Mirror of the golden witch   作:フラット・ホームズ

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幕間。ほぼ独白。


幕間
好みの相手


 休憩となりスイレンはどこかに行ってしまった。

 だからボクは一人で考えに耽るのだった……。

 

 スイセンはオリジナルのメッセージボトルであろうエピソード2までで、フーダニットを特定してみせた。

 第1のゲームで金蔵を、第2のゲームで19人目を。

 もしスイセンの推理が正解であったなら、オリジナルのメッセージボトル2本だけで最低限の真相には至ることができたことになるだろう。

 確かに金蔵と19人目への疑いはエピソード2までにおいては濃厚なものだ。

 だがエピソード3以降はそれに対する否定が強まっていく。

 ……エピソード3以降は偽書だからと切り捨ている方向なのだろうか?

 

 そもそもとして19人目が犯人というのはフェアなのか?

 ボクは推理可能な手掛かりがありさえすればフェアだと思うが。

 19人目が犯人であるなら、第1のゲームの最後に登場した肖像画の人物が19人目となる。

 よって、第1のゲームでは19人目は登場していることになる。

 ……だが同時に、19人目ではなく18人の内の誰かである可能性もある。

 つまり、登場人物の人数は18人<Ⅹ<19人で表されることになる。

 

 19人目がいるなら明確にわかる形で登場すればいい。

 最後にちょっとだけとかではなく。

 誰かの変装だと疑われない形で。

 だがそれをするとフールズメイトの類となってしまう。

 19人目が登場するということは、それ即ち犯人であることとほぼ同義だからだ。

 それでは謎ではなくなってしまう。

 それではミステリーではなくなってしまう。

 つまり、19人目が犯人だとして、その19人目は明確な形で登場してはならないということ。

 登場するなら曖昧な形でなければならないのだ。

 

 謎を作るという目的の場合。

 19人目は自身の存在を18人<Ⅹ<19人の中に押し込めなければならない。

 18人<Ⅹ<19人という図式を作るのにメリットがあるのは、19人目の方なのだ。

 逆に18人の中の誰かとすると、19人目が小数点以下の存在だとメリットが半減してしまう。

 できる限り19人目を1に近づけたいはずだからだ。

 ……自身の身代わりに仕立て上げたいのであれば。

 

 そう。19人目が犯人の身代わりのスケープゴートであれば、その存在を否定してはならないのだ。

 だがベアトリーチェは第3のゲームで、18人の箱と19人目の箱を作り、真っ先に19人目の箱を潰してみせた。

 どう考えても順序は逆だろう。

 明確にニンゲンとして登場している18人が犯人である可能性を否定し、その上で19人目を否定すべきだ。

 だって19人目は人間説、魔法説、共に共存可能な妥協点なのだ。

 19人目の可能性さえ残せば、ニンゲン側のプレイヤーは18人の中に犯人はいないことに同意してくれるのだから。

 その同意を取り付けた後で、19人目の可能性を潰せばよかったのだ。

 

 18人を否定してから19人目を否定するのと、19人目を否定してから18人を否定するのでは与える印象が異なる。

 否定された後に再びニンゲン説を考えるとして、18人と19人目、どちらの可能性の方を考えるのか。

 19人目を否定してから18人を否定した場合、18人の中に犯人がいるだろうとしてそっちの箱の中を探ることになるだろう。

 なら逆の場合、19人目の箱を調べることになる。

 これは先に否定した方が前提となって後のものを考えるからだ。

 つまり、どちらを先に否定するかというのは、どちらを否定したことを前提として考えるか、なのだ。

 

 その意味ではやはりエピソード3はおかしい。

 第1から第2のゲームにかけてせっかく19人目の存在感を膨らませたというのに、なぜ第3のゲームでそれを断ち切ろうとするのか。

 19人目がいないことを前提に議論したいのであれば、19人目の存在感を膨らませる必要はなかった。

 つまり、その部分はやらなくてもいい無駄な遊びということになる。

 

 ……遊びの部分はあってもいい。

 だが遊びだろうと本気ですべきだろう。

 第2のゲームで19人目の来客ベアトリーチェを登場させておいて、なぜその来客に不可能な犯行に仕立てるのか?

