麒麟の心臓   作:仁絵乃羊

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産声をあげる

 樹々が瞬く間に後ろへ遠ざかる。

 針葉樹の森の厚い枝葉が真白い雪をしっかりと受け止めていて、足元に積もったのはわずかだ。踏みしめるたびに、靴底が乾いた音を立てて砂利を跳ね飛ばし、森のしじまに短い残響を残す。

 奥へ進むほど、雪は薄く敷かれているだけで、足裏に伝わる凍った地面の凹凸が鮮明に感じられた。

 冷たい風を切り裂くように足を運ぶ。

 冴えた空気が肺を満たすたび、身体が軽く浮かび上がるように感じる。

 このまま力を解き放てば、私の足は天翔ける蹄を顕して、本当に地を離れてしまう。それは甘美な誘惑だけれど、いけない。ルール違反になってしまうし、能力を見られてはいけない相手が、少し後ろで食い下がっているのだから。

 

 最後まで走り切った私は、まばゆい光を湛えた広場へと飛び出した。森の開けた小さな空間は隅々まで白く、私の靴がそこに最初の印を捺した。

 ほんの少し乱れた呼吸は、次がゴールするまでにすんなり整った。

 

 二位と三位は順に、ローとドリィ。

「本当に……走れたんだな……」肩で息をしながらドリィが言った。

「そう言った。戦えないけど、逃げ足の訓練は積んでる」

 

 言葉のないローは、肩を大きく上下させて息を切らせている。白いアザに覆われつつある顔は青ざめたように見えて、私の不安を掻き立てる。

 彼は今なお珀鉛病を治していない。まだ末期の発作は起きていないけれど、その身体に負荷をかけるのはあまり良いことではない。もしこれが引き金になったら……考えると、とても平静ではいられない。

 

 だからこそ、私はこんな勝負を仕掛けたのだ。

「私の身体は治った。次はローの番」

 負けず嫌いのローは力を振り絞ってきたようで、答えるのも億劫だというふうに手を振った。その手で、額から垂れた汗を拭った。

 私はハンデとして背負っていた荷物から、タオルとブランケットを引き出してローに被せた。

 

 最後に、どうやら途中で転けたらしいコラソンがやって来た。遅れを取ったものの、正式な海兵として訓練と実戦を重ね、海賊としても密偵としても死線をくぐってきた男に疲れた様子はない。

「勝負にならなかったなァ」

「荷重を五倍にしても勝てたと思う」

「そいつァ見くびって悪かったな」

 道化じみた奇抜な化粧が、愉快気にくしゃりと歪んだ。

 

 コラソンとは、このひと月あまりでたくさん話をした。

 何しろ、やたらと私に構いたがった。船にいた頃は近づくこともなかったのに、どういう心境の変化があったのか。その胸の内も聞かされた。

 

「三年前、一度だけ、お前を連れ出したことがあっただろ」

 珍しいことだったからおぼえている。

 うまく寝付けなくて、夜風に当たろうと船長室を出たのだったか。ひとりでデッキに出るのは禁止されていたから、窓を空かして隙間風を呼び込んだ。そこへコラソンが通りがかって、私を船縁まで連れて行ってくれた。手すりに届くまで抱え上げて、落ちないように支えていてくれた。

 

「子ども嫌いのはずなのに、優しくするのは変だと思った」

「……優しくしたわけじゃねェんだ。あのとき、おれは政府の密命を受けてた」

 語る声は一段と低くなり、愁いを帯びた。

「クソみてェな命令だ。到底承服できねェ内容だった……奴ら、よっぽど麒麟が目障りらしい。それでおれは海兵を辞めた。お前を守ってやりたくてな」

 コラソンはニコッと笑顔を作り、沈んでいた声も陽気な調子を取り戻した。

 

「……そんなに前から」

 物語との齟齬が出始めたのは、ローの訪れからではなかった。それより一年も早く、乖離は始まっていたのだ。

 その事実は、私に小さからぬショックを与えた。根拠もなく物語が未来になると信じていた、昔の愚かさを私に突きつけた。

 

 コラソンが化粧をやめないのも、政府に楯突いたせいだ。素顔と本名を晒していては、粛清の名目を持った敵を呼び込むかもしれない。

 ローも私もそれぞれ狙われる理由を抱えているから、極力リスクを減らす必要がある。

 今までこの島に留まり続けたのもそのためだ。船旅には体力が要求される。私の身体は徹底的に弱りきっていた。復調させてからでないと出港できないという判断は、もどかしいけれど妥当だ。この競走勝負は、ローに人質を解放させる狙いが第一で、次いでコラソンに旅立ちを促す意図があった。

