メジロアルダン短編集『to the MEJIRO ARDAN』 作:いずさわ
[フラミンゴ]
フラミンゴ目フラミンゴ科に属する鳥類の総称。アフリカ、中南米などに広く生息している。
主に湖に生息する藍藻、エビやカニなどの甲殻類を主食とする為、塩湖や干潟などの特殊な環境に適応した生態を持つ。特徴的な片足立ちは、水中で体温を奪われにくくするためのもの。
鳥類としては珍しく、飛び立つ為におよそ25メートル程の助走が必要である。動物園等の飼育下においては、助走距離を確保出来ない程度の広さの区画に置くことによって、屋根の無い場所での飼育を可能としている。
──────────────
「えっ、補習?」
「ええ、なんでも、『数学とかまぢ無理みでぴえんぱおん』との事らしく……」
「ええ?ううん……困ったなぁ……」
なんだか雲行きが怪しくなってきて、じめついた嫌な風が僕の額に吹きつけた昼下がり。そんな空模様に引きずられてなのか、なんなのか。学園内のターフで顔を合わせた我が担当ウマ娘は、なんともバツの悪そうな顔で口を開いた。
「スケジュール、今からでも見直しますか?」
「ううん、でもここいらで併走トレーニング、入れときたいんだよなぁ、誰か空いてる娘、いないかな?」
「そうですねえ……私の方でも数人、声をかけてみたのですが……」
なんでも、本日合同で併走トレーニングを依頼していたウマ娘が急用で来られなくなったと。両の耳をへたりこませながら彼女は、メジロアルダンは僕に教えてくれた。
ひとえに併走トレーニングと言えど、周りも皆、それぞれの緻密なトレーニングコースをこなしているプロのアスリート達なのである。案外、ぴったりと予定の合う娘はそうそういなかったりするのだ。
「仕方ない、こうなれば当たって砕けろ。ターフにいるウマ娘達に、手分けして片っ端から声をかけてみようか」
「あら?トレーナーさん、おひとりで大丈夫です?ちゃんと他の方とお話、出来ますか?」
「だ、大丈夫!自信はないけど頑張るから!」
「ふふ、それでは私はあちらの方を、トレーナーさんはあちらの方をお願いしますね?」
「おっけー、十八人ぐらいは集めてくるよ!」
「それはもはや、模擬レースなのでは……?」
と、言うわけで、軽く言葉を交わした後、一旦僕らはそれぞれ別の方向へと歩き出した。正直言うと、こういう他人との交渉事については、僕なんかよりもアルダンの方が一枚も二枚も上手なのだか……
「いつまでも、頼ってちゃいけないよな、うん」
彼女には彼女の、やりたいことが沢山ある。やるべきことも、ごまんとある。自立……と言うのもなんだか妙だが、うん。
できるだけ、自分の両足で立つ。やれることは、やれるようにならないと、だ。
「よし……やるぞ……ちょっとちょっと!そこの君?」
──────────────
「………………………………」
いい加減、自分のダメさ加減にも嫌気が差してきた。まるで僕の心模様と示し合わせたかのようにますます暗雲立ち込める空を、一人眺める。
「こんなにびっくりする程誰も乗ってこないとは……なんだろう、顔が怖かったりするのかな?それともファッションの問題?」
ちらりと腕時計を見れば、もうアルダンと別れてから20分強ほど時間が経っていた。アルダンの事だろうから、もしかしてもう誰か見つけてるんじゃないか?なんて考えたが、しかし約立たずのままノコノコ戻るのも、なんとも情けない話だ。僕はもう少しだけ、頭を捻ることにした。
「あと行ってない所はどこだ?トレーナー室に一軒一軒営業をかけてみるか?なんか怪しげなセールスマンみたいでやだなぁ……でも主な練習場はだいたい行き尽くしたし……ん?」
ぼんやりと、目線を動かしていると。ターフの片隅も片隅、もはや整備もされていない剥げた芝生の上。流石に誰もいないだろうと思って見向きもしなかった区画……に、ちらりと一人、人影を見た。
あの真っ赤なジャージを来ているという事は、間違いなく学園のウマ娘。ではあるが、いかんせん一人である。周りに他のウマ娘はおろか、トレーナーの姿も見当たらない。なんだか背景も相まって、『孤独』を体現したようなその姿、何故だか無性に気になって、僕は彼女の居る方へと歩みを進めた。
「……や、やあ、こんな所で何してるの?」
「─────」
