窓は濡れているのに、その外側は乾いた黒板にチョークの粉をまぶして擦ったみたいに掠れてた。四階から見下ろすには枠が少し小さくてビルの前の道が見えない。そこを歩いてくるはずの友だちを、私たちは暗いスタジオで待っていた。
じっと沈黙がフロアに積もって足音を固く返す。寝息もないアンプと繋いだだけの楽器が所在なさげに佇む。空調のくぐもった音、耳の奥の静けさの音、それから睦ちゃんのギターを磨くクロスの音が、湿度を吸って腰のあたりを落ちていった。
誰も、何も言わない。何も。なにも。立希ちゃんはいつの間にか時計を見なくなった。そよちゃんは十二回目のスマホの確認を最後にドアの方を向いてる。睦ちゃんはずっとギターだけを世界の中に置いていて、たまに窓の外へ顔を傾けて。ドラムの前に座った私はそんなみんなと、ペンを走らせるノートと、窓と、水鞠と、霞む白線の束と、ビルと、記憶の中の春の高架と、夜の歩道橋と、手を取ってくれたさきちゃんの横顔の空想を見ていた。
春がもうすぐ終わる。五月も下旬で、これから本格的に梅雨前線が東京を横切るんだと思う。傘も鞄も制服も、重たい湿度を帯びる季節が来る。温かさを教えてくれた光が目を閉じる。
『……あ』
ドアが開いた。
『さきちゃん! よかった、来てくれて!』
青白く血の気の引いた薄いLEDを背中に浴びて、綺麗な髪もお姫様みたいなブラウスもずぶ濡れのさきちゃんが俯いていた。
……傘、折れちゃったりしたのかな。それで、そのまま歩いてたのかな。あの日温かかった手が震えていて、それを駆け寄ったそよちゃんが掴んだ。私は包んであげられるタオルも、今更差し出せる傘も、空を晴らして顔を上げてもらえる魔法の言葉も手元にないまま、ただ黙っていた。
『びしょ濡れじゃない、大丈夫!? 学校休んでるし、返事もないから私心配で……』
ハンカチで顔を拭われるさきちゃんはされるがままだった。床に座っていた私から表情は見えたけど、そこにはなんにもなかった。
花びらの舞っていた春の空気に火照っていた薄紅の頬は今や塗り固めたみたいに真っ白で、無機質で、固くて、今にも音を立ててひび割れそうな気すらした。
繭だ。
顔の形をした繭の中で、さきちゃんの気持ちがどろどろになっている様が、なんにもない空っぽの目の奥に見えた気がして。
『……さきちゃん、痛いの?』
膝立ちのまま彼女の足元に近づいてその膝小僧を窺うけど、擦りむいた後はなかった。じゃあ、長袖だけど肘? でも、ほつれたような跡はない。そよちゃんの握っていないもう片方の手、服の裾やスカート、どこにも転んだような傷はない……でも。
『絆創膏、貼るから……! 怪我してるところ、どこかわかんない、けど……』
どこが痛むのかわからないから、見えない傷に触れないようにそっと指先を取った。
『さきちゃん、痛そうな顔、してる』
私の手まで凍り付いてしまいそうな指先を少しでも融かしたかった。両手で包むだけじゃ寒いかな。水滴が伝い落ちる頬に、繭を潰さないようそっと手を這わせる。
『どこが、痛いの……?』
さきちゃん。
また沈黙が立ち込める。鼓動が二度、三度、聞こえるはずのない遠雷、消えてしまいそうな呼吸──やがて、私の手に滴る水滴が熱さを帯びた頃、突然さきちゃんが
『──わ』
『……! さ、さきちゃ──』
『没落しましたわー!』
わー!
わー!
わー……!
『……へ?』
さきちゃんが大泣きした。
──大粒の涙雨が、きっと、私たちの前に横たわっていた何かを押し流した。
あの顔がまだ、目に焼きついている。
「いらっしゃいませ……あぁ
くすみのない声色のドアベルが頭上で囁いた。微笑む日溜まりと紅葉の温度を水に溶いて振りまいたような、木目調の内装が優しいホッとする店内。土曜お昼のピークを過ぎたらしく、穏やかに談笑する女性たちやコーヒー片手に勉強する学生が空気に馴染んでいる。鼻先をくすぐる甘い香りは、たぶんスイートポテト。焼き色の甘さだ。……コーヒーの付け合わせ、どうしよう。悩んじゃう。
「……オホン。何名様でしょうか?」
「よ、よにん、です……」
「ふふ……かしこまりました、こちらのテーブル席へどうぞ。四名様、ご来店です!」
咳払いするさきちゃんに指を立てて見せると、彼女はすぐに襟を正して案内してくれた。落ち着いたベージュのカッターシャツの上にビリジアンのエプロン──胸元には『羽沢珈琲店』。
アルバイトの証。
私たちは、高校生になっていた。
何もできない子供から、爪先立ちくらいはできる子供に。
季節がひとつ巡って、慣性のまま秋まで車輪の転がる頃にはすっかり、さきちゃんは笑顔をよく見せるようになっていた。まだ鮮明に覚えている泣き顔と比べてずっと綺麗な今の姿に胸が温まるのを感じていると、背後から澄んだ──でも少し暗い、というか落ち込んだ声。
「……さき、燈しか見てなかった」
「熱烈だったね」
「……せめて私たちにも反応しろよな」
「え、えっと……」
背中をツンツンつつかれて少し反応に困る。私の後ろへ縦一列に並んだみんなと前を歩くさきちゃんを交互に伺っていると「ふふ、ごめんなさい」といたずらっぽい笑みが返ってきた。
「
「……いいから、案内してよ」
「さきちゃん、オススメとかある?」
「本日から始まった秋限定りんごきんとんパフェですわね! 試食させて頂きましたけれど、コンポートにしたりんごのストレートな甘酸っぱさときんとんのまろやかさのマリアージュと来たらもう! それからこちらも絶品、スイートポテトも本日からですわ。コーヒーに合わせるならこちらの方がお手頃でしてよ」
「じゃ、じゃあ……私、スイートポテトと、ブレンドコーヒー」
「……パフェと、マンゴージュース」
「私はブレンドコーヒーだけで」
「コーヒーとスイートポテトお願いしまーす」
「ええ、ええ……かしこまりました。お荷物はこちらのカゴをお使いください……では、また後ほど!」
足に羽が生えたみたいに、さきちゃんはふわふわ去っていく。後ろ姿を見送った私たちはなんだか立ち尽くしてしまって、示し合わせたわけでもないのに息が漏れた。
みんなと私が同じ気持ちなら、たぶん、安堵の。
「……
手提げをカゴへ落とすみたいに投げ入れて、立希ちゃんは四人がけの奥の席へ座った。私も倣って……ううん、可哀想かな。ポーチはそっと置いて、隣に腰を下ろす。対面で睦ちゃんがそよちゃんに手荷物を預けていた。そのまま奥へ。それと自分のミニバッグを置いたそよちゃんが私の前に落ち着く。この喫茶店に通い始めた半年前からずっと同じ、見慣れた席順だった。
さきちゃんじゃない違う店員さんがお冷を持ってきてくれた。ちょっとずつ口を付けながら、言葉を交わすみんなの頬を、目元を、唇を見る。怒っていたり心配してくれる立希ちゃんや、いつもたおやかに笑っているそよちゃん、綺麗でお人形みたいな睦ちゃんでも、印象通りじゃない動きがそこに表れて面白いから。
……わかっても、上手く生かせるわけじゃないんだけど。
「……燈? どうしたの」
「……え、う、ううん。なんでも……」
もう一口飲んで潤す。「コーヒー、まだかなって……」「祥子早く持ってこいよ……」立希ちゃんが舌打ちして遠くを睨んだ。そ、そんなつもりじゃ……!
