メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
うるわし
うるわしの月が、ミラーボールのように宵の街を照らし出す、土曜日、午後七時。
開き始めた桜の香りも、終わりかけのコロッケ屋の匂いも振り切って、広がり行く歩幅もそのままに、彼は今、彼女のもとへとただ走っていた。
「くそ、おっそいなぁ……!」
己の、イメージの三分の一程の速さでしか動かない腿を叩くと、もどかしさと狂おしさが空っぽな彼の身体に反響し、染み渡る。そんな、なんの取り柄もない空虚な己の身体をふと横目に、彼はただ一人、想い馳せる。
この世に生まれて二十数年あまりの間、恥ずかしげもなく不完全なままで生きてきた。三日月みたいに、不完全なままでもそれはそれで綺麗なもんだと、自分を肯定してきた、はずなのに。今の彼はただ、彼女と共に居たいと想った。『君という僕の三分の二と共に、一片の陰りなく光っていたい』と、そんな事を、想っていた。こんなことを言えば、きっとまた彼女に『欲張り』だと嘲笑われてしまうということは、解っていたのだが。
約束の公園、夜空のよく観える丘まであと少し。できることならあの月から糸を垂らして、世紀の大怪盗のようにロマンティックに登場出来たらいいのにな。なんて酷い妄想を垂れ流しながら、彼は宵の街を、まだまだ、駆けていく。
始まりは、ちょうど二十八日前だった───
──────────────
トレーナーは奮起した。
必ず、かの秀麗皎潔のウマ娘、メジロアルダンを喜ばせなければならぬと決意した。
トレーナーには女性心が分からぬ、トレーナーは、トレセン学園のトレーナーである。笛を吹き、ウマ娘を走らせ、時々理事長の無茶振りに走らせられて暮らしてきた。けれども己が担当ウマ娘、メジロアルダンの一挙手一投足については、人一倍に敏感であった。
きょう未明、トレーナーは自室に飾られたカレンダーを一枚、力強く破り捨てた。彼の毎月の恒例行事であるが、普段よりもうんと力がこもっていたのは、そこに現れたのが他でもない、三月のカレンダーであったからだ。
花が色付き、雪解け水は清流に流れ込む、三月という暦。街中が暖かい気配に包まれる皆大好きな暦なのであろうが、殊更このトレーナーに関しては、その意味合いが違っていたのだ。
彼は真赤なインクで、その月の『二十八日』に二重丸を書き込んだ。他でもない、それは彼の教え子、メジロアルダンの誕生日であった。
教え子と師という関係でありながら、トレーナーは彼女の事を深く敬愛していた。彼女に出逢って数年あまり、ただ漠然とした理想を抱えてトレセン学園の門を潜り、しかして何も無しえぬまま漫然と、霞のような日々を過ごしていたトレーナーにとって、その命を燃やすような勢いで万進を続ける彼女との出逢いは、実に鮮烈なものであったのだ。
それから、彼は彼女に沢山の事を教わった。自らがレースの知識を彼女に教え込む、その何十倍の事を彼女から教わっていた。美術館やオーケストラの楽しみ方、花を見て安らぐこころ、夕陽を見て切なくなるこころも、みんな、彼女が教えてくれたものである。
故に、トレーナーは奮起した。必ずやこの誕生日、普段貰っているもののさらに何百倍、麗しの彼女に対してその感謝をお返ししなければならないと、固く心に誓ったのである。
先月、理事長の手となり足となりバ車ウマの如く働き詰めた甲斐あって、本日と、それと二十八日当日の二日間は、一切の邪魔が入らない完全な休日を賜る事と相成った。トレーナーにとってそれは、実に半年ぶりのことであった。
◆
朝食を適当に済ませて、トレーナーは部屋を出る。早朝七時の朝日に瞳が焦げ付くのも厭わず、彼は最寄りの駅まで走り始める。彼女に最高の誕生日を過ごして貰う為に必要な事、トレーナーには、ひとつ考えがあった。
プレゼントである。昨年は百八本の薔薇、一昨年は真白な時計を既に贈っているのだが……あれ、時計?時計なんか贈ったっけ?なんかそれ一昨年じゃなく、なんならもっと未来の話じゃなかった?
