「冬にも桜は咲くらしい」
キングヘイローがその言葉を聞いたのは、半年前のことだった。
同室のウマ娘、ハルウララのトレーナー──今、彼女の目の前にいる優男のことであるが、彼が一度、真剣な顔をして独り言を呟いたのを聞いたことがある。
トレーナーはかつて、競輪選手だったらしい。自分たちと同じアスリートだった。それがどうして今ウマ娘のトレーナーをやっているのかは知らないが、彼が車椅子に乗っているという事実から色々と察せてしまい、結局今に至るまでその理由は聞けずにいた。だからだろうか、キングにとって彼に競輪選手時代の話をするのは禁句になっていた。単に、同室の子の担当トレーナー、という程度の関係でしかない相手にそこまで踏み込んだ話をする必要もないだろうと思っていただけかもしれないが。だからだろうか。
「トレーナーがけいりん? 選手だった頃の動画があるの? 見たい見たーい!」
ハルウララが無邪気にそう言い出した時は、何故か変に焦ったのを覚えている。
案の定というか何というか、トレーナーは渋った。大したレース映像じゃないよ、面白い物じゃないよ、と話を反らそうとしていたが、結局最後には根負けしてテレビを点けた。
そこで初めて知ったことだったが、彼はそれなりに有名な選手だったらしい。動画サイトにアクセスして、彼の名前を検索するといくつかレース映像がヒットした。その中には、キングも聞いたことがあるような少し大きなレースの映像もあった。
覚えている限りでは、その日はそのままレース映像を観て終わってしまった。トレーナーもいくつか映像を見ているうちに懐かしくなってしまったらしい。当のウララも、初めこそ無邪気に声を上げてテレビに噛り付いていたが、いつの間にか黙って画面を見つめていた。何か思うところがあったらしい。
そのうち──確か、彼のデビューして、何戦目かだった頃の映像を見ている時だったか──冬のレース、寒そうな顔をして走っている昔の彼を見ていた時、今の彼がぽつりと呟いたのだ。それが、先ほどの例の言葉だったのだ。
「結局、あれってどういう意味だったの?」
そして、現在。車椅子のトレーナーになった彼に、キングは軽い雑談でもするかのように言った。
「まだ覚えてたのかい? ただの独り言だよ、キング」
トレーナーは微妙に笑いながらそう言った。照れくさそうに頭を掻き、ふにゃ、とそういう音がしているかのように笑う。あの時も思ったが、とても画面の中で鬼気迫る表情でペダルを漕いでいた彼と結びつかなかった。
「現役の時にそう言われてね。デビュー一年目の時。師匠がぼくに言ってきたんだ」
「へぇ……」
「けど、意味は結局分からずじまいだった」
「分からずじまい?」
「師匠がぼくにいったのは、これからは人前に出るときには必ずピンクを身につけろ、そうすれば、いつか冬にだって咲く、それはそれは見事な桜が見れるぞ、ってだけだった。結局それがどういう意味だったのかはわからないまま、ぼくはあの世界を去ってしまった。だから、意味ありげに言ったけどぼくにも意味はわかってないんだ」
そう言ってトレーナーはまた照れくさそうに笑った。ピンク色が好きな人だとは前々から思っていたが、どうやら理由があったらしい。
「どういう意味だったんだろうなぁ、あの言葉」
「説明してもらえなかったの?」
「その時が来ればお前にもわかるよ、ってさ。それの一点張りで」
「ふぅん」
トレーナーが目を細める。
「ちょうど、この時期だったよ」
風が吹いた。それがキングの服の裾を揺らす。
緑色の、ミニドレス。キングは勝負服を着ていた。
年末の中山競馬場。今日ここでは、有馬記念が開催される。二人がいるのはコースへと続く地下バ道であった。
「……どうして今、それを?」
「少し話がしたかったの。というより、ここからが本題なんだけど」
「なんだい」
「どうしてあの子を選んでくれたの?」
「唐突だね」
トレーナーは少し驚いたような顔をした。そして、キングの真剣な視線に、同じような真剣な表情で語り出す。
「……君も知っての通り、あの子がここに来るのは楽な道じゃなかった」
「えぇ」
「高知から東京へやってきて、周囲との実力の差は大きいし、レースに出れば負ける。少し、嫌な思いもした」
そこで一旦言葉を切る。嫌な思い、という言葉にどんな出来事が含まれているのか、キングもよく知っていた。
「でもさ、あの子は折れなかったんだよ」
「……」
「絶対にあの子は折れなかった。走るのが大好きな子だからね。わからないことも、大変なことも、色んな事があっても、走ることはやめなかった。それがどれだけ大変なことか、君ならわかるんじゃないかな」
「……そうね」
キングが少し目を伏せた。
