私がこの世に生まれ落ちて、果たしてどれだけの時間が経ったのだろう。
如何せん地下住まいで太陽とは無縁の生活を送っているものだから、どうにも曖昧だ。ご飯が運ばれてくるたびに一々カウントするのも面倒くさいしね。
もしかすると既に半年くらいは経過しているのかもしれない。つまり私は乳児も同然というわけで、まだまだオギャりたいお年頃なのだ。ミルクの代わりに平手打ちばっか貰ってるけど。ネ、ネグレクト……!
そんな長いようで短いような人生は、常に我が絶対の主君であるマイロードと共にあった。良くも悪くも四六時中関わり合っての今があるので、嫌でもマイロードの為人というか、心の機微には詳しくなっている。私はフランドール博士なのだ。
しかしそんな私でもマイロードが『激怒』するのを見たのは、実は昨晩が初めてだ。普段なら表情より先に手が出るのが瞬間湯沸かし器ことマイロードなので、ハッキリとした不快感を示すのは結構珍しい。そして頭に血が上って顔が歪んだ状態となれば紛れもない異常事態である。
そもそも、昨日の状況からしてかなりのレアケース。あのマイロードから「一人で外に行ってくる」と告げられた時は本当に驚いたね。思わず偽物を疑ってしまったけど、よくよく考えれば偽物は私だった。むしろ両方とも偽物で本物の『フランちゃん』は別にいるってオチならまだ救われたかもしれないね。悲しいね。
当然、引き篭もりコミュ障のマイロードを単身で外に解き放つのは心配だったので着いて行く旨を伝えても、断られた挙句おっぱいを殴られた。理不尽の極みである。
で、少しして帰ってきたと思ったら上記の通り怒り狂っていた、という訳だ。その後ストレス解消に付き合わされて酷い目に遭ったのは言うまでもない。
「機嫌を直してくださいよぉマイロードー。いじけてても何も良い事ないですよー」
「うるさい黙れ。そんなんじゃないから知ったような口を聞くな」
「そんな顰めっ面で過ごされていては疲れちゃいますよ。それに私も心が休まりませんし」
「知ったことか」
昨晩からのピークは過ぎたものの、未だストレスの発散には至らないらしく、それはもう不機嫌なオーラを無差別に放出している。同じ空間に居なきゃならない私は堪ったもんじゃない。
今も、机に頬杖をついたまま朝食と私の作ったデザートを召し上がっている。ついでとばかりに合間の舌打ちも忘れない。行儀が悪いけどそれを指摘しようものなら、最低でも私の四肢は泣き別れする事になるだろう。
マイロードって気分転換とか苦手そうだもんね。引き篭もりだから没頭するような趣味にも乏しいし。
私はいざとなれば柱の男が如く泣き叫ぶ事でメンタルリセットできるけど、マイロードにそういうのは無理だろうね。まあそれはそれとして、マイロードが泣くところを拝んでみたい気持ちはあるけど。
「もしかして上で何か嫌な事でもあったんですか? 虐め……はないか。マイロードだもん」
「言っておくけどね、私が機嫌を損ねている理由の九割はお前のせいだから。勝手に邪推しないで、黙って自分の役目を遂行してろ」
「あらそうだったんですか。それはそれは、大変失礼致しました。ではごゆっくり〜」
マイロードは怒り半分、呆れ半分といった調子で私を睨み付ける。食事を口に放り込む速度が上がった。
「……原因が自分だって分かった途端、落ち着かれるのもなんだか癪に障るんだけど」
「振り下ろす拳の先があるならそれでいいと思いますよー。それが私なら尚更です。仮に怒りの矛先が漠然として存在していなかったり、手の出せない存在なら溜め込んで誤魔化すしかないですからね。マイロードの怒りが変に長期化する方が私は怖いですもん」
まあ、そもそも私如きがマイロードに出来る事なんかたかが知れてるから、怒りの原因が何にせよ大した事ないのは把握できた。万が一、私が一線を越えてたら今頃木っ端微塵になって処理されてるだろうし。
私が殴られる事で怒りが収まるならそれでいいのだ。いや嘘、全然よくない。助けてクレメンス。
さて、こういう時に体を張ってあげるのが臣下の役目というものか。いい加減に機嫌を直してもらわないと今後に色々と支障が出そうなので、嫌々だが私で発散させてあげるしかあるまい。
「しょうがないなぁ。今日だけですからね」
「あ?」
「私のおっぱい触ってもいいですよ。ずっと目で追ってたので、気になってるんじゃないかと思って。あ、でも触る以外はダメですからね!」