まあ、それはそれとして。
今年は更に、昨年までを凌ぐような豪華なプレゼントを贈るのだと、トレーナーはそんな計画を密かに、尚且つ鼻息荒く企てていたのである。彼女があっと驚き、心から喜んでくれるような、生涯忘れられないプレゼントを。そして今日という日はそんな彼女へのプレゼントを吟味し、用意しておくべく、街へ繰り出そうという算段なのであった。
そうこうしているうちに、トレーナーを載せた列車は目的の街まで辿り着いていた。高級なブティックが立ち並ぶストリート、普段嗅ぎ慣れぬコスメとコロンの強すぎる香りに、トレーナーは列車から飛び出た一歩目で昏倒しかけたが、何とか持ち直し、足を踏み入れる。
アルダンの付き添いとして何度か歩いたことのある通りであったが、男身ひとつでやってきたのは、これが初めてのことであった。この通りには彼女のお気に入りの服屋がある、常連の雑貨店も、行きつけの美容室もある。彼女の喜ぶようなものを探すには、間違いなくうってつけの場所である。立ち並ぶショーウィンドウには、一見では読み切れないほどの0が並んだ値札があちこち散見されたが、給料半年分の貯金をパンパンに財布に詰め込んだ今のトレーナーにとっては、それほど動じることでもなかった。
トレーナーは一先ず、真っ先に目に付いた服飾店に立ち寄った。トレーナーには女性心が分からぬ、故に女性に喜ばれる、流行りのプレゼントなどというものももちろん分からぬ。けれども己が担当ウマ娘、メジロアルダンの一挙手一投足については、人一倍に敏感であった。
彼女がしきりにトレーナー室に持ち込んでいたファッション誌、それを囲って彼女と交わした会話を、トレーナーは覚えていた。『春物の薄手のスカート』。それが今の彼女の、最も欲しいものだという事を、である。
「いらっしゃいませ、ようこそお越しいただきました。本日は何をお探しでしょうか?」
「あ、はい!春物の……」
そうと決まれば話は早い。トレーナーは早速手近に寄ってきた恰幅の良い壮年の男性店員に対して、口を開いた。
「……春物、の」
「…………?」
開いた口もそのままに、トレーナーは沈黙した。トレーナーには女性心が分からぬ。そして、彼女のウエストのサイズも分からぬ。その腰周りが、まるで己が両手に収まってしまいそうな程細く麗しいことだけは分かっているのだが、果たしてそれが具体的に何センチ程なのか、分からぬまま暮らしてきた。
けれどもコンプライアンスに対しては、人一倍に敏感であった。今この場でアルダンに連絡を取り、理由も告げぬまま彼女のスリーサイズを聞き取るという愚行は、さしもの担当トレーナーであっても許されぬことだということくらいは、理解していた。
「………………」
「……あの、お客様?」
トレーナーは思案した。トレーナーは、こんなところで言うのもなんだが、けっこう頭が回る方である。そうだ、春物の薄手のスカートはまた今度、誕生日とは関係ない普通のプレゼントで渡すことにして、今回は別のものを……例えばアクセサリーの類なんかは、身体のサイズなど全く関係がない筈だろう。ということを、わりとすぐに思い付いた。
そうと決まれば話は早い。トレーナーは早速手近に寄ってきた店員に対して、口を。
「ええと……春物、とおっしゃいましたかね?ご自身でお召しになるものでしょうか?」
「あ、ああ、ええと……」
「………………」
「……はい、そう、です」
トレーナーは嘘をついた。
否、嘘をつくつもりでは全くなかったのだが、『大切な女性への、贈り物です』などという人生で一度たりとも口にした事の無い言葉を言い放つのが、ここに来てなんだか酷く、小っ恥ずかしくなってしまったのである。
