最終局面
空気が爆ぜると同時に依姫は真横へと跳ね飛ばされた。砂浜を何度もバウンドし、勢いが殺されぬままひたすら引き摺られる。
だがあの悪魔はそんな依姫に易々と追い付き、容赦なく踵落としの追撃を加えた。
その威力、スピード、体術。全てにおいてフランドールの生き写し。まさしく暴力を体現したかの如き姉妹である。これが地上軍総大将にして、自称地上最強最速の吸血鬼、レミリア・スカーレット。
殴られ出血した頬を拭いながら、依姫は立ち上がる。埃一つない無敵の象徴であった衣装は砂と泥、そして血に塗れていた。
事態の急変による混乱からは未だ抜け出せていないが、敢えてその部分に関しての思考を放棄する事で依姫は平静を保っていた。敵の分析を疎かにするなど賢者の弟子失格もいいところだが、守護者としては最適解に近い。
戦闘以外に割く思考リソースは存在しない。
「ハッハッハ! ちっぽけな天体だったから勢い余って一周してしまったよ。このまま都まで吹っ飛ばして貴様の痴態を晒すのも悪くないわね」
「ふぅっ……ふぅっ……」
「息も絶え絶えって様子ね。私の妹達を退けたのは流石という他ないが、肝心の総大将である私を斃す余力は果たして残っているのかしら?」
「何人束になって、何度かかってこようが結果は同じこと……! 私は私の責務を全うする!」
「あんな気色の悪い連中と街を守る為に命を賭けるのか? 馬鹿馬鹿しい、どんなに強くても、他者の定めた生まれと運命に雁字搦めにされてるようじゃ話にならん」
「戯言を」
唾棄すべき価値観。自分のそれとの決定的な違いを吐き捨て、猛攻を再開する。レミリアの体術とは本能に比重の寄った獣が如きスタイル。そしてそのクオリティは先程までのニッヒのそれを遥かに上回る。
動作の一つ一つが洗練されており、どれもが必殺級。アクロバティックな軌道から繰り出される連撃が着実に依姫の身体を破壊していく。
「予言してやろう。お前は我々の力の前に屈服し、惨めな敗北を迎える運命にあるわ!」
「ほざけッ!」
口に出して突きつけられる敗北の運命を斬撃とともに切り捨てる。しかしそれがレミリアの命へと手に掛かる直前で、横槍が入る。側面からの横撃によって防御に綻びが生じ、レミリアの拳が容赦なく依姫の腹にめり込んだ。
先程モロに入った鉄山靠によって壊れた内臓に鈍い痛みが走る。壊れてはいけない箇所が壊れていく感触がして、眩暈と発汗が止まらない。
あと一歩。それさえ踏み込むことができれば決着というところで、必ず中華服を着込んだ妖怪──紅美鈴が割り込んでくる。これが非常に鬱陶しい。
「うぅっ……! げほ!」
「流石ね美鈴。相変わらず貴女の働きは痒い所に手が届く」
「伊達に何百年仕えてないですからね……! それとフラン様との特訓の賜物でしょうか」
「ふふ、まだまだスピード上げていくよ。ついてこれるかしら?」
「何処迄もッ!」
意識の間隙──ふとした拍子に生まれる無意識の死角。上に集中すれば下が疎かになり、下からの攻撃を警戒すれば上への警戒が緩む。
そうした隙を巧みに美鈴が突き、依姫に介入できない隙間を無理くり作っているのだ。
当然、カウンターの斬撃や迸る神力によって紅魔の主従にも無視できないダメージが積み重なっていく。しかしそれでも現状、依姫相手に優勢に立ち回っている。
攻守交替などさせない。このまま押し切って倒す。それがレミリアと美鈴の狙いだった。
勿論、その目的の達成は至難だ。二人が死力を振り絞り、なおかつ強力な後方支援があって初めて完遂できる細き道である。
「オラオラ食らえぃ! ニッヒちゃんフラーッシュ! フラッシュ! フラーッシュ!」
「おのれっ、卑怯者め!」
