「俺たちは、8時18分に閉じ込められたようだ」
アキは止まった時計を尻目にそう言った。ホテルの8階。時計の8時18分。まるで無限を表しているかのように、そしてその場にはそのような特異な力が働いていた。
上下左右、あらゆる方向は全てその逆と繋がっていた。その瞬間、公安対魔特異4課は世界から孤立した。
「すげえ! じゃあ寝放題じゃねえか!」
「…馬鹿か貴様は」
止まった時間軸。ふと、その言葉が早川アキの脳裏によぎった。嫌な予感がしながらもアキは声に出さずにダインロットを呼んだ。
「…………まじか」
返事は無かった。そしてそのことがアキは顔を青ざめさせた。いつもならすぐに返事をくれるあのダインロットだ。それが無いということは、完全に孤立したことを意味する。
いや、そんなことはどうでも良いのだ。アキにとって心配でまさに命取りな事柄は別にある。つまるところ、『死に戻り』は発動するのかということだ。
息が荒くなる。身が竦んだ。基本的に契約悪魔の能力は悪魔がいないと使えない。そんなことは当たり前だ。だからこそ分かる。
『死に戻り』は使えない。
アキはホテルの一室が途端に暗くなったような錯覚を受けた。全能感、万能感の消失。あって当たり前の喪失。アキはため息をつく。そうでもしないと落ち着かないのだ。
無論、たとえ死んだとしても、この異空間から死体だけでも逃れられたなら発動するのかも知れないが、異空間から逃れられないかも知れないと考えると、そして
「(くそ!! 相性が悪すぎる!!)」
今アキにできることはただ立ち尽くすことのみだった。デンジ達新人組が喧しく騒ぎ立てる音を背景に、定まらない思考を落ち着けようと、でも外面は保とうとしていたのだった。
☆☆☆
「なぁ」
「……」
「おい、パワー」
「…なんじゃ。ワシは今忙しいのじゃ」
「寝転がってるだけだろが」
どうやら大統領になりたいらしいパワーは退屈していた。身体を動かせるような場所はなく、任務遂行中にできることはほとんどない。小煩いアキはいないが、居心地が良いとは言えなかった。
少し鬱憤が溜まっているパワーにとって、このホテルは少し狭過ぎた。停滞した状況にすでに彼女は飽きていたのだ。もはや任務など頭の中にはなく、大統領となって人々を苦しめる自分の姿を妄想してはニヤニヤすることに注意を割いていた。
彼女だけではない。アキは早く悪魔を殺すべくずっと階を周回し、コベニは泣きじゃくり、ヒロカズはこの特殊な状況でおかしくなっていた。だがデンジは目ざとく気づいていた。アキの異常にである。
「なあパワー。なんか早川パイセンの様子おかしくねえか?」
「なんじゃ〜。ワシに人間の顔色が分かるわけないじゃろうが。そういうのは姫野に聞け!」
「それはそうだ」
その言葉を頼りに、デンジは隣の一室でコベニを慰めている姫野のところへと来た。
姫野はデンジに気づくと、ニコリとして言った。
「どしたの? パワーちゃん今度こそおかしくなった?」
「いやあ〜アイツはアレが普通っすよ。それより姫野先輩に聞きたいことがあるんすよ」
「聞きたいこと?」
「さっき早川パイセンとばったり会ったんすけど、パイセン焦ったように刀抜いて歩き回ってるし、アレは普通なんすか?」
それはアキをまだ詳しく知らない人ならではの疑問。最強と謳われるデビルハンター早川アキ。その武勇伝は公安という組織に属する者であれば聞かないことなどあり得ない。多くの隊に救われた者がおり、実力は全てのデビルハンターが理解している。
「う〜ん。確かにこんなに狼狽えてるアキ君はあんまり見たことないなあ。アキ君が公安に来て間もない頃はあったけど、悪魔を初めて倒して以降、あんなに焦ってる顔は初めて見るかも…」
デンジはただ、短い期間なれど、共に過ごして築かれた早川アキという人物像からはかけ離れた酷い動揺を印象に持っていただけなのである。小中高を出て、完璧超人で、先輩で、最強のデビルハンターである早川アキの初めての弱さに驚いていたのだ。
とそこまで考えて、デンジは人間誰しもそんなものかと楽観的な思考に傾き、考えるのをやめた。デンジは考えるのが得意ではないのだ。
今の問いもただの好奇心であって、決してアキを心配するためのものではない。デンジは面の良い女しか守りたくないのである。
