メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
月色ホライズン
「月が、綺麗だね」
「……!と、トレーナー、さん?」
「ん?だから、ほら、『月が綺麗、だね』」
「………………」
「…………?」
トレーニング終わり、薄ぼんやりした頭で夜空を眺め歩く、僕とアルダン。本当に他意もなくこぼした僕のつぶやきに、何故だかアルタンは、その愛らしい両の耳をピコピコと天に掲げ……
「……あっ!?ああ、ええと、今のはその、変な意味じゃなくって!」
「っ、ふふ、ふふふっ……!」
直後に思い当たる、彼女のその湿っぽい反応の意味。思わず足をもつれさせながら慌てて訂正する僕の姿を、彼女は思わずといった様相で、口元に手を置き、くすくすと見つめていたのだった。
「ほんと、凄く綺麗な月だなぁーって、ほんと、そう思ったんだよ、ほんと」
「……そう、ですねぇ。であれば」
「アルダン?」
「私、『死んでも、いいわ』」
「……!」
瞬間、ぞくりと背骨に走った、悪寒。
当然ながら僕だって『月が綺麗』という言葉に対する返答として、この台詞がしばしば用いられていることくらい知っている。知ってはいる、の、だが。
『死んでもいい』
過敏すぎるのかもしれない、過保護すぎるのかも、しれない。けれどもやはり、そんな言葉が他ならぬ彼女の口から溢れ出したこと。その事がなんとも、僕にとって絶対に、絶対にあってはならないことのように思えたのだった。
「………………」
「……トレーナーさん?」
「あっ、ああ、えっと、その……」
「ふふ、申し訳ございません、驚かせてしまって。本当に死んでしまう訳ではありませんよ?今のは……」
「いやいや!知ってる!知ってるよ?有名な意訳、だよね?」
「あら、ご存知でしたか?」
『死んでもいいわ』……確か、『貴方に委ねます』という言葉の意訳、だったか。ついでに言うまでもないだろうが、『月が綺麗ですね』というのは『愛しています』の意訳……まあ、真偽の程はさておき、たしかになんとも示唆的でロマンチックな台詞だと、文学なんかちっとも齧ってなどいない僕でも、間違いなくそう思う、が。
「知ってはいる……けど、どうなんだろうな。どうして『貴方に委ねる』が『死んでもいい』に繋がるんだろう。いやはや、やっぱり偉人の感性というものは、なかなか理解し難いものだなぁ……」
「ふふふ、トレーナーさんはきっと『死んでもいい』だなんて、人生で一度も思った事がないでしょうからね?」
「……まあ、そうだね?」
図星をつかれて、思わず虚空に向けて目線を追いやる僕の姿を、ますます微笑ましそうに見つめてくるアルタン。何かしら反論しようとも思ったが、訂正するようなことも特に見つからない。彼女の言う通り、僕という人間は『そういう奴』なのだ。
「美味しい食べ物をお腹いっぱい食べても、また明日にはお腹が空いちゃうし、大好きだった漫画が完結しちゃっても、その頃にはまた、別の漫画を好きになってる。辛いこともしんどい事も、やり直したいと思うことも沢山あったけどさ、確かに、『死んでもいい』だなんて、考えたことがないんだよ、僕は」
「やはり、そうでしょうね?流石トレーナーさん♪」
「いいや、流石なんてもんじゃないよ」
そして、そうだ。僕は『そういう奴』が、ずっと昔から、嫌いだった。
『死んでもいい』と思った事がない。ということは、今まさに『死んでもいい』と思っている相手に寄り添ってあげることが出来ないということ。太陽がその光で、時にあらゆるものを焼き殺してしまうように、優しく寄り添いたい、守り育みたいと口では宣いながら、僕は時に、誰かを焼き殺してしまうのだ。その事が、自分の『光』が、僕は時々、無性に憎たらしくなる。
が、それでもそうだ、『憎たらしく』はなるが、『死にたく』は、ならない。自己愛か、保身か、とにもかくにも、『本気』なんかじゃないのだろう、何事にも。
「いいえ、流石です。私なんて沢山ありますもの、『死んでもいい』と思った瞬間、なんて」
「………………」
「生まれて初めて、自分の身体の弱さを自覚した時。親戚たちが庭を駆け回るのを、窓から眺めていた時。トレセン学園に入学するのを、両親に泣きながら反対された時……その度私は思っていました、『この世界には、私の居場所なんてないんだ』なんて……」
「…………そっ、か」
そしてそれは、彼女に対しても、そうだ。
僕は結局、彼女のこともまた『本気』で想ってなど、いないのだろう。