 それでは来客を登場させた意味がない。

 ……魔女の犯行に見せ掛けるためにニンゲンには不可能な犯行に、と言うのだろうが、それでは使用人に疑いを向けさせたことに説明が付かないことになる。

 第二の晩で使用人を疑わせたのであれば、次の事件で使用人には不可能なものに仕立てなければならないはずだ。

 だが第2のゲームは最後まで使用人に疑いを向けさせるものになっている。

 来客ベアトリーチェというスケープゴートを用意しておきながら。

 

 第1のゲームも同様に片手落ちだ。

 アリバイ的には19人目さえいれば全てに説明が付く。

 であるのにも関わらず、顔を損壊させて死んだふりをしているニンゲンがいる可能性を盛大にアピールしている。

 紗音の死体を見せないためだけのために顔を損壊した遺体を並べたのであれば、全ての遺体の顔を半壊に留めておけばよかったのだ。

 そうすれば死んだふりの可能性を低くアピールできるのだから。

 実際、第四のゲームでは全て半壊にしているのだから、第1のゲームでそれができなかったはずがないのだ。

 

 さらに言えば、第1のゲームで顔を損壊されなかった絵羽と秀吉は特別扱いされたと言うべきだろう。

 なぜ顔を損壊できるのにしなかったのか疑問だ。

 損壊したくない理由があったとしか思えない。

 絵羽たちの顔面が損壊していたら、絵羽たちが死んだふり下可能性が持ち上がり、チェーンの掛けられた自身の部屋の中に隠れ潜んでいた可能性が提示されるのを嫌ったのだろう。

 逆に言えば、それだけ使用人が被害者に含まれた事件では顔を損壊させて死んだふりをしていることを疑わせたかったということになる。

 

 第1のゲーム、第2のゲーム、共に使用人を強く疑わせようとする意図が露骨に見える。

 それに対し、第3のゲームでは最初に使用人を殺して、以降の事件を起こすことはできないから使用人は犯人ではないというアピールをした。

 だがこのアピールは第1と第2のゲームの犯人が使用人であることを前提としたものだ。

 つまり、使用人が犯人であることを前提に議論を進めたかったということになる。

 

 この“前提”が問題なのだ。

 前提として議論を進める場合、前提ができる前にあった可能性を摘んでしまいかねない。

 ヘンペルのカラスによる片側の箱の可能性を潰す論はまさしくそれだ。

 片側の否定が完全であれば、反対側が正解となる。

 だがその否定が不完全である場合、ヘンペルのカラスは反対側に誤誘導するために使われていることになる。

 つまり、ヘンペルのカラスは便利な武器ではあるが、諸刃の剣なのだ。

 よって、“前提”は仮置きとして議論を進めるべきなのだろう。

 再び戻ってこれるように。

 

 使用人が疑わしいとする誘導は、使用人が犯人というのが真であろうと偽であろうと成立する。

 真と偽を並べ立たせ、その真贋を問う。

 であるならば、ブラウン管裁判で争っているのは魔法説と人間説ではない。

 人間説と人間説が争っているのだ。

 エピソード3の難易度が互角というのも、そっちの解釈が可能だろう。

 

 

 ――コトンと音がした。

 

 驚いて目を向けるとテーブルの上にカップが置かれていた。

 どうやらスイセンが紅茶を淹れてくれたようだった。

 

「何か難しい顔で考え込んでいたようだけど?」

「……ああ、ありがとう。ちょっとな」

 

 先ほどまで考えていたことの大半がどこかに吹き飛んでしまった。

 まあいい。考えすぎだろうしな。

 ……だが少し問い質しておこうか。

 

「なあ、第2のゲームで、使用人を犯人だとするものと、来客ベアトリーチェを犯人だとするもので、後者を選んだのはどうしてだ?」

「ん? ……そうだね。使用人を疑う方向は最終的に紗音の自殺を誤魔化すだけで、他は使用人が所持しているマスターキーを使うだけでじゃないか。対して貴賓室の鍵を使ったトリックは知的じゃないか」

「…………それが理由?」

「なんだい。不服かな? ……じゃあ恋愛で喩えよう。作中では推理を恋愛に喩えていたけど。それで言うとメッセージボトルはラブレターに当たるよね?」

「まあ、そうだな」

「姿を見たことのない相手からのラブレターだ。内容から相手を想像するよね。そしてその想像が2通りあったなら、好みのタイプの方を期待するよね」

「……まあ、そうかもな」

「結婚じゃなくて恋愛なんだから、より好きなタイプに乗り換えたっていいわけだし、好きなように推理していいんだよ」

 

 それでいいのだろうか?