僕が声をかけると彼女は、敏感に両の耳を立ち上げながらこちらに目線を向けてくる。
不思議な雰囲気の娘───なんとも月並みな言葉だが、僕の彼女に対する第一印象は、そうとしか言い表すことが出来なかった。この僕に全く見覚えがない娘ということは、恐らくアルダンの後輩。それもまだデビューもしていない娘で間違いないだろう。ウマ娘としてはかなりの痩せ型で立ち姿の重心も整っていないが、恐らくそれは、まだ心身が発展途上であるからか。
「ストレッチ中?これから、トレーニングなのかな?」
「……いいえ、クールダウン中。今日はもう、上がろうと思って」
「えっ?まだ五時にもなってないけど……」
トレセン学園にも時々居る、あまりモチベーションが高くない娘。彼女もまた、そういう類の娘なのかと一瞬思ったのだが……
「…………?」
それにしては引っかかる、トレーニングシューズの擦り減り方。まだ未熟なウマ娘特有の、左右バランスの悪い消耗具合……なのは特に驚くべきことでもないのだか、それにしたって、まるで凄まじい熱で溶かされたかのような極端な擦り減り方が、何故だか異様に目に付いた。
「どこか、身体の調子がよろしくなかったり、する?具合が悪いとか……脚が、痛いとか」
「──どうして?」
「シューズ、そんなにするぐらいだ。本当はもっともっと沢山、走りたいんじゃないのかな、って」
「…………」
他人の感情、内面なんて、どうしたって結局慮ることなんて出来るはずがない。けれども、状況と証拠は時に外側に現れてくるものだ。それに『経験則』だって、時にはアテになる。
「別に、体調が悪いわけじゃない。脚も……どうってこと、ない」
「……そっか、うん。まあ、色々あるよね。ごめんね、引き止めちゃって」
「ええ」
特に、こちらに目も合わせずに、荷物を持って足早に去ろうとする彼女。簡素に一つ結びにした飾り気のない焦げ茶色の髪と尾が風に靡いて揺らめいて、そのふらつく様がなんだか僕の目からは、ひどく不安定に見えた。
「あ、ちょっと!」
「……なに?」
「『メジロアルダン』、知ってる?多分君の先輩なんだけどさ?」
「まあ、名前くらいは、話したことはない、けれど」
「うん、良かった。実は僕、彼女のトレーナーなんだ。今日、これから併走トレーニングの予定だったんだけど、相手が来られなくなっちゃってさ」
「……そう」
「単刀直入に言うけれども、どうかな?併走、これからちょっとだけ、やってみない?」
初めて、彼女と目が合った。あまり光を携えていない、輪郭のぼやけた虹彩が僕の目にも映る。
「どうして?別に私でなくても、頼める人は沢山いるでしょう」
「それは……いや、君がいい。他の誰でもなく、君がいいと、僕はそう思う」
「何を根拠に……」
「根拠も理由も特にないけど、強いて言うなら、縁、かな?」
「…………」
まあ実際、頼める人がいなかったからここまで来たんだけれども。でもそんな事は今はどうだっていい。彼女がいいのだと思う気持ちは、間違いないものだ。
「勿論、本当は体調が悪くて、とかだったらしょうがないんだけど。でも、もしそうじゃないのなら……」
「…………」
「それと、僕が自慢することではないけど。彼女は、メジロアルダンは間違いなく強いウマ娘だ。実戦経験も豊富だし、あの日本ダービーにだって出走した。そんな彼女との併走、きっと君にとっても損じゃない話だと思うんだけど、どうだろう」
こういう時の提案は、なるべく詳細に、具体的に。情ではなく、理屈で訴えかける。これもまた、僕自身の『経験則』から導き出した、策。
「……そうね、こういう時、あなたなら──」
「ん?何か言った?」
ふらふらと、左下に向けて彼女は瞳を泳がせる。何か小さく呟いたような気がして、僕は耳を澄ませた。
「……いいわ、併走。やってあげても、いい」
「ほ、ほんと!?」
「ただし、一回だけ、終わったらすぐに帰るから」
一切声色を変えずに、眉ひとつ動かさずに、彼女は口を開く。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女が違う表情を浮かべたような気がしたが──その証拠は、まばたきの間に消えてしまった。
「それでも充分だよ!本当にありがとう……あー、えっと……」
「……ベガ」
「えっ?」
「『アドマイヤベガ』、私の、名前」