「あの子は最初からそうだった。ぼくに会う前から、ずっと……簡単に言うならぼくも惹かれたんだ。あの子の、あのひたむきさに。大変な道ではあった。でも、来た。ここまで。あの子には人を惹き付ける力がある。誰よりもね」
「……そう」
「そんなところかな」
そこで言葉が終わる。
「……あなた達が努力を重ねてきたのは知ってるわ。ずっと傍で見てきたのだもの」
「……」
「初めてあの子と会った時はね。本当は少し印象が良くなかったわ。でも、あの子があの子なりに三年間頑張っている姿を見てきて、気持ちが変わった」
二人の視線がぶつかる。
「あの子には人を惹き付ける力がある。えぇ。私もそう思うわ。私もあの子が好きだもの。この際だから言うけど、結構応援してたのよ? ……でも、今日はそういうわけにはいかない」
キングの声色が変わる。きっと表情を固め、覚悟を滲ませた。
「私はあの子と同じレースに出る。ライバルとして、あの子と、あなたと戦うわ。ある意味、ずっと隣を走っていたあなたたちとの決着よ。だから確認しておきたかった。あなた達が、どんな気持ちで走ってきたのか」
キングが踏み出し、車椅子の隣を過ぎていく。
「負かすわ、あなたたちを」
そう言い残しキングはコースへと出ていった。
***
「冬にも桜は咲くらしい」
トレーナーにとって、その言葉が出たのはほとんど無意識だった。
今、キングにその話を振られて思い出した。そういえば、現役の時にそんなことを言われたのだ。なぜあの映像を見たときにそれを思い出したのかはわからないが、そんなことを呟いた気がする。
競輪選手だった頃の話は、担当のウララにはあまり話したことがなかった。なんということは無く、単に面白味のない話だからというだけのことである。それなりに場数を踏んで、ルーキーながらにいつか大成すると周囲から褒められて、期待に答えようと頑張って、頑張りすぎて練習中に事故を起こした。それだけの話だ。
「どうして、あの子を選んでくれたの?」
「簡単に言うなら、ぼくも惹かれたんだ。あの子の、あのひたむきさに」
──本当は、少し違う。実際にはもう少し情けない理由だ。
トレーナーになってすぐの頃の自分は、虚しさを抱えていた。特大の挫折を味わったばかりだったのだから仕方のないことではある。
しかし、トレーナーになった以上やることはやらないといけない。自分の担当を探して、毎日トレーニングコースを見に行った。選抜レースにも顔を出した。そんな中だった。
「ごおお~る~……。 はあ……はあ……ふらふら~……」
ウララに出会った。
初めは、ちょっと声をかけただけだった。あまりにも疲れ切った様子で倒れ込むようにトレーニングコースのゴール板を越えた姿に驚いて、少し心配した。
「だ、大丈夫~……」
それから少し話をした。競技大会へむけての練習に取り組んでいたこと、まだ一位は取ったことがないこと、トレーナーもついていないこと、などなど──
その日はそこで別れたが、以降も言葉を交わす機会があった。やがて、選抜レースの日がやってくる。結果は九着に終わった。
その頃になると、段々とウララの実力が見えてきた。競技大会でも、選抜レースでも、ウララは結果を残せなかった。しかし選抜レースの後、いつもより本格的なレースを走ったことに満足した様子のウララと話をしてみると、彼女はまるで落ち込んでいなかった。むしろ、笑ってこう言い放ったのだ。
「次は一着になれる気がするんだ! あ~、早く次の選抜レースが来ないかな~」
そこで理解した。
ウララは、レースに対して「楽しい」以外の感情が恐らく作用していない。
無いわけではない。だが、恐らく自覚していない程度には、弱い。
レースを心の底から楽しむこと、それそのものは悪いことではない。むしろとても良いことだ。それができるのは才能とすら言ってもいい。だが、レースは勝負事だ。一度コースに入れば、そこにはむき出しの感情が転がっている。勝ちたい、悔しい、負けたくない──。
この子がそういう感情に触れたとき、どうなってしまうんだろうか。
そういう感情に「楽しい」が押し負けたとき、どうなってしまうんだろうか。
ひょっとするとこの子は、このまま放っておいたらこっち側に来てしまうんじゃないだろうか──そう思うと、どうしようもなく怖くなった。
「……そうだね」
だって、
「ねぇ、ウララ」
まっすぐにこちらを見据えてくるその瞳が、かつての自分にそっくりだったから。
「ぼくと一緒に、一着を目指さないかい?」
気づけば、そう口から出ていた。
言うなれば、リベンジだった。走ることを楽しんでいた自分の、いつまでも走り続けていたいと思っていた自分の、そして挫折した自分の、リベンジだった。自分と同じ所に立たせたくないと勝手に思い、勝手に自分の思いを背負わせたのだ。こんな情けない話、話せるわけがなかった。