「ゲヘヘ戦いに卑怯もクソもあるもんか! このまま視神経を焼き切ってやるわぁ!」
「ニッヒったら、発破をかけたのはいいけど変な方向に吹っ切れちゃったわね。あとでフランに怒られなきゃ良いけど」
「でも楽しそうですよ。やっぱりニッヒ様はこう、活き活きしてる方が似合ってます」
「それは同感だけどさぁ」
そして──依姫にとっての最大の障害が、ありとあらゆる手段を用いて多彩なベクトルから依姫を攻め立ててくるニッヒの存在である。
前衛を武闘派の二人に任せ、後方で好き勝手に嫌がらせを繰り返すニッヒが邪魔で邪魔で仕方ない。今も『光の屈折を操る魔法』でレミリアを日光から守りつつ、それを依姫の眼へと照射する事で視覚を奪っていた。
しかもいやらしい事に、物理面だけでなく精神面での揺さぶりも忘れない。
依姫が神降ろしを発動するたびに、その神が如何なる権能を発動するかを逐一報告してレミリア達に注意を促している。そのせいで依姫が必勝パターンとして確立していた初見殺しは全てが空振りに終わってしまった。
いや、それだけならまだいい。「姉の息子と懇ろな穢れウーマン」だの「師匠の八意永琳は年中媚薬ばかり作ってるやべー奴」だの、とんでもない話を真面目に叫ぶのだから堪ったものじゃない。依姫にできるのは聞こえない振りをする事だけだ。
そしてさらに厄介なのが、ニッヒは口撃しか能のない弱者ではなく、依姫に臆す事なく突撃できる鉄砲玉マインドの持ち主だという点である。
突然思い出したかのように殴りかかってくるのだ。これはこれで面倒臭い。
どれだけ痛め付けても倒れない不死身の化け物二体と、徒手空拳ならば地上で最高峰の技術を有する武闘家。しかも依姫の情報は敵に筒抜けで、動きも殆ど先読みされている。
これでは如何に依姫が圧倒的だろうがジリ貧である。手札を大量に揃えていても、それを駆使する手数が全く足りていない。
頼りない援護射撃をしつつ戦況を見守る兎達の目にも、段々と趨勢が明らかになっていった。
万が一、万が一依姫様が敗れるような事になったら自分たちはどうすればいいのか。月の都は蹂躙されてしまうのか。そんな不安が表情から滲む。
「はああああぁぁああっ!!!」
瞬間、依姫の太刀筋が青白く飛散し、光がたちまち三人を飲み込んだ。『建御雷神』を降ろし広範囲を薙ぐ雷撃を飛散させたのだ。神の雷に打たれた全員が大きなダメージ受け、さらに小時間のスタンへと陥る。
コンマ一秒にも満たない僅かな時間、それさえあれば十分。依姫は即座に神降ろしを切り替え、狙いをただ一人に絞った。
レミリアはダメだ。未だ余力を多く残しているため仕留めきれない、或いは躱される可能性がある。彼女からは
美鈴もダメ。一撃で殺せる自信はあるが、こちらも動きに対応してくる恐れがあった。それに危険度としてはこの中で最も低い。後回しで問題ない。
ならば狙うは、死にかけていて、なおかつ前二人に比べ技術とフィジカルで劣るニッヒ。
確実に殺すという意志を込めて、右掌に渾身の神力を集約させる。
「叛徒を征伐せし神代の矢尻よ。都に仇なす怪物を貫き給え!」
放たれた矢は神話に準えた力を持つ。昔、月の都に刃向かう逆臣を討ち取った『高御産巣日神』と『
命中すれば天津神に逆らったニッヒに対し最高の効力を発揮するだろう。
依姫の見立て通り、ニッヒにこれを防ぐ術はなかった。もう少し距離と時間さえあれば二指真空把を倣って跳ね返す試みくらいはしただろうが、今は無理だった。
そして矢尻はニッヒの胸に吸い込まれる──直前。前触れなく爆散した。理すら捻じ曲げ、敵対者を確実に誅殺する必殺技が、跡形もなく。
馬鹿な、と。依姫は思わず言葉を漏らす。
これは
「随分と長いお昼寝だったわね、フラン」
「お姉様の醜態は見飽きたからね」
