剛魔諸(女)に転生したので楚将として頑張ってみる 作:胡椒砂糖塩
媧燐様の口調難しい…違和感あったらすみません。臨武君はとりあえず偉そうにキレさせておけばいいから楽ですね。
改行多いですかね?個人的に開いてた方が読みやすいと思っているのですが。
「剛魔諸。またお得意の噂話か?」
小さく手を挙げた私に対して、臨武君が皮肉っぽい笑いを向けてくる。が、汗明様が片手でそれを制した。
「発言を促したのは俺だ。仁凹。よいな?」
上座からの問いかけに、おじいちゃんが手に持っていた扇をパチンと閉じた。すると、汗明様の視線がこちらに来た。
え、今のパチンてイエスって意味なの?
釈然としないものを感じつつ、つっと楚軍の布陣図を指し示す。
「各軍の布陣ですが、媧燐軍の位置を…臨武君軍と並ぶ形で前に出していただきたいのです。」
「はあ?」
聞いていた媧燐さんが露骨に顔を歪める。まさか自分の軍の名が上がるとは思わなかったのだろう。
「先陣が俺一人では不満か剛魔諸。」
臨武君の顔にも青筋が立つ。いつもキレてるわねこの人。
一方、ちょっと違う反応を返してくれた人もいた。他ならぬ仁凹だ。
「ほっ、よもや秦軍が打って出ると?」
コクリ、と頷いて見せる。
現状の楚軍の布陣は臨武君の軍を前に出し、後ろに媧燐軍・汗明軍が控える『▲』の形になっている。
規模が大きすぎるが、一応は“
何せ、函谷関前の戦場面積に対して楚軍は過剰な大軍である。
肩が擦れ合うほどギチギチな隊列では勢いをつけた突撃は難しい。兵士同士の間隔をある程度取って突撃するには、先頭は一軍が限界だった。
一方、今私が提案したのは媧燐軍・臨武君軍を横に並べて前に出し、汗明軍で後ろから支える『▼』の陣形。
これまた規模が大きすぎるが…所謂“
突撃には向かないが、逆に突っ込んでくる相手に対しては重厚な布陣で迎え撃てる構えだ。
「無用な陣がえだ!秦の山猿どもは我らを防ぐ側だぞ。震えて自陣にこもるだけよ。まあ、初日ぐらいは味方の士気を励ますため陣外に布陣しているだろう。
普通はそうだけど、原作読んでるから私結末知ってるの。
突出したあなたは決死の王騎軍残党に捕捉された後、騰将軍と一騎打ちに持ち込まれて死ぬわよ。
大事な大事な奥さん未亡人になるんだから黙ってなさい。
「秦軍が打って出るという根拠は?」
おじいちゃんがバサッと扇と目を見開いて問うてくる。話を進めてくれてありがとう。
「…楚軍はこの合従軍の盟主です。」
「当然だ。」
私の言葉に汗明様が頷く。
楚人は自尊心が強い。
“~すると負けます”みたいな言い方は絶対NG。あくまで“楚は圧倒的である”という前提で話を進めないといけない。
この前置きもその一つである。
「しかし、
「む…まあ、な。最大の戦力ではあるが。」
ギリギリセーフな言い方でご納得いただけた。
仁凹さんも頷く。
「ふむ、我ら楚軍は山攻めには強くないからな。」
「くくく…、お前らは、だろ。」
媧燐さんの精鋭部隊は山越えできますもんね。
「先ほど臨武君がおっしゃった通り、歴史的に秦人は山猿のごとく山脈を頼って絶対防衛線としています。争う異民族も多くが山岳の部族だ。一方、我らの国境は古くから河や沼地で区切られ、争う百越どもは
楚の地は比較的降雨量が多く、城壁を築く主要な工法である
実際、今までに楚が併呑した
逆に、中原式の堅固な城を持っていた宋を攻めた際は、最強君主『
だから、楚軍は主攻から外されている。
函谷関突破の本命は高度な攻城兵器を持つ魏軍と山岳に強い燕軍なのである。
「つまり、秦から見れば、楚軍は“負けてもいい相手”ということです。一戦して敗れても、山に引き
「何が言いたい。」
一応“万一”と表現したのだが、汗明様がイライラモードに入ってしまったので話をまとめる。
「おそらく、秦軍は我らに対して他のどの戦場よりも積極的な手を仕掛けてくる…敗北覚悟の“賭け”に出てくる、ということです。特に、秦には楚の内情を
決まった。相手にも楚人がいるよ~油断しないで!と楚人を持ち上げつつ警戒を説く完ぺきな話術だ。
「こちらは未曽有の大軍。わずかな
ダメ押しとばかりに大宰相・春申君の名前をだす。楚を函谷関の正面攻撃から外したのは他ならぬ春申君である。
そこのところを
「結局はお得意の噂話か!貴様のそれは聞き飽きたわっ」
臨武君が吐き捨てる。噂話じゃなくて諜報だし、もっと言うと原作知識なのだけど…つっこまないでおいた。問題は汗明様だ。
私のウエストより断然太い両腕を組んだ大将軍は、しばし目を閉じて思案した後、その目をカッと見開いた。
ちょっと面白いから止めて欲しい。
汗明様が口を開く。
「…此度の合従軍では、先陣は我ら楚軍が受け持つことになっている。開戦と同時に突撃するのは絶対条件だ。それはどうなる?」
「…」
やばい、完全に忘れてた。
楚の版築技術ですが、代表的の都である紀南城には堅固な城壁があり、決して中原諸国に劣っていたわけではありません。
しかし、楚の城郭の先駆けというべき『方城』が築かれた際には、楚の将軍・沈尹戌が『これでは楚の気風は保守に染まり、やがて滅びることになる』と嘆いたとあり、文化・風土的に城郭は必ずしも重要視されていなかったと思われます。