──
────
──────。
それから、二人で三年間を歩んだ。それなりに色々とあったが、ここまで来れた。
三年間で確かにウララは成長した。苦労も嫌な思いも散々したが、それでもウララが折れることはなかった。当初の危惧は杞憂だったのだ。
自分なんかとは違う。あの子は強い。負けたりしない。今では心の底から、そう確信していた。
「……だからこそ」
このレースでは、夢を掴んでもらいたい。
成し遂げたいと願ったことを、叶えてもらいたい。
視線の先で、出走者のゲートインが完了した。
十二月、年末の大一番。中山競馬場芝二五〇〇メートル、十六人立ての一大レース。
ゲートが開く。有馬記念が、始まった。
立ち上がりは上々。落ち着いていつも通りの場所に着けている。置いて行かれただけとも言えるかもしれないが、この際どっちだっていい。
正直なところ、ウララはG1級のウマ娘ではない。トレーナーだってそれはわかっているし、おそらく本人も薄々理解している。だが、それでもウララは有馬記念を走りたいと思い、一着を獲ってくると宣言したのだから、本気で勝ちに行く作戦を二人で考えた。
二人が選択したのは追い込み策。スタート直後から再後方につけ、集団に呑まれることを防ぎ、体力の消耗を限界まで抑える。そして最後の直線で持てる限りの力をつぎ込む──という、何の捻りもない教科書通りの走り方ではあるが、ウララにとって勝ち筋があるとすればそれだった。特に中山レース場はゴール前に坂がある。そこに勝負をかけるため、ここ半年はペース走や坂路など、有馬記念を見据えたメニューを積み上げてきた。
レースは一周目の第三コーナーを曲がり、集団を形成する。その頃には皆それぞれの位置につき、作戦通りの走りをしているようだった。強いて言うならキングがいつもより後ろの方につけている、というくらいか。ウララは今だ最後方。だがそれでいい。
そのままレースはスタンド前へ。歓声が一際大きく上がり、縦に長く伸びた集団がその前を駆け抜けていった。
大丈夫。ウララはやるべきことをやっている。少し集団が伸びていることが気がかりだが、傍にいるキングに気を乱されることもなく──
「待てよ」
──そもそもなんで、キングは後方につけている?
キングの脚質から考えるに、差し切りを狙うのは妥当だ。恐らく今回もそれを狙っているはず。しかし普段は中団につけ、むしろ前方寄りのあたりでチャンスを伺うというのがいつものキングヘイローだ。なのに今日はいやに後方にいる。ただそれだけのことだが、なんだか引っかかる。妙な違和感を感じた。なんだ、この、変な感じは──
「!」
はっとして手元のストップウォッチに目を落とした。千メートルの通過タイムは。どうなっている。
「……速い!」
顔を上げる。集団は第二コーナーへ差し掛かり、向こう正面に入ろうとしていた。
キングが後ろにつけていたのではない。あくまで彼女はいつも通りのペースで走っているだけだ。先を走る先頭集団がいやに速いペースで走っているだけだ。
「まずいな……いつ加速した!」
こうなると少し話が変わってくる。いつの間にか加速して高速で展開されていたレースは、それについていけなければ当然先頭までの距離は長くなる。集団が縦に長く伸びているのはそれについていく判断をした者とそうでない者がいるからだ。
「!」
キングが前に出た。仕掛けた──というほどではないが、流石にもう前に出ないと勝ち目は薄いという判断だろう。レースが加速している以上、他の選手も相応に体力を消耗しているが、それでも彼女らは距離を稼いでいる。このアドバンテージの差をキングは詰めにいったのだ。
ウララも前に出るべきか──? いや、そうした場合の勝ち筋が見えない。だがこうしてこのまま後方に置いて行かれるのも同様だ。どうすればいい。どうするのが、正解なんだ──
その瞬間、ウララが答えを出した。
「え」
ウララが出した答えは、加速。
突然ウララが向こう正面で急加速した。
「なん……何やってるんだ!」
会場がどよめく。あまりにも唐突な加速に、その姿は注目を集めた。
「違う!仕掛けるタイミングは今じゃない!」
悲劇的な声で叫ぶ。ウララの加速は単に前に出る、というようなものではなかった。先頭を狙いに行く、ラストスパートの加速の仕方だ。今はまだ向こう正面。スパートをかけるのにはあまりにも早すぎる。モニターに映し出されるウララの表情を見やる。
「なんだ……何を、見て……?」
表情が読めない。だが、いつもと何かが違う。何か一点を見つめて、無我夢中に走っている。
──かかってしまったのか?