「ちょっとデンジ君、アキ君に色々聞いてみてよ」
「えェ〜…嫌っすよ。おっかねー」
「そっか〜。そりゃ残念」
姫野はそう言って胸ポケットからタバコを取り出し火をつける。手慣れた手つきでタバコを咥え、摘んで吸って白い煙と共に息を吐く。
どうやら姫野はアキに何もするつもりはないようだ。そのことはなんとなくデンジにも分かった。
ただどこか、姫野は寂しそうな顔をしていた。
「私の心臓はここにはない。ここは胃の中……私の弱点は8階にはない」
「私と契約する以外生きては帰れない」
突如として廊下に溢れ出た『永遠の悪魔』はそう言った。ケタケタと笑う無数の口が不気味にも見える。
ゲル状の人間が合わさったような奇怪な悪魔は一つの契約を提示する。それは悪魔の利益と一人の犠牲か、悪魔の損失と全員の犠牲だった。
「これは契約だ……チェンソーの心臓を差し出せ。そうすればお前達全員を外の世界へ解放してやる」
「…デンジ」
アキは…いや、この場の全ての人間がデンジを見た。当の本人は事の重大さを全く理解できていないが、おそらくこの場にいた全員がその特異性を感じ取っていた。
永遠の悪魔は最大限譲歩している。何故皆殺しにして奪わないのかはさておき、永遠の悪魔は、悪魔が持つ殺人衝動を抑えてまでデンジの心臓が欲しいのだ。
アキは考える。デンジの心臓についてだ。悪魔に心臓を差し出せば他の人間は助かる。だが悪魔は得をし、デンジは死ぬ。デンジの心臓というのはそれだけ得があるのだ。悪魔が『見返り』としてこちらを見逃してくれるほどに。
であるならば差し出さないのが公安デビルハンターの職務であり責任である。
だが、より多くの仲間を救うのもまた、公安対魔特異4課隊長の早川アキの責任だった。
「悪魔に利益を与えるなんて論外だ……が、この空間から出られるとも限らない」
隊長としての責任など、今の彼にとっては言い訳に等しい。
今の彼は冷静ではなかった。無限の体積を持つ悪魔。心臓を潰さないと勝てないが、心臓は手の届かない場所にある。命は一つだけ。
命は一つだけ。
「無理だ」
たった一つの命で目の前の悪魔に勝てると、早川アキは自惚れていない。死なずに倒した悪魔など、直近ではヒルの悪魔だけだ。結局のところ早川アキという人間は、凡人の域を出ないのだ。
与えられた『
すでに心は折れかけていた。なまじ今までは全て『死に戻り』によるゴリ押しでなんとか問題を解決していただけに、それが無い今、アキはどうすれば良いのか分からなくなっていた。
背負いこむ。デンジの命と、その他の命。勝てない相手と戦うのはデビルハンターの宿命だが、助けられる命を助けるというのもデビルハンターの宿命だ。
狭まった視野が、二つの選択を提示していた。
だが、そこに待ったをかける者が一人。
「ちょっ…アキ君! どうしちゃったの? らしくないじゃん。いつものアキ君なら難所は全部ぶち壊して来たじゃん!」
「姫野先輩…」
「もしかして悪魔との契約するつもり? ダメだよ絶対。新入りだけどデンジ君だって公安の仲間だ」
「……」
「私の知ってるアキ君は、誰だって見殺しにはしない。いつだって剣一本で悪魔を倒して来たじゃん!」
「それは……」
姫野が語ったものはデビルハンターの理想だ。まやかしの早川アキだ。
早川アキにそのような度量と能力は無い。いくら場数を踏み、経験豊富で技術が磨かれていたとしても、所詮は人間の身体能力しか無い早川アキだ。
超人的な第六感も、人間というディスアドバンテージを補うほどの卓越した頭脳も無い。因果の悪魔と隔絶した領域にいる今、その力も振るえないかもしれない。
頼みの綱が無い早川アキは、途方もなく心が弱かった。
「少し…考えさせてくれ」
そう懇願する早川アキの声は震えていたような気がした。
「ガハハハハ! チョンマゲ! ウヌはこの状況を怖がっておるのか?」
「先輩呼びはどうした…」
「ガハハ!! チョンマゲが! 悪魔を! 怖がっておる!!」
「るせぇなパワー!!」
特異4課の面々はホテルの一室で緊急の話をしていた。題目はデンジの処遇である。何故か永遠の悪魔に心臓を狙われるデンジは呑気にパワーに怒鳴っていた。
