透き通るような世界で俺がやるべき唯一のこと   作:THE TOWER XVI

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楽園のマルスプミラ

 結局、俺は護衛の依頼を受けることにした。

 

 エデン条約……黒舘が以前、連邦生徒会が遺したトリニティとゲヘナの和平条約と評していた枠組み。

 

 桐藤の依頼は、そのエデン条約の締結までの護衛。

 

 そんなトリニティとゲヘナの重要な条約の中心人物である桐藤が、何故俺に護衛なんて頼むのか……まあ、トリニティでもゲヘナでもない無関係の立場かつ、あの夜、結果的に意味は無かったが彼女を守ろうとしたのが影響しているのかもしれないが。

 

 いずれにせよ、折角護った聖園と桐藤の百合に燈色をインするなんて愚行、百合の守護者として避けるべきだ。

 

 だからこそ、俺は最初に聞いた時、とんだ百合破壊トラップだと表現したが……虎穴に入らずんば虎子を得ず。見方を変えれば、この申し出はチャンスでもある。

 

 元から、大口を叩いたアリウスとの和解の件を起点に、桐藤や先生を巻き込んで、燈色下げ百合ワッショイに勤しむ予定だったのだ。

 

 アリウスとの和解という聖園の夢も繋げることで、聖園と桐藤のお互いの関係性を一気に近づけつつ、ヒイロバイバイで百合確、ボーナスタイム! 後は百合を至近距離の特等席で堪能するだけ……。

 

 そう、百合IQ180の俺からすれば、これはリスクではなく勝機なのだ。この大胆な発想の転換には、その道百年のプロの百合ニストも唸ること間違いないだろう。

 

 思えば、この世界に来てから、俺の百合色人生設計は歪んで大破したままだ。

 

 それでも、手を伸ばし続ければ、いつかは届くはずだ。そう、美しい百合の花の咲き誇る、俺にとっての極楽(エデン)に……!

 

 崇高なる花々が芽吹いた時、俺は姿を消し、画竜点睛の如く理想の世界に至る……その日に手をかけるまで、俺は曇りない百合への信心を胸に足掻き続けるのだ。

 

 そんな決意を秘めて、俺は百合を護るべく奔走した。

 

 さりげなく聖園を巻き込んでミカナギの土台を構築するのは勿論。以前助けた縁で協力してくれたティーパーティーの子と共に、エデン条約の賛同者を増やす草の根の活動も忘れない。

 

 当初は他者を信用できず仕事を抱え込んでいた桐藤も、余裕が出て来るにつれ自然に疑心暗鬼の檻から抜け出すことが出来ているように見えた。

 

 飾り気のない純粋な笑顔を覗かせるようになった彼女に確信する。

 

 着実に一歩ずつ、俺は理想の百合源郷へ近づいている。

 

 確かな手応えに、俺は満面の笑みで何度も頷き──慌ただしい日々を過去にして、今日もまた、拠点として借りているセーフハウスから足を運ぶ。

 

 早朝の鍛錬からの、戻ってシャワー。それを終えたら朝食をすませ、丁度登校してくる生徒たちに混ざりキャッキャウフフを拝みながら、ずりずりと壁に張り付いたまま透明人間として仕事場に出勤。

 

 朝の百合補給も欠かさず、百合のエリート、略してユリートの一日の始まりとして、まさに理想的な朝のルーティーン。

 

 すっかり顔馴染みになった護衛の間を抜けて、俺はテラスに踏み込んだ。

 

「おはようございます、ヒイロさん。今日はいつもより早くお呼び立てしてしまって、すみません」

 

 いつも通りの定位置。ティーカップを片手に持った少女は入ってきた俺を目にすると頭を軽く下げる。

 

「今日はお前にとって大事な日だからな。俺も最後までちゃんと付き合うさ」

 

 手を振って軽く気にしてないと笑った俺に、桐藤は淑やかに微笑むと、視線を快晴の空へと向ける。

 

「……いざその日が来てみると、緊張を感じる前に実感が湧かないものですね」

「まあ、今更怖気付かれても困るしな。俺だって、お前にかけてるんだから」

「ふふ、そうですね。いただいた愛には愛で応えねばなりませんから。ええ、本当に……気づけば、ヒイロさんには護衛の範囲を超えて、多くのことを助けてもらってしまいました」

「俺の目的のために、好きでやったことだから気にすんな」

 