たぶん冗談だとは思うんだけど、でも本当に冗談なのかわからなくてコップを置いたり持ったりしていると、そよちゃんは「こーら、立希ちゃん。め」と楽しそうに叱った。そんな感じでいいの?
「燈ちゃん困ってるじゃない」
「あっ……ご、ごめん。燈」
「う、ううん……えと、うん……?」
「ふふ」
話題が立ち往生してしまった。とんちんかんな返事をした私に、またそよちゃんが笑う。……そよちゃんも、よく笑うようになった気がする。
さっきより一層深い笑みを口元に手を添えて押さえながら「話変わるけど」と助け舟を出してくれた。
「燈ちゃん、すっかりコーヒー党になっちゃったね」
「いいだろ別に、燈は舌が大人だから味の違いがわかるんだよ」
「四方八方の紅茶党に喧嘩を売らないの。……でも正直意外だなぁ、コーヒー飲めるの」
自覚はあった。お冷に唇をつけたままこくこく頷く。
高校生になるまでコーヒーが飲めなかった。飲めないこと自体も特になんとも思っていなくて、それ以上の興味を持つきっかけがなかった。飲んだことがあるとすればカフェオレか、あとはせいぜい、給食でたまに出る牛乳にチューブを入れて作るやつくらい。
「……今でもエスプレッソとかはダメだけど。こういうドリップコーヒーは、頑張ったら、いつの間にか」
「……どうして?」
「さきちゃんが淹れてくれるなら、好きになりたかったから」
きりりとした苦味、鼓動が早まる感覚、舌と体が慣れるまでに時間がかかってしまったけど……最近やっと、それらの奥に香るフルーティな酸味とか、カラメルのような安らぐ風味を感じ取れるようになってきた。どれが技術による差で、どこが銘柄の差なのかも、なんとなく。
そうして淹れてくれるコーヒーについて知っていくほど、さきちゃんは嬉しそうに笑ってくれる。だから、頑張った。頑張れた。
「私がさきちゃんにできること、あんまりないから……せめて、さきちゃんのすることを好きになって、そのひとつひとつを温めてあげたかった」
「……燈ちゃん、彼氏が出来たら相手がどんな趣味でも染まっちゃいそうだよね」
「はあ⁉︎」
「立希、うるさい」
「燈に彼氏なんか、こう、ダメだろ!」
「た、立希ちゃん、大丈夫……! できないっ、できないから……!」
「こんなに可愛いんだから出来ないはずない!」
「支離滅裂なのわかってる? 立希ちゃん」
彼氏。恋人。……人生を懸ける相手。
いつかと正反対の青い晴れ。いつかと正反対のさらりとした秋。いつかと正反対の、明るいみんな。
「お待たせいたしました、ご注文の──」
「私の彼氏は……
胸の内にぷかり漂った結論に頷いてお冷を飲み干す。息をついてグラスを置くと、トレーを手にしたさきちゃんも合わせたみんながびっくりした顔で私を見ていた。
……あ。あっ……⁉︎
「ご、ごめん、変なこと言っちゃっ──」
「ブレンドコーヒーがおひとつとスイートポテトセットふたつマンゴージュースりんごきんとんパフェお待たせ致しました燈あなたって子は本当に素敵で良い子ですわね──!」
「んぎゅ」
「客に抱きつくんじゃない!」
「ふ、ふぐっ、あなたはいつも、いつもいつも……ううぅ……!」
「さき、また泣いてる……」
「よい、しょ……さきちゃん大丈夫? いい子いい子……」
「そよ……燈……ぐす……」
驚く間も無く抱き締められて上手く息ができないけど、さきちゃんが泣いていたからとりあえず頭を撫でる。あのスタジオでさきちゃんの事情を聞いた日に学んだ、心に絆創膏を貼る方法のひとつ。
コーヒーとデザートの香りに混ざって、私と同じシャンプーの香りがした。
あの涙雨の後を思い出した。
『没落しましたわー!』
そう叫んでわんわん泣き出したさきちゃんは、堰を切った勢いのまま事情を捲し立てた。
お父さんの会社で不祥事が発覚したこと。示談とかで収まるはずだったのが、私たちのライブの日には小さくだけれどニュースにすらなっていたこと。……その後の感想の中に、不祥事を起こした会社の娘としてさきちゃんをあげつらう投稿があったこと。
そこからあっという間に事態が大きくなっていって、従業員への補填とか、関係するところへの賠償だとか、色々な裁判になったこと。様々なものを手放したこと。ついには小さな家に移り住み、今は少ない生活費でなんとか暮らしていること。
……そっか。あのピアノ、なくなっちゃったんだ。
春の滲んだオレンジ色の響き。私の誰にも言えなかった叫びを歌にしてくれた部屋は、もう。
それから、ええと。
『……あるとき、現実逃避的に月の出費を計算しましたのよ。倹約に努めることで、扶養される未成年である限りなにもできない事実から目を逸らしたかったのですわね……そうしたら』
『そ、そうしたら……?』
『あの……あんの、あんッのクソ親父……!』
『さき、え、今の祥子が言った?』
『あのクソ親父と来たら! せめて人並みに働けば生きていけるものをお酒に逃げ始めて! 食費より高いってどういうことですの!? このッ……あ゛ぁぁ!』
『さ、さきちゃん落ち着いて! そこにお父さんいないから拳振らないで!』
『くっ、ぅ、う、うぁーん!』
『祥子が、泣いてる? え……え?』
お父さんが……その、酷い人だとか。
ひとしきり事情を吐き出し終えたさきちゃんは、拭っても拭っても止まらない涙をとうとう諦めて流れるままにしながら、それでも言葉を止めなかった。
『……本当は……本当は今日、お別れを言いに、きましたのよ……でもっ、でも!』
んぐっ……っ!?
