メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「オグリキャップ、走るんだって?」
「うわ、本当にいるよ!あそこ、一枠二番!」
「野良で敵う娘なんているのか?あのオグリキャップだぞ?」
「………………」
東京レース場、芝、2400……を模した、学園内大型ターフ。そのスタート地点に横一列に並ぶウマ娘達を、僕は間近で見ていた。
学園主催の模擬レースではない、言うなればただの野良レース、故に今回はゲートも実況も無し。だと言うのにも関わらず、どこからともなく現れる、人、人。
もちろん、と言うのもなんだか複雑だが、目的はやはり皆、『オグリキャップ』で間違いないだろう。人を惹きつける強い強い引力。まさに、まさしく、台風の目、と言った所か。
……ただ、台風の目が巻き起こすのは『引力』だけではないらしい。
「ほんとにいいの、出なくって?」
「うん……うん、いいの……アタシじゃ絶対敵わないの、分かってるし……」
「……まあ、仕方ない、よな」
背後から聞こえてくる弱々しい声を耳にして、改めて目の前の隊列を視界に入れる。確か、先程見た時は全部で十五人ほどいた気がする出走者達。今見れば、どう数えても十二人、である。
台風の目が巻き起こすのは引力だけでない、無意識に、無造作に、力無きものを弾き飛ばす『暴力性』すらも、本人の意思と関係なく、同時に兼ね備えているのだ。
「……では、皆さん準備はいいですか?」
「ああ」
「押忍!」
「はい……!」
スターター役の娘が呼びかけ、彼女達が一斉に声を上げる。それを合図に僕もまた、大きく息を吸って、クリアになった視界で各々の表情をしかと目に焼き付ける。まずは……
一枠二番、オグリキャップ。枠順決めあみだくじの結果を見た時は、運勢まで良いのかと少しゲンナリしたが……それはまあいいだろう。
彼女はまるで先程と変わらず、何かを熟考しているような……あるいは何も考えてなどいないような、なんとも読めない表情で空を眺めていた。この調子で重賞を六つも勝っていると言うのだから、やはりウマ娘というものは、よく分からないことだらけである。
続いて二枠三番、ヤエノムテキ。すぐ左隣の彼女とはまるで異なり、こちらは明確に精神統一中、と言った面持ちで瞳を閉じ、大きく深呼吸を繰り返していた。
東京、2400、となると思い出すのはやはり、ダービーでの彼女。あの時はスタミナ勝負に競り負け、終盤はまさしく精彩を欠く走り……と言ったところだったが、果たして今日は、どうだろうか。
他の子たちも……流石に日本最高峰、ジャパンカップの想定レースに名乗りを上げてくるだけあって、相応に覚悟の籠った目線を目の前のターフに向けていた。その熱量に改めて感じる、ウマ娘たちが賭ける『レースの重み』。思わず僕は、じんわりと額に浮かんだ汗を拭う……そして。
「…………」
六枠十一番、メジロアルダン。
珍しく強ばった彼女の面持ちを、こちらも真剣に見つめてみる。相変わらず、なんという完璧な造形の顔面なのだろう。優雅な佇まいとは裏腹に、やや幼さを残した優しげな瞳に、優しく弧を描く眉の角度といい……
「……?……ふふっ♪」
「……!」
……なんて、思わず緊張感も無くうわの空で見つめてしまっていた僕の目線を、これまた目ざとく見つけ出して、軽く手を振り返してきたアルダン。予想外の反応、慌てて微妙な笑顔しか返せなかった僕に呆れてしまったのか、なんなんだか……理由はどうあれ、少しだけいつもの落ち着いた表情が戻ってきたようで、僕は軽く胸を撫で下ろす。
彼女に関しては、今更語ることも無いだろう。枠番は外側の方になってしまったが、周りの情報を掬い取り、その場で戦術を組み立てる『柔軟性』が持ち味のアルダンにとっては、スタート直後に全体を見渡せるこの位置はむしろ好都合とも言える。
予習も無し、心の準備も無し、持てる手札が限られている中で、どう戦うか。不安感はどうやったって拭うことなど出来ないが、同じだけの高揚感を、無理矢理にでも叩き起こした。
「……頑張れ、アルダン」
「……では、位置について、よーい……」
パンッ……!