「左様でございましたか!では早速採寸から始めさせていただきますね?ささ、早速フィッティングルームへ……」
「あ、ああはい、はい……」
「お荷物お預かり致しますね?それと、こちらフィッティング用の下着となりますので、着替えられたら、お召し物はこちらへお願いいたします」
「えっ?そんなに本格的に測るんですか?これ下着っていうか、ほとんどまっぱだかじゃ……」
「ええ、洋服は常に肌に触れるもの!一ミリの狂いもない採寸を行い、完璧にフィットしたお召し物をご用意差し上げ、お客様の暮らしを完璧な形で彩る!それこそが、当店のモットーなのです!」
「……お手柔らかに、お願いします……」
トレーナーは、ひどく赤面した。
◆
「お買上げ、ありがとうございました!またのご来店、心よりお待ちしております!」
「………………」
吾輩はトレーナーである。名前はもうあるが、財布に入れてあったはずの半年分の貯蓄は、既に半分くらい無い。
何をしていたかとんと見当がつかぬ、なんでも豪華絢爛なブティックの中でウンウン首を振っていた事だけは記憶している。吾輩はここで初めて、月の給料よりも高い服というものを手にした。
と、そんな文章を頭の中ぼんやり描いていたトレーナーの魂が、その場で二、三分佇んだ後、ようやく現世に還ってきた。トレーナーは、こんなところで言うのもなんだが、けっこう頭が回る方である。思わぬ出費だったが、しかし年に一度の豪華なプレゼントを渡すというのに、いつものみすぼらしい服装のままでは彼女の感動だって目減りしてしまうだろう。これだって必要な事だったのだ、ということを、わりとすぐに思い付いた。
そう考えれば、先程はピンと来なかったこの紙袋の中のブラウンのフルセットだって、随分とイカして見える。まさかこんなに明るい茶色が自分に似合ってしまうなど知らなかったし、貯蓄だって給料三ヶ月分は残っているし、うん、結果オーライ!
そう、トレーナーは頭が回る方と言うより、単純にだいぶ能天気なだけの人間であった。
採寸と試着を幾万回繰り返している間に、いつの間にやら時刻は正午を越えて、太陽はぐるりと街のちょうど真上を照らしている。気を取り直したトレーナーは道の端の方で充分な発声練習をしたのち、ちょうど向かいに見えたジュエリーショップへと足を踏み入れる。
そこに並んでいたのは当然、実に煌びやかなアクセサリーの数々。やや値は張るが、けれども財布に残った三ヶ月分の貯蓄で、かなりのものは自由に手に入りそうであった。トレーナーは一息、胸を撫で下ろす。
そうと決まれば話は早い。トレーナーは火傷しそうな程眩しいショーウィンドウにおっかなびっくり目をやった。ネックレスは……お父さんから貰った特注品を彼女はいつも身に付けている、あまり被せないほうがいいだろう。ブローチは……外出時はいつも身軽で自由なスタイルの彼女には、少し重くて、邪魔になりそうだ。
一口にアクセサリーと言っても、そこには数多の種類がある。彼女が、本当に一片の曇りなく喜んでくれるものをこの中から探し当てるのは、さしものトレーナーと言えどやはり一筋縄ではいかないのであった。
「いらっしゃいませー?本日は何
「大切な女性への、贈り物です!!!」
をお探……さ、左様でございましたかー?」
発声練習の成果もあり、トレーナーは今度こそ正直に、近付いてきた背筋の通った女性店員に、自らの希望を口にした。
「よろしければ、ご予算に合わせて色々とご提案させていただきますよー?ちょっとリッチなものから、お手頃なものまで幅広く揃えておりますので!」
「おお、ありがとうございます!とにかくいいものが欲しいです!予算はそれなりに用意してるので!給料三ヶ月分ぐらい!」
「給料、三ヶ月分……?」
