メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』   作:いずさわ

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君を、傷つける。/君を、守る。




2024/11
Sharon


「…………居る、ね」

 

午後五時二十二分。定期トレーナー面談を終えた僕は、いつも通りの、とっくのとうに見慣れてしまったトレーナー室の扉の前に、独り立ち尽くしていた。

すっかり日が落ちるのも早くなり、既に薄暗さに包まれる廊下。と、同じように、磨り硝子越しに見える部屋の中もまた、夜闇がするりと入り込んできたような漆黒に染まっていたのだった。

けれども、間違いない、『居る』。

 

「……入るよ」

 

大きく深呼吸をして、激しくなる動悸を抑えつつ。静かに、音を殺しながら、ゆっくりと僕は、扉を開いた。

 

「ただいま、アルダン」

「……………………」

 

思った通り、カーテンまで閉め切った真っ暗な部屋、その中心で。

彼女は、『メジロアルダン』は、糸が切れて捨てられた操り人形のように、ソファの上で黙って四肢をふらつかせていた。

 

「………………」

「………………」

 

反芻するようにゆっくりと扉を閉め、僕は何故だか無駄に足音を立てないように、部屋の奥の棚まで歩みを進めた。そんな僕の様子をチラリとも視界に入れずに、彼女は相変わらず、項垂れている。

 

「コーヒー、で、いいかな」

「………………」

 

一音たりとも返ってこない答えを確認して、僕は湯沸かしポットと、マグカップを二個と、ドリップコーヒーのパックを二個、棚の中から取り出した。ポットに水を入れて、コンセントに刺して、ぱちりとスイッチを押して。

 

「……よい、しょっ、と」

「………………」

 

マグカップとパックを机に置いて、彼女の隣に、腰掛けた。

 

「………………」

「………………」

「………………」

「………………」

 

じわじわと温度を上げていくポットの電子音だけが響く部屋で、ほんの少しだけ彼女の肩に、僕の肩を寄せてみる。こんなに、こんなに華奢で線の細い肩に、彼女は未だ、どれだけの荷物を抱えているのだろう。

暗闇の中、消え入りそうな彼女の姿を目の当たりにして、僕の中の恐怖心もまた熱を帯び始める。けれども、だけど、無機質な電子音に混ざった、確かな温かみを持った彼女の息の音に気付いて、なんとか僕も、落ち着きを取り戻すのだった。

 

「寒い……?寒い、よね?ほんと、十二月にならないと暖房使っちゃダメって、ルール変えて貰えるよう理事長に頼もうかな?」

「…………」

「待ってね?もうすぐお湯沸くからさ、コーヒー飲んで、あったまろうね」

「…………」

「……日、落ちるの早くなったね。夕陽はなかなか見れなくなっちゃったけど、星は見やすくなった、かな」

「…………」

 

ぴくりとも動かない彼女の耳に向かって、とりとめのない世間話を、いつも通りのトーン……に努めながら、淡々と語りかける。冷たいはずの部屋の中、じんわりと額に汗が浮かんできた。

 

「……アルダン、ごめんね」

「…………」

「いつも、ごめんね。ずっとずっと、君に頼りっきりの、情けないトレーナーで、ほんとに、ごめん」

「…………」

 

つい、こぼれ落ちた『ごめんね』の四文字。そう簡単に使う訳にはいかないと分かってはいるのだが、どうしても治らない、僕の情けない癖。けれども、そんな言葉を受け止めて、彼女の両の耳は不意に、風に揺蕩うように僅かに動き始める。

 

「……アルダ」

 

ぱちり。と、僕の言葉を遮るようにポットの電源が落ちる。もくもくと立ち上がっては空に消えていく蒸気をしかとこの目で確認して、僕は少し咳払いしてから、早々に立ち上が……

 

「……!」

 

突然、僕の腕に触れる、柔らかな感覚。彼女は、メジロアルダンは、ウマ娘にしては冷たすぎる両の手のひらで僕の腕にぎゅっと掴みかかった。

ウマ娘にしては弱々しすぎるほどの力で、ぐいぐいと僕の身を引っ張る。その簡単に振りほどけそうな引力に逆らえず、僕は伸ばしかけた膝をまた折り曲げて、彼女にそっと身を寄せる。

 

「アルダン」

「……許しません、から」

「……うん」

「なんと謝っても、許しませんから、私」

 

よく振って開けたソーダのように、雨水の染み込んだ土砂のように。耐えきれず溢れ出した、弱々しい彼女の声。

 

「トレーナーさんのせいです、トレーナーさんのせいで、勝てなかったんですよ、『ダービー』」

「うん、分かってる。一秒だって忘れてないよ」

「うそ、嘘ですよ。分かってないです、トレーナーさんはなにも、わかってないです」

「……そうかも、ね」

「本当に、ほんとうに、ほんとうに。全部貴方のせいなんですよ、あなたのせいです。私が今、こんなに苦しいのも、切ないのも、貴方が、私を、負けさせたから、なん、です、よぉ……」

「…………」

 

思えば、あのレースを終えてから。彼女はどこか少し、『傷付いてしまった』ままなのかもしれない。

絶対的な覚悟を胸に秘め、弱音など一言も吐きはしない。完璧で完全な、理想通りのウマ娘。それこそが、以前までの彼女。けれども、『日本ダービー』。

あのレースを終えてから、彼女は時々、プツリと全ての糸が切れてしまうようになった。普段の姿がとても保てず、決まってこのトレーナー室に閉じこもって、泥のように沈み込む。そんな時間が、どうしても必要になってしまったのだ。

