サブタイトルはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』から。
私の名前はクレマンティーヌ。
スレイン法国最強の特殊部隊、漆黒聖典の第九席次。
——そして、殺人犯だ。
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雨粒に濡れた蜘蛛の巣のようなサークレットで、額にかかる所には雫の形をした宝石がぶら下がっている。
(んー、まぁ似合うか似合わないかでいったら、似合っちゃうんだけどー)
なら試しに被ってみるかと問われたら、そいつの顔に拳を叩きこんでやる。あるいは腰のモーニングスターでもいい。
戦闘の邪魔になるとか、着飾るなら鎧に付けている冒険者プレートがいいとか、そんなちゃちな理由からではない。
法国には六人の巫女姫がいる。そして、同じく六つある叡者の額冠は彼女らの頭に乗っている。
(飾ってあるって表現した方がいいかもねー、これならー)
クレマンティーヌの前にはその内のひとり、闇の巫女姫がいる。歳の頃は15か16だろう。身に付けているのは肌が透けるほどの薄絹のみ。見ていて悪戯心を刺激されたクレマンティーヌは、ぷにぷにとその乳房を突っついてみる。しかし、巫女姫は喘ぎ声を漏らすどころか顔をそむけすらしない。
直立不動のまま、光を失った瞳に金髪女の笑みを映している。
これが叡者の額冠だ。装着者の自我を封じ、ただひたすら超高位魔法を吐き出すだけの道具に変えるアイテム。だから、この少女はもはや叡者の額冠を飾るために台座でしかない。もっとも、その台座ですら百万人にひとりしか適合者がいないらしいが。
それに加えて——。
(んふー、ちょーっと静かにしててねー)
クレマンティーヌは左手で巫女姫の口を塞ぐと、腰にぶら下げた獲物を引き抜いた。それは針のように尖った剣——スティレットだ。刺突専門の武器であり、クレマンティーヌが愛用する武器でもある。
だが、重要なのはそこではない。
クレマンティーヌは蜘蛛の巣でも絡め取るように巫女姫の髪にスティレットを挿し込む。その剣身が叡者の額冠に触れた途端、しゅーっと白煙が立ち上った。
(やっぱりー。素手で触んなくてよかったー)
何かしらの防御魔法が施されていたようだが、オリハルコンをコーティングしたミスリル製の剣身はちょっとやそっとでは傷つかない。ひょい、と手首をひねっただけで叡者の額冠は巫女姫の頭からはずれた。
「——! ————!」
同時に巫女姫の全身が病的に
クレマンティーヌはほんの少しだけ左手に力をこめる。
たったそれだけで巫女姫の断末魔は封じ込まれた。
耳に届くのはわずかな衣擦れ音だけ。四肢を悶えさせる巫女姫は今や自力で立つことはできず、クレマンティーヌの左手に顔をつかまれ、持ち上げられている状態だった。
クレマンティーヌが叡者の額冠を被りたがらないもうひとつの理由がこれだ。
被ってしまえば最期。安全にはずす手立てはなく、無理にはずせば装着者は発狂する。その哀れな魂を神の御許に送るのも漆黒聖典の役目なのだが。
(あれー、もしかして窒息しちゃった? ごめんごめーん)
口と一緒にうっかり鼻も塞いでしまっていたらしい。ひとしきり身悶えた巫女姫は、だらりと四肢を垂れ下がらせたまま動かなくなった。手を放すと、糸の切れた人形のように巫女姫はその場に崩れ落ちる。
(さて、問題はここからだよねー。カジッちゃんへの手土産はできたし、さっさとこの国ともおさらばしないとねー)
くるくる、と指に引っかけた叡者の額冠を回しながら、クレマンティーヌは扉へと向かう。
ここ法国において殺人は犯罪だ。
無論、漆黒聖典のような英雄の域にすら達した者に対しては寛大な措置もある。事実、クレマンティーヌは過去に趣味で冒険者を何人も
しかし、巫女姫殺しとなれば話は別だ。
六人の巫女姫はそれぞれ神官長の命により高位魔法で周辺国家の監視など、重要任務に就いている。要は国家の目鼻なのだ。それを勝手に殺した挙句、神器である叡者の額冠まで奪ったともなれば——。
(強盗殺人罪? んー、そんな生っちょろい罪じゃ収まらないかー。国家反逆罪ってやつー?)