「お前……いい加減にしろよ……?」
「な、なんで!? うわやめ、ぐへぇ!!!」
主君の為を思い献身的な提案をしただけなのに、引き倒された挙句に馬乗りで殴られた。ノーガードの顔面ラッシュは流石に堪えるのでやめて欲しかったけど、いま何か意見したら更にヒートアップしそうだから黙っておくことにした。
それにしても、おっぱいが大きくなった理由は結局分からず終いである。理由を知っているっぽいマイロードも全然教えてくれないし、真相は闇の中。
まあ何にせよ私が成長性の獣である事が判明したので、これからの成長にも乞うご期待といったところだ。やがてはスカーレット姉妹はおろか美鈴さんをも圧倒し、最強の悩殺ボディを手に入れてやろうではないか。
そう思えばマイロードからの激しい折檻も耐えられるね。貧すれば何とやら、というやつだ。私は持つ側の者として温かく見守ってあげよう。
こうして一頻り暴れたマイロードはようやく怒りがひと段落したようで、私に暴言を吐きかけた後、棺桶の中に入ってしまった。
寝かし付けるだけでこの苦労。乳児相当である筈の私よりもマイロードの方が赤ん坊属性てんこ盛りである。まあ何にせよ、これで私も心休まるというものだ。
さて、マイロードが暴れて部屋が滅茶苦茶になってしまったので、これをなんとかする事から始めよう。起きた時に難癖付けられて怒りが再燃したら大変だ。
かつての大掃除に比べればこの程度はお手のもの。手際良く掃除を進めて行く。ついでに廃棄用のゴミは一纏めにして棺桶の上に置いておいた。理不尽な怒りをぶつけられた事に対する細やかな仕返しである。ゴミ山ロード! マイロード!
怒りの原因って絶対おっぱいへの僻みだよね。まったく、私だって好きで胸を大きくした訳じゃないのに。あーやだやだ、おっぱいが小さい人は器も小さいんだ。
「フラン」
身体が硬直した。
それまで考えていた馬鹿な事が全て頭から吹き飛んでしまう程の衝撃。
地上に続くドアの先から聞こえてきた芯のある声。それほど大きくないのに、力強さと抗い難さを感じる。人によっては魔性の類いにも思えるだろう。
初めて聞いた声なのにそれが誰のものなのか、一瞬で分かってしまった。
レミリア・スカーレット閣下。かの方直々に地下室までやって来るのは完全に予想外だ。しかも、よりにもよってこんな最悪のタイミングで。
「急に悪いわね。少し話す事があるから……入るわよ?」
「ダメ!!!」
「……」
間髪を容れず即拒絶。すると、回りかけたドアノブが途中で動かなくなった。
吸血鬼は招かれないと他人の家には侵入できないという、日光や流水に並ぶ大きな弱点がある。紅魔館は丸ごとレミリア閣下の所有物だと思われるので、その法則がマイロードの自室まで適用されるかは賭けだった。
だがいつまでも留めておけるものでもないだろう。今のうちにこのピンチを脱する方法を考えなくては。最悪この場が戦場となり、今日が私の命日となってしまう。
ちらりとマイロードの眠る棺桶を見るも、動く気配はない。起きているのか寝ているのかすら分からないね。できれば眠ったままでいて欲しい。不機嫌なマイロードがレミリア閣下と鉢合わせるなんて悪夢だ。
というか、いま棺桶の蓋が外されたら乗せている大量のゴミがマイロードに降り注ぐ事になる。そうなったら、これはキミ……大変なことになるぞ……。
つまるところ、私が応対する以外に活路はない。
「あー、あー……もしもしお姉様? 急に来るものだから驚いちゃったわ。本日はわざわざこんな地下室まで、どういった御用件でいらっしゃったの?」
「分かりきった事を。貴女の想定している通りよ」
「えぇ……」
非常に困る回答である。そういう掛け合いは双方が聡明だからこそ成り立つのであって、私のような第三者の不良品にできる芸当ではないのだ。勘弁してクレメンス。
「日を改めて欲しいんだけど、ダメ?」
「私もそう暇じゃないの。貴女と違って毎日忙殺されてるんだから」
「ま、まるで私がずっと暇みたいな言い方ね」
「暇でしょ実際」
「くっ……!」
ごめんなさいマイロード、私では何も言い返せませんでした。お願いですからこれからはもっと外に出てください。レスバで太刀打ちできないので。
どうやらレミリア閣下に引く気は全くないようで、どうしてもマイロードと話をしたいらしい。こうなっては私も腹を括るしかないか。なるべく穏便に済ませた方がいいだろうしね。
「まあ、取り敢えず入っていいよ。扉越しに話すのもなんだし」