 

そして、そうだ、彼女の言うとおり。

彼女を傷つけてしまったのは、他でもない、この僕なのである。

 

「責任、取ってください、取ってくださいよぉ……トレーナー、さんっ……」

「……うん、ごめん、ごめんね、アルダン」

 

本当に、信じられない程の弱い力で、僕の胸元を叩くアルダン。蚊の止まったような痛みが、僕の骨身にズキズキと鈍く響いてくる。

けれども、僕は甘んじてそれを受け止めた。そうだ、僕は責任を取らなければならない。僕は、僕だけは、彼女が傷つく姿に、他人事になっては、いけない。

 

「どうして、勝たせてくれなかったんですか……!貴方が、私の勝利を望んでくれさえすれば、私は、私は……!」

「そう、だね。そうかもしれない。もしも、別の世界線なんてものが存在して、こんなに面倒臭くない、もっと的確で完璧な人が君のトレーナーだったなら。君は今頃、その人の指示でいとも簡単に、いくつもG1タイトルを取ってしまうような、そんなウマ娘になれたのかもしれないね」

 

きっと、世の中の大多数の人間からすれば、それこそを『愛情』と言うのだろう。苦しみ、悲しみを何もかも取り去った箱庭を作ってあげて、そこに置いてあげること。それこそ真に、彼女を『愛している』証左になるのだろう。けれども。

 

「なら、どうしてです……?どうして貴方は……それを望んで、くれなかったのですか?」

 

彼女の瞳が、僕の瞳を貫いた。泣き明かして真っ赤に腫れた、やっぱり、この世の何よりも美しい、そんな、瞳だった。

 

 

「『好き』だからだよ、君の事が」

 

 

「へっ?」

「君のその意思が、行動が、自由さが。僕は何よりも、好きなんだ。だから、君は君のままでいて欲しかった。君は君のペースで、ゆっくりと、『自分の意思』で成長して欲しいと思った。だから」

「…………」

「だから、ごめん。きっと、きっとそっちの方が何倍も辛いかもしれないけど、けれども、責任は絶対に取る。その重荷は全て、僕も背負うから」

 

あのレースを終えてから。彼女はどこか少し、『傷付いてしまった』ままなのかもしれない。そして、彼女を傷付けてしまったのは、この僕。

今更、言い訳する事もない。嫌われてしまったのなら、それでも構わない。むしろそれこそが、彼女がきちんと『自分自身を愛した』証左になるからだ。

 

だから僕は、今日も彼女を傷つける。大好きな彼女が、自らの意思で僕を嫌って、僕の元を自ら離れてくれる日が来ることを願って。

 

「……いやです」

「えっ……?」

「いやです、コーヒーは。ココアが、いいです」

「……うん、そっか、そっか。ココアの粉は確か無かったはずだから、ちょっと、自販機で買ってく」

「いやです!」

「えっ?えっ?えっ?」

「……いやです、勝手に離れないでください。私が、さ、寂しがっても、いいん、です、か?」

「えっ………………そ、れは、いや、かも……」

「………………」

「えっと、でも、ココアは……」

「飲みたい、です」

「じゃ、じゃあ、行かないと……」

「いやです……」

「……………………」

「……………………」

「…………ふふっ……」

「ふ……ふふふっ!」

 

……なんて、シリアスな思考を吹き飛ばすかのように、暗い部屋にランプのように灯る笑い声。やっぱり、僕らにこんな重苦しいのは似合わないらしい。

 

「はぁ……もう、帰ってくるの遅いですよ、トレーナーさん?可愛い担当ウマ娘を一人にさせるだなんて、どういう了見なのですか?」

「う……ご、ごめんね?今日の面談、樫本さんだったもんで……」

「言い訳は結構、ちゃんと行動で示してください。責任、取ってくれるのでしょう?」

「も、もちろん!何本でもココア飲ませてあげる!」

「ふふふっ、何本でもは要りませんよ?甘すぎて、そんなに飲めませんから」

「あ、はは、そ、そうだよねー?」

「なので、ココアと一緒にいただくお茶菓子も所望します♪」

「……ははは、仰せのままに……」

 

……けれども、もしも。本当に彼女が彼女自身の意思をもって、それでも、僕の事を好いてくれるのなら……

 

……いや、やっぱりまだだな。まだ、早い。

 

「あ、そういえば、忘れてましたね、ごめんなさい……」

「?」

 

「……おかえりなさい、トレーナーさん。今日もお仕事、お疲れ様です♪」

 

「……うん、改めて。ただいま、アルダン」

「ココア、一緒に買いに行きましょうか?それなら、寂しくなんてないはずですから♪」

 

今の所は、これで充分。これで充分、僕は、生きていけるんだ。

ポットから漏れ出た蒸気で湿っぽくなった部屋。カーテンの隙間から射し込んだのは、相変わらず星じゃなくて、無機質な街灯の明かり、けれども確かに、その光は僕らの騒がしい現在地を、今日もありありと指し示しているのだった。

 

「……うわ、外寒っ!?」

「……やっぱり、おひとりでお願いします♪トレーナーさん♪」

「え、ええ……?」

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