コールが船着き場にたどり着くと、そこには長い髪を風になびかせながら夕日を眺めるテリオスの姿があった。彼の背中は沈みゆく太陽の光を浴び、まるで別世界の住人のような威厳を放っている。
「テリオス先生、まだ帰ってなくて良かった」
振り返ったテリオスは、わずかに口元を緩めた。
「その様子を見るに、調子はすこぶる良好のようだ。少年と顔を合わせるのは、実技試験の時以来か」
「ん?そうだっけ?座学の時間に講義してたのって、テリオス先生だった気がするんだけどなぁ」
「そなたは机に突っ伏して寝ていたではないか。余の講義が、よほどつまらなかったのだろう」
「ははは……朝早くから剣を振ってたから、いつも寝不足だったんだよ。先生たちの授業も話半分で聞いてたはずなんだけどさ」
悪びれる様子もないコールの態度に、テリオスは鼻で笑った。
「まあよい。それよりも、そなたに伝えねばならぬことが二つある」
コールはテリオスの険しい表情に気づき、眉をひそめる。
「テリオス先生がそんな顔をするってことは、かなり深刻な話なんだろ?」
テリオスは静かに頷き、言葉を紡いだ。
「一つは、そなたが五百年破られなかったラフィーアフーシェの魔障壁を打ち破ったことだ」
「あれは無我夢中だったから、記憶も曖昧で――」
「いかにそなたの言い分を聞き入れたとて、魔障壁を崩壊させた事実は揺るがぬ。故に、そなたには然るべき処分が下されるであろう」
「然るべき処分って……俺、死刑になるかもしれないってこと?」
コールの顔が強張る。夕日を受けたその表情は、どこか幼さを残したまま恐怖に染まっていた。
「魔障壁を崩壊させたことで島民たちの命を危険に晒し、絶望と恐怖に陥れた罪は計り知れぬ。少年が小さき魔法生物のためとはいえ、非合法に島内に踏み入れさせたことを勘案すれば、そなたの行いは極刑に値するといっても過言ではない」
テリオスの言葉は静かだったが、その響きは鋭い刃のようにコールの胸に突き刺さった。
「ビッティを島に入れたのは俺の責任だ。島の人たちにも迷惑をかけた。全部俺がしたことだから、どんな罪でも償う。みんなが許してくれるまで……でも死刑っていうのは……」
コールの声は震えていた。その目には涙が浮かんでいるが、それを見せまいと必死に堪えている。
テリオスはその様子を見て、長い沈黙の後、静かに語りかけた。
「そんな悲しい顔をするな。余も未来ある少年の命を、このような形で潰えさせるのは忍びないと思っている」
テリオスの瞳に浮かぶ憂いの色を見て、コールはわずかに顔を上げた。
「テリオス先生は……俺を助けてくれるのか?」
沈黙を破ったコールの声に、テリオスはじっと彼を見つめた。その眼差しには、測りかねる思慮の色が浮かんでいる。
「まだ話は終わっていない。二つ目の話は、そなたの肉体についてだ」
コールは首をかしげる。
「俺の体?筋トレなら毎日かかさずしてたんだけど、島に来てから一度もできてないんだよな」
「そなたの自慢の筋肉などに興味はない」
テリオスは鼻で笑う。
「余の関心事は、そなたの骨肉を蝕んでいる『黒きヒールライト』のことだ」
「黒きヒールライト……? ああ、『魔封じの洞窟』で拾ったあの石のことか」
「知っていたのか?」
「薄々は気づいてた。『亡者の深林』でボルカからソフィアを守った時、持っていた黒いヒールライトが弾けたんだって。でもその日以来、なんていうか……体の中から魔力が全身を駆け巡る感覚が身についたんだ!」
「……やはり、五百年前の余と同じ事象が起きていたか」
「え?」
テリオスは夕日を背にしながら、語りを続けた。
「何故余が五百年もの間生き長らえているのか。その理由は、そなたと同じ『黒きヒールライト』が余の肉体を侵食していたからだ」
「えっ!?」
コールの目が驚きに見開かれる。
「テリオス先生の体にも、俺と同じ黒いヒールライトの欠片が埋め込まれているのか!?」
「あれは、まだ余が十の齢だった頃の話だ」
テリオスの声はどこか遠くを見つめるように静かだった。
