麒麟の心臓   作:仁絵乃羊

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少女と誤信

 目を覚ますと、左腕がなくなっていた。

 骨と皮ばかりの痩せた二の腕の、途中までしかない。その途切れた部分は、肌を隠すように布が巻かれていて、どうなっているのかよくわからない。布の隙間に細い管が挿さっていて、それは壁のフックに吊られた点滴バッグから伸びてきているようだ。

 見当たらない手の先にぐぐっと力を込めると、サイドチェストの上で毛布の塊が微かに動く。

 なるほど、と腑に落ちた。

 衰弱死するはずだった私は、首尾よく能力者になったローに救命されたらしい。

 

 

 私がドンキホーテ海賊団(ファミリー)に拾われたのは四歳の頃。

 たったの四年前だけれど、人生の半分を海賊と過ごしたことになる。

 

 それより前はもう遠い記憶だ。

 父が病気で亡くなって、母は一人娘を連れて国を出ることにした。

 特に疑問には思わなかった。母と私はよそ者と誹られながら暮らしていたから。

 よそ者はどこへ行ってもよそ者に違いない。それでも、よそ者に石を投げない国ならあるかもしれない。そんな希望を胸に、母娘二人きりで船に乗った。

 

 大海賊時代の草創期。四つの海で最も闇深い北の海(ノースブルー)で、無謀極まりない旅だった。

 けれど母を殺したのは海賊じゃない。

 海獣か海王類か、何か大きなものに船底を突き上げられて、船はバラバラになった。

 そうして私たち母娘は、青く美しくも深く冷たい海に投げ出されてしまったのだ。

 

 私は幸運だった。溺死も凍死も免れて、海の生き物の餌になることもなく、船の残骸とともに浜へ打ち上げられたからだ。同じように助かった人間はいなかった。

 冷え切った身体はもう寒さも感じなかった。木枯らしを暖かいとさえ思った。

 絶え絶えの声で母を呼びながら浜辺を彷徨い、小さな宝箱を見つけた。

 同じ船の積荷だったかもしれないそれは、強い衝撃にひしゃげて割れていた。

 

 こぼれ落ちた中身こそ〝シシシシの実〟幻獣種モデル〝麒麟〟。

 麒麟は〝王〟に力をもたらす瑞獣だ。ただし知られざる生態として、血の穢れに弱い性質があった。他者の流血にかぎらず、自身の出血すら毒となる。

 私はその実の正体を知らないまま、空腹に抗えず齧りついた。

 ボロボロに傷ついて血を流していた私は、そのせいで昏倒した。

 

 気がつくと大きなベッドの上で、清潔なリネンに包まれていた。

 母譲りの黒髪は見事に色が抜け落ちて、黄金の輝きを放っていた。鏡に映った顔は変わっていないはずなのに、自分のものとは思えなかった。

 何もかも、自分自身さえ失くした。

 幼い心はすっかり壊れていた。

 

〝ロカ〟というのは気の触れた女という意味だ。

 名付け親はドンキホーテ・ドフラミンゴ。北の海(ノースブルー)に巣食う海賊団の首領で、当時の私の三倍も背丈がありそうな大男。私は彼を〝ドフィ〟と愛称で呼ぶことを許された。

 

 ドフィがどうして私を拾うことになったのかはわからない。四歳の私はまだ、なぜなにを筋道立てて思考できなかったし、後になってみればどうでもよくなってしまったから、知る機会が訪れなかった。

 

 ローと出会ったのは、ドフィの下で一年と数ヶ月を過ごし、六歳になった頃。

 医者の子だったローは、十歳で国を亡くし、世界への復讐を望んで海賊になった。

 一員に迎えられたばかりの頃、ローはいつも傷だらけだった。絆創膏と包帯の下では血が滲み出ているようで、麒麟の鼻はその匂いをひどく不快に感じた。そのせいで、すぐには顔を向けることができなかった。

 

 小さく縮こまっていると、大きな手にひょいと抱え上げられた。

 そうして、強引に向かい合わされた。

 どうやらドフィはローを〝麒麟の王〟にしたいらしかった。

 

「ロカ、どうだ?」

 

 もこもこした毛皮の帽子の陰から、あどけなさの残る顔が剣呑な目で睨みつけてきた。

 視線は私に向いていたけれど、言葉はドフィへと向かっていった。

 