 テラスから外の景色を眺める彼女に、俺は笑いかける。

 

 エデン条約は和平条約だ。長年いがみ合っていたトリニティとゲヘナが互いに手を取り合い治安維持機構『エデン条約機構(ETO)』を設立する。そして、このETOにより学園間の紛争解決を行い、憎しみ合いの連鎖を止め、全面戦争を回避する。

 

 ……連邦生徒会が遺したこの甘い理想を、桐藤は一人で受け継いでここまで辿り着いた。

 

 冗談めかして、彼女は愛と表現していたが……そこには、親友を守るために、平和な世界を作りたいという願いが……美しく優しい(百合)があるのだと、俺は思っている。

 

「ミカさんと協力するようお膳立てして、私にやり直す機会を作ってくださったのも……協力者を増やしていって、私が休めるように根回しをしてくださったのも……目的の為になされたことなのでしょうか?

 このすべてが、個人的な目的のためだとしたら……このお節介と表現するしかない数々を通して、一体どのような青写真を描いていたのかが、少し気になりますね」

 

 小さく微笑んだ彼女は、音を立てずに受け皿(ソーサー)にカップを戻す。

 

 俺が席を引いて座ると、桐藤はもう一つのカップを手に取った。

 

 ミルク、紅茶と順に注いで、ミルクティーを作った彼女は、最後に砂糖を加えて、俺に受け皿(ソーサー)と共に渡す。

 

 一言感謝しながら受け取ると、彼女は手元の紅茶に視線を戻して、伏し目がちにささやいた。

 

「一つ……あなたに、まだ話せずにいたことがありました」

 

 やけに真面目な雰囲気に、俺は神妙な顔で口を開いた。

 

「もしかして……あれか? エデン条約が終わったら、結婚するんだってやつか……?」

「結婚……? きゅ、急に何を言っているんですか!?」

「今はやめとけ。いわゆる死亡フラグってやつだからな。

 だが、俺としては勿論、ミカと一緒にお前には幸せになって欲しい……だから、安心して任せてくれ。この命に代えても、お前のことは俺が護るよ」

「どうして、そこまで……。いえ、待ってください、なぜそこでミカさんの名前が……?」

「そんで、式場で俺が結婚式の神父役するよ……誓約の言葉とか余裕でやっちゃう……おめでとう! ご結婚、おめでとうッ……!!」

「そもそも、私の話を置いて、勝手に一人で盛り上がらないでください!」

 

 立ち上がって、祝福の涙を流しながら一人で盛り上がっていると、桐藤に怒られそうになる。

 

 姿勢を正して席に座り直した俺は、作ってもらったミルクティーを一口飲んで平静を取り戻した。

 

 危ない危ない。俺の良くない癖だ……突然の百合の供給に、つい熱くなっちまった。あれこれ、周りが口を挟むのは良くないからな……こういう場合は、さりげないノンバーバル・サポートが大切だ……。

 

「何を頷いているのかは知りませんが……変なことを考えているとは、私にも分かるようになってきました。

 もしも、これもヒイロさんなりの私への気遣いなのだとすれば、大したものです」

 

 呆れるように俺を見つめて、少しだけ肩の力を抜いた彼女は、カップを置いたまま手を添える。

 

「結局……最後まで、あなたは私に尋ねませんでしたね。あの夜、私の元を訪れた彼女たち……先生と補習授業部のみなさんと、私の間に何があったのかを」

 

 初めて桐藤に会ったあの日、俺は聖園が送ってきた情報に従って桐藤のもとにたどり着いたが、そこには先生と白洲達も居た。

 

 聖園はアリウスのみを想定していて、浦和たちのことは想定していなかっただろうが……逆に浦和たちは桐藤の所まで何をしに来たのか、そして浦和が口にした『ドッキリ』の意味も、俺は触れることなくここまで来ていた。

 

「言いたくないなら、別に話さなくてもいいぞ。隠し事の一つや二つ、人間ならあって当然だ」

「いえ、心配には及びません。むしろ、話すこと自体が、私の個人的な感情に基づいた自己満足のようなものですから。ですので、聞いてくださいますか、と尋ねるほうが、この場では適切かもしれませんね」

 

 カップを持ち上げて、口につけた俺は、黙ったまま対面の彼女を見つめる。

 

 沈黙を肯定と受け取って、そっと目を伏せた少女は、紅茶の水面にささやいた。

 

