キリは体を清めるために風呂に入った。
ただしペラペラの実を食べた紙人間であるため、体が濡れるとしばらく脱力することになってしまうという弱点がある。
そのためニューカマーの一人に手伝ってもらい、風呂に入れてもらったのだ。
「はぁ~生き返る~」
「うふふ。レベル6には何も用意されていないものね。ゆっくり楽しんでいいのよ」
キリを支えて風呂に入れてくれたのはイナズマという女性だ。髪も服装も右半分が白、左半分がオレンジ色で目立っていて、額から右目にかけて稲妻のような傷跡がある。
何より気になったのは、最初に会った時は男性だったはずなのに、少し席を外して再び戻ってきた時には女性になっていたことである。
女性の姿で裸になり、一緒に風呂に入ってまどろみながら、キリは彼女に尋ねた。
「ねぇ、ニューカマーってなんなの?」
「イワさんの指導の下、性別を超越して、自らを解放した人間のことをそう呼ぶの。新しい性別、新しい人間、新しい価値観……捉え方はあなたの自由」
「ふーん。面白そうだね」
キリは言いながら体の力を抜いて、イナズマの胸の谷間に顔を押し付けて体重を預ける。
「イナズマさんはなんで男性、女性両方になれるの?」
「イワさんのおかげよ。あの方はホルホルの実の能力者。人間の肉体にホルモンを注入することで人体の操作が可能なの。性別を変えるなんてほんの序の口」
「へぇ~、面白い」
「あなたも変わってみる?」
「うーん、機会があればにしとくよ。自分がなるよりこうしてる方が好きだし」
「あら、見た目と違ってエッチなのね」
「まあね~」
キリはイナズマの胸の中で落ち着いている。彼女はそんな彼の頭を優しく撫でていた。
収監されていたとはいえ、拷問もされずに呑気にだらだらしていただけ。しかしこれ幸いとばかりにこの時間を楽しんでいた。
「私は、あなたに似た海賊を見たことがあるのよ」
胸に頬を押し付けたまま、キリはイナズマの顔を見上げた。
見下ろして視線を合わせる彼女はにこりと微笑む。
「それってリンブル?」
「ええ。革命家ドラゴンのことは?」
「知ってるよ。会ったことはないけど」
「旧知の仲なの。私が直接話したわけではない。だけど、自分勝手でよく笑って、腹の底では何を考えているかわからない人で」
「あんまりいい評判じゃないよねぇ……」
「不思議と目が離せない人だった」
そう語るイナズマの声は優しい。さっきまでと大きく違っているわけではないが確かな変化があるように感じる。
親しい仲ではないのなら、さほど時間を共有していないのにそう思ったということか。
それでもキリは、リンブルに対する興味を示そうとはしていない。
「噂が全てではないわ。世界政府が支配するこの世では特に」
「そうだろうね。ただ別に、母親だったとしても会いたいとは思わないかな」
「なぜ?」
「僕はもう一端の海賊だ。元々帰る家なんてないし、会った記憶なんて一度もない。向こうが好きに生きてるならこっちも好きに生きてる。恨みじゃないんだ。必要性を感じないだけかな」
「そう……それもあなたの自由」
イナズマがぎゅっとキリの頭を胸に抱きしめる。
彼は抵抗しないどころか自らもイナズマの体に腕を回した。
「あなたは名前に囚われていないのね」
「ルフィもそうだよ。僕だけじゃない」
「それはあなたたちの強さ。忘れないで」
これは、慈愛だ。
母親を知らないキリは初めてそれに包まれた。
目を閉じて安堵し、彼にしては珍しく他人に心を許していた。
風呂から上がったキリは新しい服をもらって着た。
なんてことのないジーンズに白いパーカーと靴。そして彼にとって重要なのは紙だ。
ペラペラの実を食べて体その物が紙の性質を持つようになったキリは、能力の研鑽の結果、同質の紙を操作する術を会得していた。
ただの紙切れが全て武器になる。紙を手に入れてようやく本領発揮できるようになったのだ。
「よし。これで少しは役に立てるかな」
