気が付いた時、目に映ったのは見知らぬ天井だった。
自分がしたことを理解している。
先生として、してはならぬことをした。
後悔しかない。
酒で酔った時と同じだ。
寝て起きた時に、人は己がしたことの大きさに気が付くのだ。
それでも、頭を打ち付ける時間はない。
息が聞こえる。
平時のものではない。
誰かが、あれを手にしたのだろう。
戻ることはできないのだ。
体を起こすとそこにいたのはトキだった。
「おはようございます。先生」
トキはいつもと変わらず言う。
いつもと違うのは、そのメイド服が血に濡れていることと、額に巻かれた包帯が滲んでいること。
「だっ大丈夫?」
その答えは火を見るより明らかだった。
大丈夫なはずがない。
「大丈夫ではありません。見た目以上に重症です。先生が付きっきりで看病してくれれば二月程で治るかもしれませんが」
トキは、いつもと変わらない。
変わったのは。
変わってしまったのは、私の方だ。
トキが私の前にいるということは、そう言うことなのだろう。
正直に言えば、信じられなかった。
トキは学校という後ろ盾は無いに等しく、個の力も強くはあれど一人で治安維持組織の長を相手どれる程では無かったはずだ。
「どうやって」
疑問は独り言の様に出てしまった。
「聞きますか?」
…聞きたくは無かった。
虫の息ではないが、息も絶え絶えなトキの様子を見れば分かる。
「いや、いいよ」
それに生徒たちが争う様など、聞きたくなかった。
…眠る前はそれを望んでいたはずなのに。
ゲームみたいに、争って、全てが焼き払らわれて、それで、終わりではないのだ。
沈黙が訪れた。
このまま、この時がずっと続けばいいのに。
したことの責任も取らず、結果からも、何もかも、全てから逃げ出して。
大人として。
先生として。
生徒のためにと、あれだけ偉そうに無関係なことに突っ込んでいったのに。
その有様がこれで。
私はもう、ダメなんだろうな。
「先生」
結局、逃げ続けることはできやしない。
何秒か、何分か。
トキが気遣って作ってくれた沈黙が終わりを迎えた。
「ここに一枚の紙があります。先生が用意した物に相違無いですね」
目の前に突きつけられたそれには、自分の筆跡と印鑑が記されている。
透かしまで入って偽造されないように作られた届出は確かに自らが用意したものだった。
どこかでまだ、期待していた。
あれはただの夢で、トキは別の事件に巻き込まれて負傷しているのではないかと。
今更ながら、無責任に。
「うん、間違いないよ。確かに私が用意したものだ」
トキはポーチを漁った。
きっとペンを探しているのだろう。
そう、この紙に名前を書いて届け出る。
そのために。
そのためだけに生徒は、トキは、争ったのだ。
もう、言葉では形容できない気分だった。
争いの火種であると証明されてしまった自分への失望か。
幾ばくか私より若いとは言え情緒のしっかりした子達が、相手のことも周りのことも考えずに争ったことへの落胆か。
自らの起こしたことへの責任か。
誰かに私の婚姻届など、大したものではないと笑ってほしかった。
またシャーレの先生が馬鹿なことをしていると、流してほしかった。
もう何がなんだか。
分からない。
自分が何をしたかったのかも、どうしてほしかったのかも。
「これをこうします」
トキが取り出したのはペンでは無かった。
ライターだった。
それから出る火が紙を焼く。
人は、分からないを超えると、考えることができなくなるらしい。
ただ茫然と燃えゆくそれを見続けていた。
熱くなったのかトキは紙をつまむのをやめた。
紙は宙を舞いながら静かに燃えて、床に落ちて、そのうちに灰になった。
「室内で紙を燃やしたことは流石に無かったのですが、思いの他、煙が出ますね」
トキは変わらない。
いつもの口調でそう言った。
「君は何を…」
「これで全てが灰になりました。先生を縛る物は、者は、もう何もありません」