何を考えているのかわからない。今、ウララはどういうつもりでいるのか。トレーナーの頭は混乱した。
そうこうしているうちにウララは次々と他の選手を抜かしていき、先頭に迫る。見事なごぼう抜きだ。会場はどよめき、ウララの急加速に興奮したように歓声を上げる。
「駄目だ……それじゃ駄目だ……!」
しかし会場の歓声に反して、トレーナーは苦々しい表情をする。
見ればウララの加速に引っ張られ、レース全体がさらに加速している。ウララはキングと一緒に中段近くを並走しており、先頭へ抜け出せていない。
「駄目だ……保たない!」
間違いなく、ゴールまで体力が保たない。どこかで潰れる。トレーナーは目を伏せてしまった。負けが確定してしまったようなものだ。辛くて、直視できなかった。
が、その時。
──トレーナーっ!
声がした。今のは──ウララの声か?
ウララは諦めていない。正面を見据えて、必死に走っている。
その時。突然世界の解像度が上がり、ウララの表情がはっきりと視界に映った。
まっすぐに何かを見据えている。既に限界が近づいているのか苦しそうな表情をしているが、歯を食いしばり、必死に先にある何かを目指して、必死に手を伸ばしている。
その瞳は、まだ死んでいない。
「……!」
これでいい。
これでいいのかもしれない。
あの子は一着を獲ってくると言った。
なら、それを信じるしかない。
顔を上げる。
見届けてやる。三年間一緒に走ってきた担当の選択を。その結末を。
「!」
その時、ウララが大きく体勢を崩した。スピードを制御しきれなくなった状態でカーブに差し掛かり、遠心力の餌食になったのだ。
「……頑張れ!」
その日一番の声量で叫ぶ。万感の思いを込めて、ウララの走りに魅せられた、一人の人間として、叫んだ。
「!」
その言葉が届いたのか、ウララは体勢を持ち直した。またきっとゴールを見据え、走り出す。
「……!」
しかし、もう駄目だった。
目は死んでいない。心も折れていない。だが、もう体が着いてきていないのが明らかだった。
「頑張れ……ウララ……頑張れ……!」
身を乗り出し、言葉を絞り出す。
必死にゴールを目指す彼女と同じように、鬼気迫る表情でその走りを見守った。
あと少し。坂道を、もはや走りとは言えないほどの鈍足で登っていき──そして──
ウララは、ゴール板を越えた。結果は──見るまでもなかった。
「……」
観客席の柵にうなだれるようにもたれかかる。それを握る手に力が籠る。
終わってみれば、このレースは大方の予想通り、といったところだったのだろう。有馬記念を走れただけ上々、そう評価する人間もいるだろう。心の底から悔しいと思うが、目の前にある現実はそうだった。
歓声が上がった。
それに反応し、顔を上げる。
そこには、ターフの上でふらつきながら観客席に手を振るウララがいた。
「……」
ウララは──笑っていた。
彼女はいつも、レースを走ると笑う。走るのが楽しいから。レースが楽しいものだったと、心の底から言えるから。
でも、違う。今日の笑顔は、いつもと違う。ウララは悔しさを知った。本気で勝負に挑むことを知った。その上で負けて、なおも笑っているのだ。能天気さをまるで感じない、どこまでも能天気な笑顔だ。
──どうして、あの子を選んでくれたの?