『みなさんと離れたくありませんわーッッッッッ!!!』
『わ、わかった! わかったから祥子、一旦燈を放せ!』
『立希ちゃん、燈ちゃんから腕外して! さきちゃんを引っ張るから!』
前後から立希ちゃんたちが引き離そうとするけど、私は抵抗するより先に抱きしめられた感触に意識を奪われていた。
見た目よりずっとずっとずぶ濡れだ。服越しなのに、布よりまず水分を感じる。乾燥機をかけ忘れた洗濯物の方がいくらかマシかもしれない。
外は雨が降っているけど小雨くらいで、通りがかりに降られた程度じゃこうはならない。何時間も晒されたような──未だ固く私に腕を回しているさきちゃんを抱き締め返して、確信した。力みとは別の小刻みな震え。心の問題だけじゃなくて物理的に冷え切った体。
『……み、みんな!』
私は叫んだ。
『お……お風呂入ろう!』
『え?』
『ちょっ立希ちゃ……きゃー!?』
立希ちゃんが手を離した。そよちゃんの方へ倒れ込んだ。
「あぁ……ここで働けて幸せですわ……!」
私たちの注文を持ってきてくれたさきちゃんは一旦厨房に戻ると、大きなオムライスをトレーに乗せて私たちのテーブルに合流した。椅子を奥へずらして作った一番通路側の席について「いただきます」と清楚に手を合わせて、デミグラスソースと絡み合ったとろとろの卵ごとご飯を掬い頬張ると、満面の笑みで頬を押さえる。
「おいひい……ごくん。おいしいですわ本当に……限りある予算の中でここまで良質な材料を備えて、しかも賄いに使えるほどの余裕も保たせながら利益もしっかり……素晴らしい職場環境で
「さき、また泣いてる……」
「クソ親父が管巻いてる家と比べたら天国ですもの……羽沢先輩も若宮先輩も二葉先輩もみなさん優しくて、心の清い方達で……ぐす、う、うぅ……おかしいですわね、羽沢先輩のオムライスがこんな、過剰にしょっぱいはず……」
「一回涙拭きなよ……」
さきちゃんはものすごく涙もろく──ううん、感情表現豊かになっていた。
いつか、上手く歌えなくて悩んでいた私の前で人間になりたいと叫んでいた彼女は、あのときよりたくさんのものを失ったはずなのに、あのときより鮮やかな色彩を纏って──あのときよりずっと、ずっとずっと、人間になっていた。
お金と家、それから家族の優しさを失ってなお、さきちゃんの内にある光は、私を照らしてくれた温かさは褪せずに在った。
私の空を青く晴らす太陽のまま。
外で雲が流れて、陰った日がまた顔を出す。かすかな眩しさから逃れて、手のひらくらいあるちょっぴり大きなスイートポテトをフォークで切った。
「ふぅ……ええ、泣いてる場合じゃありませんわね。夜になったら
「うん! ベッドとお風呂と、あと冷蔵庫の中身は自由に使っていいからね」
「ありがとうございます。明日の朝ごはんと午前中のお掃除、張り切って頑張りますわよ!」
「楽しみにしてるね! お昼は私が作るから食べてって」
「ええ!」
表面はしっとりしていて刺しても崩れず、手応えからも断面からも密度が伺えた。持ち上げて、なんとなく日に照るのを眺めてから食む。……ちょっとねっとりしてて、蜜の甘さ、それからお芋の素朴さ。
「お前、すっかり……なに、働き慣れたっていうか」
「ふふふ、立希の苦手な接客は私にお任せですわよ!」
「……さき、生き生きしてる」
「ええ! 自分の能力で自分の生きる糧を稼ぐ……満たされる思いがあるのは確かですわ」
あれ、でもお芋の甘さって素朴なのかな。砂糖が洗練されてる? どっちも種類が違うだけで優劣をつけるべきじゃないような気がする。素材の上に加えて整える砂糖の甘みも、そのものにある素材特有の甘みも、おいしさには違いないんだし。
「でも、その前にお風呂ですわね……みんなで!」
「……みんなじゃなきゃダメなの?」
「寂しいじゃありませんの!」
「まあまあいいじゃない、旭湯さんリーズナブルだし」
「……週二で一緒に銭湯通う仲、なんなんだろうな」
「決まってますわ、運命共同体でしてよ! ね、燈!」
「へっ!?」
スイートポテトに気を取られてて聞いてなかった。コーヒーで口の中をさっぱりさせ「あふっ」「燈!? 大丈夫!?」「大丈夫ですの!? お冷ならこちらに……!」「ら、らいじょうぶ……!」てから尋ねる。運命共同体? CRYCHICの話?
「なにって、銭湯ですわ! 燈も行きますわよね?」
「あ……う、うん。行きたい」
「燈、用事があったりしたら断っていいんだよ」
「そ……そうですわね。燈にだって、つ、都合が……」
「だ、大丈夫! 考え事してたから、詰まっちゃっただけ……」
「お前泣き落としやめろよ」
「そんなつもりじゃありませんわよ! ……ぐすっ」
「さきちゃん、本当に涙もろくなっちゃったね……」
また目元が潤みだしたさきちゃんを抱き締めて、背中をゆっくり叩きながら「……ぃ、痛いの痛いの、飛んでけー……!」と唱える。子供の頃、転んだ私にお母さんがそう言葉をかけてくれたら本当に痛みが和らいだ気がしたのを覚えていた。
痛いから涙が出るんだ。涙を止めるには、その傷口を癒せたらいい。
そう思いながら唱え続けるとさきちゃんはますます甘えてきてくれる。背中に回された腕は力をわずかに増した。
そよちゃんが呆れたような顔をする。
「またやってる……まあ、同い年だったらこうでもいいのかな」
「甘えすぎだしダメに決まってるだろ」
「……そっか。ほーらさきちゃん、お時間でーす」
「あぁっ、そんなご無体な!?」
「早くオムライス食べちゃえよ……お前羽沢先輩が作ったもの粗末にするなよな」
「そ、そうですわね! ありがとう燈、もう大丈夫……!」
さきちゃんはもたれかかっていた体をそっと起こして、オムライスをぐんぐん食べ始めた。
少しだけ、名残惜しくなってしまった。
弱さを、感情を見せてくれることが信頼の証みたいに思えるから、さきちゃんを慰める瞬間は好きですらあって……そんな自分が、酷く穢らしい。
「……あ、羽沢先輩」
「えっ!?」
窓の外を羽沢珈琲店の看板娘でもある生徒会長さんが通っていた。こちらに気がついてぱっちりとした聡明そうな目を弛めて会釈してくれる。こちらも気づいてみんなで頭を下げると、口をパクパク動かして(ごゆっくりどうぞ、とかかな)肩前で手を振りながら去っていった。
その背中には楽器ケース。羽丘を代表するカッコいいバンドのメンバーだって、前に立希ちゃんが教えてくれた。
ほのかな沈黙に、さきちゃんの溜め息が滲んだ。
「……キーボードは、まだ買えませんわね」
呟きにはありありと憧れが表れていた。
「……ふふ、買ったら毎日さきちゃんのピアノで起こして貰いたいなぁ」
「あら、ルームシェアしたら流石に朝は持ち回りでしてよ。私だってのんびり眠っていたいですわ」
「あーん」
そよちゃんはおどけてコーヒーに口をつけた。
さきちゃんとそよちゃんは、家を出てルームシェアをしたいらしい。さきちゃんは言わずもがな、そよちゃんもどこかでアルバイトを始めたらしい。……教えてくれないけど。
ふたりは、自分なりに自分の生き方を考えてる。
「何その声、キッショ……」
「立希ちゃんは人のこと言えないでしょ」
「……私のお世話係……」
「睦からお給料を貰い続ける生活はプライドが許しませんわ! 私だって独り立ちしたいですもの」
「さきに払うお金くらい、稼げる」
「ギターの大会の賞金で同級生を一年雇うって、今思えばヤバいことしてなかった……?」
睦ちゃんは技術がある。自分でお金を稼げる道があって、今はそっちへ進む意欲だってある。立希ちゃんはCRYCHICを……バンド活動を通して作曲を始めて、その勉強を頑張っている。お姉さんも音楽をしているらしくて、ときどき話を聞いてるとか。