「あれは、愚かな私の自業自得だったのです。あの頃の私は、自分以外の全てを疑っていました。セイアさんが死んだと聞いて……次は自分かミカさんが狙われるかもしれない、そう思った私は、トリニティ内部の裏切り者を探し始めました」

「……情報を含め守られている筈のティーパーティーのメンバーが襲撃されるなんて、内通者を疑ってもしょうがない事態だからな」

「ええ、その通りです。セイアさんも襲撃当時、セーフハウスに居ましたから。内通者は、少なくともトリニティ内部に潜り込んでいると考え……その裏切り者の候補者をまとめて炙り出すために作成したのが、補習授業部です」

 

 一息置いて、桐藤は揺れる飴色の水面を眺めたまま続ける。

 

「転校生であり、暴力事件も起こしている白洲(しらす)アズサさん。

 一年生の時点で次期ティーパーティーの有力候補と目されていたにもかかわらず、その立場を放棄し不審な行動を繰り返している浦和(うらわ)ハナコさん。

 反ゲヘナの疑いがあり潜在的脅威である正義実現委員会の中でも、成績不良で人質として適格な下江(しもえ)コハルさん。

 そして……無断外出に、ブラックマーケットでの目撃情報に加え、眉唾物ですが、犯罪者集団、覆面水着団のリーダーだなんて噂もあるヒフミさん。

 この四人に加え先生を顧問として立てることで、シャーレの越権的な力により例外的に部活動として成立させることが出来ました」

「……なぜ、補習授業部なんて変な部活があるのかと思っていたが」

 

 足を組んだまま、ミルクティーを俺は口に運ぶ。

 

「その四人を一つに纏めることが出来るなら何でもよかったわけだ。たまたま、成績の悪い学生のための補習というカバーストーリーがぴったり嵌って、シャーレの先生を顧問として置く部活という形態を選んだわけか」

「そういうことです。一応、彼女の名誉のために触れておくと、ヒフミさんだけは成績に問題はありませんでした。しかし、一度無断で試験を欠席したことを理由に、先生の補佐という形で補習授業部に入部させました」

 

 受け皿(ソーサー)と共にティーカップを桐藤は持ち上げる。

 

「この部活の本当の目的を私は先生に明かし、トリニティの裏切り者を探してほしいと協力を求めました。大人である先生なら理解してくださるだろうと。

 しかし、先生はあくまで生徒を信じるとおっしゃって……今思えば、あの時から、私は先生に見切りをつけ、自分一人でどうにかするしかないと思い詰めてしまったのでしょう」

「……」

「これでは、言い訳のようですね。どちらにしても、私がこの後に行ったことは、許されてはいけないことだったと思います」

 

 自嘲した彼女は、静かに己の過去を告白する。

 

「補習授業部には試験を課していました。先生も敵とみなした私は、この試験で全員が通過できなければ退学させるという条件を設けました。補習授業部全員を退学にすることで、その中にいるだろうトリニティの裏切り者もまとめて排除しようとしたわけです。

 その際には、なんとしてでも退学にしようと、悪辣な手段も多く使いました。合格ラインや試験範囲を直前に変更したり、試験会場をゲヘナに設定して温泉開発部を誘導してみたり……思い出してみると、本当にどうしようもない話です」

 

 紅茶に口をつけて、ティーカップをテーブルの上に戻した彼女は視線を手元に落とす。

 

「結果は……あの通りです。私が探していた内通者とはミカさんのことで……そして何よりも、トリニティの大義を謳いながら、罪のない四人を切り捨てようとした私の行為はやってはならないことでした。

 補習授業部のみなさんは、そんな恨んでいてもおかしくない私をアリウスの襲撃から守った上で、次の日の朝の試験に合格してみせました……どちらが間違っていたかは、明らかでしょう」

 

 俺は残りのミルクティーを飲み干して、目の前の少女をただ見つめた。

 

 顔を上げた彼女は、俺と目が合うと唇を曲げて小さく自嘲する。

 

「あの夜、ヒイロさんは私が向けた銃も気にせず私を庇い、そしてハナコさんの正当な言葉を遮って私に微笑みかけてくれましたが……決して、私はあなたの慈愛に値するような人間ではなかったということです」

 

 そう卑下する彼女は、俺の前のティーカップが空になっていることに気づくと、二杯目をついでくれた。

 