この場で最も冷静に事を考えられているのは姫野であった。姫野はまず悪魔の利益を考えた。
「デンジ君。デンジ君の心臓がチェンソーって奴の心臓なのは分かってるけど、どうしてそれが狙われてるか分かる?」
「わっかんないっす」
「そっかぁ…」
「貴様ぁ! もっと真面目に姫野先輩の質問に答えろ!」
扉の近くで部屋の中から悪魔の様子を監視していた荒井が吠える。だがデンジは荒井の存在が全く眼中になかった。姫野の質問に答えた後、すぐに良いベッドを占有しているパワーととっつき合いを始めた。
姫野は自分でも驚くほど冷静だった。頼りのアキは今の状況では頼れないかもしれないというのにそれを身体は全く実感していないようだ。自分の身体のルーズさに姫野自身も笑わずにはいられなかった。笑ってはいけない状況だったので耐えたが。
話は戻る。姫野はデンジから全く情報が掴めなかったことで、別のことを考えることにした。それはこの空間からの脱出である。
今の彼女の選択肢は二つである。一つは悪魔にデンジを捧げて脱出することで、もう一つは悪魔を殺して脱出することである。
意外にも姫野は内心で、デンジを悪魔に捧げることもやぶさかでは無いと考えていた。姫野は自分がかなりの自己中であることを自覚している。正直、出会って間もない新人を悪魔に捧げて特異4課が助かるのなら、その選択をしてしまうかもしれないと考えていた。
この思考になるのも仕方がない。何故なら彼女らには余裕がない。彼女らはすでに悪魔に食べられていると言っても過言ではない。であれば次に起こることが『死』であることは姫野の経験から見ても、火を見るよりも明らかである。
それでも、彼女の頭の中にもう一つの選択肢が残っていた。理由は単純だ。それは姫野が信じる最強最高のデビルハンター、早川アキを信じていることに他はない。
チラリと姫野はアキを見る。姫野から見たアキは表面上は平静を装っているが、どこか落ち着かない様子で…悪く言えば情けなかった。
「ねぇ、アキ君」
「…なんですか、姫野先輩」
信じるとは何だろうか。何を信じ、どれくらいの程度を良しとするのか。浅い妥協か、深い信仰か。もちろんここでそんな哲学的な話をすることはない。
「深くは聞かない。それはいつか飲みの席で聞く」
「…」
深く複雑な話は何もなく、姫野はあらゆる本能、刺激、要因、状況を超越して、早川アキの貫く人性を深く信じていた。
「ただ、私はアキ君を信じてる。私
「…」
デンジとパワーの喧騒すら、もはや姫野の耳にはなかった。
姫野は今、久方ぶりにアキと相対している気分だった。週一の宅飲みですら見せないアキの弱みが姫野の目には爛々と暗く輝いて見えたのだ。
姫野のしていることは要は励ましではある。だが同時に期待していることもある。気づけばどうしても為したいことになっていたソレ。それは今の今まで、早川アキが『最強』となっとその日から、姫野ができなかったことでもある。
だから姫野は、今の言葉をアキに認めてほしかった。心臓の鼓動がトクトクと流れる。姫野は少しの緊張から、ただそれだけの世界に没入していた。
求めて欲しい。言え。私に……。少しだけで良いから助けを求めて!
酷く歪んだように見える彼女の願望。しかしそれは、彼女の拗れた恋が為したものであった。
「……………………」
「…………………………」
「…ッ………………」
「…ふぅん……」
「沈黙は肯定と見なす」とはなんと便利な言葉だろうか。それはある種の文化にも根ざす「察する技術」。
だが明らかに早川アキのソレは肯定では無かった。それには信頼が無かった。バディを組んで約3年、気づけば彼らはそのバディという形すら投げ出していた。
だから姫野は拳を握る。
「優しいね…アキ君は」
そしてその拳は早川アキの頬を捉えていた。アキは予想だにしていなかった一撃を貰いベッドの側に倒れ込む。
「姫野先輩!? 早川先輩!?」
扉にいた荒井の声は誰も聞いていなかった。
そして渦中のアキは今起きたことが信じられないとでも言うように目を瞬かせていた。そのアキの蒼い瞳の中で姫野は涙を流していた。
早川アキは最後の切り札がないのでかなり狼狽えています。呪いの悪魔も無いので今の彼は原作よりも痛々しいです。
姫野が求めていることは些細なものです。