「……!」
「ふっ!」
「はあっ!」
開幕を告げる号砲が鳴り響き、轟々と響き始める、彼女達の足音。まるで地鳴りのようなその音が目の前から全身の血液を揺らしてくる第一ホームストレッチ。ああ、そうだ、この感触……この腹の底から響いてくる重低音が僕を奮い立たせてくれる。彼女が、メジロアルダンが奏でてくれるビートなら、尚更だ。
「……流石に、皆いいスタート……!」
横一列、綺麗なスタートを切った面々は僕の目の前を悠々と通過し、そのまま第一コーナーに向けて突進を開始する。気になる位置取りだが……
「……ふっ!」
「よし、よし……!思った以上!」
昨日降りしきった雨で荒れたまま、整備の間に合っていない外ラチ側を早々に見限るアルダン。まるで職人技のように切れ味鋭く内側に切り込んで、そのままじわじわと完成されつつある隊列の中団に紛れこんだ。スピードも殺さず、体力も使わない、彼女の頭脳もまた、今日は想定以上の切れ味と言ったところか。
「ちゃんと、息もしてる。脚も上がってる。大丈夫、ちゃんと『活きてる』よ、アルダン」
ダービーの敗戦、そしてそこで負った怪我が完治するまでの期間。通常通りのトレーニングが出来ない僕らが、代わりに拘り抜いたのは、『呼吸』であった。
先天的に、肉体的なアドバンテージに欠ける彼女であるが、そのハンデは十二分に身体の扱い方で克服できる。それに、レースの結果は個々人の能力値だけでは計り知れない。バ場状態を初めとする『環境』、周囲のウマ娘達との『位置関係』、そして、決して無視出来ぬ『時の運』。そういった『再現性の無いもの』を味方にするには、身体に流れ込む情報をリアルタイム処理し、有益な選択を選び取り続ける必要がある。
その為に、とにかく脳に酸素を供給する。メジロアルダンの最大の武器である、脳を正常に働かせる為に、まずはその入口、『呼吸』に拘る。それが僕らの生き残る術であった。
「っと、いけない、僕だって集中集中……」
そうこうしている間に、第一コーナーにウマ娘達が次々となだれ込んでいく。ここらでようやく纏まってきた集団図を、僕は慌てて取り出した双眼鏡で覗き見た。
内訳としては、まず前に飛び出したのが、二人。おおよそ中団に位置づけたのが、五人。そして更に後ろ、後方控えたのが、四人。大きく出遅れていた娘が最後、コーナーに差し掛かって、ようやく十二人の位置取りがしっかり固まったらしい。
そして各個人の状況だが……まずはアルダン。中団グループのやや後方、全体で見れば六番手。何度も何度も身体にすり込ませてきた、前も後ろも、全体をある程度『観察』できる場所……我が担当ながら、末恐ろしい程完璧な位置取りであった。
そして、オグリキャップ。こちらもやはり想定通り後方集団の中、全体で十番手と言った位置に陣取っていた。この位置からの後半差し切り、それがオグリキャップの黄金ルートであり、中央移籍後のレースは全てこのパターンで勝利を収めている。はっきり言って教科書の一ページ目に出てきそうな、手垢の付きまくった古臭い戦術……だが裏を返せば、時代を越えるほど磐石で完璧で、『絶対』的な戦術であるとも言える。そこにオグリキャップの爆発的な加速が加われば……
例えるなら、そうだ、『武装』の違いか。多種多様な武器をその手に備え、都度取捨選択をする事で全方位全距離の相手に対応するメジロアルダンに対して、巨大な大砲をひとつ抱えて、その威力で全てを制圧し尽くすオグリキャップ。一見すると決め手に欠けるアルダンが圧倒的に不利なマッチメイクに思えるが……