──────────────
「……あっ!トレーナーさん!」
「ごめんねアルダン、待たせちゃったよね?」
「いいえ、いいえ。こちらこそ申し訳ございません……併走のお相手、結局見つからなくって……」
「あ、ううん!大丈夫!そのことなんだけど……」
元のターフに戻ってくるなり、両の耳をはためかせながらこちらに駆け寄ってくるアルダン。なんとも申し訳なさそうなその表情を一目入れて、僕は慌てて両腕を振る。
「あら、そちらの方は?」
「ああ、彼女はアドマイヤベガ。是非とも、アルダンと併走したい、って!」
「是非ともとは、言ってない」
アルダンを前にして、それでもなお固まった表情を崩さないアドマイヤベガ。けれども、なんとなく、初めて話す先輩に少し緊張しているのは見て取れる。うんうん、分かる分かる、僕も最初の頃は話す度にガチガチに緊張してたものだ……アルダンのあの美しい目線を至近距離で食らったら、そりゃあもう誰だって……
「アドマイヤ……ベガ、さん?」
……何故だか、そんなアルダンの美しい視線が、普段よりも大きく、丸く、アドマイヤベガの事を捉えていた。なんだか物ありげな表情に、思わず僕も、口を挟む。
「あれ、彼女のこと知ってるの?アルダン?」
「あ、ええと、まあ、少しだけお噂は」
「…………」
「……その、なんでもデビュー前の娘の中でも、指折りのセンスを持ったウマ娘だと、そうお聞きしています。よろしくお願いしますね、アドマイヤベガさん?」
「……ええ、よろしく」
「?」
なんだか引っかかるものを感じたが。けれどもアルダンがそうとしか言わないという事は、きっと『今は』、そうとしか言い様がない。ということだろう。とりあえず、今は追求する時ではない、と。
「それじゃ、まあ、前置きは置いておいて早速始めちゃおうか。距離は……芝の2000、ってとこでいい、かな?」
「承知しました♪」
「ええ、分かったわ」
「……ふふふ、併走トレーニングは久々なのです。お手柔らかに、お願いしますね?」
「……ええ、まあ、頑張るわ」
すんと、いつもの調子に戻って気さくに声をかけるアルダンと、素っ気ないながらも、頭を捻りながら真摯に言葉を返すアドマイヤベガ。なんだかとても微笑ましい光景に、少しだけ張っていた肩肘を解きほぐす。
アドマイヤベガ、なんだか第一印象で少し身構えていたけど、思ったより、柔らかい娘なのかも、なんて。
「それじゃ、二人とも準備はいい?」
「ええ、いつでも大丈夫です」
「私も、大丈夫」
「おっけー、それじゃ……スタート!」
僕の合図と共に、二人並んでスタートを切る。
少しだけ出遅れたアドマイヤベガを、今この瞬間だけは気にもとめずに、アルダンはしっかりと、一歩一歩丁寧に加速していく。
「……!いいぞ……!」
その長い脚を鋭く、力強く伸ばしていくメジロアルダン。どうしても多少は贔屓目に見てしまうけれども。それでもやっぱり、その強く吹き付ける風に混ざりながら走る姿は、他のどんなものより美しく思える。自由に、軽やかに、まるで何もかも笑い飛ばして行くような身のこなしは、まるで湖の中心で一羽舞う、白鳥のように見えた。
「……どうだろうな、何か、伝わってくれるかな」
そのまま、緩やかに、僕は彼女の後方に目を移す。おおよそ十バ身差ほどの間隔を挟んで、彼女は、アドマイヤベガは居た。
「確かに、荒削りだけどいいセンス、かもなぁ」
彼女のトレーナーでもない僕が、こんなに偉そうな事を言うのもどうかと思うが、けれども。
確かに感じる非凡なセンス、特に上半身の使い方が、力強さこそあまり感じないものの絶妙に空気抵抗をいなしていて、巧い。デビュー前の段階でこれを出来る、というのは今後の彼女の相当な武器になるだろう。
しかし、まあ、そうだな、下半身の方はかなり不安が残る出来栄えか。歩幅もリズムも整ってはおらず基本的にはバラバラ。まあ、こちらはデビュー前のウマ娘相応といったところで、まだまだ伸びしろと言ったところ。
とりわけ気になるのは、左右の重心のバランス。はっきりと、恐らく素人目から見たとしても分かるほど、彼女の重心は主に右側に偏っていて……
「……んん?」
いや、待て、何かがおかしい。
あれは、あの走り方は、重心が偏ってる、なんて言うレベルなのだろうか?そう簡単に言ってしまうには、あまりにふらつきが極端過ぎる。あれは、そうだ、言うなれば……