「……そうだなぁ」
キングの言葉が頭に響く。
「ぼくはあの子に、憧れたのかもしれないな」
***
「冬にも桜は咲くらしい」
ハルウララが不意にその言葉を思い出したのは、ゲートに入った時だった。
最初は、単に少し気になっただけだった。
自らのトレーナーがかつて競輪選手だったと、自分たちと同じレースを走っていた人間だったと知り、ちょっとしたシンパシーを感じただけだった。
競輪のレース映像を見たのは初めてだった。当然ルールもよくわからないし、出走している他の選手のこともさっぱりだった。なので、画面に映ったトレーナーの姿を凝視していた。
画面の中のトレーナーは、今の彼とは違い車椅子に乗っておらず、髪も今以上に短く、少し緊張したような表情をしていた。
立ち上がりから集団の最後尾につき、様子を見ながら少しずつ順位を上げていく。このまま後ろの方にいて大丈夫なのか、と思ったあたりで不意にレースが急加速した。
瞬きの一瞬だった。どこからか鐘を乱打する音が聞こえたかと思うと、画面の中の選手たちは体勢を変えずに加速した。先ほどまで様子を見合うように走っていた彼らが、そこをどけ、俺が勝つんだ、一着は俺のものだ──と、言わんばかりにすさまじい気迫をむき出しにしたのだ。その中にいたトレーナーは果たして勝てるのかと目をやる。
──、
画面の中の彼が、笑った気がした。
そう思った瞬間、彼は集団の中から抜け出し、前方を走る選手達の間を縫って、滑るように先頭に躍り出た。実況は興奮した様子で彼の名を叫び、観客席も大盛り上がりだった。
その瞬間。
「あれ」
ウララの視界に、桜吹雪が煌めいた。かと思うと次の瞬間、トレーナーがゴールラインを越える。レース場は大歓声に包まれ、一着でゴールした彼は安心したように微笑みを浮かべながら、ハンドルを握り直していた。
──今のは──今の、桜吹雪は──。
一瞬見えた桜はなんだったんだろうか。トレーナーに聞いてみようかと顔を上げた瞬間、彼が小さく呟いたのだ。
「……桜……」
「集中なさい」
隣から声をかけられ、はっとそっちを見やる。そこには、キングヘイローがいた。
「あ……キングちゃん! 頑張ろうね!」
無邪気に声をかける。スタート直前だと言うのに、ウララはいつも通りだった。キングはそんなウララの様子に安心したように、はたまた少し呆れたように微笑んだが、すぐに真剣な表情に変わる。
「えぇ、頑張りましょう。でもね、ウララさん」
「?」
「今日の私たちは敵同士よ。前を向きなさい」
「……うん!」
いつもと様子の違うキングに、どうしたの? などと言ったりはしない。もう、キングの様子が普段と違う理由が理解できないウララではない。自分の頬を両手で張り、いつになく真剣な面持ちで前を向いた。
選抜レースの時は、ただ楽しく走れればそれで良かった。もちろん、一着を獲りたいと思ってはいた。
でも今は、その気持ちはもっと強くなっている。
勝ちたい。
本気で一着を獲りに行きたい。
キングちゃんにだって、勝ってみたい。
画面の中にいたトレーナーと、同じ景色を見てみたい。
「ぜったい、勝つよ」
ゲートが開く。横並びに一斉にウマ娘達が走り出し、ウララもそれに追走した。
有馬記念はファン投票によって出走者が決まるレース。今ここにいるウララを含めた十六人は、それだけファンの支持を集めた一流選手たちだ。スタート直後から激しい競り合いが始まった。
ウララはそれを後方から見つめていた。先頭争いに加わらず、後方から様子を伺う。加われなかったとも言えるかもしれないが、この際どっちだっていい。
ウララとキングが入っていたゲートはそれぞれ十六枠と十五枠。大外と呼ばれる位置だ。有馬記念はスタート時のゲートの位置が大きく影響を及ぼすと言われてあり、外にいけばいくほど不利になる。しかも、ただでさえそもそもの実力が疑問視されているウララである。本人だって当然理解しているが、厳しい戦いになるのは間違いない。
そうしてスタート直後のコーナーを曲がる頃には集団が形成されていた。ウララは最後方につき、先を走る集団を必死に追いかけるような形になった。
焦ってはいけない。いつも通りのことだ。ウララのレースは最後方から。有馬記念だろうと変わらない。
トレーナーと二人で作戦を考えて、一生懸命練習してきた。一定のペースを保って走り続ける──変わらない。いつもとやっていることは変わらない。
──なのに。
「はぁ……はぁ……!」
何故だろう。やっていることは普段の練習と変わらない。同じペースで走り続ける練習はしてきたはずなのにいやに息が上がるのが早い。一周目の向こう正面を抜け、第一コーナーを曲がるころには既に呼吸は乱れ始めていた。
「気づいてる?」
ふと、声がした。声がした方を見ると、前方を走るキングが少しだけ振り向いてこちらに視線をやっていた。
「気づいて……って、何、が」
「レースが速いわ。想定していたより」
「そ、そっ、か。だから……皆、こんなに……」
早くも息が上がり始めているウララに対し、キングは冷静に周囲の様子を見やる。誰の仕業かわからないが、いつの間にかレースは加速していた。スタート直後は平凡な速度だったのに、先頭集団にいる誰かが意図的にペースメーカーとなってレースを加速させていた。
それが誰なのか──というのも重要だが、まずは目の前の問題に対処しなければならない。すなわち、前に出るか、最終コーナーから直線に賭けるか。
「私は前に出るわ」
そう言ってキングは再び前を向く。
「前、に?」
「えぇ、そうしないと勝てないから」
キングの声は厳しい。
「あなたはどうするの」
「どう……する、って」
「このままだと負けるわ。あなただって勝ちたいんでしょ?」
「そう……だけど」
「なら今決断なさい。選べなければどうにもならないわ」
ウララの頭が混乱し始める。体力の消耗によって頭に酸素が回らず、思考が上手く働かない。
「わか……んない。わかんない……よ」
「あなたの選択肢は二つ!」
キングが叫ぶ。
「私と一緒に前に出て潰されるか! このまま後ろに残って置いて行かれるか!」
「そんなの……どっちも負けちゃうよ……!」
「えぇそうよ。どっちを取っても負けるわ。でもどっちかを選ばないといけないの! 今あなたが走ってるのはそういうレースよ! あなたにその覚悟がある!? ねぇ!