 安穏としたひと月を過ごし、体調も良くなったことで、私の抱えた不安は麻痺しつつあるのだろう。決して消えはしないけれど、目を逸らして前を向く余裕が出てきたように思う。

 

 一日が終わって夕飯の席で、コラソンは今後の話を持ち出した。

「ローの病気が治ったら、この島を出る」

 その言葉がどれほど私を安堵させたか、三人は気づく由もない。

 一方で、引っかかる思いもあった。

 

 私はドリィへと目を向けた。

「お前はどうするんだ?」

「どうって……」ドリィはぎくりとして、フォークの先で皿を突いた。

 彼は初対面で私への苦手意識が植え付けられたようで、お互いに探るような目を向けながら、話すほどには近づいてこなかった。コラソンのことは理解できたけれど、ドリィは今に至っても、なぜかいる人で、なぜか馴染んでいる人で、場違いとしか思えない人のままだった。

 

「海兵になるなら、ここに残るのも、私たちと行くのもだめだと思う。私はまだ、お前がどうしてここにいるのかも知らない」

「それを言うなら、おれだって知らねェ。あんたが何なのか、どうしておれを知ってたのか!」

 食ってかかるように返されては、首を傾げてしまう。

「もしかして、わかっていないのか? お前以外全員反政府だって」

「そんなことはわかってる。それでも、悪人じゃないと思ってる」

「善悪の問題じゃない。ルールの問題だ。海兵はルールの内側にいて、ルールの外側に出た者……海賊や犯罪者や、私たちのような異端者を、取り締まるのが役目だろう」

 

 ドリィは傷ついたように顔を顰めた。

「おれがあんたらを売ると思ってるのか……」

 

 握りしめられたフォークが、カチッと硬い音を立てた。声は押し殺したように小さく、震えが混じっていた。怒りか、悲しみか、あるいは恐怖かもしれない。長らく虐げられてきた彼の心はまだ繊細だ。

 もしかすると、ドリィは私たちに対して仲間意識のようなものを抱いているのかもしれない。やはり……と、私は自分の想像が裏付けられていくのを感じた。それは、良い傾向ではない。

 

 私は間断を入れずに答えた。

「逆だ。私たちを庇うんじゃないかと思ってる」

 

 その言葉がテーブルの上に落ちると、波紋のように空気が揺れた。

 ドリィは目を見張り、それから視線を手元に彷徨わせた。開きかけた口は強張って、言葉を紡げないでいた。

 コラソンはフォークを運びかけて、はずみで皿をひっくり返しかけ、椅子ごと床へすっ転んだ。これは私が原因なのか、いつものドジなのかわからない。

 ローは静かに、もぐもぐと口の中のものを咀嚼していた。それをごくんと飲み込むと、手を置いて口を開いた。

 

「なんでこいつがおれたちを庇うんだよ」

「ローとコラソンが、彼を助けたから」

「あんたの差し金だろ」

「私が助けたのはコラソンだけだ」

 

 コラソンだけは、私が助けたと認めないわけにいかない。なぜって、本当ならミニオン島で死んでいたのだから。ローはコラソンに守られて生き延び、ドリィは好機に恵まれて活路を見出した。私が関わったためにその道は断たれた。だから、救済などであるはずがない。言うなれば補填だ。

 

「コラさんは助けて、おれは助けてねェって……」

 私の主張は、私の〝一番の恐怖〟を知っている二人には飲み込めないようだった。真意を穿とうとする険しい目が私を見据えてくるが、私は何も嘘をついていない。

 

「信じないのはわかってる」

「いや、信じられるように説明しろよ」

「無理」

「お前……」

「べつに、あなたたちが私に助け()()()ことまで否定しない。ただ私の主観として、私は助けてない」

「……じゃあ、お前が助けたっていうコラさんと、おれたちの違いは何なんだよ」

 

「ああ、なるほどな」コラソンが気づいた。

 周囲の視線が、それまで見守りに徹していた彼のもとへと集まる。

「おれはお前の指図がなきゃ、確実に殺されてた。違うか?」

 自信満々といった表情に、私は少し困って眉尻を下げる。

「結論は正しいけど過程が間違ってる」

「過程はまだ話してねェんだが??」

「それを導くのに必要なことを、私がまだ話してない」

 