「『片脚』で、走ってる?」
慌てて僕は、携帯していた双眼鏡で彼女の脚元を覗き込んだ。
思った通り、にはなって欲しくはなかったが。癖や習慣では無い、彼女は間違いなく、右脚だけで走っている。左脚は殆ど力なく添えられているだけであり、彼女は右脚だけで必死に、ひたすら力いっぱい地面を蹴り飛ばして、それを推進力としていたのだ。
「す、ストップ!ストーーーップ!!」
どうして、どうして走り出す前に気が付かなかった。僕は慌てて、出せる限りのとびきりの大声で彼女達に呼びかける。ターフの向こう側まで到達していたアルダンは、目を丸くしながら少しずつスピードを落としていった。
けれども……肝心の彼女は、アドマイヤベガはそんな僕に目もくれず、僅かばかりだが苦悶の表情まで浮かべながら、それでも走ることを、やめはしなかった。
「アドマイヤベガーーっ!すまない!気づかなくってーーっ!脚が痛いのなら、無理は──」
「───五月蝿い」
「……えっ?」
「そんなに五月蝿いと、『聞こえない』じゃない」
……なんだ?彼女、何か喋ってる。
全く聞き取れなかったけど、確かに、何か。
ドンッ
──────────────
夢か、幻でも見ているのだろうか。
確かに彼女は、アルダンの十バ身……いや、もう既に十四、五バ身程後ろを走っていたはず。
だと、言うのに。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
「………………」
まるで地の鳴るような衝撃音。とんでもない力で大地を蹴り飛ばした、音。それが彼女の、アドマイヤベガの『左脚』から発せられたものだと気付くまで、僕は少なくとも、五秒以上はかかった。
その、たったの五秒間。僕が状況をようやく認識するまでの五秒間のあいだに、彼女達の距離の差は、今までの半分程に縮んでいた。
「軽く、なった?なんで……」
確かにアルダンの側も、僕の制止により一度は速度を緩めてしまった。とはいえ、僕の様子を見て、一瞬だけ後方確認をして、続行の気配を感じ取った後はすぐに今まで通り、力強く加速を始めたのだ。その時間だってものの数秒のことだろう。それなのに、だ。
明らかに、軽くなった下半身。上半身の使い方はそのままに、今度はきちんと両足で、まるで宙に飛び上がるように脚が伸びていく。
一体、今までの走りはなんだったのか?わざとあんな風に走っていた?なんの意図で?湯水のように湧き出してくる疑問を抑えきれないでいると、いつの間にやらついに二人が僕の目の前、最終直線になだれ込んできた。
「ふ、んっ!」
「………………」
四バ身、三バ身……二バ身差まで迫られた瞬間に、アルダンが最後のスパートをかけた。ぐんぐんと、今日一番の速度でゴール目指して駆け抜けていく。流石のアドマイヤベガも、少しずつ、少しずつもう一度突き放されて……
いかない。突き放されない。縮まりはしないが、けれども振り落とされもしない。正直、予想外。贔屓目を除いて見ても、間違いなく今のメジロアルダンはトゥインクルシリーズの中でもトップクラスの実力を持ったウマ娘なのである。そんな彼女に、デビュー前のウマ娘がここまで肉薄してくる、なんて……
「……ええ、そうね、やっぱり凄いわね、現役の人は」
「……?」
「無理しないで、ただの併走だもの、本番じゃないから、大丈夫」
「……やっぱり、喋ってる、んだ」
先程、遠目に見たのは、やはり間違いではない。喋ってる、彼女は走りながら、何か言葉を発している。それも個人的な独り言でもなさそうな、まるで……誰か親密な相手と、和やかに談笑するような、そんな、雰囲気で。
「っ、はあっ!」
なんて、気を取られているうちに、先にアルダンがゴール板を踏み抜いた。少し遅れて、アドマイヤベガも。最終的な着差は、およそ二バ身半と言ったところ、だろうか。
「はぁ、はぁっ……タイムは、いかがでしたか、トレーナーさん?」
「えっ?あっ!?ストップウォッチ、止めるの忘れてた!」
「もう、しっかりしてください?」
「ご、ごめんね?っと、それより、彼女……」
進み続ける時計の文字盤を慌てて停止させながら。僕とアルダンはしばし目線を合わせた後、二人一緒に彼女の、アドマイヤベガの元へと駆け寄った。