「……いや、おかしいだろ!? あんたが〝王〟なんじゃねェのか!? こんな力が本当にあるなら、他の奴に渡したりしねェはずだ」

「お前ならいい」

「なんで……」

「言ったはずだ。お前には素質がある。賭けるだけの価値がある……!」

 

 幼くて背の低い私からは、帽子の陰になった顔がよく見えた。

 不安と不信、苛立ち……そして少しの期待に僅かばかり揺れる目が、私を見ていた。

 

 その期待に応えるわけにはいかなかった。

 なぜって、〝王〟になれば不老不死になってしまう。今〝王〟になれば、病は癒えたとしても、天命の尽きるまで非力な子供のまま生きなければならなくなる。

 あるいはそれこそがドフィの望みだろうか。異例の早さで気に入り、右腕にと見込んだ子どもを、確実に、いつまでも手元に置いておく。麒麟さえ押さえておけば〝王〟はどこへも逃げられない。

 いずれにせよそれはローにとって不幸でしかない。

 

 だから。

「ローを救けるのは私の役目じゃない。私は誰も〝王〟にはしない」

 そう告げて、読みかけの本を抱えて書庫の片隅に蹲った。

 

 そうしないと、膝を折ってしまいそうだった。

 彼の前に立っていることは、私にはあまりにも難しかった。

 

 

 ドフィの真意を知ったのは、二年経ってローとコラソンが失踪してから。

『ローのビョーキをなおしてくる』

 そんな書き置きを残して二人は消えた。

 

 握りつぶした書き置きを、ドフィは捨てずに机の上へ置いた。

 捨てられないのだ。ドフィは彼なりに家族を愛しているから。彼の愛は冷酷だ。決して優しくはない。善き愛とは言えない。けれど人一倍深くて重く、絶えることがない。

 

「どう思う」

 ドフィは私に問いかけた。

 この頃はこんなふうに、私にも考えを求めてくるようになった。

 私はひと呼吸ほど考える()()をして答えた。

「コラソンは子どもが死ぬのを見たくないんだ」

「ほう?」

「ローの病気は顔を見れば猶予がないのがわかるくらい進んでいた。待っていても救えないなら、探しに出るしかない。何もおかしくはない」

 ドフィは数秒ほど笑みを決して黙考した。

「……なるほど、腑に落ちるところはある」

 

 椅子に凭れたドフィが、その長い脚を組み替える。

「なあ、ロカ。どうしてローを治してやらなかった? あいつを〝王〟にしちまえば、不老不死の力で中毒だろうと何だろうと治ったはずだ」

「私は誰も〝王〟にしない。ずっと言っている」

「意地だけでローを見殺しにするのか?」

「逆に聞くが、どうして彼を〝王〟にしたがる。ドフィが〝王〟になりたがらない理由はわかる。麒麟の巻き添えで死ぬのが嫌なんだ。でも誰かに〝王〟を譲るなんて、とてもあなたらしくない」

 

 ドフィは唯我独尊を体現する男だった。仲間たちからもそうあれと求められていた。麒麟の私が彼以外の誰かを〝王〟に選ぶなんて、許すはずがないのだ。何か特別な意図がないかぎり。

 

 じっと見つめた先で、ドフィはニヤついた笑みを深めた。

「おれはな、面白いと思ってたんだ。ローがうちへ来たあの日からずっとだ」

「面白い……?」

 眉を顰めた私に、ドフィは手のひらを向けて制する。

「まあ聞け。今は病人の話はしてない。医者の話をしている」

「医者?」

「そうだ。以前からおれはある悪魔の実を探していた。その実の能力は、お前と同じように、他者に永遠の命を与えることができる」

「オペオペの実」

「よく勉強してるな。図鑑に不老手術のことは書いてなかったはずだが」

「不老手術は命と引き換え。彼が自己犠牲を承諾すると思う?」

「そりゃあ確実に死ぬと言えば拒むだろうさ。今のローにそんな忠誠心はない」

 

 ドフィが芝居がかった動作で腕を広げる。続く言葉に熱が入る。

「だがうちにはお前がいる。ロカ。お前という、未だ〝王〟を持たない麒麟が! それで思いついた! ()()の〝王〟なら、不老手術の代償を踏み倒せるんじゃねェかとな!」

 

