メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
「ふっ……ふっ……ふっ……!」
午前六時二十三分、朝焼けで照らされた街並みが、遠くの方で長い影を作っている。今日もまた始まりつつある憂鬱な日常を、少しだけ見ないふりをして、僕は、走った。
早朝のランニングを日課として、もう五日程経っただろうか。初めは健康促進の為渋々と言ったところであったが、何故だか今は、清々しい気持ちでいっぱいだった。
朝の、何者にも染まっていない純粋な空気を思い切り肺に流し込む。そうして全身に血液を巡らせていく。手足の指先一本一本、充分に血を巡らせたなら、それを柔めに振りかぶって、その身を前へ前へと押し出して行く。その工程が、何故だか無性に心地良い。ただ、『走る』という行為に、こんなにも本能をくすぐられるとは思ってもみなかった。
「はあっ、あと一キロぉ!」
ふと、このランニングを始めた初日の事を思い出す。ものの二キロ程軽く走っただけで、手足の先の感覚が薄れて、視界もぼやけて、もう、このまま息絶えてしまうのではないか、なんて悪い妄想に走ってしまった事を。
けれど、それでも脚を動かしてみると、見えてくるものもあった。大きく息を吸ってみると、視界が開けた。視界が開けると、下方、なんともバラバラグチャグチャに動く僕の脚が見えた。これではいけないと、少しずつ意識的に歩幅を均一にしてみると、先程よりも『楽』に『速く』走れるようになった。僕がランニングにハマった、その瞬間である。
川沿いの並木通り、誰にも邪魔されずに走る、走る。キンと締まった冷たい風が頬を流れて、それが何故だか、自らの内に宿る生命の輪郭をなぞられているみたいで、こそばゆい感覚に見舞われる。まるで『自分自身』が浮き彫りにされているような、そんな、感覚。なるほど、これはとてもやめられないわけだ。
けど。
「はあっ、はあっ……くそ、おっそい、なぁ!」
浮き彫りになるのは、なにも自分自身だけではない。自分の現在地が分かるということは、それと比較した『他者との差』だって、否が応でも解らせられる、ということである。
「ふんっ!ふんっ!……ふんんんっ!」
一歩、二歩。試しに僕は、自分の持てる全身全霊をこの脚に込めてみる。一瞬、身体が浮き上がるような錯覚を覚えて、けれども、三歩、四歩。心臓から込み上げてくる危険信号を無視できずに、慌てて、せっかく溜め込んだ力を離散させた。
このランニングコースの終点まで、残り八〇〇メートル。先行策を得意とする『メジロアルダン』ならば、そろそろ最後のスパートを見越して前方へ進出を始める頃合いか。ここまで全速力で走ってきて、更に追い込みを掛ける、なんて。改めて考えれば、いくらなんでも過酷過ぎる。果たして彼女は、一体どれ程の覚悟で毎日、毎日ターフを駆け抜けているのだろうか。思い浮かぶのは、ただひたすら、我が担当ウマ娘への尊敬と畏怖の念だった。
「っ、はぁ……しんどぉ……!」
当然の事だが、我々人間と彼女達ウマ娘との間には、天と地程の身体能力の差がある。僕が必死こいて、汗水垂らしながら走り込んでいるこの五キロメートルのランニングコースだって、彼女達にかかれば瞬く間に通り過ぎてしまう。だからこそ、僕のようなただの趣味のランニングとは違う。ただ『走り切る』以上のものを求められてしまうのが、ウマ娘という生物の宿命なのだろう。
故に、僕がどれだけ彼女の、メジロアルダンの事を真摯に思おうとも、きっと彼女の抱えた覚悟にまでは、僕の手は届かない。
真に彼女の気持ちに近付こうとしても、僕の脚はあれ程早くは動かないし、僕の心肺機能はあれ程長くは持たない。自らの身体を動かして、初めて解った。僕は彼女の『走る快感』は理解出来ても、彼女の『走る苦痛』を完全に理解する事など、やはり不可能、なのだ。
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「っ、はあーーっ!はあっ!もう、無理ぃ……」
なんとか、体力が尽き果てる寸前で、僕はゴール板を踏み抜く。あんな事を考えながら走っていたせいか、いつもより随分飛ばしすぎてしまったらしい。他に人目がないのをいいことに、僕は思い切り、道端の芝生に転がり込んだ。まだ朝日で乾き切っていない朝露がジャージに染み込んで、なんとも気色が悪かったが、けれどもやっぱり動くこともままならずに、僕はその場でしばし、天を仰ぎ見る。
「……僕も、僕自身も、ウマ娘だったらよかったのに、なあ」
なんて、無い物ねだりがつい口の端から漏れ出してしまう。けれども、思いはやっぱり溢れてくる。僕自身も、ウマ娘であったなら。
きっと彼女の身体の事も、より深く、より正確に、自らの身を持って理解出来るのだろう。そして何より、その心も。
そう考えると、果たして僕達人間がウマ娘のトレーナーを勤める。その意義とは一体、なんなのだろうか。
『人間とウマ娘の間に生まれる絆は、特別な力を持つ』なんて、トレーナー教本にも書いてある常識。だがそれは、我々人間の、持たざる者のエゴなのではないか。彼女達とはまるで異なる身体と、まるで異なる精神を持つ、別種の生き物たる僕らが、別種の生き物たる彼女達を育て育む、その意味は、果たして本当に存在するのであろうか。それは本当に彼女の、『メジロアルダン』の為に、なるのだろうか。