やっぱり意味が分からなかった。
「火を点けろ。燃え残った全てに。でしょう? 先生」
そこまで言われて、やっと意味が分かった。
「ミレニアム、トリニティ、ゲヘナ、アビドス、あらゆる学校が、あらゆる生徒がこの私、飛鳥馬トキに敗れました」
「それほど禍根は残らないでしょう。逆に一部生徒たちは学校の垣根を越えて共同戦線を結んでいる場面も見受けられました。誰かが先生を手にしたならば均衡は崩れど、もう燃やされた灰ではそれは叶わない。キヴォトスの歴史に残りはするでしょうが、それもきっと笑い話としてです」
トキは、飛鳥馬トキは。
あのゲームの物語の様に、名もなき傭兵の様に、戦って、勝って、全てを焼いたのだ。
そして、また歩き出すのだろう。
私は、先生は、飛鳥馬トキに救われたのだ。
でも彼女は、どうして。
どうして傷だらけになりながら、そこまでを。
やっぱり俺は分からなかった。
トキは立ち上がった。
足を引きながら、壁を伝ってドアに向かっていく。
「先生、貴方の完璧なメイドとしての仕事はこれで終わりです。どうか、お体に気を付けて自由に…生きてください」
トキがドアノブに手をかける。
何か。
何か言わねばならぬと思った。
ドアノブが下がる。
引き留めなければならぬと思った。
それでも何を言うべきかが分からなかった。
「トキ!」
下がりかけたドアノブの跳ねる音が聞こえる。
「何か……何か、私にできることは」
口から出たのはそれだけだった。
謝罪でも、感謝でもなく、それだけ。
我ながら情けなくなる。
今更できることなど、もう何もないだろうに。
トキはその言葉を聞いてドアから踵を返すと、淀みなく私の元に歩いてくる。
「え……体は?」
「軽傷です。私を舐めてはいけません」
そうか?
そうか。
そうなのかもしれない。
「では先生、ここに名前を書いてください」
紙だった。
白紙の婚姻届け。
ただの、紙きれだ。
こんなものが彼女のしたことの対価では…安すぎる。
だって私は彼女が戦って得たはずのそれを燃やして一度救われた。
始末をつけてもらって、救われて、それで本来手に入るはずのものだけを渡したのではつり合いが取れない。
それでも、彼女は、いいのだろうか。
「いいのか?」
「それを聞くのは私です。書いて頂けますか?」
差し出されたペンを私は受け取った。
気合のいる作業だ。
人生で最も美しい字を書かなければならない。
しばらく紙と見つめあった。
「結局私も、これを争って先生をものにしようとした彼女たちと同じだと軽蔑しますか?」
「いや、しないよ。私は……君に救われたんだ」
「その弱みにつけこまれて、先生は名前を書いているかもしれませんよ?」
「そうかもしれないね。でも、それは多分、これから分かることだ」
「私が、いや俺が、こんな形になる前から。君が茶葉を求めて遠くに出向いたことや、いつもと変わらぬ態度の裏で警護をしてくれていたことを知っていたとして、感謝していると今言ったのなら、信じられるか?」
「信じますとも。自分にも他人にも誤魔化すことはあれど先生は嘘をつきません。弱っても、おかしな判断をしても、先生は先生です」
「ゲームをしている最中でも不安は拭えなかったけど、それでも楽しかったと。君とゲームをするのはもっと楽しかったと言ったら、それを嘘だと思う?」
「思いません。言ったでしょう、先生は嘘をつかないと」
「君にモモトークを送った時、自分の過ちを止めてほしいと思った時、君の顔が浮かんだとしたら、やっぱりそういうことなのかな」
「自分の気持ちは案外自分にも分かりません。ですが、それはこれから分かるはずです。先生」
「それで君の顔を見て、安心して意識が途切れたとしたら、君は笑ってくれるかい」
「笑いませんよ。少し嬉しくはありますが」
「………本当にトキは俺なんかで、いいのかなぁ」
