ドライフンの地に再び足を踏み入れたコールたちは、港湾都市の喧騒を避け、たどたどしい足取りで宿屋を探した。テリオスの言葉に背中を押されるようにしてたどり着いた一室。猶予はあと二日。決断の時は迫る。
外は曇天、しとしとと雨が降り始めていた。どこか遠くで雷鳴が轟き、暗雲に覆われた朝は、さらにその重さを増していくかのようだった。
三人は外に出る気力もなく、宿屋の質素な部屋で食事を取る。重苦しい沈黙が部屋を包む中、それぞれが黙々と手を動かしていた。
コールは粗末なパンを無心に頬張り、マーシャはナイフとフォークで生焼けの肉を切り分ける。対照的に、ソフィアは煮詰まった色とりどりの野菜スープをスプーンですくい、一口ずつ丁寧に味わっていた。その沈黙を破ったのは、コールだった。
「二人は俺と先生の会話、全部聞いてたのか?」
コールの言葉に反応するかのようにソフィアがマーシャに視線を送るが、マーシャは一点を見つめたまま黙々と肉を切り続ける。その態度にコールは苦笑いを浮かべ、肩をすくめた。
「俺さ、命があと一年なんだって。せっかく冒険が楽しくなってきたっていうのに、先生のせいで台無しにされちまったよ」
軽口を叩くようなコールの言葉。しかし、その笑みに込められた無力感は、二人にも伝わっていた。
「コール様……」
ソフィアが口を開いた。けれども、その声には微かな震えがあった。
「コール様が無理しなくても大丈夫ですよ。ワタシたちなら、何とかなりますから。それに、医療が進歩すればきっと、コール様の体だって治せるかもしれないですし……」
ソフィアのスープに、小さな雫が落ちる。その涙を隠すこともせず、彼女は必死に笑みを作った。だが、見かねたマーシャが手を伸ばし、ハンカチを差し出す。
「泣きながらコールを励ましても、一層不安を煽るだけだ」
そう言いながら、マーシャはため息混じりに続ける。
「お前の心がぐらついていたら私たちも不安になる。まずは気をしっかり持て。アビゲイルのような偉大な魔法使いになるんだろう?」
「……そうですよね」
ソフィアはハンカチで涙を拭い、スープを口に運んだ。冷めてしまったものの、心を落ち着けるには十分だった。
「ワタシが泣いてたら、コール様に余計な心配をかけちゃいますもんね。ありがとうございます、マーシャ」
マーシャのぶっきらぼうな励ましを受け、ソフィアは少しだけ笑顔を取り戻した。それを見たコールは、手にしていたパンを一気に平らげ、軽く息をつく。
雨音が窓を叩く静かな朝、宿屋の薄暗い部屋で、三人はそれぞれの思いを抱えていた。コールは窓の外を見つめながら、低い声で呟いた。
「テリオス先生の考えてることが、わからない部分はたくさんある。だけどさ、俺しかできないことがあるなら先生の助けになりたいんだ」
その言葉に、マーシャは眉をひそめ、腕を組んだまま答える。
「テリオスほどの人間なら、死に方ぐらい自身で選べそうなもんだがな」
静かに語るマーシャの言葉には、どこか力強さがあった。そして、一拍置いてきっぱりと続ける。
「中身が壊れているのなら、私たちで腐った性根ごと叩き直してやるしかないだろう」
その直言に、コールは少しだけ微笑むが、再び窓の外へ視線を戻す。雨は止む気配を見せず、屋根を打つ音だけが耳に響く。
「雨がやんだら、テリオス先生に会いに行ってくる」
そう切り出すと、コールは二人に向かい合い静かに頼み込んだ。
「二人は先にアイザールに帰っててくれないか?」
その言葉に、マーシャの表情が険しくなる。
「お前一人で立ち向かったところで、何ができる?相手は唯一無二の魔装騎士テリオスだ」
その声には、マーシャなりの憂慮が滲んでいる。コールが無謀とも言える決断をすることに、苛立ちと不安を隠しきれないのだ。
「生半可な覚悟で挑めば、どうなるかぐらい想像がつくだろう?」
マーシャの指摘にコールは反論することもなく、視線を逸らしたまま黙り込む。その様子を見かねたソフィアが、柔らかい声で口を開いた。
「それにどうしてアイザールなんですか?」
その質問に、コールとマーシャは顔を見合わせるが、言葉を返せない。ソフィアは続ける。
「ドライフンの方が『ゼクシェリオンの祭殿』に近いですよ。それに、万が一ワタシたちの身に危険が差し迫ったとしても、シェイド先生やアビゲイル先生がいますから、助けを呼ぶことだってできるんじゃないですか?」
ソフィアの冷静な提案にも、二人の表情は釈然としない。
部屋の空気が重たく沈み込む中、マーシャが静かに口を開いた。
「テリオスからまだ聞き出せていない情報がある。私もコールと共に『ゼクシェリオンの祭殿』に立ち寄らせてもらう。それに、祭殿は上級の騎士か魔法使いでなければ立ち入れない神聖な建造物だ」
その声には確固たる決意が滲んでいる。マーシャは言葉を続けた。
「滅多にお目にかかれない場所なら、尚更足を運ばずにはいられないな」
ソフィアはその言葉に食いつくように反応する。
「マーシャが行くならワタシも――」
だが、その言葉をマーシャが遮った。
「お前はアイザールに行って、コールの両親に伝言を頼む。『必ずコールを連れて帰る』と伝えてくれ」
その冷静な指示に、ソフィアの表情が曇る。言葉にできない不満が滲み出る中、彼女は声を震わせながら問い返した。
「どうしてワタシも連れて行ってくれないんですか?二人にとってワタシが邪魔な存在だからですか?足手まといになるからですか?」