間違いなく法国は血眼になってクレマンティーヌと消えた叡者の額冠を探すだろう。それこそ諜報部隊である風花聖典を総動員するかもしれない。
捕まれば良くて斬首、悪ければクレマンティーヌが趣味でしてきたような目に遭う。だから殺人犯の多くがそうするように一刻も早く犯行現場から立ち去らねばならない。
しかし、そこは漆黒聖典・第九席次“疾風走破”の腕の見せ所。いや、逃げるのだから脚の見せ所というべきか。
実は逃亡先はもう準備してある。
ズーラーノーン。強大な盟主と十二高弟、さらにその弟子からなる邪悪な秘密結社だ。本来は死を隣人とする
(今はエ・ランテルに潜伏してるんだっけー。隠れ蓑としてはちょうどいいかー)
国外逃亡するにあたって考えるべきことは多々あるが、まずはこの大神殿から脱出しなければ。
巫女姫にあてがわれた儀式室の扉を開ける。〈
儀式室を出ると、廊下は真っ直ぐ進んだ先がT字に分岐している。曲がり角から顔だけを覗かせ、クレマンティーヌは左右を見渡す。緩やかに弧を描いた廊下は見通しがいいとはいえないものの、神官や衛兵の気配はない。
大理石が剥き出しの床は足音を消させないためらしいが、クレマンティーヌにとってはさして問題でもない。また賊の侵入や巫女姫の誘拐を防ぐために窓はひとつたりとも設けられていない。
(だだっ広いのに、これだと地下にいるのか地上にいるのかさえわかんないのよねー。お日様だって出てるのか沈んでるのかわからないしー)
大神殿をぐるりと一周する廊下を歩きながら、クレマンティーヌは正面入口を目指す。常に耳を澄ませているが、押し殺した自身の足音以外に聞こえるものは何もない。
(目撃者は少ない方がいいわよねー。でもまぁ、もしもの時は消しちゃえばいいんだけどー、んふふふー)
想像したら涎が垂れてきてしまった。だが遊んでいる余裕はない。にんまりと笑う唇をぬぐいながらクレマンティーヌは反省、反省とひとりごちる。
とはいえ気が緩みそうになるのも無理はない。
漆黒聖典は英雄の域に足を踏み入れた者たちで構成されている。簡単にいってしまえば法国お抱えの化け物軍団。クレマンティーヌもその一員だ。そんな彼女に敵う相手ともなれば近隣諸国を探しても両手の指ぐらいしかいない。
王国戦士長ガゼフ・ストロノーフ、『蒼の薔薇』のガガーラン——、と名だたる戦士たちを脳内であげつらっていると、いつの間にか正面入口に着いていた。
幸いにも道中は誰ともすれ違っていない。誰にとっての幸いだったかは言うまでもない。
六大神の紋章の彫られた大扉。見た目は重厚だが魔法認証によって出入りの認められた者は手を触れるだけで開閉できる。
ズズズ……、と重たげな音を鳴らしながら扉が開く。
吹き込んでくるのは春先の風。昇りかけの太陽が綺麗に刈られた芝を照らしている。その中央に敷かれた石畳を歩きながら、クレマンティーヌは「ちっ」と舌打ちする。
(春って嫌いなのよね)
まだ弱かった頃、女としての春を奪われたのもこの季節だった。両親が出来のいい兄をよく褒めたのも、年の変わり目である今頃だった。あと嫌いなものといえば——。
「あら、こんな所で会うなんて奇遇ね」
「……」
ちょうど石畳が交差する所に差しかかった時だった。聞き覚えのある声にクレマンティーヌは足を止める。止めざるを得なかった。
しっとりとした声色が艶やかな唇を思い起こさせる。振り向けば、そこにいたのは案の定
左右で漆黒と白銀にわかれた髪は一度見れば決して忘れない。耳を隠すようなその髪型も。
顔立ちだけならクレマンティーヌより歳下――それこそ10代前半といったところ――だが、実際のところは100歳を超えているとの噂だ。本当かどうかは知らない。
いつもならその手に
「どうした、私の顔に変なものでもついてる?」
漆黒聖典・番外席次。またの名を“絶死絶命”。
クレマンティーヌの嫌いな相手であり、絶対に敵わない相手が、目の前にいた。