「いいんです。だから私は皆に向けたあの使いまわしのメッセージでも、先生から私に送られたから、会いに行って、今ここにいるんです」
名前はいつのまにか書き終わっていた。
出来上がったのは会心のものではない、ありふれたいつもの筆跡だった。
「ではハンコを」
そう言ってトキは懐から俺の実印と朱肉を取り出した。
「随分、用意がいいね」
その流れるような動作に口が滑った。
「完璧な貴方のメイドですので。あ、ついでにこれはもう不要なので燃やしてしまいましょう」
そう言ってトキはまた、さっきみたいに紙を燃やした。
それはよく見たら、俺の名前が書かれた先ほど燃やしたはずの婚姻届だった。
「安心してください。こっちは原本です」
「さっきのがコピーなんだ…」
また紙が燃えて煙が出た。
そしてすぐに灰になる。
「…実は部屋から出る間に先生が声を掛けてくれなかったら、それに飛鳥馬トキと名前を書いて提出しようと思っていた、としたらどうしますか?」
「ずるいなぁ。一生勝てる気がしないよ」
「冗談ですよ。……ただ、燃やせなかっただけです。私にも燃やせないものがあっただけです。勝手にそういうことをしようとは…思っていません」
燃えていない、今しがた実印を捺した届を返すとトキは素早く自分の名前を書き、判を捺してカバンにしまい込んだ。
「今ならまだ燃やして無かったことにできますが、大丈夫ですか?」
「カバンにしまった後に言うんだからもう…」
悔いはある。してしまったことに対しての悔いは大いに。
表せない程に。
けれども。
それでも。
「君と名前を書けたことに後悔はないよ。ありがとう」
「こちらこそ」
トキは壁を押した。
押されたタイルは不自然に沈み機械音がする。
「ここは元会長が作った隠し部屋です。もちろん避難経路もあります。当然、出口は人目につかぬ場所になっているので安心してください」
現れた真っ暗な入口にトキは吸い込まれていく。
「迷子になるといけないので手を繋ぎましょう」
暗闇から差し出された手を、俺は迷わず掴んだ。
「しかし、夜逃げみたいになっちゃったね」
「先生、まさしく夜逃げです」
「家財道具も置いてきちゃったし、身分証とか通帳もそのままだ」
「流石に家財道具は無理でしたが、貴重品は私が取り返したのでバッグに入っています」
「取り…返す?」
「……聞きますか?」
「やっぱり、いいや」
「じゃあ、この心残りは全てを投げ出したことに対してかな」
「先生は、何も投げ出してなどいません。全てをこなしたではありませんか。仮にキヴォトス存続の危機ならこんなことにはなっていません。だから、…先生の身が火種になれるぐらいには平和でした」
「棘があるなあ。やっぱり、怒ってる?」
「ええ、怒ってはいます。それもかなり」
「怖いね。でも、一つだけいいかな」
「いまさら白紙にしてくれはムリですよ、先生」
「そんなんじゃないさ。そんなんじゃない。もう、俺は…先生じゃない。だから、別の呼び方にしてくれないか」
「分かりました。では追手が来る前に早くいきましょうか。……あなた」
キヴォトスではその後とある噂が流れた。
飛鳥馬トキは暗殺されて先生は奪われ、誰かが秘密裏に囲っていると。
そんなくだらない噂が流れるぐらいにはキヴォトスは平和だった。
その誰かは、時と共に移り変わり、そして次第に噂そのものが止んだ。
先生の行方は誰も知らない。
飛鳥馬トキの行方も。
それを知っているのは、彼と、彼女だけだ。
トキはお茶目なところも可愛いです。人よりもふざけてよいのかの線引きが少しばかり甘いだけで、重要な時ではユーモアを忘れることは無いけれど、ふざけることはしないはずです。
そう言えば、ハーメルンに投稿するのは初めてで、見やすい改行や細かな表示の仕様が分からない状況なのでアドバイスがあればコメントをください。
次作以降改善いたします。
あとやっぱりトキが可愛い。