女性店員の提案に、トレーナーはこれでもかと首を縦に降った。くどいようだが、トレーナーには女性心が分からぬ、もちろん宝飾品の心得もない。鵜呑みにはしないまでも、ここは間違いなく専門家の意見だって取り入れるべきであろう。さしもの能天気なトレーナーと言えどそれくらいの事は分かっていたので、とりあえずその店員の、惚けたように開く口に耳を傾けた。
「……もしかして、『指輪』などお探しで?」
「指輪?指輪、かぁ……」
意識の外側から湧いて出た言葉に、今度はトレーナーの口がぽかんと開く。
トレーナーはしばし思案する。彼女が指輪の類いを付けている所を、彼はかつて見た覚えがない。とはいえ、彼女が指輪というものにまるっきり興味がないという訳でもないことを、そういえばトレーナーは、知っていたのだった。
あれは確か、昨年の六月頃。彼女が日課にしているカラフルなチラシ集めだが、その日はとりわけ気に入ったものがあったらしく、何度も何度もトレーナーに見せつけては、自分にどれが似合いそうだとか、そういうことを訊ねてきたことがあった。他でもない、それは近所の宝石店の、指輪フェアのチラシであった。
それを踏まえて、トレーナーはますます深く考えた。指輪、悪くないのではないか。まずもって彼女のその白樺のような可憐でしなやかな指先には、華やかなリングが良く似合いそうだということは、容易く想像がついた。尚且つこの小さなリングは、彼女の自由な足取りを阻害してしまうこともない。良いな、ああ、実に良い。
トレーナーの脳内はもう既に、その指先を白金色に染め上げ笑う、麗しの彼女の姿でいっぱいであった。
「……ええ、ええ!なんかこう、いい感じの指輪とか、ありませんか!?」
「はい!はい!もちろん!全力で応援させていただきますとも!」
「ん?応援?まあいいや!よろしくお願いします!」
そうと決まれば話は早い。トレーナーは火傷しそうな程眩しい視線を店員へと向け、その挙動を今か今かと待ちわびる。
「まず彼女さんの指のサイズなんですが、どれくらいか分かります?」
「ああ、それなら!まず右手の親指から小指まで、円周52.7ミリ、48.4ミリ、48.6ミリ……」
「えっ、全指把握してるんですか?怖……」
トレーナーには、彼女のウエストのサイズは分からぬ。けれども幸運にも、彼女の指のサイズは把握していた。冬のトレーニングに使う防寒グローブを、数ヶ月前共にお揃いでオーダーしていたのが、功を奏したのである。
「ふむふむ、そのサイズなら……当店で取り揃えあるのは、この辺りですねー?」
「おお、綺麗……!」
「まず、やっぱり定番はダイヤモンドですね?これなんかは凄く純度の高い石を使っていて、当店で一番人気のリングなんですよー?」
店員が真っ先に見せてくれたのは、ダイヤモンドのリング。宝石の良さなど人生で一度も感じたことの無いトレーナーであったが、照明を跳ね返し眩く輝くその姿が、まるで彼女のきめ細かい白い肌と重なって見え、思わず彼の目は奪われてしまう。
「あとは、トパーズも最近は人気ですねー?ご覧下さい、当店に最近入荷したインペリアルトパーズのリングなんですが、太陽のようなオレンジがかったピンク色、凄く個性的で綺麗でしょ?」
「あら、これも綺麗……」
インペリアルトパーズ、その色はまるで彼女の、大きく笑顔を見せてくれた時の頬の染まりのようで、トレーナーはやはり目を奪われる。
「あと、もっと個性を出したいならアメジストもいいと思いますよー?少しクールな印象がお好みなら、おすすめです!」
「おお、これも……」
アメジスト、その深く複雑に揺れ動く紫は、まるで彼女の瞳のようで……
「……どうしましょう店員さん、なんかもう、全部似合いそうで……!」