私だけ何もない。
CRYCHIC以上に望むものも、そのために差し出せるものも、何も。
「楽器のことを思うと、練習が待ち遠しいですわね……燈、また昼休みの練習に付き合って頂けませんこと?」
「……うん、もちろん」
光の溢れる場所に連れ出して貰ったくせに、その暖かさをただ享受するばかり。
「……なんなら一番うまいじゃん」
「一日弾かないと三日分衰えますのよ立希。それに、燈にゆったり歌ってもらいながら弾く春日影は格別に心癒されて……」
「は!? ず、ずるい……!」
「……もう秋」
「あはは、そういえばそうだね」
睦ちゃんとそよちゃんのそんなやり取りが、頭の中で弾けて火花を散らせた。
ひとつだけあった。さきちゃんが望んでくれた宝物──春日影。
さきちゃんが掴んでくれた手を、連れ出してくれた場所を想った歌。
あのときの私たちの歌。
今ではない私たちの歌。
なら。
「作りたいな、秋の春日影」
こう言うと矛盾してるから、まずは名前から考えた方がいいのかな。それとも矛盾したまま作り上げて、最後の最後に相応しいリボンを探した方がいいかな。
秋の日の歌……イチョウ、ペガスス座、スイートポテト、コーヒー、りんご……ちょっと今は目の前の甘いもので頭がいっぱいだからダメかもしれない。羊雲、傾く日差しのベージュなこと、テーブルの夕溜まり、暖色の街を覆う空が高いこと……穏やかなイメージばっかり出てくるのは、この喫茶店がそうだから? 正反対なのは……お店の外、街、歩く場所……夜の歩道橋と、月の瞼の──
「……燈、燈!」
「……はっ」
ゆさゆさ揺らされて意識が戻った。気づけばみんなが私を、呆れ顔だったり微笑ましげだったり、思い思いの色で見つめていた。
私の肩から手を離した立希ちゃんが、少しぎこちない笑みを作って言う。
「その、今まで、燈と祥子に任せきりだったけど」
「私たちの歌だもん、一緒に作らせてほしいな」
「うん……なんでも弾く」
あまり喋らなかった睦ちゃんにまでそう言われて、あぁ、気を使われてるんだと遅まきながら理解した。
恵まれている。私は。
「……ありがとう」
頑張ろう。頑張るしか、私にはないんだから。
胸の奥でほのかに光るものと向き合って言葉を掬う以外、何もないんだから。
「そうだ、うちで合宿する? どうせお母さんいないし」
「……いいの? お前……」
「あと三年くらいで出ていくんだから、今のうちに有効活用するだけだよ」
「……じゃあ、いいけど」
「いつやりますの?」
「うーん……このあと?」
「私と祥子バイトだってば」
「だから合宿なの。制服持ってきて、月曜の朝うちから学校行こうよ。みんなで」
「すごいこと言い出すねお前……べたべたしすぎじゃない?」
「いいじゃない、みんな仲良し。悪いことじゃないでしょ。燈ちゃん! 燈ちゃんはどう?」
そよちゃんの押しがすごい強い……!
でも、なんだか楽しそう。合宿、友だちとお泊り。校外学習以来だ。
「うん、したい。みんなとなら」
「よかった! 燈ちゃんなら……うん。そう言ってくれると思った」
「押し切ったくせに」
「睦はどうですの? 用事などは」
「ない。……お土産とか、あった方がいい?」
「お土産? そんな別に……ううん、ありがとう。遠慮なくもらうね」
「……」
睦ちゃんがこくんと頷いた。いつの間にかパフェを食べ終わり、どころかマンゴージュースで一服していて、まだ食べてるのは私とさきちゃんだけだった。さきちゃんはともかくとして私は遅すぎるかもしれない。まだ七割残ってるスイートポテトを削っては食べ、削っては食べ、たまにコーヒーで洗い流す。
大きめな最後の一口を思いきって頬張る。こぼれないように片手で口をふさぎながら咀嚼していると、ちょうど同じタイミングでさきちゃんも最後の一口を迎えていた。仕草まで同じで首を傾げる……あれ、また揃った。
妙なシンクロが間違い探しみたいだった。食器を置いてふたりでワチャワチャ変な動きをしていると私たちより先にみんなが笑い出す。
……あれ?
「時間なくなっちゃうよ?」
「はっ、いけませんわ! ごくん……いざ銭湯!」
「の前にお会計だろ」
「……私、払ってきた」
「え」
「あとで徴収」
「ありがとう睦ちゃん。……じゃ、出よっか」
あっという間に退出ムードになって慌てながら立希ちゃんが出られるよう席を立つ。来たときみたいにみんな一列でさきちゃんの後に続きながら、ふと浮かんだ疑問が頭の隅でぐるぐる回っていた。
私とさきちゃんが間違い探しなら。
間違いのページは、どっちなんだろう。
『……こ、ここが銭湯……』
一文字ずつブロックで分かれた『旭湯』の字を半透明な傘越しに見上げながら、おっかなびっくりという顔でさきちゃんが呟いた。
あのあと、雨の中を歩くにしてもずぶ濡れのままじゃいくらなんでもと、一番近い私の家から着替えを持っていった。さきちゃんの体格は私と変わらないし、私はオーバーサイズだったりスポーティなものだったり(という分類は、選んでくれたお母さんの受け売りだけど)融通の利く服ばかり着ているから大丈夫じゃないかって。
傘も予備がたくさんあったから、なるべく綺麗な色を持っていった。洗練された気高い白。……というにはくすんだ風合いの、ビニール傘なんだけど。
スタジオの中で着替えた立希ちゃんが私とさきちゃんを何度も何度も交互に見てたけど変なところはないらしいから、そのまま銭湯へ来たのだった。
さきちゃんは立派な門の前で尻込みして、握っていた私の手を不安げに引っ張った。
『こ、ここに入るんですの……? 見るからに歴史がありそうというか、私今は本当に持ち合わせが……』
『だ、大丈夫……! ワンコインみたいだから……!』
『祥子が燈の服着て、燈みたいなことして……でも祥子で、あれは祥子で……くそっ……』
『立希ちゃんはそれどういう感情なの?』
『……』
『む、睦!? 待っ……あの、燈……』
『……う、うんっ。入ろう……!』
『あの祥子が、あんな、燈の様子伺って……祥子が……?』
『立希ちゃん、脳味噌壊れてないでほら……』
もしかしたら楽しみだったのか、睦ちゃんがずんずん進んでいくのに続いて中に入った。先払いらしいから先に番頭さんにお金を払って、バスタオルを借りたりなんかして脱衣所まで来た。だからもう手遅れと言えば手遅れなんだけど、そよちゃんが『……ねえ燈ちゃん』と私に半目を向ける。
『みんなで来る必要あったかな……?』
『……寂しいかなって……』
『会って一か月の友達に裸見せるよりは寂しい方がマシかなーって……』
『う……』
言われてみればそうだ。服に掛けた手を今更躊躇ったりなんかしてると、ロッカーをがちゃがちゃ確かめていた睦ちゃんがひとり頷くのが見えた。そのまま『えい』と服を脱ぎ始める。
『睦!?』
『……ここ、お風呂。いつまでもそうしてる方が、たぶん、恥ずかしいと思う……』
月ノ森の上品なセーラーを脱いでブラウス姿の睦ちゃんは、よく見たらほんの頬を赤らめていたけど、それでも『……えい』とスカートのホックを外した。そっか、普通は恥ずかしいんだ。考えてみれば当たり前なんだけど。
勇姿を前にして、さきちゃんは私の手をそっと離した。
『そ、そうですわね……郷に入っては郷に従えと言いますもの……』
『祥子……燈……』
『立希ちゃんはいい加減にしてくれない!?』
このままだと服を着てる私たちの前で睦ちゃんだけ裸になってしまう。私には普通がわからないけれど、それが異常であることは流石に理解できる。だから……だから、えい……!
