嫌顔至上主義 作:嫌至ξ紳士
図書館でのあの日以来、私の心には微かな影が残っていた。
「はぁ……」
毎日通い詰めていた場所は、自分にとって逃避と安らぎの象徴だったはずでした。
いつも通りに本を開けば、物語の世界に没入し、現実の悩みや雑念を忘れることができる……そんな所のはず。
ですが、最近はふとした瞬間に現実が目の前に立ちはだかるような気がしていました。
彼の視線、彼の求めるもの、それに対して自分が感じた嫌悪と戸惑い――そのすべてが、私の心を重くしているのです。
「あの時、私は……何をしていたのでしょうか……?」
自問自答が止まりません。
私は、誰にも言えない秘密を抱え込んだような感覚に苦しんでいました。
それでも、日常は続きます。
図書館に行けば、やっぱり本の世界に逃避することが唯一の救いでした。
ある日、私は再び図書館に足を運びました。
静寂に包まれたその場所で、ふとある本に目を留めます。
それは以前、彼が読んでいた『源氏物語』でした。
それは彼との会話を思い出させるようで、胸が締め付けられるような気がしました。
それでも、私はその本を、ふと手に取ってしまうのです。
「あの人は……もう来ないのでしょうか」
私は少し安心しながらも、どこか物足りなさを感じる自分に気づきました。
それがどうしてなのか、私自身にもわかりません。
ただ、彼との静かな時間は、決して嫌なものではなく、また読書仲間としての彼は、決して悪い存在ではない。
それだけは確固たる事実でした。
「なんだか、寂しいですね……」
ξ
その日は、特に変わり映えのない午後です。
私は手に取った本を胸元に抱えると、ゆっくりと席に着きました。
図書館の静けさは心地よく、耳に届くのはページをめくる音だけ。
その中に身を置くと、まるで世界から切り離されたような感覚が、私に安らぎを与えてくれました。
けれども、今日はなぜか少し胸騒ぎがしていました。
理由は曖昧で、よくわからないけれど、それは段々と私の中で大きくなっていきます。
もやもやを払拭しようと、本を手に取り、いつものように物語に没頭しようとしましたが、ページに視線を固定できません。
私は、ふと周囲に目を向けました。
すると――。
「あっ……!」
視線が吸い込まれます。
そこには、あの日以来姿を見せなかった彼が、いつの間にか遠く席に座っていたのです。
本に集中しているような彼をみて、私は思わず呼吸を止めてしまいました。
心の中で覚悟していた「再会」だったはずなのに、予想外に早く訪れたその瞬間に動揺が走ります。
私はその場で少し迷いました。彼はまだ私に気づいていない様子です。
図書館の空気は静寂に包まれていて、彼に声をかけるかどうか、しばらく考えました。
「……そうですね」
けれども、あの日以来、ずっと心に引っかかっていたものを無視し続けることはできないでしょう。
私は胸の奥にある緊張感を振り払うように深呼吸をして、
「……きめました」
彼の方に歩み寄ることを決めたのです――。
ゆっくりと、彼に気づかれないようにそっと席を離れ、彼の近くへと歩みを進めます。
心臓の鼓動が耳元で大きく響くのがわかります。
私が近づくにつれ、彼の肩越しに見える本の頁が微かに揺れているのが目に入ります。
「ん、んんっ……!」
ついに、彼の隣の席にそっと腰を下ろしました。
すぐ隣に座っているのに、彼はまだ私に気づいていないようです。
本に集中しているその姿を見ていると、自然と心が落ち着いていくのを感じました。
ですが、やっぱりこのままではいけません。
あの日の曖昧な別れに決着をつけるために、私は彼に声をかけなくてはならないのです。
勇気を振り絞って、私は彼の方に顔を向けました。
「……こんにちは」
その声は、私の思っていたよりも小さく、かすかに震えていました。
彼は驚いたように顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめました。
彼の表情には驚きが広がり、少し戸惑った様子も見えましたが、それがほんの一瞬で、すぐに穏やかな笑みがぎこちなくも彼の顔に戻ります。
――こんにちは、椎名さん。
彼の声は落ち着いていて、その一言だけで私の緊張が少し解けるのを感じました。