「は、はぁ……」
トレーナーは、シンプルに優柔不断であった。
「そうですね……?彼女さん、どんな方なんですか?」
「アルダンですか?アルダンはですね本当に心根から美しいウマ娘なんですよ、いついかなる時もやさしさを忘れてなくて、けどやさしいだけじゃなくてその奥底には厳しさとストイックさがあって、どんな時にも諦めず希望を捨てない強さが根底にあって、ああ、そういえばこの間のトレーニングで」
「で、できれば、できればもっと簡潔に……!一言で、お願いします……!」
「えっ、一言?一言でいうなら……」
トレーナーは、深く思考した。先程よりも更に深く深く、脳の奥底まで深く潜水するように、考えた。彼女のこの複雑な魅力を一言で貫く言葉など、果たしてこの世に存在するのだろうか。それはトレーナーにとって、まるで海底の底に眠る神秘を問いただすかのような質問であった。
「………………」
「………………………」
「……………………………」
「……………………………あの、お客さ
「強いて、言うなら」
それでも、これだけは他人任せに出来ない、してはいけないことだと、トレーナーは感じていた。たとえどんなに稚拙な言葉だとしても、こればかりは絶対に、己で導き出さなければならない。トレーナーは奮起した。
「『聡明』なウマ娘です、彼女は」
「聡明、ですか」
「ええ、たとえ誰がどう言おうと、自分の事は、自分にまつわる事だけは自分の頭で考える。自分が必要なものだけを、自分の意思で掴み取れる。そうだ、彼女のそんな所を、僕は真っ先に、好きになったんだった」
「お、おお……」
トレーナーの脳の奥底、海溝の一番下に沈殿していたのは、やはり、出逢ったばかりの頃の彼女の姿であった。なんとか言葉を捻り出して、トレーナーは再び、なぜだか気まずそうに赤面する店員にその眼差しを向け直す。
「聡明、聡明……ああ!それならこちらはいかがでしょう!」
「ん?これは……」
「『アクアマリン』です、エメラルドに近い性質の宝石で……見てください?とっても綺麗な水色でしょう?」
「──────」
店員の取り出してきたそのリングを一目見て、トレーナーは息を飲む。その姿はいつか視た、まるで何処までも何処までも、広大に拡がり続ける青空のようなロングヘアに、よく似ていたからだ。
「そしてですね、宝石には全て宝石言葉というものがあって、このアクアマリンの宝石言葉は『勇敢』『沈着』『幸福に満ちる』……そして、『聡明』」
「………………」
「いかがでしょう?もしかしたら少し予算を超えてしまうかもしれませんが……」
「大丈夫、それで、お願いします」
トレーナーに、迷いはなかった。その輝きに動いてしまったこころは、さながら、あの日と同じようであった。
「かしこまりました!すぐにご用意いたしますので、お先にお会計をお願いします!」
「はい、了解です!」
トレーナーは今度こそ、はっきりとした意識で己が財布から三ヶ月分の貯蓄を一括で取り出した。普段ではとても考えられないほどの厚みある札束を、けれどもトレーナーは一ミリだって震えを起こさず、己が意思で、トレイすら使わず、直接店員へと手渡した。全身が、燃えるように熱い。まるで夜闇の中蛹からから這い出す蝶のように、彼はその日、とうとう一人の人間として、新たな覚醒の時を迎えたのであった。
「はい!こちらお品物です!『プロポーズ』、成功するようお祈りしておりますよ!」
「えっ?」
◆
恥の多い生涯を送って来ました。
「円周46.1ミリ、彼女の左手薬指に、ピッタリ。そうだよな、給料三ヶ月分の指輪を買うって言ったら、普通プロポーズ用だと思うよな……」