「ではイワさんのところへ戻りましょう」
イナズマに導かれ、キリは先程の広間へ戻る。
風呂に入っている間からやけに騒がしいとは思っていたが何やら盛り上がっているらしい。
キリとイナズマが現れると、すぐにイワンコフがぐるりと首を捻って振り返った。
「イナズマァ! 脱獄するよォ!」
全力の絶叫。虚を衝かれた二人は堪らず不思議そうに首を傾げる。
「ここに居る麦わらボーイはドラゴンの息子! こんなところに居させられなッシブル! これを機にヴァターシたちもシャバへ出るよォ!」
「なっ⁉ そんなことが……! わかりました。すぐに準備を」
イナズマは初めこそ驚いたものの、即座に受け入れて行動に移す。
その姿に感心するキリは思わず声を漏らした。
「受け入れるの早いね」
「こういう展開には慣れているの。イワさんに付き合ってると勇気って大事だと思えるわ」
「あぁ、わかる気がする。補佐する役は大変だよね」
「それが楽しくて従ってるのよ。私とあなたは」
ウインクをしてからイナズマは準備のために駆けていく。
楽しげに笑って、否定する気にもなれなかったキリは手を振ってイナズマを見送った。
それからルフィの下へ歩いていき、相変わらず肉を頬張る彼と合流する。
「おっ、キリ。スッキリしたか?」
「うん。めっちゃ回復」
「しっしっし、じゃあ今度こそ大丈夫だ。イワちゃんたちが脱獄手伝ってくれるんだってよ」
「ドラゴンがどうとか言ってたね。さてはまた口滑らせたか」
「んん。ふりょの事故だな、これは」
「うそつき」
ルフィは食事中で、少し見ない間にエースも大盛りの料理を次々に平らげており、どちらも気付けばすっかり肩の力を抜いている。
それでいて和んでいるのは彼らだけでなく、他の面々も体を休めている様子だ。
ジンベエもルフィやエースと同じテーブルを囲んで食事中。他のテーブルでも牢屋から出たばかりの囚人たちが騒いでいた。
その一方でイワンコフやニューカマーたちが慌ただしく動いている。
すでに脱獄の準備を始めているのがわかり、彼らの方がインペルダウン内部の状況、或いは装備や構造を理解しているのは明らか。
「紙ボーイが来たから改めて説明するわ。ヴァターシたちはこの食糧や水なんかをはじめ、監獄内の物資を色んな場所から盗んで利用している。映像電伝虫とモニターも入手済みよ。だからインペルダウン内部がどうなっているのかをほぼ正確に理解できチャブル」
「それはいいね。頼りになる」
「そこから得た情報によると、ダグラス・バレットはレベル3に留まっているようね」
イワンコフが真剣に情報を共有し始めた。
ジンベエは手を止めて耳を傾けるが、ルフィとエースは勢いよく食べながら聞く。
「レベル3より下に居るヴァターシたちはどうしたって上へ向かわなければ外に出られない。逆に地上から内部に入ってくるであろう海兵はヴァナタたちレベル6の囚人を捕らえるためには下へ向かわなければならない。ちょうど中間に陣取って両方相手にしようとしているのよ」
「想像以上にヤバい人だね。あんなに無口だったくせに」
「つまりヴァナタたちが脱獄するためには、レベル3のバレットを突破して、さらにその上から現れる海軍たちをどうにかする必要があっキャブル! 正直至難の業だよ」
どうやらこの場における指揮官はイワンコフだ。
海賊団の船長、元国王、インペルダウンの看守長と、他人を率いることができる人間なら有り余るほど存在するものの、他が騒いでいるか休んでいるため口を挟む人間が居ない。
誰も異論がないのならキリも逆らうつもりはない。彼はイワンコフに尋ねた。
「どうするの?」
「今は待つ! ヴァターシたちが先に仕掛けたんじゃバレットはもちろんこっちに集中する。でも海軍がこのまま黙っているはずがなっシブル! ここは一旦バレットを待たせて焦らし、海軍が仕掛けてきたタイミングでヴァターシたちも突貫! 大パニックを起こさせっチャブル!」