感情を抑えきれず、ソフィアの声が部屋に響き渡る。その瞬間、マーシャの拳が机を叩きつけた。激しい音と共に、皿が床に落ちて砕け散る。
「魔法使いは裏切るからだ!」
その怒声に、ソフィアは息を飲む。マーシャの目には深い怒りと悲しみが浮かんでいた。
「母を見殺しにし、父までその手にかけた。それにも飽き足らずコールの命まで奪おうとしている!」
彼女の声は震えながらも、鋭く突き刺さる。
「テリオスの行動を鑑みれば一目瞭然だ」
マーシャは荒々しく吐き捨てるように言い残すと、部屋の奥へと姿を消した。
砕け散った皿の破片が床に散らばり、静寂が戻る。マーシャの言葉の重さに、ソフィアは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
残された静寂の中、コールはため息をつきながら、床に散らばった皿の破片を拾い始める。その手つきにはどこか不器用さが混じっていた。
皿の破片が指先に食い込み、赤い血が滴り落ちる。しかし、その傷口はすぐに閉じ始め、元通りの皮膚に戻ってしまった。コールは無理に明るい声で、傍らにいたソフィアに問いかける。
「俺の体、やっぱり普通じゃないよな?」
ソフィアはその問いに目を伏せたまま、低くつぶやいた。
「コール様は……死ぬのが怖くないんですか?」
その声には小さな震えが混じっていた。コールは皿を片付ける手を止め、窓の外を見つめながら静かに答えた。
「死ぬのは怖い。でも、それ以上にソフィアとマーシャを失う方がずっと怖い」
コールは床に座り込み、少し笑いながら続けた。
「俺、剣を毎日振るっていれば大切なものを守れるって、ずっと思い込んでた。でも、違ったんだよ。大切な人の苦しみや悲しみを分かち合うこと、生きるために知恵を出し合うことが、本当に守るべきものを守るために必要なんだって気づいたんだ。ソフィアが教えてくれたんだぞ。ありがとな」
コールの真摯な言葉に、ソフィアは驚いたように顔を上げた。
「ワタシが……ですか?」
「ああ、ソフィアがずっと支えてくれたからだ」
その言葉に、ソフィアの目に涙が浮かぶ。彼女は一歩前に進み出て、力強く言った。
「ワタシはコール様をおそばで支えたいです。その思いは今も昔も変わりません。だから、一緒に……」
だが、コールは首を振る。
「俺が死ねばテリオス先生の夢は叶えられない。でも、マーシャとソフィアは守れる。テリオス先生の夢を叶えられるのは、俺しかいないんだ」
その決意に満ちた言葉を聞いたソフィアは、涙を拭おうともせずに叫ぶように訴えた。
「コール様、死ぬなんて言わないでください!奴隷だったワタシに、生き甲斐を与えてくれたのはコール様なんです。だから今度は、ワタシがコール様の夢を支えたいんです!」
その必死な言葉を聞き、コールはふっと笑みを浮かべた。
「俺の子供の頃の夢は、ソフィアと世界中を冒険することだったんだ。もう叶ってるんだよ」
「……えっ?」
驚きに目を見開くソフィアを見て、コールは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「マーシャと恋人になっても、その夢だけは捨てきれなかったんだ。俺に魔法を教えてくれたのはソフィアだったから。だから、ソフィアにも何かしてあげたいなってずっと思ってたんだよ」
その言葉を聞いた途端、ソフィアの頬を涙がつたった。
「コール様……うぅ……」
ソフィアは声を詰まらせながら、泣きじゃくった。コールはそんな彼女を見て、少し照れくさそうに微笑むと、再び皿の片付けに戻った。雨音だけが、二人の間に静かに響いていた。
翌朝、コールとマーシャは旅の支度を整え、『ゼクシェリオンの祭殿』を目指して出発した。昨夜の雨はすっかり上がり、道端にできた水溜りが太陽の光を反射して、眩い輝きを放っている。
その背中を遠くから見送りながら、ソフィアは静かにビッティを胸に抱き寄せた。足元には、昨日の名残りを残す湿った土の香りが漂っている。
ソフィアはふと机の上に目をやり、そこに置かれた手紙に視線を落とした。コールの両親に宛てた言葉が、綺麗に並んでいる。しかし、その隣にあるヒールライトが目に入ると、ソフィアの心に小さな疑念が芽生えた。
「ワタシは二人の帰りを待っているだけで、本当に良いのでしょうか?」
呟くように問いかけるその声は、室内にこだまする。ビッティがピクッと耳を立て、机の上のヒールライトに戯れ始めた。
「ワタシの夢は、コール様のおそばで支え続けること……でも、それだけじゃ自己満足で終わってしまいます。マーシャの幸せはコール様の幸せ。ワタシにできることは……」
考え込むソフィアをよそに、ビッティは小さな体を器用に動かし、ヒールライトをソフィアの手元まで運んできた。その仕草にハッとさせられ、ソフィアは立ち上がった。
「そうだ……ワタシはアビゲイル先生のような、一人前の魔法使いになりたい。そのためには、こんなところで足踏みしているわけにはいきません!」
ソフィアの目に宿った迷いは消え、認めていた手紙を丸めゴミ箱に捨てる。慌ただしく身支度を始め、肩にビッティを乗せると、ヒールライトを首にかけた。そして、コールから預かったウエストポーチを腰にかけ深く息を吸い込み、意識を未来へと向ける。
扉を開け放ち外へと一歩踏み出すと、その目線の先には、『ゼクシェリオンの祭殿』が厳かに佇んでいた。
「行こう、ビーちゃん。ワタシにしかできないことがあるはずだから」
力強い言葉を胸に、ソフィアは祭殿の通り道である『魔封じの洞窟』に向かって歩み出した。