 対照的に、私は冷め切った。

「……つまり、私の〝王〟を、不老者を作る装置に仕立てようというわけか」

「装置だなんて思っちゃいねェよ。おれはあいつを買ってるんだ。おれの右腕たりうる稀有な才能……いずれは幹部、家族として並び立つことを期待してる」

「非力な子どものまま〝王〟にして、麒麟という急所を押さえておけば、どれほど野心があっても脅威にはならない。ベビー5もバッファローも能力者。デリンジャーは幼すぎるし、性格的に向いていない……それでローというわけだ。命の恩という鎖で繋ぐことにもなる」

 

 八歳の私に目論見を明かされて、ドフィはただ愉快そうに笑った。否定も、誤魔化しの言葉もない。戦えない私に賢しさを求めて教育を施したのはこの男だ。

「でも、やっぱりあなたらしくない。肝心の実も手に入れていないのに、そんな空想に意味があるのか?」

「ただの夢想なら話して聞かせたりしねェさ。数奇なことに、この北の海(ノースブルー)に存在しているらしい。オペオペの実と、その真価も知らず金に換えようとするバカな海賊がな」

 

 ことここに至ってようやく私は息を呑み、目を見張った。

 動揺する私を見て、ドフィは笑みを深くする。

 

「無理強いなんざするつもりはねェ。だがお前がその気になってくれたなら、おれは大事な家族を死なせずに済む。弟を喪って悲しみに暮れることもなくなるんだ……」

 底抜けに甘い声が囁きかけてくる。

「……わかるだろう、ロカ?」

 

 ドフィは私をよくわかっていた。

 そして決定的に間違っていた。

 私には、彼にも誰にも教えていない秘密があった。

 

 私は一度読んだ本を忘れない。

 ページについた傷までも完全に記憶することができた。

 悪魔の実とは関係なく、物心がついた頃には身についていた能力だ。映像記憶や写真記憶と呼ばれる特技だと、これも本に書いてあった。

 

 自覚した頃にはもう、図書館を埋め尽くすほどの本が頭の中にあふれていた。

 いつどこで読んだのかわからない、無数の本をおぼえていた。

 そのほとんどは、異質な言語と未来の日付で記された物語。

 私がまともな子どもとして育たなかったのは当然だろう。いつもぼうっとして、記憶の本を思い出しているか、現実の本を眺めているか。父が本の虫の文学者でなかったら、きっと家にも居場所がなくなっていた。

 

 最も私の心を捕らえたのは、海賊王の財宝と同じ名前の絵物語。

 最初の一巻は奥付によると一九九九年初版。少なくとも四百年以上未来の本だ。

 年間数巻のペースで、ゆうに百巻を超えて刊行されたその超大作は、どうやら歴史を記しているらしかった。

 

 その物語の中で、私は私を虐げた祖国が滅びることを知った。

 今という時代は、変革の大きな流れの中にあるのだとさとった。

 

 だから、ドフィのことも、本当は出会う前から知っていた。

 ローという男の子が現れることも、コラソンが彼を救うことも知っていた。

 

 ただ、その物語には私が登場しなかった。

 物語の余白で私がどんな役割を果たすのか、少しも読み取れなかった。

 私が物語と現実を乖離させているだなんて、手遅れになるまで気づかなかった。

 

 麒麟を手中に収めたせいで、ドフィは物語以上にオペオペの実に執心した。

 その結果、物語よりずっと早く、オペオペの実は歴史に現れようとしている。

 こんなにも早まっては、ローを救うには足りない。

 半年に及ぶ徒労を経ることで、コラソンが真情を露呈するに至り、ローは心を開くようになる。その前提がなければ、ローがドフィを裏切ってコラソンを選ぶなどありえない。

 

 私はようやく、物語でなく現実を見た。

 夜明けへと向かう大きな流れのひとつが、断たれようとしているのを認めた。

 

 

 こうしてもう一度身体が動くようになるとは思わなかった。

 食事を絶ち、水を絶ち……私は現実に私が存在していることが許せなくなって、生きることをやめていた。

 ただ死ぬだけというのも許しがたかったので、わずかばかり足掻きもした。

 そうして、最後の最後に、欲が出た。

 

 いつの間にか、ローが〝コラさん〟と呼ぶようになっていたから。

 ローの〝コラさん〟を聞けたから、〝ハートの海賊団〟も見たくなってしまった。

 この目に映すことが叶わないとしても、信じて思い描きながら逝きたかった。

 

 体力も感覚も鈍りきっていて、起き上がっただけでくらりときた。

 点滴を引き抜いて腕をくっつけ(ローの能力で切られた傷が跡形なくくっつくことも、当然、本に描かれていた)、薄汚れた漆喰の壁に寄りかかりながら歩いた。

 