「『魔封じの洞窟』が『幻惑の岩窟』と呼ばれていた時代、余は遊び場としてその岩窟に足しげく通っていた。そこには黒き石が至るところに転がっていたのだ」
「それが……黒いヒールライトだったってことか?」
「そう思うのも無理はない」
テリオスはゆっくりと首を振った。
「しかし、当時の余はその石が『黒きヒールライト』ではないことを理解していた」
「どういうことだ?」
「『幻惑の岩窟』に転がる黒き石は、魔法使いたちがヒールライトを精製する過程で不手際が生じ、やむなく投棄せざるを得なくなった出来損ないなのだ」
夕陽がさざ波に反射し、コールの目を刺すように輝いた。彼は言葉の意味を理解しようと眉をひそめたが、テリオスの冷静な語りがさらに疑問を膨らませていく。
「そして使い物にならなくなった黒き石は、魔法使いの間で『ゼロライト』と呼ばれるようになった」
テリオスの声は低く、どこか遠い記憶を辿るかのように響いた。
「人の手によって魔力を操作された『黒きヒールライト』とは似ても似つかぬ代物なのだ」
「ゼロライト……それが先生の体に埋まっているってことなのか?」
コールは息を呑んだ。
「ふとした事故だった」
テリオスは淡々と語り始めた。
「当時、岩窟内には『聖獣』と呼ばれる、人間には決して飼い慣らすことの許されない存在が時折姿を現していた。その神秘的な美しさに見惚れた余は、迂闊にもその聖獣に触れようとしてしまったのだ。何故そのような愚行に及んだのか、今となっては知る由もない」
テリオスの視線は遠くを見据えている。まるで、その時の光景を目の前に再現しているかのようだった。
「だが、聖獣の力は人智を遥かに超えていた。余はその力になす術なく弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。そして弾みで岩窟内に散らばっていた黒き石――『ゼロライト』が粉々になり、その破片が余の肉体に食い込んだのだ」
「……それで先生はどうなったんだ?」
「余の体はその日から、全身をナイフで切り裂かれるような激痛に襲われ続けた」
テリオスの言葉に、わずかに苦悶の色が混じる。
「余の様子を見た魔法使いたちは口々にこう言った。『この子の余命は一年』と」
「余命……一年……」
コールは絶句した。自分の体にも同じ『黒いヒールライト』が埋め込まれていることを思い出し、冷たい汗が背中を伝う。
「察したようだな」
テリオスは静かに言葉を続ける。
「そなたの命も、余がそうであったように一年ほどで尽きるだろう」
「で、でも……!」
コールは動揺しながらも言葉を紡ぐ。
「先生は、その日から五百年も生き続けてるんだろ!?それなら、何か解決方法があるんじゃ――」
その時、テリオスはゆっくりと胸元をさらけ出した。その肌の中心には、純白に輝く石が埋め込まれていた。
「この石は余の体を蝕む『ゼロライト』を浄化するために必要だった」
テリオスの声は低く、それでいてどこか誇りを感じさせる。
「余の父であり、大賢者シェリオンから継承した『聖者の輝石』――『エンジェルライト』だ」
「エンジェルライト!?」
コールは目を見開いた。
「それって……マーシャが探していた石のことなのか!?」
「大賢者の証であるエンジェルライトを継承するには、一流の魔装騎士として認められねばならない」
テリオスの声は静かだったが、その言葉の背後に潜む重さは尋常ではなかった。
「しかし、当時十歳だった余には、騎士どころか魔法使いとしての技量すら未熟であった」
テリオスはコールの顔に触れる。
「もし余を失えば、大賢者シェリオンの一人息子が途絶え、後継不在となる。魔法使いを束ねる人材がこの世から消えることを意味していた」
「ちょっと待ってくれ」
コールが口を挟む。
「エンジェルライトって不死の石なんだよな?それなら、どうして先生じゃなきゃいけなかったんだ?」
テリオスは一瞬、苦笑を浮かべた。
「エンジェルライトに不死の力はない」
「……ない?」
コールは眉をひそめた。
「そなたは勘違いしているようだが、エンジェルライトは魔法使いの長たる証でしかない」
テリオスの声は淡々としていた。