目の前の友達はいつもとまるで雰囲気が違う。これが本気で走るということ。キングはウララの返事を待つように一瞬黙ったが、すぐに前を向き行ってしまう。
「はひ、はひ、はひ……!」
息がさらに乱れる。苦しい。
キングはもうウララの手の届かないところまで加速していってしまった。
「ま、待って……!」
手を伸ばす。キングや、他のウマ娘達がどんどんと遠ざかっていく。
私は──
「待って……!」
私だって──
「そんなの……!」
勝ちたい。
──勝ちたいよ!わたしだって!
「!」
瞬間、ウララの視界に桜吹雪が散った。突然のことだった。視界の隅から、ゆらりと薄桃色が揺らぐ。
これは──と視界をそちらにやると、突然その視界を何かが猛烈な勢いで横切っていく。
「な、何……?」
どこからか聞こえてくる鐘を乱打する音。
続けてウララを後方から何台もの自転車が追い抜いていく。
これは。
あの時見た、競輪の映像。
目を凝らす。流れるように、滑るように、ウララの視界の先を走っていく選手たちの、その、先頭。ピンク色のウェアを来た男が振り返る。
「トレーナー……?」
間違いない。そこにいるのはあの映像の中にいたトレーナー。彼が先を走っている。先頭を、走っている。
あれ以来、どうも忘れられなかったあの姿。自身にとっての目標が決まり、そこへ向けて走る中、ずっと意識の奥にちらついていたその姿。それが目の前にいた。
トレーナーが口を開く。
──ついておいで。
確かに、そう言った。
「……そこに」
──わたしも、そこに行きたい!
そう思うと、体が勝手に動いた。腰を落とし、次の踏み込みに力を入れる。
一歩踏み出す。自分でも驚くくらいの力で前方に飛び出した。前方を走っていたウマ娘は突然後方から追い上げてきたウララの姿にぎょっとしたような顔をしたが、構わずウララは強く踏み込み、その脇をすり抜けるように前に出る。一人抜かした。
そのまま顔を上げ、ステップを踏む。前を走る二人の間には、トレーナーが走り抜けていった軌跡が残っているのが見えた。それをなぞるように前に出る。二人抜かした。
右脚を出す。腰をひねり、左脚を前に。抜かした。
腕を精一杯振り、体を前に引っ張る。抜かした。
「……!」
見えた。前方を走る緑の勝負服。そしてその先を走る、ピンクのユニフォーム。
「ウララさん……!?」
一瞬背後を見たキングが驚愕する。いつの間にかウララがすぐ後ろにまで迫っていた。
ウララはそのまま加速を続け、やがて並んだ。集団はウララの急加速に引っ張られたのか、既に最終直線のような加速の中にあった。
「来たよ……! キングちゃん!」
会場にどよめきが上がる。ハルウララは、今や先頭に迫りかねない速度の中にいた。
誰がそれを想像できただろうか。トゥインクルシリーズで結果を残してきた一流のウマ娘達。それらとウララが並び立ち、競り合い、それどころか競り勝とうとしている。
「えぇ……そう……! 来たのね……!」
キングも加速する。必死の形相で加速を続けるウララを突き放そうとする。
「……っ!」
しかしウララもそれに追随する。二人の距離は一向に離れなかった。
「今このタイミングで仕掛けるのね……! 三つ目の答えでも選んだつもりなのかしら!」
「わかんない……! わかんないけど、でも……行かなきゃ!」
叫ぶ。ウララ自身、なぜ今仕掛けたのかわかっていない。体が勝手に動いているようだった。
「そう! でも、譲る気はないわよ!」
「わたしだって!」
──勝つのは、
「私よ!」
「わたしだよ!」
二人が同時に踏み込んだ。その熱量にあてられ、集団は未だ第三コーナー前だというのに速度は限界まで乗り、その中でウララはひたすらに先を目指す。
「……っ!」
手を伸ばした。二人の先を走る、一台の自転車に。
「トレーナーっ!」
叫ぶ。必死に手を伸ばし、先を走る背中に追いつこうとする。
──あと、少しで、手が──
「あっ」
突然、世界が弾けた。
暴力的な速度の中にあった二人は、そのまま第三コーナーに突入していた。ゴール前の最後のコーナー。四コーナーにかけての大きなカーブであるこの場所に高速で突っ込んだらどうなるか。遠心力に引っ張られ、足を取られてしまう。
キングはそれを承知で体勢を維持してみせた。しかし、ウララは──
ぐらり、と大きく体勢を崩してしまう。その瞬間、ウララの視界をちらついていた桜吹雪は消え去り、鳴り響いていた鐘の音、並走していた自転車もまた、瞬きの一瞬に消滅してしまった。
転ぶ。このまま大外に投げ出されて、先頭争いから脱落する。
ここまで、か──。レース場の誰もが、それを直感した。
ただ、一人を除いて。
──頑張れ!