 家の中には誰もいないようだった。

 玄関扉の閂を外して表へ出る。

 背高の針葉樹が寄ってたかって、力なく横たわる小径を見下ろしていた。

 付近に人や建物は見当たらない。

 樹冠の細い隙間を縫って、ちらほらと雪が舞い落ちてくる。

 

 ガタン! と大きな音がした。

 家の中からだ。

 よく考えれば、内側に閂がかかっていたのだから、住人は在宅のはずだった。家の裏に庭があるのかも、勝手口からそちらに出ていたのかもしれない。薪小屋だとか、井戸だとか、そういった場所があるのかも。都会の家と船の暮らししか知らないから、すぐには思いつかなかった。

 

「ロカがいねェ!」

 ローの声だった。

「——! ——だよ! ……閂が外れてる!! あいつ外に……おれ山のほう見てくるから町のほうから——!!」

 勢いよく扉が開いて、飛び出してきたローは立ち尽くす私を見つけた。

 まん丸に見開かれた目がたちまち吊り上がる。

「いたー!! お前!! お前……医者の指示なしに点滴を抜くんじゃねェ!!」

 

 腕を掴んで連れ戻そうとする手を、私は逆に掴み返して引き止めた。

「……どうして、治さないの」

 ここはどこだとか、どうしているのかとか、全部吹き飛んだ。

 ローの顔が、最後に見たときと変わらず、白斑に蝕まれていたから。珀鉛病を治したなら消えてしまうはずの呪わしいアザが、まだはっきりと残っていたから。

 

 振り向いたローは、緊張感のある警戒の視線を寄越した。

「おれは、人質だ」

 この言葉に、私は動揺を隠せなかった。

「人質?」と問うと、ローは冷静に続けた。

「おれを治すのはお前の次だ。もし治療を拒んだら……お前のたくらみも、コラさんがやったことも、全部無駄になるぞ!」

 

 私は息を呑み、言葉を失った。

 つまり、ローは人質であると同時に、脅迫者なのだ。脅されているのは私で、私が生きるのを拒むなら、彼の未来が道連れになるということ。

 その脅しは、覿面に効いてしまう。

 

「どうして……そんな……」

 刹那、目の前に黒い靄がかかって、たちまち上も下もわからなくなった。

 冷たい汗が噴き出して、吐き気が込み上げた。

 あっと思ったときにはもう膝をついていて、朦朧としながらローの背に負われることになった。

 

 ベッドに寝かされ、毛布を被せられ、それだけでずいぶん楽になった。自覚できるまで意識が回復した。

「〝ROOM(ルーム)〟……〝スキャン〟!!」

 ローは私を診ながら難しい顔をしていた。

 ただの脳貧血だというのに。私は医者じゃないけれど、本だけは読み漁っている。

 

「どうして私を生かそうとする」

「うるさい。お前こそどうしておれたちを救けたんだ」

「救けてない」

「嘘つけ。あの電伝虫お前だろ。じゃなきゃおれの能力を見て驚かねェわけがない」

「……不毛」

 

 こんな一言すら信じてもらえない。

 私は唇を結んで目を伏せた。

「おい」という不機嫌な声に、顔も背ける。

 

「話したくない」

「……問診には答えろ。お前、生まれはどこだ」

「それは問診なのか?」

「問診だ」

「答えたくない」

「……ここへ来て、最初にお前を診たとき、見つけた。背中にあった、白いアザ。発症早期の珀鉛病だ」

 

 にわかには信じがたい告知に、私は目を見開いた。

 こちらを見下ろすローの顔は冷静そうで、ただ少し強張っているようだった。

 

「体内の珀鉛の量は、おれに比べてだいぶ少なかった。たぶん、身体が珀鉛の毒を代謝しきれるギリギリだったんだ。絶食で体重が減ったのと、免疫系が弱ったせいで拮抗が崩れて、今になって発症した……お前は、〝白い町(フレバンス)〟の……」

 

 なあ、と、息混じりの声がこぼされた。

「なんで、黙ってた……!!」

 私はそれを、冷たく突き放す。

「〝白い町(フレバンス)〟が嫌いだから」

「……!?」

「私はローと同じじゃない。あの国の思い出を、私に重ねないで」

 