「……はっ……はっ……」
「…………んん……」
「よし、よし……大丈夫、ちゃんとアルダンも、解ってる」
列の頭が、ようやくコーナーを抜け出す頃。オグリキャップが前方を見て、少しばかり眉をしかめた。ちょっとだけ不安だったが、きちんと『効いている』ようで、何よりだ。
射程内のものを全て焼き尽くす大砲。それを相手にするのであれば、一番大切なのは当然『射程に入らない事』。アルダンが入り込んだ中団やや後方の位置取り、もちろん全体を見渡せる位置である事も大きいのだが、それだけでは無い。
『対差し切りウマ娘用ポジショニング』
今、アルダンとオグリキャップの差はおおよそ六、七バ身程だろうか。本当に絶妙な『射程外だが、頑張れば届くかもしれない』距離感。この距離感こそが、このポジショニングの妙。
『今、少し前に出て抜き去る準備をしておくべきか』
『このまま、後方に控えておくべきか』
後方のウマ娘達に敢えて提示する、選択肢。
本来、差し切りウマ娘達の主戦場は最終コーナー。そこに向けて体力も脚も、そして『頭脳』も温存しておくのが基本である、が。
『あの『メジロアルダン』をこのタイミングで潰しておけば、終盤どれだけ楽になるか』
それを餌にして、引きずり出す。引きずり出せなくても、『焦燥感』さえ煽れれば。
『脳』が武器なのは、アルダンに限った話ではない。その脳を少しずつでも消耗させることは、スタミナそのものを削り取ることとほぼ同義。ダービーで得た名声すらも囮にする荒業、だが、間違いない、『効いている』。
後団の娘達がバックストレッチに切り込んでくる。レースはおおよそ中盤戦。
だと言うのに、差し切りを狙っていたはずのウマ娘達の脚取りが、一様にブレ初めていた。
『今は控えるか?』『自分から行くか?』『誰かが行くのを待つか?』『オグリに合わせるか?』
考えれば考える程、選択肢が増えていく。脳内が『混沌』に包まれる。その様があんまりにも、レース前に二人で組んだシナリオ通りで……思わず僕は膝を叩いた。
もちろん、どんな作戦にも穴はある。今回であれば、常に視認出来るとは言え、前方へのプレッシャーは手薄だということ。
しかし今回に限ればさしたる問題ではないだろう。今レースでの有力なウマ娘たるオグリキャップにヤエノムテキは、どちらも後方差し切りを得意として……
「……あれ?」
そう言えば、『ヤエノムテキ』は何処だ?
これまでのデータ的には、彼女もオグリキャップとほぼ同様の位置からの差し切りを得意としている。が、今、どれだけオグリキャップの周囲を見渡しても彼女の姿は無い。当然、前方に居る訳でもない。ある程度集団が密集しているとはいえ、見通しの良いターフの上、隠れられる場所など……
「えっ」
いや、いた。
『背後』だ。
「……!」
「ふっ……!はあっ……!」
全体で言えば七番手。彼女は、ヤエノムテキは……アルダンの背にびったりと張り付くように、アルダンの一挙手一投足を、そのままトレースするかのように脚を進めていたのだ。
「は?え?なんで?」
後方策を得意とする彼女が、先行策を得意とするアルダンについて回るというのは……自殺行為、とまではいかないまでも、相当身体に堪えるはず。だと言うのに、この中盤に至るまで気配を殺しながらそれを遂行していた、というのは……何故だ?