「悪いわね」
こうして、遂に私はレミリア閣下との邂逅を果たす事になる。第一印象としては、陽側のマイロードって感じだった。身に纏うオーラが理知的というか、どこぞの誰かさんと比べて安定している。ただ姉妹なだけあって顔立ちはよく似ていると思う。
同じくレミリア閣下も私を観察するように、頭の上から爪先までを一通り眺めている。続けて部屋の内装にも興味を向けていた。念のため棺桶への視線は遮っておこう。
「何というか、意外と小綺麗にしてるのね。てっきり散らかってるものかと」
「う、うん。さっき掃除したばかりだし」
「掃除とかするんだ」
「まあ」
「……」
「……」
居心地悪過ぎか? 普段関わりのない親戚のおじさんでももう少し愛想良く話せると思うんだけど。私から話を振ろうにもボロが出そうだし、どうしたものか。
せめてマイロードとレミリア閣下の距離感さえ掴めれば話は変わってくるのだろうが、まあ良くないんだろうなって事しか分からない。
やはり早めにお帰りいただいた方が良さそうだ。
「改めて聞くね。毎日大忙しの当主様が、年中暇してる引き篭もりで根暗な妹に何の用?」
「そこまでは言ってないけど」
「そうだっけ」
でも合ってるなら問題ないね。なんか背後から刺すような殺気を感じたけど気のせいだろう。そう思った方が精神衛生的に良い。現実から目を逸らすのだ。
「はぁ……すっとぼけても無駄よ。昨晩の出来事はちゃんと把握してるんだからね。貴女、美鈴をどついて昏倒させたでしょ?」
「ゑ」
「やってくれたわね」
現実から目を逸らしたらあっちから突っ込んできた件について。思わず背後の棺桶の中身を引っ張り出したくなる気持ちをグッと堪える。
珍しく外に出て何をしていたのかと思えば、まさか美鈴さんを襲撃していたなんて。もうマジの狂犬じゃないですかマイロード。これは幽閉待ったなし。
「ついさっき目を覚ましたの。それで事の顛末を聞いて、私が来たってわけ」
「な、なんてこと……」
「美鈴は別に気にしてないみたいだし自分が悪かったって言ってるけど、部下に手を出された以上は私が出張らなきゃ示しがつかないわ」
面倒臭そうな様子を隠そうともしないレミリア閣下の説明をバックに、私の頭の中では積み上げてきた物が次々と崩壊していく音がした。私の『フランちゃん育成計画』が……『美鈴さんとイチャイチャ瞑想タイム』が……露と消えてゆく。
──というか、マイロードは私というものがありながらストレス解消に美鈴さんにも
まあ私は賢いので、この感情の正体には深く入り込まない事にした。なんか悩ましい事になりそうだし、今はレミリア閣下に集中しないと。
「貴女、美鈴と仲良くやってたのに何故急にあんな事をしたの? それだけでも教えてくれないかしら」
「ホントなんでだろうね……」
「真面目に答えてよ」
その辺りを知りたいのは私だって一緒だ。どうして私の人生は理不尽で満ち溢れているのだろう。
一方でレミリア閣下は、戯れ合いのような形で私に答えを促してくれているが、私は逆にそれが一周回ってかなり怖い。先述した通り上辺では理知的な雰囲気を纏っているけれど、彼女の根底にはマイロードと同じものが潜んでいる気がするのだ。
口も目も笑ってるけど、心の奥底ではこちらを真顔でただただ見つめている、みたいな。
己の定める一線を土足で越えれば即潰しにかかる、底冷えするような圧の塊。上位種としての矜持と傲りの境界。とにかく怒らせるのは良くない、絶対ダメ。
穏便に帰ってもらうには──こちらの落ち度にして、なおかつあんまり責められない感じの理由付けでなあなあにしてもらうしかない。
「その、何というか……胸の内に眠る破壊衝動的なものを抑えられなくなったのかも……」
「そんな物騒なの持ってたの!?」
「た、多分。ほら私って取り扱い注意な能力を持ってるでしょ? その影響で切れる剃刀みたいなヤバげな一面があるというか……。輩に絡まれた時も気が付いたら意識無くて周りに人が血だらけで倒れてたし……」
「難儀な性質ね」
取り敢えずマイロードと『フランちゃん』の情報を掛け合わせてヤバい奴エピソードを披露してみたが、不覚にも制御不可能な怪物みたいな形に仕上がってしまった。後半はなんかイキってるみたいだし。
ただレミリア閣下をドン引きさせる事で真相の追求を止めさせる事には成功したようなので、結果オーライというやつである。マイロードの尊厳は守られた!