「軽蔑していただいても、構いません。ただ、このような罪を抱えていながら、あなたの優しさを享受することに、私が耐え切れなくなったというだけの話ですから……。

 すみません。暗い話をしてしまって。エデン条約に向けた確認に移りましょうか」

 

 話を切り上げると、桐藤はティーポットを元の位置に戻す。

 

 彼女が手前に差し出したティーカップを受け皿ごと受け取って、俺は静かにテーブルの上に置いた。

 

「もし」

 

 紅茶の水面を見つめたまま、俺は口元に笑みを浮かべる。

 

「もし、あの時、俺がその事を知っていたとしても……俺は同じようにお前の傍に立っただろうな」

 

 動きを止めて俺を見つめる彼女に、俺はささやく。

 

「あの時、俺はミカにお前を頼まれた。あの時のお前には周りが見えてなかったとしても、確かにお前にはお前を想う友達が居て……その想いは本物だった。

 同じように、お前がエデン条約のために手段を選ばなかったのも……元を辿れば大事な友達を守る為で……その想いだって本物のはずだ。

 俺が、その尊い想いを軽蔑するかよ。俺は、お前のその想いが素晴らしいと思ったから、お前のエデン条約という素敵な夢を叶えるために、俺の意思で俺はここにいる」

 

 親友を守る為に、少しでも平和な世界を作ろうと、エデン条約の為に桐藤が費やして来た想いを俺は知っている。

 

 百合という俺の理想を踏まえれば、ココで俺が言うべきではないと分かっていても……彼女にはその尊い努力まで卑下して欲しくはなかった。

 

「そもそも、完璧な人間なんてこの世に居ないからな。誰だって間違いの一つや二つあって当然だ。それよりも、俺は今のお前の努力を知っている。少なくとも、今のお前の願いは……お前にだって否定はさせねぇよ」

 

 ニヤリと口角を上げて、俺は少女の透き通った金色の瞳に笑いかけた。

 

「約束通り、お前のことは俺が護ってやる」

 

 口先だけの約束と思われようとも、俺は俺の本物を口にする。

 

「お前の願いは俺が護ってやる。だから代わりに、その夢の先を俺にも見せてくれ」

 

 瞠目した桐藤は俺を見つめて、ふと我に返るように視線を落とすと、手に取った書類を目的もなく捲る。

 

「日頃から気になっていましたが……」

 

 仄かに頬を上気させた彼女は、繊維質の高級紙を指先で撫でる。

 

「ヒイロさんのそういう台詞は、一体どこから出てくるのでしょうか。本当に……そういう所はたちが悪いですね。心の底から本気で言っている分、尚更です」

 

 柔らかな笑みを零す少女に、俺は微笑む。

 

 少しの間、穏やかな静寂が残って、ふと桐藤は手元の資料を元の位置に戻すと、おずおずとテーブルの下から紙箱を取り出した。

 

「……その、渡すべきかは迷っていたのですが……今なら渡せる気がするので、良ければ受け取ってください」

 

 そう言って彼女は高級感のある紙箱を俺に差し出す。

 

 どこか恥ずかしがるような彼女に、俺の百合IQ180の頭脳が高速回転する。

 

 なるほど、ここ数週間の俺の百合力を信頼して、俺に託してくれるってことかな?

 

「ふっ、いい判断だ。ユリートの名にかけて、ミカにこの俺が必ず届けてやる!」

 

 満面の笑みを浮かべた俺は手を伸ばして──

 

「いえ、ヒイロさん、あなたにですよ?」

 

 意表を突かれた俺は、まじまじと目の前の少女を見つめる。

 

 桐藤は視線を紙箱に落としたまま、優しく俺の手を取って持たせた。

 

「これは政治的な話も関係ない、ただの桐藤ナギサとしての個人的な気持ちです。忘れてもらっても構いません……。そもそも男性に贈るようなものでもありませんし。ただ、あなたに持っていて欲しいのです」

 

 白魚のような指先が手の甲を撫でる。

 

 俺の手を包むように添えられた彼女の手から、仄かな熱が伝わってきた。

 

 期待と不安を瞳に映す彼女に、俺は拒否することも出来ず、差し出されるがままに受け取った。

 

 (ため)めつ(すが)めつ、初めて携帯電話(スマートフォン)を見た原始人のように、紙箱を検分する俺の前で桐藤は微笑む。

 