意図が読めない、なんとも心地が悪い。あれ程実直さを形にしたような、清々しいまでに誠実だった彼女の姿が、今はただただ、不気味に映る。
更にたちが悪い事に、そんな彼女が走っているのはアルダンの真後ろ。すなわちアルダンの本分たる『観察』が出来ない。僕から見てもこれ程薄気味悪い彼女の行動を、アルダンは、見る事すら出来ないのだ。どうするか、と言っても背に腹は変えられない。ここは無理にでも少し位置を下げて、彼女の観察に務めるのが最善……
いや、駄目だ。少しでも位置を下げる、という事は、すなわち、つまり。
『オグリキャップの射程圏内に入る』という事。
「まさか……まさか!?」
間違いない、彼女はアルダンに『スタミナ勝負』を仕掛けている。
それも、アルダンの最大の武器たる『頭脳』でのスタミナ勝負を、あの『オグリキャップ』を利用しながら、である。
『後ろに下がって、オグリキャップの射程圏内に入るか』
『このままの位置で、ヤエノムテキの不気味なマークに晒され続けるか』
提示される選択肢。しかもそれはアルダンのような『餌』による誘き寄せとも違う。
どちらがマシか、の『貧乏くじ』。それを彼女は、ヤエノムテキは、アルダンに向けてピンポイントで押し付けてきたのだ。
「彼女、そんなタイプだったか……?」
これこそ、まさしく『想定外』。まさかあのヤエノムテキが、これほど彼女らしからぬ冷徹でクレバーな策を実行に移す、とは。
……いや、それは彼女に失礼か。この世に『らしからぬ』なんてものは存在しない。存在するのは現実に起こった事象と、彼女の持つ『勝ちたい』という意思のみ。
ならば、やる事は変わらない。
その事象をひたすら『観察』し『考察』する。ただ、それだけだ。
残り1200、既にぴったり半分通り過ぎた。もう『動いてもいい頃』だろう、アルダン。
「……驚きました、けれども私は、意外とは思っていませんよ。ヤエノさん?」
「ふっ、走りながら話す、とは、余裕そうです、ね?」
「……少し前、セイウンスカイさんに釣りのコツを聞いた事があるのです」
「……?」
「せっかく撒き餌を撒いても、お魚さん達は警戒して、すぐには食いつかない。けれども遠くに流れていく餌を見て、だんだんと、お魚さんの方が焦って、いずれ我先にと食らいついて来るのだと。そして……そこを『釣り上げる』のだ……と」
後退も地獄、現状維持も地獄。となれば、進むべき道はひとつ。
『前』だ。
「ふんっ!」
「……何っ!?」
メジロアルダンが動き始めた、後方ではない、前方にである。ぴったりと張り付いたヤエノムテキを引き剥がすように、五番手……四番手と順位を上げていく……が。
「なんだ……?引き剥がしたつもりか……?」
アルダンがかけたのは、スパートでは無い。終盤用の脚を残した、緩やかな加速。
「笑止!その程度なら簡単に着いて……」
だが、それで充分。
充分に、釣れてくれたようだ。
「う、うぁあああああああっ!!」
「はあっ……!はあっ……!」
「……!?」
ヤエノムテキの横を通り過ぎて行ったのは、他でもない、『今まで後団で控えていたウマ娘達』である。
無理もない、今までそこにあったチャンスが、ギリギリ射程に入りそうだったチャンスが、今、手の届かない場所へ離れていく。
『けれどもまだ遅い、まだ加速しきれていない……まだ、今すぐに追えば、間に合うかもしれない』
それに堪えろ、追いかけるな、という方が酷な話である。
「……えっ!?何っ!?」