「美鈴はアホみたいに不真面目だけど、それと同じくらい律儀で頼もしい奴でね。ああいう部下はとても得難いんだ。今回の件がどういう発端で起きたのかは知らんが、あんまり虐めてくれるなよ」
「うん、気を付ける。美鈴、私のトモダチ」
「そう……ならいいの。邪魔したわね」
レミリア閣下は肩を竦めながらくるりと背を向け、ドアに向かって歩き始めた。どうやらお帰りのようである。だ、駄目だ……まだ笑うな……堪えるんだ……。
そしてレミリア閣下は去り際に一言。
「戯れもほどほどにね、フランドール」
こちらを見る事なくそう言い放つと、地上に続く闇の中へと消えていった。
ドアが閉じ切るのを確認して、安堵に胸を撫で下ろす。今日もまた私のか細い命が繋がった。こうして絶体絶命の窮地から脱した時ほど生を実感できるね。
と、命の尊さを噛み締めている場合ではない。棺桶の上に放置していたゴミを音を立てないよう慎重に片付け、ついでに中をそっと覗いてみる。
可愛らしい寝顔を見られたら万々歳な気分だったのだが、残念、マイロードはお目目をかっぴらいて私を見ていた。もはや一種の恐怖体験である。驚きのあまり腰を抜かしてしまった。
「うひぃぃっ!? 起きてるぅ!!!」
「起きてちゃ悪いの?」
「悪くはない! 悪くはないですけど、何だかなぁ! 色んな意味で心臓に悪いです!」
「私にバレて困る事でもあったのかしらね」
「ひえっ」
そう言われると私は口を噤むしかないのだ。
取り敢えず折檻として顔面へ右ストレートをブチ込んだ後、悶える私を尻目にマイロードは寝巻きからいつもの服装へと着替えている。せっかく寝かしつけたのに……。
「で、アレが私の姉だけど、巫山戯た奴でしょ?」
「いやどこぞの誰かさんに比べたら全然話の通じる方だなーって思いましたね! 部下への思いやりに溢れているのも私的には高得点です!」
「マヌケが。哀れ過ぎて何も言えないわね」
「ぐすん」
私の切実な心の叫びは嘲笑と共に切り捨てられた。美鈴さんが羨ましくて仕方がないね。どうかレミリア閣下の爪の垢を煎じて飲んでクレメンス。
「えっと、姉君は何を巫山戯てたんですか?」
「お前に近付かなかったでしょ。要するに私の間合いに入らないように立ち回ってたのよ。久しぶりに顔を見せに来たと思えば、とんだ体たらくだわ」
「
「さあね。どちらにせよ、腑抜けのお前如きに警戒していた時点で私をみくびっていると言わざるを得ない。舐められてるのよ、お前も私も」
口調の刺々しさとは裏腹に顔はニッコニコなマイロード。これまでのやり取りのどこに嬉しくなる要素があるのか皆目見当もつかない。それともあれか、笑顔とは本来攻撃的であり云々ってやつか。
取り敢えずマイロードがこれ以上攻撃的になるのはまずいと判断。なんとかして諌めるべく声を掛けようとするも、一手遅かった。というかマイロードは既に棺桶の中でとんでもない計画を練ってたらしい。
「3日後の夜、アイツを襲撃するわよ。腑抜けた愚姉に目に物見せてやる」
「へー大変ですね。武運をお祈りしてます」
「阿呆。お前も一緒にやるの」
「ヤダー!!!」
私の命日、決まったかもしれないね。
分身ちゃんは色仕掛けが有効だと考えているものとする。またおぜう様は最初と最後以外、フランちゃんの名前を呼んでいないものとする。