『と、燈も……!?』
『郷に入っては郷に従え、だから……頑張る……!』
『ねえもしかして燈ちゃんも初めてなの? なのに連れてきたの? ウソでしょ?』
見られながら脱ぐのは顔から火が出そうなくらい恥ずかしいけど、でも、睦ちゃんを独りにはしないで済む。脱いだふたりで顔を見合わせ頷きもう一枚手に掛ける。
……これはこれでおかしいような……?
おかしい気がするけどみんなの恥ずかしさは誤魔化せたみたいで、ぐるぐるした目でロッカーを開けた。
『……え、えーいっ!』
「はー……バイト終わりのジェット風呂に勝る贅沢はありませんわね……」
手も足もうんと伸ばしながら、頭にタオルを乗せたさきちゃんはしみじみ言った。アルバイトをしたことはないけど、疲れに効きそうなのはわかる。隣で一緒にジェットで腰を揉まれながら、もう一度揃って「はぁー……」と息をついた。
「練習と銭湯だけが生きる源ですわ〜……」
「……みんなと、いる時間だね」
「ええ! そよや立希と家族の話をしたり、あなたと歌や星の話をしたり、睦と黙って我慢比べしたり……裸の付き合いというのは馬鹿にできませんわね、一層ありのままでいられる気がしますわ」
さきちゃんの手足はしなやかで綺麗だった。前からそうだったけど、この頃は輪を掛けて。色々なアルバイトで動き回っているからかもしれないし、精神的な充実によるものかもしれない。とろけた笑みの浮かんだ顔をこちらにこてんと傾けた。
「……心を曝け出せる相手ができるなんて、あの頃は想像もついていませんでしたわ。それが今や裸を見せても安らいでいられる……燈のおかげですわね」
「……」
膝を抱えて口元まで沈んでからぶくぶく頷いた。言い方に語弊がある気がする。
「バンドを組んだときに運命共同体だなんて申しましたけれど、真の意味でそうなれたのはあの日でしたわ。燈がいなければ有り得なかった今日が、こんなにも幸せであること……思えば、きちんとお礼を言ったことがありませんでしたわね。ごめんなさい」
「そ、そんなことない……!」
「そんなことありますのよ」
咄嗟に顔を上げて反駁した。私の方がずっとたくさん貰って、貰いすぎて、まだ何も返せていないくらいなのに──そう言おうとした私の唇が、するりと泳いだ白魚のような指先に閉じられる。
「燈、ありがとう。あなたが私と出会ってくれて、本当によかった」
制服も装飾もないまっさらな姿の感謝が胸に刺さって、痛かった。
違うんだよ。私はずっと、あの日泣いてたさきちゃんの美しさが瞼に焼き付いているような穢い心しか持ってなくて。
人間になっていくさきちゃんを後ろから見ているばかりの、情けない虫でしかなくて。
間違い探しの間違いの方は、私で。
不幸に、苦難に負けず気高いままのさきちゃんが正しくて。
私は──
「……さきちゃんが」
「なんですの?」
「……今も生きててくれて、嬉しい」
紛うことなき本心。でもそれと同じくらい大きな、大きな大きな劣等感のスケープゴートにした。してしまった。できてしまった。
吐き気がするほど浅ましい言葉がジェットの波でぐちゃぐちゃに乱れた私の顔に落ちた。熱いお湯に全部溶け出したみたいに冷え切っている心は、さきちゃんに、CRYCHICに温めてもらったはずの心は、けれど決して作り変わったわけではなくて。
「ふふっ」
「わ……さきちゃん?」
彼女はぐっと間を詰めて、私の肩に凭れ掛かる。液体か人肌かの差しかないはずなのに、お湯とは違う温かさ。
「あなたが繋いでくれましたのよ。冷え切る前に、あなたが。人は温かいものだと、優しいのだということを忘れてしまう前に、あなたが……燈が繋いでくれた」
私の頬に触れていた髪が離れるほんの一瞬、張り付いたのが名残惜しさに見えたのは、自惚れかな。瞳の中に映る自分の顔すらわかるほど近くで、さきちゃんは囁く。
「何度でも言いますわよ──燈、出会ってくれてありがとう。今日まで生きていてくれて、ありがとう」
さきちゃんは感情表現が豊かになった。
それは、素直さなんだろうか。
だとすれば以前までは仮面が隔てていたんだろうか。
私にかけてくれた言葉のどこまでが建前だったんだろうか。
わかってる。普通は心の奥の奥まで詳らかにしない。そもそも自分の心を暴こうとはしない。それは怖いことで、しなくていいことで、まして人に求めるなんて許されないことで。道徳の教科書に幾通りも載せて勉強しなきゃいけないくらい難しいのが、分かり合うということで。
だから、こんなことを望むのは酷い冒涜のはずで──わかっていながら、私は、頭を垂れる。
おでこをこつんと、痛くないようにそっと、さきちゃんと重ねる。
「どうしましたの?」
「……ぜんぶ伝わったらいいな、って」
「……本当に、きれいな子」
ひとしずく、「伝わってますわよ。ちゃんと」と耳に滴った。
そうならいいなって思った。
そんなの嫌だなって思った。
穢い心が伝わっていたら、けど、さきちゃんの心を知れるなら、でも、そんなのは。
言葉が、歌が、纏まらない。
「いた、ふたりとも」
「睦? どうしましたの」
「……いつも、長風呂になるから。ちょっと早く出ようって、そよが。……それと」
「それと?」
「……くっつきすぎ」
「ぁ……!?」
「まあ!」
指摘されると途端に恥ずかしくなってくるけど、さきちゃんはがばっと私を抱き締めてあわわわ……!