「早っ……もう……!?」
そして、それが新たな『混沌』を産む。
今、混乱しているのは後団に控えていた娘達だけでは無い。突然、こんなタイミングで後団の娘達に強襲される羽目になった、中団のウマ娘達も同じである。
全てが、加速していく。まだ1000メートルもあるはずのレースが、まるで最終直線に差し掛かったかのように。
一人、ヤエノムテキを置いて。
『密集するウマ娘達の中に突っ込んで、メジロアルダンを追い続けるか』
『必要以上に消耗した身体のまま、差し切りの準備に戻るか』
団子状態になった隊列の向こう側から、一人落ち着き払った表情のまま、選択肢をヤエノムテキに押し付け返す。
彼女の焦る顔を、しかとその目で『観察』しながら。
「無礼るなよ……メジロアルダンっ!!」
「……おっ?」
彼女が取った選択肢は……前者。
猛スピードで最終コーナーにのめり込んでいくウマ娘たちの波をすり抜け、再びアルダンの背に張り付くヤエノムテキ。やはり、なんだかんだ言っても最後に頼るのは、彼女自身の胆力という訳なのだろ……
「……!?」
いや、違う。張り付いた訳じゃない。
アルダンの背に追いついた彼女は……そのまま、その勢いのまま。
彼女の真横を、すり抜けた。
「嘘だろ!?まだ800はあるぞ!?」
『スパート』だ、間違いない、彼女はもう既に最後のスパートを切っている。
それも半ば暴発的な周囲のウマ娘と違う、理知的に、自らの意思で『選択』をした、全身全霊のスパートを、である。
「っ……!」
先程とは真逆、大胆に向けられたヤエノムテキの背を目の前にして、アルダンの表情も……ついでに僕の表情も、隠す間もなく強ばっていく。土壇場で更に押し返された選択肢は、今までで一番シンプルなものだった。
『今、追うか』
『まだ、待つか』
……いや、大丈夫だ、大丈夫なはず。ただでさえスタミナに不安のある彼女。その上今日はいつもの自分と違う、先行策のアルダンにずっとずっと着いてきていたのだ。その身体は恐らくもう、消耗しきっている。きっと、そう遠くないうちに一気に逆噴射がかかる。落ち着いて、その後で追えば……
『ふっ、では私も『菊花賞前の肩慣らし』でも、させて頂くとしましょう』
思えば、あのダービーからもう五ヶ月も経ったのか。その間には、夏合宿だってあった。
そして、彼女の次なる照準は、3000メートル『菊花賞』。
その身体は恐らくもう、消耗しきっている。
ほんとうに?
「ああ、クソ……楽しいな……!まったく!」
一歩先が、見えない。一秒先が、読めない。
『混沌』極まるターフを見つめながら、それでも僕は止められなかった。自分の口角が上がってしまうのを、自分の胸が高鳴ってしまうのを。
そしてそれは彼女も、我が担当ウマ娘、メジロアルダンも、同じなのだろう。小さく、愛らしく、けれども不敵に浮かんだ彼女のえくぼを、僕はしかとこの目に
ドッ……ドッ……ドッ……ドッ……
「?」
ドッ……ドッ……ドッ…………ドンッ
──────────────
残りおおよそ600メートル、最終コーナーの中頃、我が担当ウマ娘、メジロアルダンはいよいよ今日一番のスパートをかける。
追いかける為では無い。
逃げる為に。
「ふんっ……!ぬぅうううううっ……!」
「嘘だろ……嘘だろ!?」
見誤っていた。僕も、アルダンも、ヤエノムテキも。
彼女たちが細々と小競り合いを続けていた、そこは、その場所は全て何もかも。
「…………えっ!?」
