キーンコーン……
昼休みのチャイムが鳴った。デスクに向かっていた同僚たちが三々五々に席を立つ。神原もぐーっと伸びをすると、向かいの席に座っている雉本が声をかけて来た。
「先輩、お昼ご飯いきましょうよ」
「いいね。どこにする?」
「水道橋にいいお店を見つけたんですよ。いかがです?」
「そこにしようか。毎度のことながらよくまあ色々見つけてくるね……」
雉本がにこにこしながらふふーんと得意になる。神原が席を立つと、彼女も席を立った。
庁舎の玄関を出ると、ムッとするような熱気が押し寄せてくる。朝からずっと屋根の下に籠っていた身には外の光がまぶしい。
「水道橋ってどう行くんだっけ?」
「そうですね……永田町から地下鉄に乗るのと、国会議事堂前から乗るの、どちらがいいですか?」
「永田町まで歩くの?国会議事堂前にしようよ……」
「じゃ、そうしましょう」
すっと、雉本がすでに視界に収まっている地下鉄の入口に向かって歩き出す。神原もその後を追って歩き出した。道路の向こうに目を向けてみれば、アスファルトの路面からゆらゆらと蜃気楼が立ち上がる。予報では今日は真夏日だ。
「そういえば代わりに行ってもらった件なんだけど」
歩きながら、雉本に尋ねる。
「どうだった?」
「今報告書をまとめているところですが……どこまで把握してますか?」
「いや全く……中間報告書を読む暇もなかったもの」
信号が青に変わる。横断歩道の向こうには営団の青い看板を頂いて地下鉄の入り口が佇んでいる。
「ずっと出張で戻ってもやることが溜まってましたもんね……じゃあ、順を追って説明しましょう」
階段に足を下ろす。かすかな電車の轟音とともに、涼しい風が吹き上げてきた。
「では——」
まず、今回の事案の概容から行きましょうか。発覚したきっかけは警察からの情報提供で、東京都大田区などでこれまでに確認されていない形態の界異と思しい内容の相談を受けたこと。警察によれば相談された内容に該当する不審者等は確認されておらず、界異である可能性が高いと言えるとのことでした。ここまでは把握してますよね?……はい、ありがとうございます。
さて、この情報をもとに調査を始めたわけですが……あ、荻窪方面です、あっちの階段ですね。……はい、まず初期段階で分かったこととしては、当該の界異はおおむね人型で女性の特徴を有していること、巨体で、全身が膨れ上がっていること。大きさは幅がありますが、3メートルという証言があるのとおおむねどの証言でも一階の軒先よりは高いとされていることから体高3メートル前後であることは間違いないと思います。出現地域はすべて大田区内で、かなり狭い範囲に集中しています。この範囲については後で話しますね。
今までに確認されていない界異が出現した際、まず真っ先に疑うのが国外から侵入した可能性です。大田区には東京の空の玄関口たる羽田空港があります。海外と直接つながっている地域と言っても過言ではありません。国外との交通が活発になって界異が直接持ち込まれる例も多くありますが、それと同じくらい多いのが国外から伝承が持ち込まれてその界異が発生するようになってしまう例です。“消えた乗客”の都市伝説なんかも海外から持ち込まれて定着した例ですね。詐欺罪の可能性があるからって警察もこの程度の事案をいちいちうちに持ち込まないで欲しいですよね。ただでさえ人が足りないのに!