誰の仕業かを一番に看破したレミリアは呆れ混じりに、歓喜の笑みを溢した。
フランドールの復活。
常時と比べて些か顔色は悪くダメージを隠しきれていないが、それでも覇気を漲らせ立っている。その厳かな貫禄たるや味方の美鈴も慄くほどだ。
ニッヒは主人の相変わらずな様子に胸を撫で下ろした。でも心配なので戦闘を中断し駆け寄る。
「マイロード! お身体の具合は大丈夫なんですか!?」
「随分と侮られたものね。お前が無事だった程度の傷で私が死ぬもんか」
「でも足元フラフラじゃないですかー! そう、フランドールだけに!」
「黙れ。……でも、今回ばかりは、お前如きに心配されるような失態を犯した私に責任があるか。……情けない姿を見せて悪かったわね」
「や、やっぱり重症じゃないですか? 他責大好きマイロードが私に謝るなんて! もう少しねんねして安静にしてた方が……」
「あとで殺す」
久しぶりの殺害予告だが、言葉とは裏腹にフランドールの機嫌は頗る良かった。
自分が倒れている間、この馬鹿が馬鹿なりに奮闘していたのを知っているからだ。今はそれに報いてやるべきだと判断した。
「一緒にやるわよ。お姉様と門番のスットココンビばかりにカッコいい真似はさせないわ」
「は、はい!」
「あの女の顔を苦痛に歪ませてやる」
これで四対一。紛うことなき袋叩きの形となる。それも追加されたのは依姫を単独で追い詰めたフランドール。どちらに天秤が傾いたのかは火を見るよりも明らかだった。少なくとも絶対的優位性は存在しない。
遂に、依姫の脳裏に『敗北』の二文字が過る。
いざ仕掛けんと、レミリアとフランドールが臨戦態勢に移ると同時だった。
油断なく構えていた依姫が突然脱力し、降ろしていた神を霧散させる。そしてこれまで紅魔館の面々を脅かしてきた太刀を鞘に収めた。
どういう意思表示、或いは準備なのかと、その場の全員が固まる中。依姫は微かに笑う。
「ああ、諦めや投了ではありませんよ。これは今までの自分との訣別です」
「戦闘の最中に自分探しなんて呆れ返るほど悠長ね。貴女にそんな余裕があるのかしら?」
「ハッキリ言って、無いわね。潔く認めるわ、貴女達四人を相手にしてマトモにやったんじゃ勝ち目は薄い。なのでズルをする事にしたの」
終始仏頂面だった依姫が浮かべた初めての微笑み。清々しさすら感じるその裏に秘められた狂気は如何ほどなものか。警戒は跳ね上がる。
ズルをする。つまり依姫はこれから先、誇りを捨てたなりふり構わない手段に出るという事。
「誇りなさい地上の者どもよ。貴女達はこの
「何を──」
「天晴れな戦いぶりでした。生涯、貴女達を忘れる事はないでしょう。……さあ忌まわしき屈辱と共に砂へと還りなさい」
それを別れの言葉としたのだろう。依姫は口を結ぶと、一柱の神を降ろす。
名を『
すると砂地が盛り上がり人を形取る。現れたのは土塊の依姫、それが二体。埴安神の力により命を吹き込まれ、かつ依姫の神霊が宿る事で完全な分身体と成る。神の力はいくら分けようと減らない。いわば砂の分身体は分社になっているようなもの。
なるほど、数の不利を覆すつもりかと一同構える。しかし依姫の狙いは違った。
分身体が出来上がるのを確認し、埴安神の神降ろしを解除。そして新たな神を降ろす。
続いて降ろした神の名は『神大市比売命』──またの名を『天弓千亦』という。市場を司る神だが、依姫が目を付けたのはそこじゃない。
「全てを
依姫は分身体の所有権を失った。これにより分身体は独自の意思を持つ別個の『
「ニッヒ。あいつは何をしようとしているの?」
「よ、読めません。このニッヒの目をもってしても!」
「ならいい」