「燈は離しませんわよ! 一生!」
「……そよが寂しがってたし、立希が抜け殻になってる。……それに、私も寂しい」
「睦ー!」
「んぎゅっ……」
さきちゃん……? さきちゃんはあっさりと私から離れて睦ちゃんを抱き締めた。
はしゃぐさきちゃんと無表情でタップする睦ちゃんをぽつんと眺めながら、手を伸ばすか伸ばすまいか逡巡した。……ま、混ざっていい、のかな?
「こーら、公共の場でーす」
「ちょっとのぼせた……ごめん、先上がってる」
「立希ちゃん、大丈夫……?」
「燈……あ、あのさ、さっきフルーツ牛乳売ってて……一緒に飲もう」
「え……? う、うん」
タオルを手に手にお風呂から上がっていく。浴室の扉を開けた瞬間、みんなと一歩遅れた私の間を熱が逃げ去っていった。肌寒さが粟立つ。
「……はくしょんっ」
「燈⁉︎ 大丈夫ですの⁉︎」
「だ、大丈夫……」
「燈に何かあったら私、私は……!」
「さきちゃん落ち着いて、まず体拭いて着替えちゃおう? そうしたら風邪だってひかないから」
「そっ、そうですわね! 燈、こっちへ!」
腕を取られてタオルを巻かれ、そのまま小走りでロッカーへ向かう。そよちゃんが「こら、さきちゃん!」と楽しそうに怒って、立希ちゃんは心配げに、睦ちゃんは小さく笑ってついてきて。
さきちゃんは感情表現が豊かになった。
それは、素直さなんだろうか。
あるいは、蛇口が壊れてしまったのだろうか。
当たり前に生きるための心の栓を閉められないくらいに。
『……この服、どうしましょうか』
『あ……えと……う、うちに、来る?』
『は……?』
立希ちゃんが不思議そうにしてたけど、そよちゃんの後押しと睦ちゃんの頷きでそういうことになった。
まだ十八時。夕食にはちょっと早いくらいの時間だけど、依然として雲の覆う空は滲む光も弱くて、オレンジをパレットに乗せ忘れたみたいな無彩色だった。いつもみんなが迎えに来てくれる歩道橋を、みんなを連れて戻るのがどこか妙な気分。
鍵がから回った。お母さん、今日は夜勤なんだ。服を取りに来たときにいなかったのは、なんだろう、買い出しとかで入れ違いになってたのかな。
『ただいま』
『あ、燈! おかえりなさい』
『お母さん、うん、ただいま。……あの、友だち、連れてきちゃった』
『友だち……ほんと!? そんな、先に言ってくれたらおもてなしできたのに』
『……買い出ししてたの?』
『お鍋のね。作ってから出ようと思ってたんだけど……ね、お友達って、前話してくれたさきちゃん?』
『……あと、そよちゃんと睦ちゃんと、立希ちゃんも』
『みんなで来てくれたの! ってもしかして玄関で待たせちゃってる? ごめんね、入ってもらって! あとよかったらお鍋食べてかないか、聞いてきてくれる?』
『……ありがと、お母さん』
リビングのドアから半身を出してお母さんに返事をした勢いで話し込んじゃったから、実は廊下にぜんぶ筒抜けだったりする。
……聞こえてるのに改めて説明するのも変なのかな? でも、ちゃんと聞き直したほうが……?
『……え、えっと……いかがですか』
『みんなでどっか食べに行くならお金渡すからね!』
『う、うん! ……だからその、どっちでも大丈夫……!』
リビングと廊下に交互に顔を出しながら握りこぶしを作ってそう伝えると、みんなびっくりしたような、寂しげなような、そんな顔をしていた。靴は履いたまましゃんと立っていたそよちゃんがまず最初に、鼻先を薄く鳴らして呼吸を入れ替えた。
『……じゃあ、ご相伴に与ろうかなぁ。ふたりは?』
『……家に連絡する』
『私は……まあ、ラインだけ入れとけばいいし』
『わ、私は確定なんですの⁉︎』
『さきちゃんは帰っちゃダメだと思うなぁ。高松さんちのご厚意的にも、さきちゃんの家の状況的にも』
そよちゃんの意見にうんうん頷く。
家族仲が良いのが当然、とは思わない。私が友だちに馴染めていなかったように、家族と馴染めない人もきっといるから。その理由も様々あって、さきちゃんは外的なもの。お父さんのことを私がどうにかすることは絶対できないから、せめて安らげる場所を作るしかない。
だから。
『さきちゃん──今日は、帰さないから』
『……はい』
『何しおらしくなってるんだよ!』
壁に寄りかかってた立希ちゃんがばっと胸ぐらを掴んだ(⁉︎)けど、さきちゃんは抵抗するどころか気まずそうに揺さぶられるばかりだった。
『だ、だって、その、燈の顔立ちは結構凛々しいんですのよ!?』
『は? 燈は可愛いだろ目がとろんとして色白で!』
『人の家でそんな恥ずかしい喧嘩しないでよ……』
私も恥ずかしい。こんなにはっきり見た目を褒められるのって初めてな気がする。
掴み合うふたりの間をするりと抜けて、睦ちゃんが顔を出した。鞄の中になんだか高級そうな紙手提げが入っていたらしく、それを抱えて私の肩越しにお母さんへ。
『……あの、燈のお母さん。お土産』
『あら、ありがとう。お名前聞いてもいい?』
『……若葉睦です』
『いつも、燈と仲良くしてくれてありがとう』
『……』
睦ちゃんはふるふると小さく首を振っ……え、仲良くなかったってこと?
