俺の家は、少し前から変になった。
かなり昔に、気づいたら母さんのお腹が大きく膨れてて、気づいたら弟がいた。弟はタイヨウって名前だ。
弟は弱いからいつも母さんや父さんが側にいないといけないし、みんなが俺をお兄ちゃんって呼ぶようになった。
これは変だ。俺は普通に遊びたいのにダメだダメだって止めてくる。弟には興味があったけど、お世話は得意じゃない。
「お兄ちゃん。弟少し見ておいてくれる?」
俺はお兄ちゃんになっても良いって言ってない。だってお兄ちゃんが何か分からないから。
俺の家は俺のだけじゃなくなった。母さんとは話す頻度が減ったし、父さんとキャッチボールすることも少なくなってきた。
なんでもタイヨウは"びょうじゃく"らしい。病気になりやすいんだとか。だから目が離せないってお母さんは言う。
でもタイヨウは元気だ。たしかに風邪によくかかるし、いつも微熱で体調が悪くなることがあるけど、家の中じゃ結構歩き回っている。大きな声ではしゃぐし、俺と何回も遊んでる。
俺が思うに、母さん達は心配症なのだ。たしかに風邪は苦しいけど、死んだりすることはないのに。
母さんも父さんも弟だけ可愛がるんだ。
「今日から1ヶ月ホームステイに来ました。ダインです。出身はイギリス、好きなものは友達です。これからどうぞよろしく」
だから変だ。母さんも父さんも弟につきっきりなのに、知らない人を家に住ませるなんて。
ある日、濃藍色の髪、シルバーの瞳を持った同い年くらいの少年が父さんに連れられて来た。
訳を聞いたが、父さんは「ホームステイを募集したんだ」と言ったきり、タイヨウのところへ行ってしまった。
残されたのは俺と少年だけ。妙ににこやかな少年は俺に手を差し出して口を開く。
「これからよろしくね?」
☆☆☆
11月3日
異質の少年、スレ民の刺客たる因果の悪魔、ダインロットは今、北海道にいた。
どうしてそんなところにいるのかというと幼少期の早川アキが住んでいたところであるからだ。スレ民の意向により、彼は一日かけて早川アキの住所を特定した。
「これからよろしくね?」
「あ…うん」
なんとも普通。それがダインロットがアキに抱いた印象である。
容姿はまだ子供ながらキリッとしていて美形の類だが、特別な才があるとか、贄として優秀であるとか、そう言った何か"特別"なもの…スレ民が固執するほどのナニカを持っているものと思っていたのだが、彼は平凡だった。
ダインロットは『チェンソーマン』を深く知らない。100年ほど前にスレ民にキャラやストーリーを叩き込まれただけで、情があるわけではない。まあそれはお互い様だろう。先ほどから警戒の色が解けない早川アキを見て、彼は笑う。
「何か、聞きたいこととかある?」
かつて名探偵がやっていた名探偵講座「人との関係構築」を思い出しながら、ダインロットはアキと仲良くなるために行動を開始した。
11月10日
結果だけを言うと、ダインロットはめっちゃ懐かれた。
そら(親が構ってくれなくなって寂しい思いをしてるところに話し相手兼遊び相手ができたんだから)そう(なる)よ。
たった1週間、アキとダインロットが触れ合ったのはそれだけだ。しかしたったそれだけでもなお、彼らの間には強固な信頼関係が構築されていた。
「ダイ! キャッチボールするぞ!」
「またぁ〜? 外もう雪降るくらい寒いんだから中で出来るゲームでもしようよ。チェスとか…」
「チェスはうちにない。あるのは将棋だけだ。やれるか?」
「よし! キャッチボール行こう!!」
彼らは遊んだ。一緒にキャッチボールをしたり、街中をふらふらと駄弁りながら歩いたり、弟ができてから抑圧されていたアキの心は優しくほどかれていった。
彼の中にある不可解なことに対しての探究心は一旦置かれ、ダインロットから供給される久方ぶりの"遊ぶ楽しさ"を満喫していた。
そんなこんなで1週間が経過して、今日も今日とてアキは学校帰りにダインロットを連れて駄菓子屋を訪れたり公園に凸ったり小学生らしい所業を行っていた。
遊具で遊んだりするだけでもアキにとっては特別な楽しさがあった。真に全てを共有できる相手ができたと思った。彼にとってダインロットはもはや血縁と同じくらいに近しい存在へとなっていたのだ。
だから彼はかつての探求を知りたくなった。
「ダイは、どうして日本に来たんだ? ほら、留学ってもっと高校生とかがやるものって思ってたんだけど…」
日が斜に構え、世界がオレンジに染まる夕方、アキはダインロットに問う。それはアキにとって、目の前の少年の全てを知らんとするような大事な質問だった。