自分には、彼女の喜びというものが、見当つかない、のかもしれない。そんな文章を頭の中で綴りながら、トレーナーは何処とも分からぬ公園のベンチで、一人項垂れていた。財布には、もう帰りの電車賃しか残っていなかった。
トレーナーには女性心が分からぬ、けれどもコンプライアンスに対しては、人一倍に敏感であった。朔日まで単なる教え子と師という関係であった相手から、突然己が左手薬指にシンデレラフィットする指輪を贈られれば、果たして彼女はどんな反応を見せるだろうか。考えることも、おぞましかった。
どうしてこうも自分は、何をするのもままならないのだろう。トレーナーは、はたと己が
手を見る、自分にはとても似つかわしくない明るいブラウンのジャケットと、網膜が焼け落ちてしまいそうな程眩しすぎるリングを目にして、すぐに目線を逸らす。
トレーナーには、彼女のプレゼントの買い出しすらまともに出来ない。否、プレゼントだけではない、きっと自分には何も、彼女の為にしてあげることができないのかもしれない。きっとこれから彼女が掴んでいく栄光へのチケットも、たまに安らげる居場所も、自分は彼女に、何も与えることなど、出来はしないのかもしれない。ああ、できることならこの胸を断ち切って、血も肉も全て君の色に染まった心臓を、プレゼントにできれば。そうすれば、そこまですれば、君はいよいよ笑ってくれるだろうか。
トレーナー失格の烙印を自らに押し付け、彼は矮小な己が手から、頭上へと目を動かす。
「……本当に、いい天気だな」
そこ拡がっていたのは、どこまでも拡がる広大な青空。ああ、いっそあの空全てを彼女に捧げることが、出来れば。
「……アルダン」
───すっかりと早朝の勢いも昼中の惑いも、そして夕刻の憂いも出し尽くしたトレーナーの脳髄の奥底。そこに残っていたものもまた、やはり彼女の、己が担当ウマ娘、メジロアルダンの麗しい姿なのであった。
「君も今頃見てるかな、見せて、あげたいな」
そう、トレーナーは頭が回る方と言うより、単純にだいぶ能天気なだけの人間である。落ち着きもなく、年甲斐もなく、常にちょこまかと忙しなく動き回り続けてしまう性分の人間なのだ。
それゆえ、こうして見ず知らずの公園で一人、いつまでもうじうじと項垂れていることすら、トレーナーには難しいことであった。
トレーナーは気が付いた。こちらから彼女に何かをあげられるか、ではない。既にトレーナーは、貰ってしまっているのだ。
自らがレースの知識を彼女に教え込む、その何十倍の事を彼女から教わっているのだ。美術館やオーケストラの楽しみ方、花を見て安らぐこころ、夕陽を見て切なくなるこころも、みんな、彼女が教えてくれたもの。春に咲くたんぽぽの複雑な色彩を描き見せてくれたのも、パスタとピッツァの美味しい食べ方を教えてくれたのも、彼女だ。百人一首の札を見て、かつて生きた人々のふくよかな情景を思い浮かべることができるようになったのも、今を生きる動物達の、かき分ける豊かな毛並みと香ばしい香りの生命を感じ取れるようになったのも、全て、彼女のおかげ。
故に、するのだ。どんな形になろうと、するのだ。できないかもしれないではなく、しなければならない。という訳でもなく、するのだ。食物を食べ消化する、水を飲み喉を潤す、息を吸い、吐く。それと同じように、あたりまえに、貰ったら、返す。トレーナーとしてではなく、彼女の隣を歩くものとして、でもなく、ただの一人の人間として、当然の事。昨年までを凌ぐだの、生涯忘れられないだの、そのような事を考えている暇では無い。
まるで悪霊のように丸一日トレーナーに取り憑いていた、力みが、筋肉の強ばりが、解けていく。財布の中身は相変わらず空っぽである、けれども今の彼にとってそんな事は酷くどうでもよかった。絶対に彼女の、その献身に応える。いまはただ、その一事だ。走れ!……ではなく、考えろ!トレーナー。