 ローは〝ROOM(ルーム)〟を解いていない。

 だから嘘偽りのないことがわかるはずだ。

 私の心臓が跳ねたのは、珀鉛病の告知を受けた一瞬だけ。

 そのあとはずっと静かに、単調なリズムを刻んでいる。

 

 好きになれるわけがない。私と母に石を投げた国を。

 ましてや、それが謂れのない仕打ちだったと知って。

 

 仕方のないことだとは思う。

 珀鉛病は死病だ。老いも若いも男も女も、皆隔てなく兆し始めていた。誰もが迫り来る死に怯えていた。外国が〝白い町(フレバンス)〟を疫病の国と謗り、差別するようになって、豊かだった国内が少しずつ困窮し始めた頃だった。

 あの母娘は少しも白くならない。あれは〝よそ者〟に違いない。

 そんなふうに誰かが言い出した。

〝よそ者〟は彼らにとって〝敵〟と同義になりつつあった。

〝敵〟に石を投げるのは正しい行いとされた。

 もともと本にしか興味を示さない不気味な子どもで、嫌われていたせいもあると思う。大人しくて、反撃もしない。私はいい標的だった。

 教会の片隅でひとり、痛みに耐え続けた。

 父が闘病の末に亡くなって、看病から母が解放されるまで。

 ほんの数ヶ月、幼い子どもにとっては永遠のような時間を過ごした。

 

 仕方ないと思う。

白い町(フレバンス)〟は被害者だ。

 憐れみをおぼえる。悼む気持ちもある。

 だから、ローには何も話さない。

 

「墓を暴いて泥を塗るつもりはない。ただ嫌い。私には愛せない。あなたとは違う」

 

 本当にひどい話だ。

 麒麟は天の意思を表すために生まれてくるという。

 それが本当なら、天はどうして私の前へ悪魔の実をもたらしたのだろう。

 どうして、よりにもよって、生国を愛せないものを麒麟にしたのだろう。

 麒麟は〝生国の王〟を選ぶものなのに。

 

 

 日暮れ近くになると、住人たちが帰ってきた。

 玄関扉を割れんばかりに叩いて、私を見るや力いっぱい抱きしめてきたのがコラソン。

 そんな目に遭うと思わなかった私はただただ混乱し、戸惑い、それを見たローは声を荒げて叱りつけた。

「バカやめろ!! そいつはまだ安静だ!!」

「お、おう……すまねェ!! 感極まっちまってな……気分はどうだ? 食欲はあるか?」

「……ないけど、食べる」

「そうか! ちょっと待ってろよ!」

 

 そしてもう一人、顎に特徴的な傷跡のある、金茶の髪の少年……いや、青年だ。

 彼は寝室へは入らず、コラソンが開け放ったままのドアから恐る恐る覗き込んできた。

「……ドリィ?」

「……!! ……そうだ! あんたは……」

 

 言い当てると彼はびくりと肩を跳ねさせたが、私こそ驚いた。

 確かに私は言った。彼を味方につけるように。けれどそれはあの場限りのことで、ミニオン島を出てからも行動をともにするなんて想定外だ。

 物語の中の彼は、この時点ではローと運命的にすれ違うだけなのだ。我知らずローの危機を救いながら。張り巡らされた伏線の一つとして、ひっそりと海軍に保護され、念願叶って海兵となり、数奇な巡り合わせによって、未来でまたローの危機を救うことになる。

 それなのに。

 

「どうしてここに?」

「えっ。いや、おれは……コラさんに連れて来られて……」

「海兵になるんじゃないのか?」

「……どうしてそんなこと、あんたが知ってる? コラさんにおれのことを教えたのもあんただって聞いた」

「それを知ってどうする」

「いちいち偉そうなのも何でだ……!」

「お前に媚びる道理がない」

「……!! おい、こいつ何なんだ!?」

 

 ドリィは私と話すのを諦めて、ローに訴えた。

 けれどローだって私のことはよく知らない。呼び名と、生まれ故郷、食べた悪魔の実の名前、それ以外は何ひとつ。

「こっちが聞きてェ……お前ら知り合いじゃねェのか?」

「ンなわけあるか! おれはもう何年も、海賊の使い走りやらされてたんだぞ……」

 

 じろりと二人の目がこちらを向くけれど、私はもうそれどころじゃない。

 ドリィがここにいるということは、物語の筋がまたひとつ掛け違ったということだ。この先どうなってしまうのか、余計にわからなくなった。

 未来でローが危機に瀕しても、ドリィは救けられる位置にいないかもしれない。

 ぞっとして身震いをした。

 

