「先生…私、役に立てるよ?なんでも、してあげられるよ…?」
「…」
「ぜったいに先生の邪魔しないから…ねえ…」
先生はしばらく何もしないで黙っていた。
そうしていると、そのうちカヨコがうつむいて、しゃくりあげ始めた。
「…」
震えている肩を、先生は掴んで、ぐいと押して離した。
突き放すような行動に顔を上げると、涙でぼやける視界が塞がれた。何が起きているのかわからなくて、カヨコはただ服にしがみついていることしかできなかった。
路地裏の入口の向こうから物音がした。
先生はそちらを向いて、カヨコの身体を引き寄せながら息を潜めた。
酔っぱらいか何かが喚いている声がして、すぐに通り過ぎて聞こえなくなった。
ふたたび静かになった薄暗闇の中でカヨコは抱きしめられて動けないでいた。
目が見開かれて、心臓は飛び出るくらい跳ねていて、呼吸が苦しくて、思考がまとまらなかったが、間近に感じられる先生の体温が狂おしいほどに離れがたかった。
背中の手が這って敏感に震えた。
力強く抱きしめてくるその手は、いつも撫でてくれるものとは様子が違っていた。
先生が今どういう表情なのかは、胸元にいるのでわからない。
それでもカヨコはただ、すがるようにして先生に力を委ねていた。
「先生…?」
その声には戸惑いと、仄暗い期待がにじみ出ていた。先生の服をうかがうようにかすかに引っ張る。
「先生」
蚊の鳴くような声。また否定されるのが怖くてそれ以外に言葉を紡げなかった。
熱い吐息と心臓の鼓動ばかりがうるさかった。
永遠に思えるくらいに長い沈黙の後、
「私もカヨコのことが好きだよ」
そう言うなり、先生は長い溜息を吐いた。
腹いせのようにカヨコの頭を乱暴につかむと強く自分に押し付ける。圧迫感と息苦しい中で先生の匂いに包まれて、どうすればいいのかわからなくて、硬直した。
黙り込んだままのカヨコに、
「失望した?」
カヨコは、首を振った。
「顔、みせて」
ためらって、おずおずと顔を上げた。
カヨコは真っ赤になって、先生のことを見ていた。先生が薄暗い中でよく見ようと顔を近づける。
「あーあ、可愛い顔が涙でぐちゃぐちゃだね」
「せ、先生…んっ」
カヨコの身体が反射的に揺れて、不安げにしながらも、彷徨わせていた手をゆっくり背中へ回した。
しがみつくように絡みつく。
「…何でもするなんて軽々しくいうものじゃないよ…あれ、耳が真っ赤だね。身体も熱いし」
「そういうこと…言わないで…」
「いつものカヨコらしくない」
「先生…こそ…」
「嫌いになった?」
今度はカヨコから背伸びをした。
ふらふらと数歩さがって、口元を抑えながら、視線を地面に移す。火照った頬に汗が一筋つたって顎から落ちる。顔を上げられなかった。先生の靴ばっかり見ていた。
いろいろな感情が渦巻いていて、一つで言い表すのは難しかった。
その中でふいに一番上に浮かび上がってきた感情は、罪悪感に似ていた。
「あ、の…先生…」
「言っておくけど、アルたちには内緒だよ?」
先生の声にはいつもより威圧感があった。
「誰にも悟られたくない。大っぴらには会えないから…カヨコが望むようなことは、できないかもしれないね。それでもいいの?」
複雑な感情だった。決してポジティブなものばかりじゃなかった。後ろめたくもあり、自己嫌悪のような感情も中にはあった。
それでもカヨコは嬉しかった。
涙が浮かび上がるほどに嬉しかった。
カヨコが先生の言葉に何度も頷く。
先生が近づく気配がして、身体にぞくりと期待が這った。
その予想に反してカヨコの頭の上に手が載せられた。
「そっか」
そのまま撫でられた。
「…」
カヨコはそれに不平を言っていい気がしたし、ダメな気もした。
ただ、先生に触れられるのが心地よかった。
「…」
カヨコから一歩近づいた。
先生の背中に手を回して、身体を密着させる。こうやって触れても嫌がられないことが嬉しい。
先生は抱き返してくれた。
一生独り占めしたくなる。カヨコはまたキスをしたくなったが、がんばって我慢した。
…こんなにも心乱れるのは今日限りにしよう。
これからもこんな幸せが続くように。
この人の側に一生いられるように。
今日だけにしようと、思った。
よくないよ…