 言って、私はまたドリィに向き直る。

 彼は私の言葉を飲み込めず、眉間に皺を寄せたままじっとこちらを見ている。

 

「ドリィがどうするのか、まだ聞いてない。それがわからないと、話すべきかの判断がつかない。私たちを売るのも庇うのも、ドリィの自由。売られて困るこちらの事情は関係ない。だから、海兵になるつもりなら、今は何も話せない。知らないほうが、売るにしても庇うにしても、お互いに痛みが少なく済む」

 

 私がくどくどと道理を説く間、ドリィは二度ほど口を開きかけた。一度目は眉間の皺をいっそう深くして、二度目は力なく俯きかけて。

 そして今は、はっとした様子で顔を上げている。目を見開いて、まるで解けないパズルの解を見つけたように。

 

「あんた……おれが海兵になったあとのことを考えてるのか」

「そうだ」

 

「なんで敵を増やそうとしてんだよ」ローが憮然として言った。

「ローは連れて行きたいのか」

「それしかねェだろ。野放しにできるか」

「一緒に来て義理を果たしてくれたほうが、私たちは助かるかもしれない。でもそうしたら、彼に守れるのはたったこれだけだ」

 テーブルを囲む顔ぶれを指し示す。彼自身を含めてたったの四人。

「海兵になったなら、世の中の多くの人々を守れる。私たちと違って、彼はまだルールの内側へ戻れる。そのほうが、私にとって都合がいい。罪悪感が軽くなる」

 

「……また何か背負い込んでるのかよ」

 ローの苛立ちはそろそろ爆発しそうだ。

「私が差し出口をしたせいで、彼は夢を手放そうとしてる。私が背負って何が悪い」

「ンなもん背負うな! すぐに潰れるしょッぼいメンタルで!」

 鋭い声が手痛く突き刺さった。

 けれど私は、それが思いやりからくる不器用な優しさだと知っている。だから、痛くとも傷ついたりしない。つんとすまして上を向いている。

 

「喧嘩するなよ」コラソンは苦笑いした。

 彼の柔らかな声が束の間、張り詰めた空気を緩ませる。

「してねェ! コラさんはどう思ってんだよ!」

「おれか? 好きにすりゃいいと思ってるが……」

 コラソンは思案顔をして、窮屈そうに長い脚を組み替えた。その膝は案の定テーブルの天板を蹴りつけて、危うく大惨事を引き起こすところだった。

 

「……まあ、ロカの言うとおり、海兵になる気があるならこの先はいけねェな。連中におれたちの仲間だと思われたら、二度と正義には戻れなくなるぞ」

 その言葉にドリィの顔がまた曇る。今のぬるま湯のような関係と、長い付き合いの捨てきれない夢は、どうしても二者択一にしかならないのだ。

 

「ちなみにおれは元海兵だが……できるもんなら辞めたくなかったぜ。肩書きひとつであれだけの設備や人脈を使えるんだからな」

「結局そそのかしてんじゃねェか!」

「そうだなァ……考えてみりゃ、二心ある奴を連れ歩くのもそれなりにリスキーだろ」

「む……」

 ローの天秤が揺れた。

 

 ドリィの目にも、また違った揺らぎが生まれていた。

「元海兵……どうして辞めたんだ?」

 彼の父親は、奇しくもコラソンと同じ元海兵の犯罪者だ。海兵だった頃は、心底から尊敬できる立派な人物だったらしい。彼は父に憧れて、父のようになりたいと願った。それなのに、変わってしまった。

 彼はコラソンを知ることで、父親の変貌の理由を知りたいと思ったのかもしれない。

 

 コラソンはパッと明るい顔で笑って、一切の悔いなしというふうに言った。

「守るもんを選んじまったんでな」

 きっとその答えは参考にならなかっただろう。

 

 その晩から、ドリィと他三人の間には見えない線が引かれた。

 ドリィはまだ迷っているけれど、時は止まることも待ってくれることもない。

 

 翌朝目覚めて、ローと向き合ったとき、私は驚きのあまりぽかんと口を開けた。いつの間にか、真っ白だった彼の肌が健康的な血色を取り戻していたからだ。ローの珀鉛病手術は、私の知らぬ間にひっそりと終わっていた。

 