「う、ゲホッ……ゲホッ……!はあっ、はあっ……」
「大丈夫ですか?お水、飲みます?」
「あ、ありがとう……」
「ほんと、大丈夫?どこか痛めたりはしてない?」
「ん、大丈夫……だから、少しだけ、放って、おいて」
慌てて駆け寄ろうとする勢いを少しだけ我慢して、言われた通り落ち着くまで、芝生の上に膝を着いて息を切らす彼女の姿を、僕達は黙って見守っていた。
見守りながら考えるのは、やはり先程の彼女の走りのこと。まるで狐か幽霊に化かされたような感覚だが、しかし目の前の彼女は間違いなく生きたウマ娘。しっかりと二対、生えた脚がその事を証明していた。
彼女の、あの不可解な走り方。敢えて既存の脚質という型に当てはめて考えれば、『追込』ということになるのだろうか。しかし追込という脚質の定義は本来、終盤に備えて最後方で体力を『温存』しておくものである。
それに対して、彼女の走りはまるで真逆。彼女はスタートの瞬間からゴール板を踏み切るまで、一瞬も手を抜かず、全力で、走っているように見えた。全力で片脚で地面を蹴って、蹴って、そうしてある瞬間にふっ、と宙に浮かび上がる。決して『温存』などでは無い中盤までの彼女の走り、例えるならば、そうだ。
「『助走』、か」
「助走、ですか?」
「ああ、いやその、彼女の走りがさ。まるで思いっきり助走をつけて、そこから、飛び上がる、みたいな……いや勿論、脚はずっと地面に付いてるんだけどさ。なんだろう、説明が難しいな……」
「……いいえ、なんとなく、分かりますよ?」
決して力を抜いている訳では無い。むしろ中盤までの走りの方が、彼女にとっての全力なのだろう。そこから先は、何か別の『浮力』が働いているように思える。
何が彼女の全力なのかは、実際僕なんかには分かるはずがない。けれども、状況と証拠は時に外側に現れてくるもの。彼女の足元、まるで凄まじい熱で溶かされたかのような極端な擦り減り方を見せる……『右側』のシューズが、その何よりの証である。
「きっと彼女は、そうしなければ飛び立てないのでしょう。人よりも膨大な準備の時間を掛けて、そして人よりも、強固な覚悟を賭けて、それでようやく、自由に飛べる」
「……なんだか、君と……いや、なんでもないや」
「……せめて、それを阻むような『檻』が、彼女の前に無ければ、いいのです……けれども」
「アルダン?」
少しだけ、優しく想いを馳せるように呟いた後。アルダンは目の前の、だいぶ息が整って来た彼女の、アドマイヤベガの方へと歩み寄っていく。そうして。
「もう大丈夫ですか?アドマイヤ、ベガさん?」
「……ええ、もう平気、だから」
「良かったです、アドマイヤベガさん……アドマイヤベガ、さん」
「な、なに?」
「いえ、少し長いなと思いまして。お名前、何と呼べはよろしいでしょう?」
「別に、好きに呼んだらいい。何故か昔からみんな『アヤべ』って呼んでくるけど」
「では、アヤべさんですね?ふふ、『アヤべさん』、とっても可愛いお名前です♪」
「はい?ど、どうも……?」
なんとも自由で、ふわふわとした手触りで、アルダンは彼女に語りかける。今ひとつ意図が読めないようで、さしもの彼女の表情も、じわじわと困惑混じりになっていくのが僕にも分かった。
「自己紹介、していませんでしたね?私はメジロアルダン、そしてこちらが、私のトレーナーさんです♪」
「え、いえ、知ってるけれど……」
「本日見せていただいた走り、とっても素晴らしかったです♪よろしければ今後とも、仲良くさせて頂ければと……」
「ええと、その……まあ、考えとくわ」
「これからお困りの事があれば、いつでも、なんなりと仰って頂いてもよろしいですよ?併走でも、合同トレーニングでもお付き合いいたします。あ、勉強だって少しばかりはお教えできますよ?」
「い、いや、成績はそこまで困ってないから」
メジロアルダンは、本当に誰とでも自分から仲良くなりに行ける、素敵な娘だ。けれども、今日は、彼女に対しては、なぜだかいつにも増してぐいぐいと、強引にでも歩み寄って行っているみたいだ。その理由は……まあ、なんだろうな。
「携帯、持っていますか?よろしければ連絡先でも……」
「……どうして、そんなに構おうとするの。今日初めて会ったばかりの、こんな、得体の知れないウマ娘に」