彼女の話に耳を傾け、ふつふつと湧き上がってきたのは、『怒り』だった。彼女に……こんなに誰よりも謙虚で、けれども誰よりもストイックに自己研鑽を重ねる、純粋無垢な一人の少女たる彼女に対して、こんな仕打ちを与える全てのものに対する怒りがどうしようもなく溢れ出してくる。彼女を傷つける全てのものを、焼き尽くしてしまいたくなる、そんな衝動に駆られてしまう。
しかし僕には、そんな彼女に寄り添うこと……彼女と『共感』することは、どうしてもできなかった。
この世界に彼女の、メジロアルダンの居場所がないなんて、そんなこと露ほども思えなかった。思えなかったし、彼女がどうしてそんなことを想ってしまうのかが、解らなかった。周囲からそんな仕打ちを与えられながら、それでも他人にその責を問うことをしない、何もかも自分の内面にしまい込んで、自分の内面をただ、傷つける。彼女の行動が、精神が、僕にはとても、理解出来なかった。
すなわち僕は、彼女に寄り添うことなんて、出来ない。
何かを焼き殺す鮮烈な太陽にはなれても、暗闇の中の道標にはなれない、彼女を癒す月には、とてもなれそうにはない。果てしなく続く地平線で分かたれているかのように、僕と彼女は、やはり真に交わる事なんて出来ないのだろう。
「だから、トレーナーさん」
「…………?」
しかし、それでも、そんな僕にすら寄り添おうとするように、彼女は優しく言葉を紡ぐ。なんとも綺麗な月光が、僕の身を、優しく照らす。
「私はそんなトレーナーさんのことを、心から尊敬しているのです」
「尊敬?」
「ええ、『死んでもいい』と思った事がないなんて、本当に凄いことです。間違いなく、貴方が『強い人』である証です」
「……それは、どうだろう。ただ今まで運が良かっただけ、死にたくなるような事に出くわさなかっただけ、なのかもしれないよ?」
「いいえ、いいえ。そんなことはありません。私と共に、死ぬほど『苦しんで』くれるトレーナーさんを、ずっと見てきましたから」
「……苦しんで?」
「……ええ、そうです♪」
胸の中に、すとんと収まる感情。そうか、僕は。
「……僕は、ちゃんと『苦しめて』いたんだな」
「ふふ、ようやく解りましたか?トレーナーさん?」
「……ずっと、どこか自分のことを『本気』じゃないと思っていたんだ。『死んでもいい』と思えるようじゃないと、『本気』とは言えないのだろう、と」
「本当は、そんなことはないのです。『死んでもいい』と思えないのは、ただ、貴方が『強い人』だから。絶対に、誰がなんと言おうと、貴方は誰よりも苦しみながら、誰よりも『本気』で、私に寄り添おうとしてくれているのですよ?」
「……本当に?」
「ええ、暗いことばかりの私の生涯ですが、それでも、今は。貴方が本気で苦しみながら私を照らしてくれる、私に寄り添う、光になってくれるのです」
胸の奥を、ずきんと掴まれたような、そんな感覚が少し心地よく僕に響いてくる。
そうか、そうだな、『共感』なんてしなくても、こちらから彼女の闇に足を踏み入れなんてしなくても、僕はきちんと、彼女に寄り添うことが出来る。太陽の光が月の光を生み出しているように、僕はそのままで、彼女を照らすことが、できる。
「なので今は、これからは、私の身も心も『貴方に委ねます』。委ねたいのです、トレーナーさんに。私の全てを守ってくれる、強い、強い、貴方に」
「……うん、別に本当に、僕なんか強くもなんともないけどさ、それでも君の事だけは絶対に、絶対に、守るよ、約束する」
「ふふふ、ありがとうございます♪」
そしてそんな僕を照らし出してくれる、彼女の満面の笑み。とても眩しくて目がくらんでしまうけれど、それでも、目を逸らそうとは、思わなかった。
「そして……私はもう二度と、自分から死んでもいいだなんて思うことはありませんが……けれども、もしも貴方が望むのなら……私、『死んでも、いいわ』」
「……!」
「なんて、ふふ、いかがでしょう?少しは理解、出来ました?」
「……ああ、うん、なんとなくだけど、解ったよ。確かにこれは、いい文章だ」
「ふふふ、良かったです♪せっかくですのでトレーナーさんも文学を嗜んで見ませんか?おすすめの本、たくさんご紹介しますよ?」
「それはいい提案だね?何冊でも、何十冊でも……『君に委ねる』よ?」
何を紹介しようか、なんて夜空を眺めながら指折り数える彼女を、薄ぼんやりした頭で更に眺める、僕。
本当に、心から、たまらなく、今宵は『月が綺麗』だった。