気に入ったのか、それとも同じ考えだったのか、キリは笑顔で頷いた。
インペルダウンは海底に存在する大監獄。おまけに海王類が多く生息する“
脱獄するためにはどうしても地上へ出た後、船に乗って海上を進むしかない。
道中のバレットと地上から入ってくるだろう海軍、両方を倒すしか方法はなかった。
そうとわかったのなら決断さえしてしまえばもう迷いはない。
「幸いこっちには味方が大勢居る」
「バレットは個の力が強い。少々の数で攻めたところで意味はなっシブル。そうなれば戦える人間のみで実行できる作戦が必要っチャブル」
「やるしかないね」
「とにもかくにも最初の障害はバレット! 気合い入れっチャブルよォ! ヒーハー‼」
イワンコフが声を大きくするとニューカマーたちの士気が高まり、声を発して応えた。
その声を聞いた囚人たちは訳もわからず盛り上がる。
少なくとも士気は上がっているのだろう。あまり信用はできないが現時点では状況は悪くない。
「監獄内で海軍とバレットと戦争だ。看守たちも獄卒獣も居る。これが“金獅子”以来の大事件になることは間違いないよ」
「へー、そうなのか。おれはキリとエースが無事だったからそれでいいや」
「おいルフィ、呑気に構えてるがお前、覇気使いでもねぇのにそう簡単に生き残れると思うなよ。時間はねぇが軽く稽古つけてやる」
食事の手は止めなかったとはいえ、レベル6でのバレットとの戦いで決して小さくない危機感を覚えていたのだろう、エースが言い出す。
その言葉を嫌がるどころかルフィは目を輝かせて喜んだ。
「ほんとかぁ~! ししし、久しぶりだなー、エースとの特訓。昔は一対一で何回もやり合ってたもんな~」
「気ィ抜いてんじゃねぇぞ。おれはあの頃の100倍強ェ」
「じゃあおれは200倍!」
「んなわけあるかァ! お前がおれより強いわけねぇだろ!」
「おれだって強くなったんだ! 今ならエースにだって負けねぇよ!」
「バレットに一発でノされたくせに粋がってんじゃねぇ!」
ルフィは「うっ⁉」と言葉を詰まらせた。
珍しいことに、バレットの一撃を思い出すと顔色が変わる。恐れているのではない、その瞬間の光景を思い出し「アレはヤバい」と危機感を抱くのだ。
「だからおれが、必要最低限覇気について叩き込んでやる。構えろルフィ!」
「おう! なんだか知らねぇけど強くなるためだな。望むところだ!」
エースに誘われ、ルフィは席を立った。
それからすぐにあっと気付いてキリを見る。
「キリもやるか? エースがなんか教えてくれるってよ」
「いや、覇気なら概要だけはもう聞いたよ。すぐ使えるものでもないだろうし、しばらく周りの人と交流してくる」
「そうか、副船長だもんな。頼んだ!」
「副船長だからっていうより、君があまりにも交渉とか苦手だからだって覚えといてよ?」
ルフィは何の心配もせず楽しそうに笑っていた。
その後、エースと組手を始めて“覇気”に関する説明を始める。
彼らのやり取りを見守りつつ、キリは彼らの傍を離れて他の面々を気にかけた。
「トプトプトプ……! いや~酒がうまいのんや~」
「ギャーッハッハ! おめーイケる口だなおい! おれが許す、どんどん飲めェ!」
「バスコ・ショットに上から物言っとるガネ⁉ 酒が入ったからって調子に乗り過ぎだろう⁉」
一時的とはいえ拷問生活から解放され、何も考えずにバカ騒ぎしている人間を率いるかの如く、この瞬間を心底楽しんでいる男がバギーだった。
彼は酒を飲んでメシを食い、欲を満たせるという喜びで誰をも仲間のように扱って、一時的な平穏だという事実を忘れるほど有頂天であった。
隣に座ったレベル6の凶悪犯、バスコ・ショットと肩を組み、何も心配せず大笑いしている。
酒を飲んで上機嫌になったが故の行動であるがショットは気にしないどころか共に笑っていた。