「全部治ったの?」

「珀鉛病はな。あとは出血が止まったら完治だ。もう二日、経過を見る」

「血のにおいはしないけど……」

 血に敏感な麒麟にも嗅ぎ取れないなんてことがあるだろうか。洗い流されて乾いた残り香は感じるけれど、その程度は海賊なら常日頃まとっているものだ。

 私は深く考えることもなく、ローの胸元に顔を寄せた。

 それからすんと鼻を鳴らすと、ローはぎょっとして飛び退き、顔を真っ赤にした。

「嗅ぐなバカ!! 切ったのは肝臓だけだ! 傷はねェよ!」

 

 その勢いに、私は呆気に取られてしまった。ぱちぱちと何度か瞬きをするうち、じんわりと視界が滲んで、自分のまつ毛が濡れていることに気づいた。それからほたりと雫が落ちた。私は涙を流していた。

 健康になったローをこの目に映すのははじめてなのだ。何度も読み返して知り尽くしていたはずなのに、肌で感じる現実は全く違った。喜びというものが、こんなふうに胸の奥から溢れてくる感情だなんて、知らなかった。

 

 私の足はひとりでに動いてコラソンの寝室へ駆け込んだ。

 コラソンは顔をべしょべしょに濡らして泣いていた。

「おう、おばよおだんだだ、どが……」

 めちゃくちゃな鼻声だったが、私の心は「おはようさんだな、ロカ」とはっきり聞き取った。

「おはよう、コラソン。いい朝だ」

「本当に……ッ、最ッ高の、朝だなあ……!!」

 外ではどんよりとした雪雲が空を覆っていて、吹雪が窓を叩きつけている。けれど、雪も風も、この冬一番の冷え込みも、今日という朝が最高だという事実を揺るがすものではありえなかった。

 

 

 旅の荷造りは最低限で済ませなければいけない。

 着替えは一着だけ持っていくことにする。この島で暮らし始めたときに揃えたものだ。以前は急な旅立ちで、着の身着のままという酷いありさまだった。それに戻るのは嫌なので、荷物が嵩んでも避けたい。

 毛布は防寒具兼寝具として、何にでも使えるタオルも詰め込む。埃をかぶっていたサバイバル装備は一度広げ、点検しておく。

 そして、水と食料を忘れずに——。

 

「やばい!」

 ローとコラソンが同時に声をあげた。

「どうする!? あいつ魚食えねェよ!!」

「すっかり忘れてた……!!」

 

 彼らの小舟はもともと母船に積んであった救命艇で、操舵室もない最低限の帆船だ。積載量に余裕はなく、そもそも単独航海を想定していない造りである。

 コラソンとローだけなら、飲み水さえあれば釣りや狩りで食料を賄っていた。だが、ロカは肉も魚も食べられない。脂や出汁を使った料理でさえ、口にしただけで嘔吐し、何日も寝込んでしまうほどだ。

 

「お前が来た頃には、原因がわかってたが……おれが入ったばかりの頃はな……よく生き延びてくれたもんだ……」

 ローはその過去を知らぬ身ではあるが、先日の弱ったロカを看護していた。その記憶が鮮明によみがえり、背筋がぞっとした。

 

 家の中で考えていても埒があかない。町へ出れば、何か良い解決策が見つかるかもしれない。そう話し合い、腰を上げたちょうどそのとき、「おーい」というかけ声が届いた。

 ドリィだ。彼はロカに頼まれて、買い出しに出かけたはずだった。

「早かったな」

「全部朝市にあったからな。それより、あの姫さん、鍋という鍋で牛乳を煮はじめたんだが……」

「牛乳を?」

 

 首を傾げながら台所へ向かうと、南瓜に向かって大上段に包丁を振りかぶるロカの姿が目に飛び込んできた。

「危ねェ!!」

「待てやめろ!!」

「うわああ!!」

 男たちの三重奏の悲鳴が響く中、ロカはきょとんと無垢な顔で振り向いた。

 

 

「いつもはベビー5に切ってもらっていた」

 包丁を取り上げられ、私は大人しく鍋の牛乳をかき回しながら言い訳をする。

 同じ船に乗っていた二人は「ああ……」と、なんとなく納得しつつも、どこか腑に落ちきらないような反応を見せた。

 ベビー5は〝ブキブキの実〟の能力者で、自分の肉体の好きな部分をあらゆる武器に変身させることができる。彼女はよく腕を鋭い刀に変えて、えいやっと南瓜を成敗してくれていたのだ。