 

「推理は恋愛なわけだから、好みや趣味が自然と反映するのさ。ミステリー好きの間で起こる、これはミステリーじゃないという意見はつまり、これは好みのタイプのミステリーじゃないと言っているようなものなんだよ」

 

 ミステリー好きからすると暴論だろう。

 だが人間は主観で判断する生き物。

 好みや趣味が反映するのは当然のことなのだろう。

 

「最終的に誰か一人と結婚するとしても、それまでの間だったら色々な女を渡り歩いたっていいのよ。場合によっては本命の他に前カノをキープしたっていい。面の推理なら二股、三股だって可能。それどころか十股、二十股だって男の甲斐性というものでしょう?」

「推理した仮説のことを女とか彼女とか言うのを止めないか。語弊があるぞ」

「はっ。そんなの作中でずっと何度も繰り返し言ってたじゃない。今更でしょ」

「そりゃそうだけどさ」

 

 恋愛が推理のメタファーであるというのは作中で示されたことだ。

 であるならば、作中で何度も繰り返された恋愛描写は、推理についてのことが暗喩されているということになる。

 分かる者には分かり、分からない者には分からない描写。

 「幻想描写」に則り、「恋愛描写」とでも仮称しようか。

 

「世間じゃあ『うみねこのなく頃に』が恋愛物に視えるようだけど、それは恋愛脳過ぎないかしら。純粋に推理物だと視ているこっちの方がバカみたいじゃない」

「恋愛はファンタジーで、推理はミステリーだからね。仕方ないよ」

 

 ファンタジーとミステリーの融合。

 恋愛と推理の融合。

 その試みが恋愛描写による推理の暗喩だとしたら、実にファジーだ。

 まるでシンパシーによって推理させるかのよう。

 心を探れとはよく言ったものだ。

 

「推理が恋愛と翻訳されるなら、恋愛が推理と翻訳されるのだって道理でしょう」

「なんだそれ。推理言語に恋愛言語か?」

「そうだよ。バイリンガルなら両方の物語が読めるの。両の目で視なさいってね」

 

 異なる言語の間では話は通じない。

 まるで異なる「国」に住む住人のように。

 ……そう言えば、楼座の夫(夫ではない)の夢は、ちっぽけな日本を飛び出して海外を巡りたい、というものじゃなかったか。

 それはつまり、自説を飛び出して異なる仮説を巡って大物になって帰ってくるという夢。

 無数の真実が並び立つ「海」を巡る男と、それを待つ女。

 ……そういう暗喩にも思える。

 

「話を戻すね。物語を読む言語が異なるのなら、他人の言語で物語を読むよりも、自分の言語で物語を読む方がいいでしょ。自分の好みや趣味があるのに、他人の好みや趣味に合わせてどうするのよ」

「自分好みの推理をするのは自分しかいない。自分の推理を守るのも自分しかいないってわけだ」

「そういうこと」

 

 男は船で、女は港。

 カケラの海を巡り歩いても、最後には自分好みの女のところに帰っていくわけだ。

 ……まったく、「男」という奴はどうしようもないな。

 そう思いながらスイセンの淹れてくれた紅茶を飲み干したボクは、手に持ったカップをテーブルに置いた。




TIPS:恋愛描写

 ヴァンダイン二十則によれば恋愛はミステリーには不要と断じられている。
 なのに恋愛描写が繰り返されるのは、ベアトリーチェのミステリーに必要だったからに違いない。

 ミステリーにおいて作者と読者の関係は恋愛に似ているという。
 推理が恋愛に喩えられるなら、逆に恋愛が推理に喩えられていてもいいだろう。
 つまり、恋愛描写を推理描写として変換・翻訳できるのではないだろうか。
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