ただならぬ事が起きようとしているのは誰の目にも明らかだった。既にレミリアとフランドールは駆け出しており、それに美鈴とニッヒも続く。
しかしその前に依姫が立ち塞がり、我が身を挺して分身体を守り抜く。普通なら逆だ。守られるべき本体を犠牲にする意味が分からない。
その意味はすぐに示される事となる。
分身体がそれぞれ、独自に神降ろしを始めたのだ。
先にニッヒが述べた通り、依姫が一度に降ろせる神は一柱と決まっている。それ以上の神降ろしは試みる事すら許されない。
そもそも依姫にこれほどまで神降ろしの適性があるのは、姉の豊姫と同じく天運に愛され、神に愛される気質を持っているからだ。
あくまで力を貸してもらっている立場でありながら、神の間で二股を掛けようなど言語道断。しかも分身体を経由して同時進行など、もはや神を騙しているようなものだ。
実行しようものなら、依姫は神々からの寵愛を失う事になる。
即ち、未来を捨てるという事。
力を捨てるという事。
立場を捨てるという事。
誇りを捨てるという事。
それでもなお、ここで月の都を守り抜き、綿月の誇りを姉へと繋ぐべきだと判断した。
まず『天児屋命』を降ろした分身体が祝詞を詠み、続いて『天宇受売命』を降ろした分身体が流麗に舞う。さらにこの二柱に呼応するように、依姫の神力が急激な高まりを見せた。もはや規模が大き過ぎて後光が刺すほどだ。
この瞬間、ニッヒは依姫の企みを看破した。
「マイロードぉ!!! レミリア閣下ぁ!!!」
ニッヒの叫びとほぼ同時だった。
月面に太陽が顕現した。依姫を中心として太陽光が拡散し、世界を純白に照らす。逃げ場はない。
依姫の狙いは天岩戸の再現だった。本来、複雑な行程を踏む必要がある『天照大神』の神降ろしを一つに無理やり短縮し、更に入念に準備を行ったのだ。
仮に普段のような神降ろしで『天照大神』の力を借りたところでレミリア達を即死させる事はできない。それに予兆を感知したニッヒが徹底的に妨害してくるだろう。
なのでこの三人体制が必要だった。これならば時間が稼げるし、神降ろしの力も普段とは比較にならないほど強力なものを用意できる。
しかも三柱の神降ろしを続ける事で半永続的な太陽光線を実現。日光が弱点の吸血鬼など一瞬で塵と化すほどのエネルギーを容赦なく浴びせかけた。
フランドールは世界が日光に包まれてなお消滅を免れていた。ニッヒが布のように覆い被さって盾となり、間一髪守っていたからだ。
吸血鬼らしからぬ日光耐性を持つニッヒならではの役目。当然その代償は大きいものだったが、マイロードの命には換えられない。
背中から消滅の波が広がり、身体が崩れていく。
「ぐうぅあああぁぁ……!」
「お前はまた勝手なことを! 誰が守れと言った、そんな事は命令してない! どけッ!」
「……っ」
「どいてよ! 早くっ!」
ニッヒの身体を貫通した太陽光がフランドールの身体を焼いていく。見ればレミリアも同じような状況に陥っており、盾となっている美鈴の命が燃え尽きようとしている。
従者達の足掻きも所詮は僅かな延命にしかならない。このまま全員、灰になって終いだ。
「待たせたわね、みんな」
だがそんな結末は、パチュリーが許さない。
生命が希薄な月面において、精霊魔法を主体に戦う彼女が無力なのは言うまでもなく、近接戦に割り込む力も無い。しかし西欧最強クラスの魔女、そして紅魔館一の知恵者がそのまま置き物に甘んじる筈がなかった。虎視眈々と自分が最も戦況に影響を及ぼせる時を待っていたのだ。
何から何まで想定通りだ。レミリア、フランドール、ニッヒを相手する上で日光に頼るのは敵対者全てに共通する選択であり、ある種の逃げ道である。