「あなたの口にする百合は決して、植物の花のことではないと分かっていますし、これ自体は百合とは関係ない架空の花かもしれませんが……それでも見るたびにあなたを思い出して、ふと気づけば余分に購入してしまったので」

 

 言葉そのままの百合の花について触れる彼女に、言われてみれば、彼女の髪飾りが何処となく白百合の花に似ていることに気付く。

 

 俺は中身について訊こうと口を開こうとして、人差し指で止めた彼女は俺の後ろを見て、彼女がたまに見せる無邪気な子供のような笑みを浮かべた。

 

「そろそろミカさんが来る時間ですし、質問は後程、すべてが片付いた時にまた伺わせていただきますね?」

 

 目を奪われたまま動けずにいる俺を置いて、彼女はいつもの凛とした佇まいに戻る。

 

 同時に、ドアを勢いよく開く音と一緒に明るい声が飛び込んで来た。

 

「ヒ~イ~ロッ! おはよっ!」

 

 背中側から聖園の声が響く。俺は慌てて紙箱を布教空間(パーソナルスペース)に仕舞い、対面の桐藤は目を閉じたまま紅茶に口をつける。

 

「あっ、ナギちゃんも」

「ミカさん、今日で完全に謹慎が解けるとはいえ、トリニティの淑女らしい言動を心がけてください」

「……あれ? 今日のナギちゃん、いつもよりもご機嫌じゃない……? なにか、良いことでもあった?」

「さぁ、どうでしょう?」

「う~ん、怪しい……」

 

 訝しがりながら聖園は背後から近づいて来て、座っている俺の後ろから手をまわして来る。

 

 ふわりと控えめながら甘い匂いが香り、垂れ落ちる桜色の髪が肌の上をくすぐる。

 

「あの、席はあちらですよ……? あと、色々と当たってません……?」

 

 後頭部の柔らかな感触に冷や汗を流しながら、俺は空いている席を指さすが、無視されて頭に胸を押し付けられる。

 

「えへへ、いいのいいの! 減るもんじゃないし!」

「俺が早朝に稼いだ百合ポイントは、既にすり減ってるね……?」

「そうでした、ミカさんに伝え忘れていたことがありました」

 

 そんな俺達のやり取りを前に、紅茶を傾けていた桐藤は間をおいてニコリと微笑んだ。

 

「ミカさんにはお留守番を頼みますね。条約を締結する会場には私とヒイロさんで行きますので」

「えっ……」

「ゲヘナの方に失礼があってもいけませんし、トリニティのティーパーティー全員が席を空けるわけにはいきませんから。では、そろそろ行きましょうか? 早めに出発するに越したことはないでしょう」

「あれ、ナギちゃん? 私、まだ来たばっかりなんだけど……? おしゃべりも、おはようの序盤も序盤だよ?」

「護送車両があるので、まずは下に降りましょうか、ヒイロさん?」

「な、なんだか私の扱いが雑になってる気がする……もしもーし?」

 

 顔色を窺うように、その場で話しかける聖園を置いて、さっさと桐藤は立ち上がって歩き出す。

 

 謝りながら聖園の拘束を抜け出した俺は、立てかけていた九鬼正宗を手に取ってその背を追いかけた。

 

 結局、聖園も自身が学園に留まる意味を理解しているため、言葉以上に抗議することも無く、俺は桐藤と共にトリニティの大理石の廊下を歩く。

 

「ふふ、たまにですが、自分の気持ちのままに動けるミカさんが羨ましくなりますね」

「立場とか色々あるんだろうが、ああいう知り合いだけの場なら誰も咎めないと思うが……」

「それは……あなたの前でなら、素直になってもよいということですか?」

 

 桐藤は立ち止まって俺の傍に寄ると、からかうような茶目っ気のある笑みを浮かべる。

 

 瞳に映る自分が見えるような距離感に俺はぴたりと固まって、目を伏せた彼女はささやく。

 

「いえ、きっとヒイロさんなら受け入れてくださるのでしょう。ですが、それもまた、全てが終わった後の話ですね」

 

 嫋やかな微笑みを残して、有翼の少女は先を行く。

 

 俺は止まっていた時間を取り戻すと、再び彼女を追いかけて横に並んだ。

 

 百合の守護者として正しい選択肢を選べているのか、薄く纏わりつく不安に侵されながらも、エデン条約の調印式を迎えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

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