 

 私が切り損ねた南瓜は、ドリィの手によって程よい大きさに切り分けられていく。包丁で南瓜を切るのをはじめて見たけれど、どうやら皮も身もすごく硬くて、切るのがなかなか難しいようだ。

 ローは五つある鍋を私と分担してかき混ぜてくれている。

 大きなドジっ子のコラソンは、遠巻きに見学中だ。

 

「煮立ってきたぞ」

「レモン汁を入れて、火から下ろして」

 次々に沸きかけた鍋へ同じように処理をしていく。

 レモン汁を入れると、牛乳はたちまち分離して、もろもろした白い塊が浮かび上がってくる。それをざるにあけて水気を切る。

 

「この濁った水は捨てるのか?」

「その水で、南瓜と人参を煮るの。それと、これも」

 指さす先には燕麦と、ゆうべから水に浸けておいた三種類の豆。ひとつは大豆で、あとはなんでも良かった。

 

 手早く済むのはここまでだ。次はじっくり煮込んで、柔らかくなるのを待たなければならない。炊き上がった材料をよく潰して、牛乳の塊と混ぜてなめらかになるまで練り、成形してオーブンで焼きしめたら出来上がりになる。

 

「それで、お前は何を作ってるんだ?」

 ひと息ついたところで、コラソンが痺れを切らしたように聞いてきた。ローもじっと私を睨んでいる。

「本によると、名前は〝レンバス未満〟」

「料理の名前にしちゃ妙な感じだな……」

「未満って何だよ。作りかけとかか?」

「架空の料理の再現に挑戦する料理本で、このレシピは〝レンバス〟を目指して作られたの。美味しくて保存が効いて、持ち運びしやすくて、一つに一日分の活力が詰まっている理想の携行食」

「作者はバカなのか? できるわけねェだろそんな料理」

「『一つで一日は無理だった。だが三食これだけで栄養を満たせる料理にはなった。これが我々の限界だ。レンバスに及ばぬ悔しさを込めてこれをレンバス未満と命名する』と書いてあった」

「頭のいいバカだな……」

 

 はあーっと呆れたため息とともに、ローのまとう気配が緩んだ。

「次からは言ってからやれよ」

「わかった。けど、次はいつになるか……台所のある場所で旅支度なんて、これが最後かもしれない」

 

 それは本当に誰にもわからないことだった。コラソンにもローにも行く当てがあるわけではないし、私もスワロー島へ行けば何かが起きるとは知っているが、その詳細は物語には描かれていなかった。これから十年以上の省略された時間を経て、ローの物語は主人公の物語に合流する。そうとしか記されていない。

 

「早いとこ、まともな船を手に入れねェとな」

 コラソンの言うことは尤もだが、それが困難を極めるのは明らかだ。船なんて、カネかコネがなければ簡単に得られるものではない。あるいは略奪するしか……。

「私、奪った船には乗らない」

「わかってるよ」

「ごめんなさい」

「謝るな。お前は正しい」

 

 無法の者である私たちにとって、自ら定めた秩序に従うというのは生きにくさを増すだけのわがままだ。それを許容してくれるローと、肯定してくれるコラソンは、あまりに優しい。

 私はしゅんと肩を落とした。彼らが正しく在れる場所を奪われていることが、悲しくて仕方ない。彼らを明るい未来へ届けるために、私はいったい何ができるだろう。そんな思いが重たい頭の中をぐるぐると掻き回す。

 

 そのとき、ローの手がぽんと頭に乗ってきた。彼はどうやら私を、彼に撫でられると元気になる生き物だと認識している節がある。遺憾だが、事実に相違なかった。その温もりのおかげで、私はすんなりと顔を上げることができた。

 

 ローは普段どおりの仏頂面で、コラソンは薄く笑みを浮かべている。少なくとも今、彼らは苦しんでいるようには見えない。暗中模索の逆境にめげてはいない。

 私は彼らの強さを知っている。力の強さも、心の強さも。

「大丈夫」と口にする。

 私は嘘はつかない。彼らが真実にしてくれると信じているから、言えるのだ。

 

 そうして、いよいよ明日にも出港かという夜がやってくる。

 

 ドリィはついに心を決めたようで、瞳に強い光を宿して私たちを見た。

「海兵になるよ」

 私が聞いた彼の声の中で、いっとう穏やかな声だった。

 