声がした。
叫んでいる。トレーナーが、どこかで。
瞬間、ウララの脚が勝手に動き、その場で踏ん張ってみせる。
そうだ。約束したんだ。
「一着、取って……くるって!」
必死に脚を前に出す。もう自転車に乗ったトレーナーはいない。導いてくれる者はいない。
ここからは、自分の力で勝ちに行く!
大外に投げ出されたウララは再び腰を低く落とし、最終コーナーへ向けて最後のスパートをかけていく集団へ突っ込んだ。
本気で挑むと。一着を獲ってくると。そう約束した。
今、自分が持てる全力を、すべて吐き出す。
脚は悲鳴を上げている。腕も、うんざりするほど重たい。心臓は破裂しかねない勢いで脈動し、頭は爆発寸前だ。
それでも歯を食いしばり、前へ、前へと体を運んでいく。
「帰ってきた……!」
大外からウララが復帰してきた。既に集団は最終コーナーを曲がり、最終直線へと突入している。この先にあるのは、中山名物の急坂。
歯を食いしばり、脚を前に出す。坂路のトレーニングはやってきた。その成果を出す時なのだ。なのに──
──脚が、とにかく重い!
脚が上がらない。坂を登ろうと異常に力を込めているのに、いつものように軽やかに動いてくれない。
苦しさともどかしさで惨めな気持ちが湧き上がってくる。だが、そんなものに構っていられない。頭を振り、泣き出したいほど苦しい身体を無理矢理に動かして坂を上がる。
「はぁ……!はぁ……!」
残り百メートル。もはや何がどうなっているのかわからない。前後不覚に陥りつつも、走る。
「うう……!」
残り五十メートル。坂を越えた。しかし既に他の選手は遥か前方に行ってしまっている。
「ま……だ……」
残り二五メートル。歓声は遠い。
「待っ……て」
残り、十メートル。坂を越える。その先の、ゴール板を──
越えた。
***
「トレーナー! ただいま!」
それから少しして。地下バ道に帰ってきたウララは元気を取り戻しており、いつも通り天真爛漫にトレーナーに声をかけた。そんなウララを、トレーナーはやはりいつも通りの穏やかな笑みで迎える。
「あぁ、おかえり」
「あのね! すごかった! すごかったよ! 有馬記念!」
「そうか」
「うん! 走ってる間、皆の声が聞こえて……! 頑張れーって! あ! トレーナーの声も聞こえたよ!」
「うん」
「それでね……それでね! わたし、頑張ったの! キングちゃんにも負けないぞって、前の子を追い抜こうとして! それで……! えっと……!」
「……ウララ」
トレーナーがウララの言葉を遮る。そして、肩にやさしく手を乗せた。
「よく、頑張ったね」
「……」
涙が、溢れた。
「う、うぅ……ひっ、ぐ……!」
そのまま、ウララは声を上げて泣き出した。トレーナーの服を掴み、その中に顔を埋め、聞いたことのないような声で泣いた。
トレーナーはそんなウララを優しく抱きとめ、黙ってその感情を受け止めていた。
──
────
──────。
「……ねぇ、トレーナー」
それからまたしばらくして、ウララが不意に口を開いた。
「どうしたの」
「走ってた時にね、見えた気がしたんだ」
「何が」
「桜! なんだったのかわからないけど、見えた気がしたの……」
「桜?」
トレーナーは一瞬怪訝な顔をするが、すぐに例の言葉の話をしているのだと気づいた。
「……そうか。君もあの言葉が気になってたのか」
「うん」
ウララはトレーナーから離れ、ターフに目を向ける。
「見えた……はずだったんだけど。なんだったんだろ、あれ……」
と、その時。
「あ……」
ふと、二人が顔を上げる。
「雪だ」
はらはらと空から雪が降ってきていた。
「トレーナー、見てきていい?」
「あぁ、行ってきなさい」
そう言うと、ウララは無邪気に笑い、再びターフへ出ていった。