「……ふっ!」
『オグリキャップの射程圏内』だったのだ。
「アルダ……っ!」
思わず声を上げた、その時にはもう遅かった。
彼女はコーナーの大外から、一団になったウマ娘全員も、アルダンも……そして、アルダンの二手先にいたヤエノムテキさえ。一気に、『いつも通り』簡単に抜き去って、そうして先頭に立って見せた。
そうだ、彼女は……オグリキャップは結局、今日もまた終始『いつも通り』だった。アルダンがどれだけ揺さぶりをかけても、ヤエノムテキがどれだけ突飛な行動をとっても。
彼女はまるで、決められた『運命』をその身にインストールしているかのように、まるで何事にも関与せず、いつも通りに後方に控え、いつも通りに最終コーナー、進出を開始したのであった。
理由は簡単、それで『勝てる』から。
「オグリキャ……ッ……!プウッ……!」
「……!」
激情を浮かべた表情で、ヤエノムテキはなんとかオグリキャップに食らいつこうとする。が、しかし、駄目だ、脚がもつれて思うように動いていない。やはり相当な無茶を気力だけで繋ぎ止めていたのだろう。そのまま彼女は、ズルズルと後方の集団に呑まれていく。
「……はああっ!」
そんな彼女の横顔を痛ましく見つめてから、今度はアルダンがその背を追いかける。充分にスタミナを温存していたアルダンの、切れ味鋭いスパート……
いける、これは間違いない。贔屓目を除いて見ても、間違いなくオグリキャップに全く引けを取らない。いつの間にやら三バ身程開いていた彼女との差も、少しずつ、少しずつ埋まってい……
「……っ!?」
「はぁ!?まだ、まだ『加速』するのか!?」
丁度、二バ身程まで詰め寄った瞬間。そしてコーナーを抜け、最終直線に切り込んだ瞬間。
ドスン、という冷たい衝撃音と共に、彼女の身体は『再加速』を始めた。本当に、冗談ではない。
まさしく、シンプルで、純粋な力。
「ふんっ……!ぬううぅっ!うううぅっ!」
残り400、アルダンは必死に、必死に自らの脚を回す、回す。昔より、それこそダービーの日よりも更に強くなった彼女の脚、それでも。
動かない、埋まらない。まるで彼女達の間に分厚い岩盤があるかのように、まるでその『二バ身』の差は、埋まってはくれなかった。
「くそ、なんだよこれ……なんだよ、これ……!」
あれは本当に、ウマ娘なのか?あの足音、もはや『巨人』の足音のようだった。
さながら、巨人に立ち向かう人間。どれだけ脳を振り絞って、敵を欺いて、そうして攻撃を与えようと、ほんの爪先程のダメージにしかならない。スケールが違う。
今日のアルダンは、完璧だった。完璧なペース配分、完璧な作戦遂行。それで、それでも彼女に勝てないとなると。それはすなわち『絶対』に勝てないという事。
メジロアルダンは、オグリキャップには『絶対』に勝てない、という事である。
──────────────
「………………」
……それでも、それでもまだ頭を働かせるのは。
どうしても、『メジロアルダン』を諦められないから。僕の悪い癖である。
「……これは」
大きく息を吸って、目を開く。先程よりも少し広くなった視界で、この世界をしかと見渡した。
「……走り辛そうにしている、なんで?」
見つけたのは、オグリキャップの『表情』。今の彼女は珍しく、少し目を細めた渋い表情を浮かべている。まるでなんらかの『違和感』を、我慢しながら走っているかのように。
なんだ、何をそんなに気にしているんだ?何か、予想外の事があったのか?