私の中で曖昧だった感情が、少しずつ形を取り始めるような気がします。
「また、ここに来たんですね……?」
自然と口をついた言葉は、少しあやふやだけれど、確かに今の私の気持ちでした。
彼と再び会えて嬉しい、けれどもまだ少し不安――そんな心の揺れが、その言葉に込められていたのかもしれません。
彼は軽く頷いて、再び本にすっと視線を落としましたが、私にはもう一つだけ聞きたいことがありました。
だから勇気を出して、もう一度声をかけるのです。
「あの日……どうして、あんなことを?」
私の言葉に、彼は一瞬動きを止めました。
そしてまた、ぎこちない表情を浮かべると、申し訳なさそうに、こう言うのです。
――その、なんというか。椎名さんが……とても魅力的で。つい。
彼の言葉を聞いて、私は一瞬戸惑いました。
魅力的だなんて、そんな風に見られていたなんて、想像もしていませんでした。
私は思わず頬が少し熱くなるのを感じました。
ですが、すぐに気持ちを落ち着けようと深呼吸をします。
「……そうですか。そんな風に思っていたんですね」
紅くなった頬を見せないよう、顔を俯けながらそう返すと、彼はさらに恐縮したように視線を逸らし、困ったような表情を浮かべました。
まるで幼い少年が、母親に怒られることを察して、気まずそうにしているかのようです。
――椎名さん、ごめんなさい。
彼が困ったように視線を逸らす姿を見て、私は自然と笑みがこぼれました。
その姿はなんだか無防備で、少し子供っぽくも感じました。
私は彼を見つめながら、胸の中にふわりと母性のような感情が広がっていくのを感じていました。
「ふふ、大丈夫ですよ。もう怒ってませんから」
私は優しく微笑みながら、彼にそっと言葉をかけました。
その瞬間、彼が少し驚いたように顔を上げ、私を見つめます。
私はその視線を受け止めるように、静かに頷きました。
「…………でも、次は絶対にそんなこと、頼まないでくださいね」
「他の女の子にも、同じことをしたら……許しませんから」
少し優しく諭すように言うと、彼は短く息を吐いて、軽く頷きました。
まるで何か重たいものが降りたかのように肩を落とすその姿が、どこかほっとした様子に見えます。
――わかりました、椎名さん。
彼がそう返した時、私はふと考えました。
彼とはここまで色々あったのに、名前で呼び合うことがなかったなんて、少し不思議な気がします。
これを機に、もう少し親しくなってもいいかもしれない。
そう思うと、つい自然に口をついて言葉が出ました。
「ひより、でいいですよ?」
私の言葉に、彼は一瞬驚いたような表情を見せましたが、すぐに真剣な顔つきに戻り、少し戸惑いながらも静かに頷きました。
その様子を見ていると、彼が私を大切に思っているのが伝わってきて、私はなんだかくすぐったい気持ちになります。
――ひより。
彼が私の名前を口にした瞬間、胸の中に小さな温かさが広がるのを感じました。
いつもと変わらない図書館の静寂の中、今だけは特別な空気が漂っているように思えて、私はそれが心地よく、自然と微笑んでいました。
「これからも、前と同じように……一緒に本を読みませんか?」
彼が少し考え込むように本を見つめた後、静かに頷きました。
その頷きが、私にとっては何よりの答えでした。
再び一緒に静かな時間を過ごせることに、安心と嬉しさが胸に広がります。
「ふふ、ありがとうございます。やっぱり、一緒に本を読むのが一番落ち着きますからね」
私はそう言って、再び自分の本を開きました。
隣にいる彼の気配を感じながら、ページをめくるたびに、私たちの間に流れる空気が以前よりも穏やかで、優しいものに変わったように感じて――。
ξ
「私、怒ってますよ?」
――その、はい。
「ほんとうに、本当に。怒ってるんですからね?」
放課後、私は教室を出るなり隣のクラスへと足を踏み入れ、彼の前に詰め寄りました。
教室内は一瞬ざわめいたものの、彼に向けられる生徒たちの視線は「またか……」という感じです。
ですが、そんな視線は今の私には関係ありません。
これを言ってやらねば、私の腹の虫はおさまりません!
「あなたの“噂”、聞いたんです! 龍園さんからっ‼︎」
……長い、ながい、“お説教”が始まろうとしていた。
多少はね?