ウララがターフに姿を現すと、大きな歓声が上がった。ウララはその歓声に少々驚いたようだったが、両手を大きく振りその声に答える。
「……」
そんな後ろ姿を、トレーナーは見つめていた。
本当に、この子は強いんだな。改めて、そう思った。
今回の有馬記念。悔しいがウララが惨敗したことは必定だった。恐らくここにいる誰もが今回の結果には納得しているだろう。その事実はウララにとって、ひどく残酷で、屈辱的なことだ。少なくともトレーナーはそう思っている。事実、ウララは初めて敗けたことに対して心の底から悔しがり、涙を流した。だが、ファンの前ではそんな姿は見せない。レースを嫌ったりしない。自分を愛してくれる人に答えようとすることをやめたりしない。
走ることが大好きなハルウララ。今日の敗北は間違いなく彼女を成長させた。悔しさに涙を流す経験をしたウララは、きっとこれからも、まだまだ成長していくはずだ。
だって、きっと彼女が足を止めることはないだろうから。
「……?」
と、不意にトレーナーが何かに気づく。
ウララが手を振るのを止めている。何かに見入るように、その場に立ち尽くしていた。
「どうした?」
ウララの隣まで車椅子を進める。見ると、彼女はどこか遠く、一点を見つめていた。
「どうしたんだい? ウララ──」
──なァ□□、デビューしたらおめぇ、帽子でも服でもいい、必ずピンクを身に着けて人前に出な!
──はぁ、あなたが言うならそうしますが──何のために?
「わぁ……!」
──ずっとそうやってるとな、ピンクがおめぇの色になるんだ。そうしたらな、いつかどっかで、おめぇがでっかいレースに出たとき──
「これは……!」
──競輪場に、そりゃあ見事な桜が咲くのさ!
「桜だぁ……!」
二人の目に写ったのは、観客席でウララの「色」であるピンク色のタオルや帽子を振るファンの姿だった。雪の降る中山レース場の観覧席、そこでちらつくピンクは、まるで雪に紛れて散る桜の花弁のようだった。
観覧席にいるファンたちは、皆自分が応援していたウマ娘達の健闘を讃え、あらんかぎりの声で叫んでいる。ウララは一着を逃した。いや、最後には勝負にすらなっていなかったかもしれない。それでも彼らは皆、ピンク色のグッズを手に掲げ、ウララの名を叫んでいる。当然レース場を満たす声は一着を獲ったウマ娘を讃える声が一番大きいが、ウララのファンの声はそれに負けないほどの力強さだった。彼らは皆、ハルウララというウマ娘に惚れ込み、その旅路を応援し、見守ってきた。その結果がこの桜吹雪なのだろう。ウララがこの三年間で積み上げてきた、誰にも負けない大戦果であった。
「……こういう……ことだったのか……!」
冬にも桜は咲く。
お前が正しく道を歩み、人を魅了し、夢を与えられる選手になったのならば。
きっといつか、ファンが大手を振ってお前の名前を呼んでくれるだろうさ。
そういう意味の言葉だったのだ。
「……」
当のウララはというと、その光景に圧倒されたのかぽかんと口を開けている。
「ウララ」
「……なに?」
「すごいな」
「……うん」
「……次はこれを、満開にしてやろう」
「……うん!」
雪の散る純白の季節。そこに微かに散った薄桃色。
この日、ハルウララは挫折を知った。同時に、自らの果てを垣間見た。
もう、泣いている暇は無い。麗らかな春は確かに来るのだから。
同人サークル春一番です。
10/20、横浜産貿ホール マリネリア開催にて新刊「天高く馬肥ゆる秋」を頒布します。それに合わせ、前作「冬来たりな馬、春遠からじ」収録作品の中で未公開となっていたハルウララ編「冬にも桜は咲くらしい」を公開します。当日ご縁がありましたらよろしくお願いします!
↓ 主催による作品紹介
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