確かに吸血鬼を相手にするならこの上ない判断なのは間違いない。だが安易な弱点だからこそ、敵の出方に当たりをつけやすいのもまた事実。
故に、楽な逃げ道へと流された間抜けな敵をパチュリーは予め用意しておいた仕込みで絡め取る。これが魔女の戦い方である。
恥じる事はない。自分とて同じ穴のムジナだ。彼奴等との違いは、敵にパチュリー・ノーレッジが居たか居ないかの差でしかないのだから。
「
仮にこの魔法に符名を付けるなら『月金符』になるだろうか。依姫とフランドール主従が連戦を行う中で飛散した武器の残骸を再構成し、それに月属性の魔術を付与する事で巨大な正六角形の反射板を作り出す。
闇夜を照らす月の輝き、その正体は太陽の光だ。地上から見れば月とはまさしく鏡なのである。
即ち、月属性の鏡が持つ太陽光の反射能力は、魔術の観点において最大級の高まりを見せるのだ。月面で展開されているという地理的特異点も無視できない。
こうして発生源である筈の依姫には同じだけの太陽光が降りかかる事になる。
それもただの光ではない。地上を照らす月の輝き──狂気と穢れを振り撒き、魔を活性化させる闇世界の輝きである。月の都に居たのでは知る事のできない性質。天津神には到底受け入れられない。
神降ろしが破られ、土塊の分身体が崩壊する。
「そんな──!」
「往くわよフランッ! 皆が繋いでくれた勝利への運命、無駄にはしない!」
「分かってる!」
瀕死の従者を砂地へと寝かせ、姉妹は駆ける。僅かな月明かりの残滓が二人の背中を後押しするように、どんどんと加速していく。スカーレットの誇りを守る為に、そしてなにより、従者の献身に報いる為に。
それを想えば多少のダメージなんて気にならない。
フランドールはレミリアへと片方の得物、試作型レーヴァテインを投げ渡すと、直線にぶつかるのではなく、僅かに膨らんで左右からの挟撃に動く。流石は姉妹と言うべきか、レミリアは瞬時に意図を理解し、呼応した。
これがスカーレット姉妹の永き生涯における初めての合力。特大の想いを乗せた一撃が真紅の閃光となり、交差する軌道で放たれる。
対して、地上の月光に蝕まれながらも依姫は歯を食いしばり、刀を水平に構えて迎撃の構えを取るが、頭では既に一つの境地に至っていた。結果はもう、見えている。
もはや、心の中で詫びる事しかできない。
姉様。八意様。
けたたましい破砕音が月面に響き渡る。激しい衝撃は一瞬の出来事で、二つのレーヴァテインがクロスを描いていた。
ぼとり、と。刀身が砂地に突き刺さる。もう大量の刃が飛び出す事はない。神器は破壊され、その役目を終えたからだ。依姫の命運とともに。
「まさか」
虚ろな目だった。口から流れ出る不浄の血液が大地を穢している。視界が徐々に歪んでいく。
「この、私が──地上の民に──」
瞬間、依姫の身体は崩れ落ちた。何かの意趣返しのように横に分断されており、血の水溜りを広げていく。当然ピクリとも動く様子はない。
巨星堕つ。
月の都を守る武力の象徴が遂に敗れた。それも相手は復讐に憑かれた仙霊でも、地獄の女神でも、他勢力の月人でもない。地上の妖魔集団である。
俄かには信じがたい事態が起きてしまった。
しかし地上軍総大将のレミリアは、その偉業を一切誇るような事はしなかった。まるで大した事ではないと言わんばかりに淡々としていた。
レミリアからしてみれば、天下無敵の紅魔館メンバーが総力を挙げて戦ったのだから、ハナから負ける道理など無いのである。当然にして順当な結果だ。彼女にとってはこの激戦も鬱陶しい蚊を叩き潰す程度の作業なのだから。なおクッソデカい蚊だった模様。
決着を確認したレミリアは黒焦げになって倒れている美鈴の下へ。少し遅れてフランドールも、のろのろとニッヒの下に向かう。