同じテーブルに居たMr.3は目を飛び出させるほど驚愕し、戦々恐々としている。
騒ぐ集団から離れた位置で、静かに酒を傾けているクロコダイルは我関せずという顔だった。
傍らにはMr.1が控え、以前そうだったように、まるでクロコダイルに付き従う様子である。
「やっほーボス。相変わらず隅っこでこそこそしてるねぇ」
「何の用だ。帰れ」
「つれないなぁ。ちょっと前まで右腕だった仲じゃない」
キリはクロコダイルの前にあるテーブルの上にぴょんと飛び乗って座り、笑顔で話しかける。
「外に出たらどうするの? またどこかの国でも狙う?」
「フン……今更国を盗ったところで大した旨味はねぇ」
「でも海賊やめないんでしょ?」
「何事も計画が要る。それをお前に教えるつもりはねぇよ」
「冷たいなー。昔のことは水に流して仲良くしようよ」
クロコダイルはフンと鼻を鳴らす。
誰も信用しないと公言する彼だ。むしろ会話に付き合うことが珍しいのだが、キリに対しては邪険にしながらも嫌がっていない。
彼らのやり取りを見るMr.1は敢えて口を挟まず、参加しようとはしなかった。
「ねぇ、僕と組まない?」
「ずいぶん偉くなったもんだな。お前がおれと同格のつもりか?」
「もう社長でもないし社員でもないでしょ。お互い海賊なら上下関係なんてもういいじゃない」
「そりゃてめぇの都合だ。麦わらと組むつもりなんざねぇよ」
「ルフィとじゃないさ。僕と組もうって言ってんの」
キリが顔を覗き込んでにこりと笑いかける。
その様子にクロコダイルは全く動揺を見せなかった。
「“新世界”に入るつもりだったんだけど、正直に言うと負けたんだ。海賊として足りないものがあまりにも多過ぎる」
「それをおれに用意しろと? 甘えるな」
「海賊はビジネスだって言ったのはボスだよ。見返りがあれば可能性はあるでしょ?」
クロコダイルはわずかに沈黙し、思考を巡らせた。その態度を見せただけでも可能性がゼロではないことがわかる。
黙っていることも一つの手。キリは敢えて何も言わずに待った。
「お前に何ができる」
「うちは少数だけど戦闘力はある程度高いよ。バロックワークスにも勝ったし」
「お前の船長は死にかけたがな」
「殺しても死なないくらい生命力が強いってことだね。それにそこそこ顔は広いかな。ウォーターセブンの造船所に、リトルガーデンの巨人族、猿山連合軍。アラバスタ王国も友達だよ」
「今更あの国に興味はねぇ。交渉材料にはならねぇよ」
「空島もあるよ?」
「もう黙れ」
キリを黙らせたクロコダイルは思案する。
慎重な性格で計画を重んじ、他人を信用しない彼だからこそ個の力を重視する。かといって組織としての完成度を軽んじているわけではなく、如何なる状況であろうと対応するための周到さを持ち合わせていた。
見ず知らずの誰かであったなら違っただろうが、かつてキリはクロコダイルの部下だった。以前に所属していた海賊団が全滅した後、偶然クロコダイルが拾い、未熟な子供でしかなかったキリを自らの右腕に育て上げたのである。
紆余曲折あって自身の下を離れたとはいえ、彼の力量は熟知している。仮に裏切るつもりだったとしても情報が多いのは悪くない。
「麦わらはどうする。どうせ何も言ってねぇんだろう」
「知らなくていいことは伝えない。そこは任されてるから大丈夫。じゃないとルフィはボスが嫌いなんだから手を組もうなんて言わないよ」
ふーっと葉巻の煙を吐き出したクロコダイルは、キリの顔を見て呟いた。
「いいだろう。あくまでもお前個人と手を組んでやる。ただし利用価値がある内は、だ」
「また素直じゃないなー。でもいいよ、捨てられないように頑張る」
「フン、心にもねぇことを……」
「寂しい?」
「黙れ」
軽口には付き合わずにすっぱり切り捨てる。
クロコダイルの態度にキリはからから笑って、緊張感を微塵も感じさせず、親しい様子でありながら一定の警戒も見せつつ、微妙な距離感ながら安堵していた。