だがダインロットはアキの想像よりも軽そうに答えた。
「理由って言われても…ただとある人達に行けって言われたからかな。友達みたいな人達だし、まあ別に行きたくないわけでもなかったからね」
「ふーん…意外と物怖じしないんだな。ダイは」
「そりゃあね。これよりも面倒なことにたくさん遭ってきたんだから今更って感じなのかな」
アキはさらに質問を重ねようとしてやめた。それは物怖じしたとかではないのだが、勘がやめておけ、面倒になるぞと彼に告げたからであった。
「じゃあ、帰るか」
いずれ全てを知れれば良い。今はまだ知らなくても、仲良くなってからでも遅くはないのだ。
時間はたっぷりとあって、例え留学が終わってもこの関係が終わる訳ではないのだから。
11月17日
またさらに1週間が経った。この日は生憎の大雪。学校は当然休みで、でもアキにとってはむしろ歓迎することだった。
「ダイ〜、何かするか?」
「何って言われてもすることある?」
「将棋は俺も出来ないし、オセロ…はダイ弱いし…あーあ、ファミコンでもあればなぁ」
家の椅子にだらーっと腰掛けるアキ。対面にはダインロットが座っていた。彼らは暇を持て余していた。
「いっつもは何してるの? することなくない?」
「別に…宿題とか、あと…いや、別にそんだけだけど…」
あまり触れられたくない話題のようだ。ダインロットは人間の情緒に詳しいので、あえて追求は避けてあげた。
だがふと、あれ?と思う。
「そいえば弟のタイヨウとは遊ばないの?」
「……別に、タイヨウには父さんも母さんもついてるさ」
ダインロットは別に"弟を放っておくのか"といった意味で問いかけた訳ではなかったのだが、アキの長年(子供にとっては)の経験はすでに彼をネガティブ思考に陥らせていた。
驚くダインロット。まさか血を分けた兄弟にこれだけコンプレックスに似た悪感情を抱くのかと、そしてそうなってしまったこの家庭環境に。
ここ2週間で掴めた早川家の家庭環境は特別悪くなかった。弟のタイヨウだって身体が弱く病気がちだがそれでもなお明るい性格を保って、アキのことを好いていた。
両親も然りだ。誰も何も悪くない。だが家庭環境はよろしくないらしい。なんでだろうか。
だがこの状況が彼が思うより深刻なのであれば、後の
「そうだね。みんながタイヨウを見てる。けどタイヨウだけを見ているわけじゃない。変えることは難しいけど、変えられないわけじゃない。全くの無意味だけど、今の状況、変えてみる?」
「…何の話だ?」
「君の家庭の話だよ。やっぱりこれからやっていく中で家族仲がそんなに良くないのはちょっと困ると言うか…今後に支障が出る可能性があるというか。頼りになる人曰く希望と絶望の相転移らしいけど…」
「全く分からない」
アキは突然おかしくなった親友を見て訝しむ。だがいつもはあまり多弁ではない彼がここまで言の葉を紡ぐことにアキは少し感動した。ダインロットがアキを心配してくれてると解釈したのだ。
嬉しさと温かみを感じて少し笑う。
「まあ、ダイがそこまで言うのなら」
☆☆☆
「お母さん、絵本読んで」
「良いわよ。どれにする?」
「こないだのネズミの話」
早川家の寝室のベッドに二人、アキの弟と母がいた。アキの弟、タイヨウは生まれつき病弱で些細な環境の変化でも体調を崩してしまう。季節の変わり目なんかは特にだ。
そんな彼であるから、彼の両親は年がら年中タイヨウの世話に明け暮れ、まだまだ幼いアキを半ば放置していた。
病気で苦しい時は、寂しい思いは毒だ。
この家一番の年少に何かあったら酷だ。
親の責任を果たさないと。
そんな意識が両親の間を行き来し、過剰にタイヨウを取り扱っていた。そしてそれはアキも承知のことだった。
「昔々のお話です。田舎に暮らすネズミのところへ都会に住むネズミが遊びにきました」
タイヨウの母はゆったりとした声で聞かせ始める。「田舎のネズミと都会のネズミ」。タイヨウに何回も聞かせた御伽話だ。
この話はつまり、「同じものへの感じ方は人それぞれ」という教訓を孕んだ話なのだが、タイヨウはまだそう言った内に秘められた意味を理解していない。
彼にとって都会は冒険の舞台で田舎にネズミが帰ることはハッピーエンドを意味している。起承転結がはっきりとしていて、分かりやすい内容構成が心地よいので、彼は母に何度も読み聞かせをねだった。
深い意味はない。
「母さん」
「…お兄ちゃん!」
そんな彼らの寝室にアキは現れた。彼は少し膨れっ面をしていたが、不機嫌というわけではないらしい。