愕然とする私に一瞬だけ視線を向け、彼女は薄く、でも確かに微笑む。
『……友達と一緒に遊べて、楽しいですから……私も、さきも。仲良くしてくれて、嬉しいです』
『……よかったね、燈』
『……う、うん……!』
お母さんは私の頭をぽんと撫でると、睦ちゃんのお土産を冷蔵庫へ収めに行った。スリッパの足音が遠のく半開きのドアへ『あー!?』と声を上げたさきちゃんたちが悔しそうに駆け込んでくる。
『挨拶もできないまま言い合いに興じてしまうなんて、なんたる失態……!』
『手遅れじゃないかなぁ』
『……ぶい』
『睦! 小癪な、まったくどこでそんな、自分の言葉で意思を伝えて、なんて立派に……!』
『何目線なんだよ』
『と、とりあえず、上がって……!』
もう上がってはいるけど他に適切な言葉が思いつかなかった。改めてみんなで『お邪魔します』『お、お邪魔してもらいます……?』と挨拶をして私の部屋へ。電気をつけるとさきちゃんが『懐かしいですわね……』と呟く。
『一ヶ月も経ってませんのに、何年も経ってしまったみたいな』
『さきちゃんは来たことあるんだ?』
『ええ、初めて会ったときに。……そう、まだそれだけしか……』
下段に勉強机を収めたロフトベッドと天体望遠鏡、カラーボックスがあったりコルクボードが掛けてあったり。不自由をした記憶は一切なかったんだけど、みんなに入ってもらうと思ったより狭くなってしまった。
……ちょっと動くとぶつかりそうな距離の近さが、なんだか嬉しい。
『……すし詰め』
『ごめん……えっと、く、クッション持ってくる!』
『大丈夫ですわよ、口元が笑ってますもの』
『え……?』
『うん……ちょっと楽しい』
『そ、そっか……よかった』
言われてみれば、睦ちゃんは狭さに不満があるっていうより興味津々に見える、かも。控えめにきょろきょろしていて可愛かった。釣られたのか立希ちゃんとそよちゃんも手近なものに興味を示してくれて、天体望遠鏡のこととか、カラーボックスにしまっていたノートとか、陳列した石とかについて話した。
『……それにしても』
私の集めたものや趣味についてひと通り聞いたそよちゃんは、優しそうな微笑みの上に悩ましげな眉を乗せて、上下でちぐはぐな顔をした。
『拾ったものや撮った写真を収める場所があったり、作詞のノートもこれ、全種類揃ってるんでしょ? なんていうか……マメだよね』
『……私というか、小さい頃に、お母さんが揃えてくれて』
昔はただ集めるばかりで、然るべき形に収めることを知らなかった。でもあるとき、机の上にX軸をグラデーション、Y軸を大きさとして拾った石を並べていた私に『自由研究みたいだね』とお母さんは言って。
『ちゃんと整えたら
なんらかの評価軸とか、番号順とか、あと、五十音順? とにかく、集めるだけ集めてただ置いていたものをきちんと並べられるようになったのはそれからだった。
『並べ方の意図が物の価値とか、存在意義を決めるみたいなんだ。石も、ノートも……たぶん、人や言葉も』
『じゃあ、燈ちゃん』
そよちゃんは一冊引き抜いたノートに目を落としながら、でもそぞろでなく明確に尋ねてくる。
開かれているのはトケイソウの表紙だった。
『今ここに並んでる私たちは、何?』
『CRYCHIC』
違うんだろうか。部分点の答えなら友だちとか、居場所とか、傘とか、運命共同体とか……色々あるけど。
『
変だったかな。秒針の音が三点リーダーをぽつぽつ刻んでしばらく、私の書き殴った言葉を眺めたそよちゃんはノートを閉じて──狭い、手を伸ばせば触れる場所にいる私を、いきなり抱き締めた。
『わっ……』
『そうだね……そうだね、ここに、それ以上の名前なんてないよね』
声が、震えてる。困り果ててみんなに視線で助けを求めるけど、まず睦ちゃんがそよちゃんの背中に抱きつき、今度はさきちゃんは私の背に来て、最後におろおろしていた立希ちゃんをさきちゃんが横に引き付けた。
『……燈』
『あつい……なに、さきちゃん』
『CRYCHICというショーケースの中の、こんな押しくら饅頭に名付けるならどういたしますの?』
『え……?』
なんだろう。
ぴったり近くて、同じ部屋にいて、運命共同体。
『……家族、とか?』
そよちゃんの家に向かっている途中、お母さんが「遊びに行くならお土産にしなさい」ってお菓子を用意してくれてたのを思い出した。日持ちするクッキー。みんながうちに初めて来たときも睦ちゃんがきゅうりを持ってきてくれたし、私もそうしようと一旦引き返している。
それにさきちゃんもついてきてくれて、ふたりで歩道橋を上がっていた。
「日が落ちれば肌寒いですわね」
「うん……もう、春じゃないんだね」
秋の涼しさは春よりさらさらしている。纏わりつかない風が足下から跳ねる車の音に押し流されていく。さきちゃんの髪が
歩道橋の真ん中に私たちは立ち止まった。
あのときの私はうまく歌える自信がなくて。自分の
……違う。自信がないんじゃなくて。
卒業式で泣いてる人たちみたいにはなれなかった。
うわべだけ揃えて俯いてみせるしか出来なかった。
流行りのドラマやポップソングがわからなかった。
周りと同じものを同じように好きになれなかった。
色褪せた毎日を輝かせる一歩も踏み出せなかった。
裡に渦巻く言葉を曝け出そうと思いもしなかった。
積み重なったたくさんの違いで、私はダメなんだ、って確信があったんだ。
それを──
『人間に──! なりたいですわ────っ!』
──さきちゃんが晴らしてくれた。
曇りの夜に日差しが差した。
今の私は独りじゃなくなってしまった。
もう他人を、人間を知ってしまった。
あの頃の私の歌がこだまする。
みんなみたいに友達できたけど
みんなといるのに独りみたいな
みんなみたいに生きたいのに
同じもの見てるはずなのに
同じところいるはずなのに 違うらしい
人間になり──
「人間に、なれましたわ────!」
「……」
「ふふっ、急に口ずさむからつい……懐かしんでいたのは私だけじゃありませんでしたのね」
一瞬、テレパシーみたいだって思っちゃった。笑みに照らされて呆けた頭の隅っこが、ぼそぼそ耳打ちする。
──人間になりたいって、どんな?