……話を戻しますね。この界異は国外由来の可能性がありまして、大田区は侵入されやすい場所である上にアジア諸国からの出稼ぎ労働者を使っている町工場がたくさんあります。つまり国外の伝承を持ち込んでいる人間が居住しているわけで、外国産の界異が定着する可能性も大きいと言えます。そしてですね、ちょうど南アジアの伝承で今回の事案に近しいものがあったんですよ。
なんて言ったっけな……そう、チュレルですね。チュレルっていうんですが、これは主にインドに伝わる女性の悪霊のことで、腹が膨れた醜い姿をしているとされています。一概には言えないですが存在強度はおおむね一号級程度。今回の事案のように全身が膨れ上がっているわけではないですが近しい特徴は持っていますよね。この程度の変質はミームが伝播する過程ではよくあることです。都内でインド人が多いのは江戸川区ですが大田区にも住んでいないわけではないですし近しい伝承を持つ周辺国の人間が持ち込んだ可能性もあります。
ところがここで引っかかるのが、これまで国内には江戸川区や横浜市、神戸市などにインド人が集住していたのにチュレルの目撃例が全く無かったことです。調べてみたところでは、出産前後やディワリという祭りの間に死んだ女性がチュレルになるそうなのですが、この時期に死ぬのは身内に罪人がいるからだとされています。日本は衛生や医療の水準が高いので出産前後の死亡率が低く、また日本に居住している印僑はもともと社会的地位が高いものが多いためチュレルが発生するとされる条件に当てはまりにくく、これまで発生しなかったのだと考えられます。さらに工場で住み込み勤務している出稼ぎ労働者はほとんどが単身の男性であるためこれもチュレルが発生する条件から遠ざかっています。無論、可能性が全く無いわけではありませんがかなり下がったと言えるでしょう。
……四ツ谷に着きましたね。降りましょう。総武線に乗りますよ。乗り換え口は向かいのホームです。……ところで、今回の界異は証言の中で“膨れ女”という共通する名前で呼ばれていました。この点からもチュレルとは別の界異ではないかと思うのですが……それはさておき、まあ見た目通りの名前だと思うでしょう。実はこれがミソで、ここからこの界異の起源が見えてきたんですよ。
先輩はもちろんクトゥルフ神話はご存じですよね?……ありがとうございます、知らなかったらどうしようかと……ここから始めると長いですからね。ではナイアルラトホテプという名前に心当たりは?……そうですね、その通りです。実はその千の化身の中に“膨れ女”というのがあるんです。“膨らんだ女”とも訳されますね。これはご存知ですか?……まあそうでしょうね。……すみません、百円玉持ってませんか?ありがとうございます。水道橋は……百二十円ですね。……そっちは中央線ですね、水道橋には停まりませんよ。……
……どこまで話しましたっけ。……そう、“膨れ女”ですね。クトゥルフの。これは去年アメリカで出たTRPGのシナリオブックに掲載されたのが初出で……TRPGですか?ああ、先輩はこういうの興味なさそうですもんね。まあ、そういう遊びがあるんだと思っておいてください。……テレビゲームとは違いますね。何というか……ボードゲームの一種だと思ってください。そんなに似てませんけどね。そこで初めて“膨れ女”が現れた訳ですが、描写されている特徴が本件の界異とそっくりなんです。そうですね、身長3メートル、体重は200㎏らしいです。……それはともかく、本件の界異の起源はこのキャラクターであると考えられます。そしてこの“膨れ女”は手が触手になっており、それで犠牲者の脳髄を吸い取るとされているのですが……これはつまり、このミームによって発生した界異が積極的に人を襲う“猟犬”型となる可能性があるということです。こうした人を襲う界異は遺体を残さない場合も多いので実際に発生していても行方不明者情報を参照しなければ発覚すらしない場合があります。実際に警察に照会してみると大田区内で“膨れ女”が目撃されるようになる直前から行方不明になっている女性がいることが分かりました。すでに人間を襲っているのであれば一号級から二号級になっている可能性があります。
さて、調査初期から本件界異の発生地域はおおむね絞り込まれていました。というのも目撃証言はほとんど大田区大森、特に大森西町や大森東町、大森南町に集中していたんです。大森のすぐ近くには鈴ヶ森刑場跡があってここは未だに“銃創”など“屍食”型の無号級界異が集まりやすい場所になっています。たまに地域課の人たちが駆除に行ってますよね。それから東海道線の大森・蒲田間は人身事故の多発地帯として知られています。実のところこの線区は確かに長大踏切が多く列車本数も多いので人身事故が発生しやすく、以前は“守株”型の界異が多発していたのですがここ最近は駆除と安全対策により徐々に数を減らしつつあるようです。このようにもともと周囲に界異の発生が多く、本件界異がただの流言ではなく実際に発生している蓋然性は高いと言えるでしょう。もう一つ、本件界異が実在する蓋然性が高いと言えるのは証言から伝わる膨れ女の形態に極端な差異がないことです。これは証言が実際の体験をもとにしている可能性を高めていると言えます。