「トレーナー、さん?」
そんな悶々とした僕の頭の中を、一瞬で埋め尽くす、朝焼けのように澄み切った、声。
「……うおっ!?アルダン!なんでここに!?」
「それは、トレーナーさんと同じですかね?私も朝のロードワーク中、です♪」
「あ、ああ、なるほど……」
彼女の、メジロアルダンの声を聞いて、反射的に飛び上がる身体。口から転げ落ちそうなほど高鳴る心臓を押さえながら、よろよろと立ち上がって、僕は彼女に向き直る。
「ランニング、始めるとは聞いていましたが、まさかお揃いの道を走っていただなんて……仰って頂ければ、御一緒しましたのに……」
「いやいや、僕に合わせてたらアルダンのトレーニング、には……」
「……トレーナーさん?」
「ああ、いやいや、なんでもないよ?」
一瞬だけ、どこかに行っていた胸のもやつきが、風向きを変えてまたこちらに向かってくる。そうか、もしも僕がウマ娘だったなら、こういう時だって一緒に……
「……ふふ、トレーナー、さん♪」
「アルダン?」
「そのお顔は……また何か、『考えついた』お顔、ですね?」
「え、わ、分かるの?」
「ええ、ちゃんと分かりますよ?今日は何を考えついたのですか?」
さらりと、簡単に読まれてしまった僕の思考。とても誤魔化しきることが出来ずに、ぽつりぽつりと、僕は口を開く。
「……いいや、その、大した事じゃないんだけど、さ。この間から走ってみて、やっぱり僕、脚が遅いなあ、って」
「あら、そうでしょうか?トレーナーさん、それほど運動神経は悪くない方では?」
「まあ、それは、人間の中の話ではね?けどやっぱり、ウマ娘には……君には、どうしたって敵わない」
「…………」
「だからって、別になにか嫌になったって訳じゃないけどね。けれども、どうだろう。そんな僕ら人間が、君たちウマ娘に、一体何を教えてあげられるんだろうな、なんて、少し考えて、さ」
なんとも、あてもない僕の話を、彼女は真剣な面持ちで、黙って真っ直ぐ聞いていた。そして、やがて僕が話し終えたのを見計らって、彼女もまた、普段と変わらぬ優しげな口振りで語り始める。
「そう、ですね。やはり間違いなく、身体能力ではどうしたって、私達ウマ娘の方がずっとずっと優れています。それはどうしても、生き物の種類として、致し方ない事です」
「それは、もちろん」
「けれども、やっぱり私にはトレーナーさんが、貴方が必要なのです」
「……アルダン」
相変わらず、さらりとそんなことを言ってしまうアルダンに少しだけ目を回しながら、それでも、彼女の言葉を少しでも聞きもらさまいと、僕はじっと、耳を傾けた。
「ロマンや思いやり、などではありませんよ?貴方と私とでは全く、見えているものが違うのです。私に見えないものが、貴方には、見えている」
「見えている、ものが?」
「ええ、例えば……我々ウマ娘は、どうしても、どうあったとしてもやはり、『速さ』を求めてしまうのです、そういう習性、なのでしょうね」
「ああ、それは勿論、分かっているよ」
「ですから、どうしても、私達は自らより速く走る娘を『美しい』と感じてしまう。そしてそれを、追いかけたくなってしまう。たとえそれがどれだけ歪な走り方だとしても……どれだけ、『その身を犠牲にした』走り方でも、です」
「……!」
脳裏に浮かんだのは、彼女と出会ったばかりの頃の事。その頃から確かに彼女の走りは美しく、優雅で……けれども、今にも壊れそうで、壊れそうで。思わず、手を差し伸べてしまった事を、思い出した。
「だから、必要なのです。他の娘達の事は分かりませんが、少なくとも、私には」
「……そっか、うん、そうだね。その事に関しては誰にも、他の人間やウマ娘にも、絶対に負けはしないよ、僕は」
『速さ』こそが絶対真理の、ウマ娘達の世界。
その世界に『僕の瞳』が存在する、その意義は、そうか。
彼女を、メジロアルダンを、ただの『レースの駒』にしないため、彼女を、『一人の生き物』として、しっかりとこの世界に自立させる、そのため。なのだろうな、きっと。
「それにですね?そうでなくてもトレーナーさんの発想力には、いつも助けられているのです。型にはまってしまいがちな私の思考に、いつも風穴を開けてくれる……そういう意味でも、見えているものが違うのですよ♪」
「いやいや、それは流石に買い被りすぎ……ん?」
見えているものが、違う?
「……そういえばアルダンは、そう極端でないにせよ、結構前傾姿勢で走るよね?」
「え?ええ、まあ、人間の皆様と比べれば、前傾姿勢、と言えるのでしょうか?しかし、ウマ娘としてはそれなりに平均的だとは思いますよ?」
「……それで、普段走ってる時ってさ。自分の脚元、見えてるの?」
「えっ?ええと、改めて考えてみれば、ほとんど見えていません、かね?申し訳ございません、そのようなこと、今までほとんど考えたことも無かったので……」
「…………」
───その時、ふと閃いた。
このアイディアは、メジロアルダンとのトレーニングに活かせるかもしれない────
「……アルダン、ちょっとしたことなんだけどさ。少し、聞いてくれる、かな?」
「……ふふっ、ええ、なんなりと。私のトレーナー、さん♪」