「寒いか?」

 目ざとく見咎めたローに「違う」とかぶりを振る。

「〝ROOM(ルーム)〟!」

「簡単に能力を使わないで」

「お前が何も言わないからだろ」

「言うからやめて。狙われている自覚をちゃんと持って……使うのが癖になって、人に見られたらどうする……私は、怖いんだ。寒いんじゃない」

 

 恐怖は口にするとますます大きくなった。

 表情を隠すように、世界を見ないように、膝を抱えて毛布に顔を埋める。

 

「何を言えばいい? 知らないほうがいいことばかり……全部ぶちまけてしまいたい。知られたくない。怖くて頭がおかしくなる。生まれてきたくなかった……生きてきたのが間違いだった……もう死ぬことも許されない」

「ロカ……」

「呼ばれるのが怖い。見られるのが怖い。聞かれるのが怖い。優しくされるのが怖い。大事にされるのが怖い……どうしたって怖い……」

「わかった! もういいよ、これだけで……何が一番怖いんだ?」

 

 それは初めての試みだった。

 怖いものというのは、目を背けたくてもできないもので、深く考えるのはもっと怖い。そんな対象を分類し、順位をつけようなんて思ったこともない。

 夜が明けないこと……海に沈むこと……世界が終わってしまうこと……どれも違う。

 もっと、思い浮かべただけで心がバラバラに砕け散ってしまいそうな、途方もない恐怖を知っている。

 

「ローが……」

「……おれ!?」

「違う。ローが、し……死ぬのが……一番、怖い……!」

 

 縋りつくように、膝を抱く腕に力を込める。

 物語の中で、ローは何度も危機を乗り越える。紙一重の綱渡りに失敗すれば命を落としていた場面が幾度となくあるのだ。そのもしもを考えるだけで、私は気が遠くなり、何もわからなくなってしまう。

 

「し、幸せに、ローが、なれないのが、二番目で……世界が、わた、私のせいで、全部、だめになるかも、しれなくて……」

 

 つっかえながらどうにか言葉を絞り出していると、ローの手が伸びてきて私の頭をぽすんと叩いた。

 

「妄想だ」

「妄……想……」

 

 胸いっぱいの恐怖の中に、ぽつんと落胆が染み込んだ。

 やはり信じてはもらえないのだ。

 そう思うと、どうしようもない徒労感と後悔が押し寄せてくる。

 

「ドフラミンゴに色々吹き込まれたんだろ。きり……お前の能力は特別だから、って」

 何も知らないドリィがいるからだろう。ローは麒麟という言葉を伏せた。

「でも本当に特別で、世界をどうにかできるような力なら、とっくに使わせてるはずだ。実際は大したことねェんだよ」

 

 慰めか励ましか、私の頭を撫で続けるローに、そうではないのだと言い募りたかった。

 けれど、言っても無駄だという気持ちがのどに蓋をして、もう何も出てこない。

 

「……ていうか……べつにいいだろ、世界とか」

 ローは少し気まずそうに、もごもごと口ごもった。

「おれは前から全部ぶっ壊したかったし、今もあんまり変わってねェ……もしお前のせいでだめになったって、おれは笑ってやる」

 

 ローはこともなげに言うけれど、そうはならないだろう。

 ローの本質は医者だ。命を救うものだ。破滅を願ったのは絶望からくる一時的な狂気のせいで、それさえなければ、災いを憂い幸いを寿ぐ、真っ当な心が残る。

 物語どおりでなくとも、生きてさえいれば、彼の周りには大切なものが増えていく。

 世界がだめになったら、その多くは欠けてしまう。ローが無事でも、皆まで無事では済まない。ローは、きっと故郷を失ったときと同様、嘆き悲しむことになる。笑っていることなどできやしない。

 

「オペオペの能力で病気も治せるんだ。おれは死なねェ。ほら一番怖いのなくなったぞ」

 

 なくなったわけではない。ローは私の憂いをこれっぽっちもわかっていない。怖いのも不安なのも変わらない。悲しい気持ちに溺れてしまいそうだ。

 なのに、ローの手に撫でられるのは心地よく、身体の強張りが解けていく。

 とろとろとした眠気が誘われる。

 

 コラソンがせっかく作ってくれたお粥を、その晩、私は食べ損ねてしまった。

 

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