「……そうか!バ場状態!」
ターフを丸一周して、ホームストレッチに帰ってきた彼女。コーナーの大外からそのまま外ラチ側に突っ込んできたその足元は……昨日降りしきった雨で荒れたまま、整備の間に合っていない、大荒れ状態だったのだ。
そう、このレースの最序盤、アルダンが見限って内側に切り込んだ、あの外ラチ側である。この事を事前に知ってさえいればなんとか避けられたのかもしれない、が。
しかし、そうだ。幸か不幸か、今日の彼女の枠番は『一枠二番』、初めから内ラチ側しか走っていなかった彼女に、外ラチ側の状態など知る由もない。コーナーから無理に内側に切り込まず、外ラチ側に突っ込んでしまった彼女はそこで初めてこのバ場状態に気がついたのだ。
気がついた、けれどもそのまま走っているのは……きっと内側に切り込んだ経験が彼女にはまだ無いからか。
『大外からの差し切り勝ち』が黄金パターンであるオグリキャップがわざわざ内側に切り込む事もそうそう無いだろう。だから無理に慣れない事をやって大きく減速してしまうぐらいなら、このままおよそあと200、走りきってしまう方が早いだろうと、恐らく彼女はそう判断した。そう判断したし、実際彼女の脚力があれば、それは間違いないだろう。
だがおかげで、付け入る隙が、見えた。
「アルダァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァン!!!!!!」
「……!」
僕はとびきり大きな声で、喉がひっくり返る程の大きな声で、彼女の名を、叫んだ。
深い深い眉間の皺を作りながら、オグリキャップの背だけを見つめていた彼女がちらりとこちらを見る。こちらを見て、少しだけいつもの落ち着いた表情が戻ってきた。
大きく息を吸って、乱れ始めていた歩幅も整っていく。それでいい、それで充分だ。
細かい指示なんて出せなくても、彼女は自分で『気付ける』のだから。
「……はあああああっ!」
まるで職人技のように切れ味鋭く内側に切り込んでいく、アルダン。鋭く、長く、美しく伸ばしたその脚は、さながら岩壁に突き刺す、『ハーケン』のようだった。
「うっ、ゲホッ!喉痛っ……!だけど!」
大荒れのバ場と、整った芝生。これ程のハンデがあろうとも、やはりオグリキャップの勢いは止まらない。けれども、だけど。先程よりは遥かに見通しがいい。『勝利』に続く直線の、その見通しが。
「はあぁぁぁぁぁっ!はぁああぁあぁあっ!ああぁああぁぁあぁっ!!!」
「……っ!?」
内ラチ側を猛追してくるアルダンを視界に入れて、びくりと眉を動かすオグリキャップ。けれども、残り既に100メートル。アルダンもオグリキャップも、最早小細工を謀る余裕は無い。ただひたすら純粋に、走る、走る、走る。
ほんの少しずつ、零コンマ一バ身ずつ、その差を削り取る。その鋭く尖った爪先を、何度も、何度も何度も何度も何度も目の前の岩盤に突き立てる。まさしく、『雨垂れ石を穿つ』か。
残り50メートル、残り、一バ身。
間に合うか、いや、間に合わせる。間に合って、くれる。
僕の信じたウマ娘、『メジロアルダン』なら。
『来るな……近寄るな……』
「……?」
『今は、この瞬間は……『オグリキャップ』の時代だ……!』
見つめていた、オグリキャップの背から……確かに、声がした。
偉大で、厳かで、『絶対的』な、そんな声が。
──────────────
「っ……!ぶはっ!はあっ……はあっ!」
「うわっ!だ、大丈夫?お疲れ様……」
「や、やっぱウチには、2400は、厳し、かった、わ……」
……最後、一際出遅れていた娘がようやっとゴール板を踏み切って、そして、レースは終わる。
「いやー、やっぱ凄かったな、『オグリキャップ』」
「やっぱ一人だけ次元が違うわ……出来るだけ、ぶつからないようにローテ組まないとな」
「………………」
鮮烈なオレンジ色に照らされるターフで、スタミナを絞りきって、倒れ込むウマ娘達の中で。
彼女だけは、『オグリキャップ』だけは。
立ち上がり、相変わらず空を眺めていた。
「よし、これだけやれば、きっと『タマモクロス』にだって……」
終わってみれば、結局は。覆らなかった『二バ身』の差。確かに、間違いなくアルダンは彼女をギリギリまで追い詰めていた。追い詰めて、いたはず、なのだが。