「確かに膨大な魔力を有しているのは事実だ。しかし、人を蘇らせたり、不治の病を治したりする力など、石そのものには存在しない」
「……そうだったのか」
コールは目を伏せた。自分の認識がいかに浅はかだったかを思い知らされる。
「じゃあ、先生が五百年も生きている理由って、一体なんなんだ?」
「ゼロライトの呪いで、刻々と余の命はすり減っていった」
テリオスの声には、かすかに苦悩が滲む。
「その時、大賢者シェリオンを含む魔法使いたちは話し合い、エンジェルライトに余の命を賭けることを選んだ」
「賭ける……?」
「そうだ。それは、父である大賢者シェリオンが自らの命と引き換えに、余に新しい命を授けるということだった」
「先生の親父さんは……先生を救うためにエンジェルライトを託したのか?」
「余の命は、まさに天秤の上に置かれていた。幼い余の体がエンジェルライトの膨大な魔力を受け入れる器になり得るかどうか、誰にも分からなかったのだ」
テリオスの瞳に一瞬だけ光が宿った。
「奇跡的にも、余は今こうしてそなたの前に立っている」
「それで……先生の体に埋まっていたゼロライトはどうなったんだ?」
「エンジェルライトは、余の体を蝕むゼロライトを浄化した」
テリオスは自らの胸に手を当て、深く息を吐いた。
「骨も肉も、元の状態へと再生させたのだ。不死の力など、この石の副産物に過ぎぬ」
その言葉の裏に秘められた犠牲と重みが、コールには痛いほど伝わってきた。テリオスが五百年を生きる理由。それは奇跡と呼ぶには、あまりにも大きな代償を伴ったものだったのだ。
「マーシャになんて伝えたらいいんだ……」
コールの呟きは、ひどく弱々しかった。目の前に広がる絶望を前にしても、彼の心は仲間のことを考えていた。
テリオスは冷たい視線を投げかける。その瞳には、微塵の情けも見えない。
「このような状況でもなお、そなたは己の身を顧みず、他者の気持ちを慮るというのか?」
声にはわずかな苛立ちが混じっていた。
「残り少ない命だけでない。そなたは魔障壁を崩壊させた罪で死罪になるやもしれぬ。それでも――」
「死ぬのは嫌だ」
コールはきっぱりと言い切った。その声には、彼の年齢には不釣り合いなほどの覚悟が滲んでいた。
「生きたいと思うことに価値はあっても、死にたいと思うことに価値はないから」
「なに……?」
「俺、自分の死なんて受け入れられない」
コールは必死に言葉を紡いだ。
「マーシャ、ソフィア、そしてビッティと一緒に旅を続けたいんだ。シェイドのおっさんには助けられっぱなしだし、アビちゃん先生にはマーシャを助けてくれた恩がある。それに、俺が死んだら悲しむ奴がいるって思うと……簡単に死ねないだろ?」
テリオスは一瞬沈黙し、そして――笑った。
「ククク……」
「テリオス先生?」
コールは困惑する。その笑顔は、どこか不気味だった。
「すまぬ」
テリオスはゆっくりと頭を振る。
「そなたの真っ直ぐな目を見ていたら、不覚にも笑ってしまった。シェイドとアビゲイルは、実直で他者思いな教え子を持っていたのだな」
「先生……俺、どうしたらいいんだ?死を待つしかないのか?」
「余も座して少年の死を待つほど愚かではない」
テリオスの声には、どこか決意が込められていた。
「魔障壁の一件について国に掛け合い、そなたへの処分については保留となっている。然るに、そなたの命は余が預かっているのだ」
コールの顔が一瞬にして輝いた。希望の光を見つけた子供のようだった。
「本当か!?ありがとう、先生!」
だが、その喜びは次の瞬間に凍りつく。テリオスの瞳が氷のように冷たく光ったのだ。
「わかっていると思うが、そなたは重罪人の身。その身から解放されたくば、余の願いを聞き入れてもらわねばならぬ」
「な、何をすればいいんだ……?」
コールは震える声で尋ねた。テリオスの視線が彼を捕らえ、その場から動けなくさせる。
「余の願いはただ一つ」
テリオスの声は低く、そして不気味だった。
「絶対的な幸福、ささやかな安寧、湧き上がる愉悦、快楽からの解放、生から自由。それは――『死』だ」