例えば、見知らぬ誰かを迷わず助けに飛び込めるような。
例えば、形のない思いを掬って音楽に変えられるような。
例えば、名前を呼ぶだけで世界を鮮やかにできるような。
例えば、あの日。死んでいく花に釣られた私を転ぶことも厭わず助けてくれた、澱みのような言葉を音にして羽ばたかせてくれた、私の名前を呼んで笑いかけてくれた──さきちゃんのように。
あなたみたいに──
「──あれ?」
だと、すれば。
「燈? どうしましたの?」
憧れと劣等感で満たされひっくり返され思い出が滞留する頭の中で、考えて、考えて考えて、考えて考えて考えて考えて考えて──水槽の隅に追いやられていた疑問が、また浮かび上がった。
「ま、まさか具合が悪く……そういえば喫茶店でもどこか上の空でしたわね、気付けなかったなんて……ぐすっ、情けない……!」
さきちゃんは感情表現が豊かになった。
それは、素直さなんだろうか。
あるいは、蛇口が壊れてしまったのだろうか。
「……さきちゃん」
「なんですの!? とりあえず熱はないみたいですわね、じゃあ……」
私の額に当てられた手のひらを握って、もう一方の手をさきちゃんの頬に添えて、一歩、踏み込む。
仮面を引き剥がしたとしても、何かが壊れたのだとしても、同じだ。
そこには──傷ができる。
「どこが、痛いの」
さきちゃんの表情が凍りついた。
「な……にを、言ってますの? 怪我なんてどこにも」
「誤魔化さないで……!」
歩道橋の下を通る車にかき消されるくらい小さな声だった。唇の震えすらぎこちない。真っ白で、無機質で、固くて、今にも音を立ててひび割れそうな──顔色の繭。
よく泣く、よく笑うのは感情表現豊かなだけじゃない、情緒不安定とも言える。繭の内側でぐちゃぐちゃになった心が些細な刺激で揺れ動いてるんだ。
今にも崩れそうに。
「……お願い。隠さないで。私は、私の気持ちしかわからない……! さきちゃんが悲しんでるのも、傷ついてるのも、きっとそうなんじゃないかって思うだけしかできない!」
誰のことも理解できずに生きてきた。こんなの、今更なはずなのに。
それが、たまらなく怖い。
さきちゃんを抱き寄せる。腕に力を込めないよう、そっと、壊れものを包むように。
空に、冷たい、三日月。
「さきちゃんが、どこで擦りむいたのかわかんないっ、どこを傷めたのかも、どうして怪我をしたのかも──私は、心の触り方がわかんないから、だから……!」
空元気を暴くべきじゃないって、頭が言う。
だとしても手を伸ばせって、どこかが言う。
だって、さきちゃんのようになりたいのなら──自分の痛みに浸ってる場合じゃない。
「……だから、言葉で教えて。どこが、痛いの……?」
さきちゃん。
また沈黙が立ち込める。鼓動が二度、三度、聞こえるはずのない遠雷、消えてしまいそうな呼吸──頽れたさきちゃんを決して離さないと決めて、ただ待った。
「……胸の、奥が」
やがて。
「……わたくし、いま、こんなに楽しくて、こんなに、幸せで」
ぽつり、ぽつり、心からの声が零れだした。
「働きがいのあるバイト先で、学校も楽しくて、友だちができて。お金も家も失くしたのに、たくさんのものが、この手にあって」
「……」
「CRYCHICが、家族があって、将来の話もできて。……キーボード、買いたいなんて。未来に希望が持てるのに」
「……うん」
背を撫でる。肩が濡れる。髪が震えている。
「……いつ、また、壊れてしまうかわからない。それが、たまらなく怖い……!」
「うん……うん」
今日も楽しかった。みんなでさきちゃんのバイト先へ遊びに行って、銭湯ではしゃいで、これからみんなでお泊まりしよう、なんて。CRYCHICを始めるまで……CRYCHICが壊れかけたあのときでさえ、想像だにしてなかった。
誰かが事故にでも遭ったら。死んでしまったら。もしも今ここに隕石が落ちてきたら、幸せはなくなってしまう。考えたら身震いした。心寒くてより一層強く抱き締め、思わず呟いてしまった。
「……わかるよ、私にも──」
「──わからないですわよ」
抑揚のない声。
「さきちゃ……」
「わからないですわよ! 燈には、燈にだけは、絶対に!」
腕の中から逃れようとさきちゃんがもがく──いやだ、絶対離さない!
ほとんど反射で力を込めて引き留めた。振り払われてしまうかと思ったけど、さきちゃんは嫌々するように首を振って、暴れて、私の背に爪を立てるだけで、突き飛ばしはしなかった。
「あんな、素敵なお母様がいて、優しいお父様がいて! 好きなものも、家族も家も、何も失くしたことがなくて!」
叫びが街に響く。誰も通りかからない。足音も、たぶん、ない。さきちゃんの声はただの騒音として誰にも届かず消えていく。
受け取れるのは、私だけ。
「ずっと孤独で、それでも周りを憎まなくて……きれいなものを捉えられて、人の心に優しくて……いつだって、欲しい言葉をくれて、導いてくれて……」
肩に滴る暖かな雫を、じっと受け取る。
「燈に、私の気持ちは……わかりませんわ」
さきちゃんの気持ちは、わからない。そうだ、私がそう言った──けど。
「わかるよ」
言い張ろう。
「ぜんぶは、わかんない。頭の中を見せてもらったとしても、誤解はすると思うから。……でも」
涙を堪らえようと寄る眉を、言葉を紡ぐ唇を噛み縛ろうとするのを、けれど必死に打ち明けようとしてくれたのを、見ていた。
言葉は恐れと怒りに震えて、聡明な彼女らしくない取り留めのなさで、でも。
「伝えてくれた分は、きちんと、わかるよ」
傷を見つけた。
さきちゃんには、私が何もかも持っているように見えてるんだ。……そんなことないのに。私の今あるすべてはさきちゃんが齎してくれたのに。私はさきちゃんで出来ていて、離れるなんて考えたこともないのに。さきちゃんはそんな有り得ないもしもが怖いんだ。
「さきちゃん」
心に絆創膏を貼る方法を、私は知っている。
「私たちは、いなくならない」
「……わからないじゃありませんの」
「絶対にいなくならない」
「わからないですわよ! あなたが私を見限るかもしれない、そよや立希に失望されるかもしれない! 私の事情をわかってる睦がいつ愛想を尽かすかもしれない……病気や事故や、根も葉もない噂は、考えることも悍ましいような悪意は、不幸は!?」
「それでも! 絶対いなくならない!」
わかって。
抱き締めるから。
血の味がするくらい叫ぶから。
心臓を開いて言葉を取り出すから。
「一回で足らないなら何度でも言う、私ひとりで足らないならみんなで言う! さきちゃんだけじゃ不安なら何人でも集めて聞いてもらう!」
「……言葉が、なんだって言うんですの。家族だって、壊れますのよ。私たちは所詮──」
「家族なだけじゃない。運命共同体で、友だちで、CRYCHICだから、大丈夫」
さきちゃんは、忘れちゃったのかな。それともただ、暗い場所で見失っちゃっただけかな。
忘れてしまいそうなことは書き留めればいい。見失うなら、導があればいい。
月が見ている。都会の明るさにも消されない月。
「春日影を歌ったよ。次は秋の歌だ。冬も、雨も歌う! さきちゃんが始めてくれた幸せをぜんぶ歌い残して、世界中に伝えて、誰にも消させないで──CRYCHICを、一生やる!」
「……一生って、一生ですわよ? まだ一年もやれてませんのに、どれだけ大変か」
「わかってる」
さきちゃんみたいになりたい。
……さきちゃんには、なれない。
「……でも、私はなんにもない。頑張るくらいしか、できない。演奏できないし、曲、作れない。言葉を歌にできない」
太陽にはなれない。だけどせめて、照らせるものになりたい。
夜に日差しの色を返す、月に。
「だから……助けて。さきちゃん」
鉛を切り取って差し出しながら、私は情けなく締め括った。さきちゃんはいつのまにか抵抗を止めて静かに聞いていた。腕の中の温度は私より高くて、こんなときなのに、少し安心してしまう。
「……燈」
「……なに、さきちゃん」
「もう、ピアノもないですわ。五線譜もストックがありません。防音の部屋でもないですし、まともに曲を作れる状況ではありませんわ。それに、些細なことで泣くようになってしまいましたし、みなさんがいないと、不安でおかしくなってしまいそうで……どこか、壊れてしまって。あなたが後ろをついてきてくれた、あの春の私では、もう……」
「いいよ。壊れていてもいいから、そばにいて」
さきちゃん。
呼びかけると、緩んでいた腕から体を浮かせて顔を合わせた。瞼が腫れて、頬は真っ赤で、唇が震えていて。
綺麗だった。
「……私に、あなたを、助けさせて」
「……ありがとう。さきちゃん」
私の返事に、繭を解いて、羽を伸ばして、さきちゃんは微笑んだ。
ああ、そういえば、出会った頃は。
渾名で呼ぶたび、嬉しそうにしてくれてたね。