「……なんだったんだ、あれは」
残り50メートル。彼女が、オグリキャップが見せた異常なまでの加速。間近で見ていた僕には分かる。あれはまさしく、『人知を超越した』走りであった。怪物、オグリキャップは……まだそんな武器を隠し持っていたのか?であれば、僕らは一体、どう戦えば……
「ううぅ……うぉおおおおおおおおっ!!」
両膝を地に着けて、天に向けて叫んでいたのは、ヤエノムテキ。
なんとか持ち直し、三着には食い込めた……ようだが、やはり、悔しさはひとしお、なのだろう。
「……オグリキャップ!オグリキャップぅっ!」
ああ、きっと彼女もそうだ。これからも、ずっとずっと、『オグリキャップ』を意識せずにはいられない。きっと、そういう『運命』なのだろう。
そしてそれは、彼女だけではない。
「っ……ううっ……」
「何も、出来なかった……アタシ……」
「馬鹿みたい……私、ジャパンカップだなんて……」
芝生を握りしめて、涙を流して、一様に自らの無力さを噛み締める、ウマ娘達。瞳に宿っていた熱い闘志の炎も、今はひとつも、見えはしなかった。
オグリキャップの巻き起こす、竜巻のような風向き。引きずり込まれたものは決して抜け出せない。それがきっと、この世界の、この時代に生まれたウマ娘達の、『絶対』的な、『運命』。
だけど、それでも。
「トレーナー、さん」
「……アルダン」
上の空に考え込む僕を、この世界に引き戻してくれたのは……彼女の、声だった。
「申し訳、ございません。あのような大口を叩いておきながら、このような、不甲斐ない結果に……」
「…………」
彼女もまた、後悔を握りしめたように肩を落として、しおれた声で、僕に語りかける。
けれども、けれども、良かった。
彼女は、アルダンは、大丈夫だ。
「いや、ちゃんと変わったよ。僕の想像も、『未来』も」
「え……?」
「だって、ほら。君は今、泣いてなんか、いない。でしょ?」
「……!」
土埃に塗れた、傷だらけの弱々しい身体。けれども、彼女は大丈夫。熱く滾るような瞳の輝きを、今でも僕に、真っ直ぐに見せつけてくれている。だから、大丈夫。今日の所は、それで充分。
「……本当に、最高の走りだったよ。本当に、本当に、今までで一番の走りだった、いいレース、だった」
「……ふふっ、ふふふふっ……!ええ、ありがとう、ございます、トレーナーさん?」
「でも、まだまだだ。まだ、一緒に頑張ろう?今度こそ、オグリキャップに勝って……」
「待っていろオグリキャップっ!次こそは、必ずっ!!」
「うおっ!?」
「ヤエノさんっ?」
……突然立ち上がり、両手を握りしめながら叫ぶヤエノムテキ。良かった、どうやら、彼女もきっと大丈夫らしい。
「こうしてはいられない!走り込……みいっ……い……まだ、まだぁ……!」
「……ふふ、ごめん、やり直し。今度こそオグリキャップにも、ヤエノムテキにも、誰だろうと、勝とう、アルダン」
「ふふ……そうですね……トレーナーさん?」
「アルダン?」
彼女はそっとこちらに向き直り、勇ましく自らの胸に手を置いた。ほんの少し前まで、想像もしていなかった、その姿。そして。
「今日は、ありがとうございました。貴方の目と、貴方の声があったから、今日の私は、あそこまで戦えたのです。ふふ……やっぱり私には、貴方が必要みたいです。だから」
「!」
「これからも一緒に、二人で頑張っていきましょう。そしていつか……いつか世界中を驚かせてしまいましょう?二人の名前を、永遠に世界中に刻みつけるんです。それって最高に予想外で想定外でイレギュラーで……最高に楽しそうでは、ありませんか?」
「……ふふっ!ああ、ああ、そうだね。一緒に、二人で、ね?」
もしも、全て最初から決まっている。と言うのならば。
予想外、想定外、イレギュラー、そういうものを期待する余裕すらも無いのであれば。
きっと、それでも僕らは考えてしまうのだろう。考えて、実行してみて、それを楽しんでしまうのだろう。僕一人では無理でも、君となら。
二人笑いあって、ふと、空を見上げてみる。予報通り、だけど予想外に優しげな、オレンジ色の秋晴れがそこには広がっていた。