど……まあ、きっと気のせい、だろう。
「それじゃあ、僕らはこの辺で……」
「ふふふ、本当に本当に、ありがとうね?トレーナーさんに、メジロアルダンさん?」
「ありがとー!お兄ちゃん!お姉ちゃん!いつかウーがトレセン学園に入学したら……その時は絶対、お姉ちゃんと一緒のレース出るからー!だから、待っててねー!」
「ふふふっ……それはそれは……」
「もちろん、受けて立つ!」
思い切り拳を突き出して、ありったけの笑顔を返してから、僕らは彼女達に背を向けて歩き出す。雲ひとつない、清々しい程の青空が広がる日曜日の、昼間。そんな情景に、やっぱりなんだか、僕は誰かの面影を感じていたのだった。
「ふふふっ……さてと、映画の時間はとっくに過ぎてしまいましたが……♪」
「それを言うのは、野暮ってもんだよ?ちょうどいい時間だから、お昼ごはん食べてからチケット取り直そうか。ね、アルダン?」
「あら、では何を食べますか?」
「なんだっていいよ、僕は……君と食べるものなら、なんだってとびきりのご馳走だ」
「……ほんと、そういう所、ですね、貴方は」
「え、何が?」
「いいえ?さあさあ、急ぎましょう?ダッシュダッシュ、です♪」
「ちょ……僕、まだ筋肉痛なんだってぇ……」