「そうか」とコラソンは笑った。

 私は頷いて、小さく拍手を送った。

 ローだけはフンとそっぽを向いた。

 

 

 袂を分かつと決めたドリィを、ローは頑として舟に近寄らせなかった。荷物に触るのなんか言語道断である。

「海兵は敵だ」

 ローに撥ねつけられて「そうだな」と引き下がったドリィは、穏やかだけれど寂しそうにしていた。

 

「おい、近づくなよ」

 彼に向かって歩き出せば、ローの声に引き止められた。

 声だけの制止など簡単に振り切れるのに、私の足は鉛のように重くなった。

「お別れを言いたい」

 振り返ってそう懇願した私は、相当情けない顔をしていたのだろう。ローは舌打ちをして私の手を引き、ドリィの佇む岩陰まで連れて行ってくれた。

 

「ありがとう、ドリィ」

 私の声は、朝靄の湿った空気に幽かに響いた。

 冷たい潮風が急かすように、囃すように吹きつけて、金色の前髪が視界を横切った。

 ドリィは右手を持ち上げかけて、静かに下ろした。乱された私の髪を整えてくれようとしたのかもしれない。そして、それを許されないと自戒したのかもしれない。

 

「……こっちの台詞だ。まだちゃんと言えてなかった。あんたはおれに、親父から逃げ出すチャンスをくれた。ありがとう、ロカ」

 ドリィの声は、明るい響きを持っていた。薄暗い海岸に、小さな光を灯すような。

 これまでの彼は、どこか自信がなくて、おどおどしていたように思う。

 今の彼は、すっかり見違えた。しゃんと背を伸ばし、まっすぐ私の顔を見て、そして初めて、私の名前を呼んだ。

 

 思わずくすりと笑ってしまった。口角を上げた私を見て、彼は目を見張った。

「そんなに勇気が要ったか、名前を呼ぶだけのことに?」

「……正直、怖かったからな。どう見ても女の子なのに、上から目線で偉そうで、男みたいな喋り方もするし……」

「躾のせいにさせてくれ」

 私は肩をすくめた。したことのないおどけた仕草だ。不思議と晴れやかな心地で、少し気が大きくなっているかもしれない。

 

 ああしかし、これではいけないと自戒する。私は彼に感謝を告げに来たのだから。

 襟を正して背筋を伸ばし、告げる。

「あの家で目が覚めた日……お前がいなければ、たぶん私は死んでいた」

 

 この告白に、ドリィもローも息を呑んだ。

 静まり返った空気を、潮騒が揺らし、風が切り裂いていく。

 私の言葉は伝わりにくい。自覚している。言うべきことと秘すべきことがある今はなおさらだろう。それでも、本当の感謝を伝えたかった。伝えるために口を開く。

 

「あの頃の私は、何より私が嫌いだった。私はこの世界に災いをもたらすものでしかなかった。私は私を消し去ってしまいたかった。一番手っ取り早いのが死ぬことだった」

 

 神妙に耳を傾けてくれている姿に、必死に言葉を紡ぐ。

 

「けれど、お前がいた。うまく言えないが……お前は、ある意味で私と同じだった。私と違って幸いをもたらすけれど、ここにいるはずがない、ここにいてはいけない人物……困ったよ。私を消したって、お前はどうにもできないんだから。どうにもならないから……考えるために生きることにした」

 

 海の果てが白々としてきた。

 私は清々しい気分になって、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

「私はお前を助けてはいないけど……私に助けられてくれて、ありがとう。私、やっと、この世界に生まれることができた気がする」

 

 地に足がついている。風が肌を撫でている。降り注ぐ光が、この身を照らしている。

 そんな単純な事実の数々を、私はようやく認めたのだ。

 

「あんたの言うことは、おれには理解できないが……」

 ドリィが困惑したように顔を顰め、ローに視線を向けた。彼ならわかるだろうという、それは信頼だったけれど、ローは小さく首を振って肩をすくめた。

「……おれにもさっぱりわかんねェよ」

 ローの言葉は、いつもどおり少し不機嫌だ。そこに、どこか諦めたような響きが混ざっている。

 それはつまり、不可解極まりない私という存在を、今ただあるがまま許してくれているということだ。これが優しさでなくて何だろうか。

 

 私は少しだけ声を上げて笑った。

 これから道を違える二人は、最後に同じように目を丸くした。

 

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