人類は弱者である。
走る速さも、力の強さも、牙も、爪も、何も持たない人類がそれらを持つ強者達に勝てる訳もなく、人類は誕生してからずっと弱者であった。
人類よりも弱い生き物など《虫》と呼ばれる小さな者達くらいなモノだろう。
しかしそれでも人類が滅びずにいたのは、人類が強者達の持ちえない知恵を持っていたから……という訳ではなく、単純に住まう場所の問題であった。
多くの強者達が住まう実り豊かな森ではなく、枯れた土地、死した土地を住処としていた為、人類は絶滅という最悪は避ける事が出来た。
ただ、それだけだ。
確かに絶滅はしないが、生活は一向に良くならず、飢えて死ぬものも居る。
こんな生活は耐えられないと森へ行き、そのまま帰ってこなかった者も居た。
人類は常に追い詰められていた。
だが、そんなある日の事である。
一人の女が奇妙な事を言い始めた。
女は言う。
「神の声を聞いた」と。
限界をとうに超えた生活だ。
気が狂う者が出てくる事も珍しくはない。
周囲の者達は、これ以上の苦しみは与えるべきではないと女を安らかに眠らせてやる事にした。
しかしその手を下す前に、彼らは奇妙な事に気づいた。
そう。女は気が狂った者達の様なおかしな行動は何もしておらず、正気を保った目で必死に訴えていたのだ。
人類にはまだ未来があると。
そこで行われた話し合いと決断はそれほど時間が掛からなかった。
何故なら、誰もが日々の暮らしを乗り越えていく中で、必死にソレを求めていたからだ。
安心して眠れる場所を。
いくら食べても無くならない食料を。
友が、家族が、明日も同じ場所に居る世界を……ただ彼らは求めていたからだ。
故に、彼らは女に案内され、彼らが住まう枯れた土地の近くにある洞窟へと向かった。
そこは人類が今まで一度も行ったことのない場所であったが、奇妙な事に人が住まう余裕のある場所であった。
しかも洞窟はどこまでも奥まで続いており、奥は光が届かないが、手前でも十分に生活するだけの空間があった。
さらに洞窟は外とは違い空気が暖かく、夜の寒さに震える様な事もない。
彼らは喜びに震えた。
少なくともこれで夜の寒さに凍える事は無いと。
人類は喜び、この洞窟へと移住する事を決めた。
しかし、問題はまだある。
そう。この洞窟は以前人類が住んでいた場所よりも森に近い場所にあり、森に住まう強者達に襲われる危険性が増したのだ。
強者達は恐ろしい。
今まで数えきれない程の犠牲者が出ており、洞窟という狭い空間では全滅する事もあり得る。
彼らは元の場所に戻るか、洞窟の中で生活するか選ぶ必要があった。
だが、彼らはさほど悩む事もないまま洞窟に住まう事を決めた。
この決断を愚と断ずるのは容易い。
しかし、これまでの人類が過ごしてきた世界を考えれば、この様な素晴らしい場所を手放す事が出来ないのは当然の事でもあった。
そして、人類は怯え、眠れぬ夜を何度か過ごしながらも洞窟の中で生活を始めた。
人類が何を考えていようが、どの様な行動をしようが日は昇り、また沈む。
次の日も。
また次の日も。
変わらず世界は回り続け、それが数回、数十回と繰り返されても、人類には何も起きなかった。
平穏。
その様な言葉を人類は今日まで知らなかったが、今人類が置かれている世界は、まさに平穏と呼ぶに相応しい世界であった。
しかも森が近くにあるという事で、男たちが命をかけ森へ行き、その恵みを拾ってくるという行動をした事で、生活の質は一気に向上した。
それから時間が経ち、順調に発展を続けていく中、一つの事実を人類は知る事になる。
そう。森に住まう強者達は、何故かこの洞窟には近づかないのだ。
例え強者達が森で人類を見つけて追いかけても、洞窟の近くに来ると何かを嫌がって逃げてゆく。
まるでこの場所に酷く怖い何かがあるかの様に。
人類に生まれ始めた知ある者は、いくつかの仮説を提唱した。
「もしかしたら、この場所には彼ら強者の嫌う匂いがあるのではないか」
強者達は酷く鼻が利く存在であるという事から、この様な説をあげた者が居た。