ここまでわかっていることを総合すると、本件界異は前触れなく自然発生した可能性が高く、すでに1人の犠牲者を出している可能性があり、大田区内で頻繁に目撃されている可能性があります。都市伝説としての“膨れ女”と本件界異のどちらが先に発生したのかは不明ですが、前者が先行する場合は都市伝説をもとに“猟犬”型の界異として発生している可能性が高いです。これらの要素から言えばこの界異は少なくとも一号級に該当すると考えられます。
しかし界異が先にあった場合は非常に厄介で、本件界異が既存の界異が新しいミームを取り込んで擬態している“流行り神”型の界異である可能性があります。この場合いままで活動の兆候が無かったことから長期間休眠していたと考えられ、本来の性質について資料が残っていない可能性もあります。そうなると調査としてはほとんど振出しに戻りますし、そこまで長期の休眠に耐えていたなら一号級よりも強い存在強度を持っている可能性もあります。ここまでくると正直杞憂だと思いますよね。
しかし近年の穢晶産業による禁域の乱開発でこうした“忘れ去られた界異”が覚醒してしまう事案が多発しています。何なら先輩が出張したのもそういう事案ですよね。……なるほど。三菱穢晶は最近事故多いですよねぇ……実はもう会社が傾いてて来年ぐらいにはあっさり倒産しちゃったり?さすがにそんなわけないですよね。……さて話を戻しますと、今回は禁域ではなく都市部の住宅街ですが近隣の羽田空港では近年拡張工事と京急の延伸工事が行われていてきっかけは十分にありますし、さらに今回空港の拡張が行われたあたりには美濃部知事の頃に建設残土が投棄されていたそうです。建設残土に石碑等が混入して界異が発生する事故は戦後珍しくなくなっておりますし、高度経済成長下の建設ラッシュでは建設残土が不適切に処理される事例は多々あります。つまり、近年の状況下では本件界異が正体不明の危険な界異である可能性が否定できないんです。一番厄介なのは、本件界異が建設残土に混入している残穢や他の界異を取り込んでいる場合です。土壌中の平均残穢量と残土の投入量から考えると、残穢だけで二号級か三号級程度の存在強度に達している可能性があります。さらに“膨れ女”のミームはその出自からナイアルラトホテプ神のミームを内包してしまっている可能性があります。神格存在は自身に対する認知に比例して存在強度が高まるのはご存じですよね。本件界異が三号級以上の存在強度に達している場合、神格ミームと合わさると都市伝説の拡散速度から言って遠くないうちに五号級、あるいは崇神級に達する可能性も……。
「で、駆除の実施に至ると」
「そうですね」
改札係に切符を示す。半袖の夏服姿で国有時代と変わらぬ仕事ぶりを見せている無表情な彼は、姿勢を変えることなく切符に一瞥をくれてやるともはや神原達には構うことなく、「三十円足りないよ」と後ろの乗客を呼び止めた。改札を離れ、「こっちこっち」と引っ張る雉本に従って大通りを照りつける太陽の下に身を晒す。
「大変そうだけど、駆除はできたの?」
「それなんですけどね」
雉本がいたずらっぽく笑う。
「いませんでした」
「は?」
「界異はいなかったんですよ」
ここまでいかにも危険な界異が大田区に突然現れ跳梁しているかのように話していたのに。
「代わりに水死体が見つかりました。警察に引き渡して調べてもらったら死後四から六週間程度、ちょうど“膨れ女”が現れ始める頃ですね。身元もすぐに判明しまして、先に話していた行方不明の女性でした。遺書も持っていて、自殺だったようです」
「じゃあ、噂は何だったのよ」
「“膨れ女”はクトゥルフ神話由来の可能性があるとお話ししましたよね。実はある大学生がこの水死した女性の遺体を目撃して、彼が主宰するTRPGサークルで膨れ女に例えてそれを話したところサークルに参加している中高生たちか膨れ女のたとえも含めてそのままその話を学校で広め、膨れ女の要素だけが独り歩きした結果新しい都市伝説が生まれたというわけです。“膨れ女”が虚像であるにもかかわらず解像度が高かったのはクトゥルフ神話の設定がそのまま使われていたから、ということになります」
「緊急を要する案件として祓魔班に要請出してたよね。で、見つけたのがホトケさん一人ってこと」
「そうなりますね。実は内川で残穢の反応がありまして、これも先の推測を補強する材料だったんですが実際は一か月放置された水死体に沸いた“銃創”が垂れ流している穢れでした。正確にはホトケさん一人と銃創が一群ってところです」
「なんだ、随分脅かすじゃない……たかだか水死体を見ただけの話から膨らみ過ぎよ。第一死体を見たら警察に通報しないのかしら……」
「だから、言うなれば“大盛怪談”って感じですね。大森だけに」
「なにそれ?」
神原が呆れたように言うと、雉本が一軒の洋食屋の前で足を止めた。
「着きましたよ!」
「へえ、いい感じじゃない。何がおいしいの?」
「こちらのお店の名物はですね~……大盛カツ丼になります!」