「どうして……理由は特にありませんが、強いて言うなら、縁、でしょうか?」
「……あなたたち、打ち合わせでもしているの?」
「はい?」
相変わらず、一切声色を変えずに、眉ひとつ動かさずに、彼女は口を開く。ほんの一瞬だけ違う表情を浮かべた、その証拠はやっぱりまばたきの間に消えてしまったけど。だけどもそれが、少し呆れたような笑顔だったような、そんな気がした。
「……はい、これでいい?」
「ふふ、ありがとうございます、大切にしますね♪」
「連絡先って、大切にするものなの……?まあいいわ、それじゃ、約束通り私は帰るから」
「……あの、アヤべさん?」
「なに?」
「私は、貴方の味方です。絶対に、何がどうなろうと、私もトレーナーさんも、貴方の幸せを願っていますから、ね?」
「あなたも、なの?」
「えっ、あ、ああ、ああ!もちろんもちろん!元気が一番!ね!」
「…………まあ、なんだかよく分からないけれど……とりあえず、受け取っておくわ。それじゃあ、さよなら」
「ええ、さようならアヤべさん。また近いうちに♪」
「ば、ばいばーい!」
並んで手を振る僕達をしばらくまじまじと見つめてから、彼女は背を向け、歩き出す。相変わらずの曇り空に包まれながら小さくなっていく彼女の背を見つめながら、先に口を開いたのは、僕の方、であった。
「アドマイヤベガ、か。ねえアルダン?」
「はい、なんでしょう?」
「彼女の噂、ってさ、きっとあれひとつじゃない、んだよね?もし、もし話せる内容なんだったら、教えてくれないかな?」
「……そう、ですねぇ。私も詳しい所までは存じ上げないのですが」
「うん、うん」
数秒間、考えてから。彼女は少しだけトーンを落として、僕の耳元で語り始める。
「実は、彼女は以前、トレセン学園を数ヶ月間休学されていた時期があったそうなのです」
「休学……?」
「理由まで知っている人はそう多くありませんが、なんでも大きな事故に遭ってしまったらしく……その、ご家族を、その時に亡くされたのだと」
「───そっ、か」
少しだけ、目線の先が歪んでしまう。なんだか彼女の言動の一つ一つが、線で繋がってしまった、みたいな。
「無事に復学は出来たみたいなのですが、それから殆ど毎日、トレーニングにも参加せず授業の後にすぐ帰ってしまわれるらしくて……」
「そっか、確かに今日も……」
「そこから先は、なんだか噂に尾びれがついてしまっているらしく……あまり、同級生の方々からの評判は宜しくないよう、なのです」
「なるほど、なるほど、な……」
少しだけ、彼女の境遇に想いを馳せる。家族を喪い、学友からも邪険に扱われ……それでも、この学園に通い続ける。彼女は一体、どんな理由でターフを走り続けているのだろうか。他人の感情、内面なんて、どうしたって結局慮ることなんて出来るはずがない。けれども。
「ん、家族?家族、家族……」
──────────────
『……ええ、そうね、やっぱり凄いわね、現役の人は』
『無理しないで、ただの併走だもの、本番じゃないから、大丈夫』
──────────────
「……はは、まさか、まさか、ね」
「トレーナーさん?」
「ああ、いや、なんでもないよ?」
なんとも荒唐無稽な妄想を振り切って、僕はアルダンの方へ向き直る。彼女を取り巻く状況はよくよく理解した。けれどもやっぱり、僕にとって大切なのは。
「それで、アルダンはどう思った?今日、一緒に走ってみて、さ」
「ええ、間違いなく、間違いなく『素敵な方』でした。とてもとても大きな愛に溢れた、優しい方、ですね♪」
「ふふ、そうだよね。僕もそう、思ったよ」
彼女が、右脚だけで走る理由。色んなことを考えたけど、今、思い返してみれば。
冷たい足元から、左脚の事を『守ろう』としていたの、かも、なんて。何故なのかは分からないけど、なんとなく。
「彼女、どうするのかな、これから。もちろん僕も力になれることがあるならなんだってやってあげようと思うけど、それでもやっぱり、限界はあるし……」
「……いいえ、きっと大丈夫ですよ。きっと彼女の事を誰よりも理解して、誰よりも大切にして……誰よりも、宝物のように愛してくれる。そんな人が彼女の前にも、現れるはずです」
「あら、なんだか随分自信があるみたいだけど、どうして?」
「それは……『経験則』ですかね♪」