そして彼は、ゆっくりと瞳を閉じて、彼女のことを深く深く、想った。
メジロアルダン。『聡明』なウマ娘。
彼女の、心根から滲み出してくるその麗しさを、トレーナーは脳内で深く噛み締めた。彼女は実に美しいウマ娘である。その毛先まで常に整えられた、滑らかでやわらかい長い髪は、きっとこの世のどんなものよりも優雅な瞬きを秘めている。背後から見れば、まるでその長い髪が広大に拡がる青空のようでもあり、けれども風に靡くその細かな振動は、常に形を変えて存在し続ける、母なる大海原のようでもある。几帳面に切りそろえられた前髪も、そうだ。正面から陽の光を当てれば、それはまるでプリズムのようにその整った顔を全面照らしだし、華やかな印象を浮き彫りにする。けれどもちらりと覗いた額を見れば、そこに僅かに残る幼さを感じ取れて、胸がざわめく。優雅でおしとやかな大人の風格と、まだまだ未熟で不安定だからこその魅力が同居し、それが風の靡き、光の当たり具合で常に変化を続ける、不可思議な、キュビスム的な魅力。そしてその輪郭もそうだ、そのすっきりとしながら、高く、けれども主張は控えめに通った目鼻立ちはさながら歴史的な彫刻作品を彷彿とさせるものの、対する瞳は、まるで全てを塗りつぶさんとするほど大きく円く、その鮮やかなラベンダー色の色彩と相まって、まるであまりに遠くまで、我々が感知できぬほど奥まった先まで続いている無限の宇宙、無限の未来を感じさせる。それらが同居した彼女のその顔は、見ているだけで生物の果てしない歴史、これからも続きゆく浪漫を感じさせられて、いつまでも目を奪われる。そしてその口元もまた……
……伝えきれない。己がこの何万字にも渡る彼女への感謝は、彼女へのこころは。春物の薄手のスカートだろうとアクアマリンの指輪だろうと、とてもひとつやふたつぽっちのプレゼントなどでは伝えきれないものだということ。伝え切る為には、それこそあの青空を、否、この世界そのものを贈るくらいでなければ見合わないということ。トレーナーはその時、その事実を初めて自覚した。
では、このこころを伝え切るには、どうすればよいのか。
トレーナーは、こんなところで言うのもなんだが、けっこう頭が回る方であった。
──────────────
うるわしの月が、ミラーボールのように宵の街を照らし出す、土曜日、午後七時十分。
開き始めた桜の香りも、終わりかけのコロッケ屋の匂いも振り切った先、広がりきった歩幅を、はたと、閉じて。
「……お待たせ、アルダン」
「───────」
彼は今、彼女のもとへと、遂に辿り着いた。
ぱちりと合う視線、その長い睫毛はまるで綺羅星のように弧を描き、夜の冷たい空気に流れていく。その表情は甘く満たされ、きっとここに来るまでの間、本当に沢山の人から祝福を受けてきたのであろう事実が伺える。そして、あのうるわしい月すらバックライトにしてしまう、彼女の狂わしい程の美しさに、トレーナーはあまりにも呆気なく言葉を奪われてしまう。約束の公園、夜空のよく観える丘、本来の集合時間、五十分前のことである。
「──っ、誕生日、おめでとう、アルダン。今日は君に、渡したいものが、あるんだ」
散々繰り返してきた発声練習のお陰で、なんとかトレーナーの喉は震え、その言葉を発することが出来た。夜光虫の羽ばたきにかき消されそうなほど脆い声であったが、彼女のその両の耳は微かに、しかし間違いなく震えた、風向きに逆らって、確かに揺れ動いた。
「いつもいつも、本当にありがとうアルダン。これを、君に」
鮮烈な水色の先にほのか桃色を携えたその様子を目にして、からからの喉に唾を流し込み、トレーナーが彼女に手渡したもの。