「いやいや。人類の数が増え、強者すら倒せる様になったから彼らも我らを恐れているのだ」
森で出会った強者を数人がかりで倒した経験から、その様に叫んだ者が居た。
他にもいくつか仮説が語られたが、どれも今一つ説得力に欠ける物であった。
そんな中、一人の男が厳かな口調で笑みを浮かべながら口を開いた。
「神のご加護である」と。
かつてこの洞窟を見つけた女の息子であるその男は、両手を胸の握り合わせ、僅かな笑みを浮かべながら確信を込めて、そう言った。
そのポーズは男の母である者も神の声が聞こえると言った時にしていた物であり、どうも神の声を聞くときには必要なポーズであるらしかった。
そして話し合いの末、神のご加護であろうという事で彼らの意見はまとまった。
無論この様に意見がまとまった事で何かが生まれる訳ではない。
彼らの生活は何も変わらない。
だが、彼らが生活に安心を得る為には必要な工程であった。
しかし、そう。
この時には何も起きなかった話し合いであるが、この話し合いが後々大きな波乱を呼ぶことになる。
人類が洞窟を発見してからかなりの時が流れた。
安全に住まう事の出来る場所を見つけた彼らは、順調に数を増やし人類という種の力を強くしていった。
だが、それは喜びばかりを彼らに与える事は無かった。
何故ならその洞窟は、増え始めた人類が住み続けるには酷く狭い場所であったからだ。
そこで人類は再び考える事になった。
安定を手に入れた我らが次にするべき事は何か、と。
考えた結果……彼らは一つの冒険をする事に決めた。
そう。光の届かない洞窟の奥に生活の場所を広げるのだ。
幸い人類は二世代前に《火》という文明を手に入れており、その火を使えば光の届かぬ場所でも行ける。
故に、人類は洞窟の奥へ『冒険に』行くことを決めた。
この奥には更なる幸福が待っていることを夢見て、進んだ。
いや、進んでしまった。
おそらく最初に神の声を聞いた者。
そしてその息子が聞いた神の声が、人類に与えた幸福はこの場所までであったのだ。
この世界に住まう弱き者達である人類に、僅かな平穏と安らぎを与える事が、声の主が与えた祝福であった。
しかし、人類は踏み越えてはいけない一線を踏み越えてしまった。
嗚呼。しかし、いったい誰が人類を責める事が出来るというのだろう。
彼らはただ生きていただけだ。
生まれた瞬間から弱者であり、強者に怯えながら隠れて生きる事しか出来なかった人類が、幸福を望み、何が悪いというのだろう。
何も悪くはない。
何も……悪くは無いのだ。
ただ……奥へ進んだ彼らが、その奥に神聖な気配を漂わせている小さな棚の様なものを見つけてしまった事や。
その祠に飾られていた怪しい光を放つ玉を持ってしまった事も。
全てはただ……そう、言うなれば運が悪かっただけなのだ。
何せ彼らは知らなかったのだから。
遥か遠い昔。
人類が強者と呼んでいる獣達よりも強大な化け物がこの世界には存在したという事を。
そして、あまりにも強大な彼らが世界を滅ぼさぬ様にと神々が玉に力を封印した事も。
何も知らなったのだ。
だから、彼らは玉から発せられる怪しい光に誘われて……その玉を破壊してしまった。
結果。
世界には再び闇の時代が訪れる。
人類が唯一弱者として見下していた《虫》と呼ばれる者達が、遥かな昔に封印された《魔力》と呼ばれる力を取り戻し、再び世界を闇に染めてゆくのだ。
獣たちが洞窟に近づかなかった理由や、神が何故洞窟の奥に案内しなかったのか。
その理由を人類が考える事が出来たのなら、この悲劇は起きなかっただろう。
しかし、歴史に『もしも』はない。
あるのは事実だけだ。
そう。人類が自ら滅びの扉を開いた。
ただそれだけの話だ。
だが、唯一。
たった一つ良かった点がある。
それは人類が《虫》と同じ《魔力》という力を手に入れた事だ。
そして、長い時間を掛けて人類は数を増やし、多くの知者を生んだ事だ。
人類はまだ終わっていない。
抗う事が出来る。
そうこれは、人類が……この世界で最も弱き生き物が、この闇の世界で生き抜く為の物語である――。