「勝ったのですね、お嬢様……」
「今回ばかりは素直に褒めてあげる。頑張ったわね、美鈴。普段の門番業務もこのくらい頑張りなさい」
「善処しますぅ……」
「はぁ。今日はそれで許してあげるわ」
「ね、ねえマイロード? 私、自分でも結構頑張ったつもりなんですけど、その……」
「労いの言葉でも掛けてもらえると思ったか?」
「はい! クレメンス!」
「黙れ。『お前の肉壁という役割は、私が求めた時に限定する』って前に言ったのに、堂々と命令無視をかましてくれやがったでしょ。それで差し引きマイナスよ」
「そんなぁ」
「紅魔館に戻ったら溜まってた分も含めていっぱい折檻してやるわ。覚悟してなさい」
あまりの主従格差にニッヒは咽び泣きたい気分になった。ついでに消滅した背中が凄いヒリヒリしたのでちょっぴり泣く事にした。
何はともあれ、これにて完全勝利である。
あとはニッヒかフランドールが通称:フランちゃんゲートを開き、全員で紅魔館に帰還するだけ。ちなみにレミリア配下の西洋妖怪達は既に全滅しているのだが、彼等は『全員』に含まれないので問題ない。悲しい事だがそういうものなのだ。
「美鈴は私が持つわ。フランはニッヒを」
「仕方ないわね」
「申し訳ございませんお嬢様……」
「あのぉ、首根っこ掴むんじゃなくて抱っこしてくれると嬉しいなって」
「甘ったれるな」
戦意を失い動けないでいる兎達を眼圧で蹴散らしたスカーレット姉妹はそれぞれの従者を抱え、帰路につく。既に撤収の準備を終えたパチュリーと小悪魔が遠くから手を振っている。その足元には鈴仙と咲夜が寝かされていた。
ふと、ニッヒが目線を隣のレミリアへと向ける。
「そういえば依姫さんはそのままでいいんですか? 捕まえても放置してもとんでもない爆弾になるのは目に見えてますけど、どうしま──え?」
ニッヒの目に飛び込んできたのは、自分たちに向けて勢いよく投げ捨てられる美鈴の姿だった。突然の乱心にフランドールも対応できず、美鈴に巻き込まれ諸共砂浜を転がることとなる。
すわ何事かと功労者の美鈴に対するあまりの仕打ちにニッヒは声を上げ、不意打ちを喰らったフランドールは殺意の籠った目で姉を睥睨する。
だが次の瞬間には理解した。レミリアの真意は家族を守るための決断であったことを。
彼女の背後に佇んでいた一人の女。
ニッヒは勿論、フランドールですらその接近に気付けなかった。初めから其処に居たかのように、何の前触れもなく突然現れたのだ。
超スピードや催眠術をいの一番に疑ったが、それならまだいい。種があるだけマシだ。しかし目の前の女はその理解の範疇を遥かに超えた力を持つ確信があった。
彼女の接近にレミリアだけが気付けたのだ。
腰に届こうかという長い亜麻色の髪。スカーレット姉妹が愛用するナイトキャップのつばを更に広げたような白い帽子を被っている。それ以外は依姫と瓜二つの服装だった。
綿月豊姫。月の都の守護者、その片割れである。
感情のカケラも窺い知れない無表情で月を荒らす賊を、そして血溜まりに沈む妹を見る。
その手に握られた扇子は既にレミリアと、その後ろにいる面々へと向けられていた。
そうか。
無機質な瞳の奥に渦巻く激情に気付けたのは、これまたレミリアだけだった。月人の価値観をゴミ屑同然と見ていたレミリアにとって、その感情はとても新鮮で、非常に馴染みあるものだった。
「初めて……
今、月面戦争の終結を告げる浄化の風が吹き起こる。
サグメ(なんか大事になってんな……)
ゆかりん(なんか大事になってますわ……)
ヘカちゃん(なんか大事になってるわよん……)
純狐さん(嫦娥……)
次回で月面戦争編とついでに諸々が終わります。あのタグは忘れた頃にやってくるものとする。