それは、一冊の本であった。
彼女が好みそうな、クラシックな装丁に包まれた、けれどもどの本屋でも図書館でもかつて見た覚えのない一冊の本に、彼女はその大きな瞳をさらに円くする。そうして、数回こちらに目配せをしたのち、彼女はその表紙を、そっと開き視る。
───簡単な話であった。
何万字にも渡る彼女への感謝を伝え切る為には、そうだ、そのまま包み隠さず何万字でも描き出せばよい。
この世界そのものを贈るくらいでなければ見合わないと言うのであれば、世界そのものを創りだし、彼女に捧げればよい。
トレーナーの抱えた、彼女への感謝、彼女への想い、幸福を願う気持ち。
そんなトレーナーの気持ちを
今日はなんと、
小説に。
[うるわし]
──────────────
うるわしの月が、ミラーボールのように宵の街を照らし出す、土曜日、午後七時。
開き始めた桜の香りも、終わりかけのコロッケ屋の匂いも振り切って、広がり行く歩幅もそのままに、彼は今、彼女のもとへとただ走っていた。
「くそ、おっそいなぁ……!」
己の、イメージの三分の一程の速さでしか動かない腿を叩くと、もどかしさと狂おしさが空っぽな彼の身体に反響し、染み渡る。そんな、なんの取り柄もない空虚な己の身体をふと横目に、彼はただ一人、想い馳せる。
この世に生まれて二十数年あまりの間、恥ずかしげもなく不完全なままで生きてきた。三日月みたいに、不完全なままでもそれはそれで綺麗なもんだと、自分を肯定してきた、はずなのに。今の彼はただ、彼女と共に居たいと想った。『君という僕の三分の二と共に、一片の陰りなく光っていたい』と、そんな事を、想っていた。こんなことを言えば、きっとまた彼女に『欲張り』だと嘲笑われてしまうということは、解っていたのだが。
約束の公園、夜空のよく観える丘まであと少し。できることならあの月から糸を垂らして、世紀の大怪盗のようにロマンティックに登場出来たらいいのにな。なんて酷い妄想を垂れ流しながら、彼は宵の街を、まだまだ、駆けていく。
始まりは、ちょうど二十八日前だった───
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───────
────
「…………………………」
「…………………………」
僕は一体、何をしてるんだ?
トレーナーは……いや、僕は困惑した。彼女の誕生日に浮かれきった故の、自らの行いに。というか、シンプルに頭がおかしいんじゃないか?誕生日プレゼントが自作の小説?正気か???
「…………………………」
「っ……!っ……!」
っていうかアルダンもアルダンで、なんでこの場であんなに熟読してんの?もう十分は経ってるよ?出来れば帰ってから読んで欲しかったんだけど?ああ、恥ずかしい恥ずかしい……穴があったら、今すぐ埋葬されたい……
パタン……
「っ……!あ、アルダン……」
「………………………」
「あ、ははは、ど、どうだった?さ、さてさて、余興はそれぐらいにして、今日は本命の……そうだ、ディナー!ディナー一緒に食べに行こ!」
きっちり、最終ページの隅の隅まで目を通してから、ようやくその本を閉じてくれたアルダン。もちろんディナーの予約なんてしてないが……ええと、この辺で飛び込みでも入れそうなレストラン……レストラン、は……
「……アルダン?」
……知恵熱でオーバーヒートしそうな程、脳内を掻き回す僕に向け、彼女は真っ直ぐに、暖かくも冷たくもない、まさしく三月末の夜風のような視線を送る。もはや他の何にも例えようのないそのうるわしい姿に見蕩れていると、ただ、ほんの一言だけ、彼女は僕に囁いた。
「へんなひと♪」
僕は、ひどく赤面した。