タイヨウの母は珍しく訪れた自分のもう一人の息子に目を向け、驚いたような顔をした。彼の身なりは外に行くためのものではなかったからだ。
「どうしたの、アキ?」
アキは弟に興味を持っていない。いつも弟のタイヨウに素っ気なくしていて、楽しげにしているところなんて過去何度あったことか。
無論、アキが能動的にこの部屋に入ることもなく、休みの日に体調を崩したタイヨウの看病をしている父をキャッチボールに誘うとき以外に彼が部屋を訪れることはなかった。
しかし今日は珍しくアキは部屋を訪れた。そのことを母親は嬉しく思った。
「べつに…何してんのかなってだけ」
「アキも一緒にお話してあげようか?」
「…なにそれ」
「『いなかのネズミととかいのネズミ』。ほら、昔よくアキにも聞かせてあげたでしょう」
「もう覚えてない」
なんともいじらしい問答。母親はそんな意地っ張りなアキを見て小さく笑った。ここ最近いつも弟の件でピリピリしていたアキの子供らしい一面を覗いた気分だった。
そして母親は今日朝起きてから一度もアキと会話をしていなかったことに気づく。アキの子供らしさと母親としての行為を鑑みて、アキが弟に冷たく接している理由が分かった気がした。
「ごめんね、アキ。いつもお兄ちゃんでいてくれてありがとう」
「な、なんだよ急に」
「いや、思うことがあって…ね。偉いねーアキは!」
「ちょ、やめろよっ!」
アキの母親はアキの髪をさらさらと撫でる。今日は外向きの格好では無かったから、アキは母の蛮行を止める帽子を被っていなかった。
ただ、母との久方ぶりのスキンシップは案外悪いものでは無かった。
「さあほら、座って座って」
気づけば母はベッドの側の椅子に座っていた。そしてアキにベッドの端を勧めた。そこはタイヨウにもっとも近い場所だった。
ごくり
緊張が背筋を伝わる。普段からタイヨウを突き放すような態度を取っていたアキではあるが、今の目的は家族、とりわけタイヨウと仲良くすること。だから彼にはやらなければならないことがある。
その目的を果たすため、彼は勇気を絞り出さねばならぬのだ。
「……」
「………っ」
アキはタイヨウが寝転がるベッドの横端に座った。その間、アキとタイヨウの間に会話はない。
アキは焦る。いつもは出会うとすぐに話しかけてくるくせに今日はいやに静かだなと。そしてタイヨウが怒っているかもだなんてらしくないことを考えるようになった。
膝のズボンの布を握りしめる。アキに勇気は出せない。部屋に入ったときから甘えを出していた。それが彼の中ではすでに取り返しのつかないミスになってしまっていた。
そんな痛い沈黙の最中、母親が読み聞かせを始める。
「初めからね」
"昔々のお話です。田舎に暮らすネズミのところへ都会に住むネズミが遊びにきました。
田舎のネズミは喜んで、木の実や作物を集め、心を込めて食事を準備しました。
でも都会のネズミは喜んでくれませんでした。
「僕らの楽しみというのは食べることさ。なのに君はこんな粗末な食事で満足しているなんて!」
田舎のネズミはしょんぼりとしました。
さすがに言い過ぎたと思った都会のネズミはそうだ、と田舎のネズミを都会に招待しました。
2匹のネズミは都会につくとある一軒家で止まりました。
「これがボクの住んでいる所さ」と都会のネズミは言いました。
その家のなんと大きかったことでしょう。
都会のネズミの家族は田舎のネズミを歓迎しました。
「ようこそ我が家へ。好きなだけいると良い」
早速都会のネズミは田舎のネズミをテーブルへと案内しました。
そのテーブルにはパン、チーズ、肉、果物と美味しそうな食事がずらっと並んでいました。
田舎のネズミは驚きました。
「毎日こんな食事を食べられるなんて君は幸せ者だな。それに比べて田舎に住む僕はなんて不幸なんだろう」と呟きます。
そしていざその食事を頂こうとしたその時、突然後ろのドアが開いて人間が入ってきました。
「あっ! 捕まったら殺されるぞ!」
2匹は肝を冷やして逃げ出しました。
田舎のネズミはガタガタと震えてました。
「さあ、人間はいなくなった。おいしいチーズを食べよう」
都会のネズミはそう言って励ましますが、田舎のネズミは震えています。
そして、
「僕はもう帰るよ」と言いました。
「え、まだ何も食べていないじゃないか」と都会のネズミも言います。
「僕は美味しいものをたくさん食べることが幸せだと思っていた。けどそれは本当にそうなのかな。僕は考えてみたいんだ」
田舎のネズミはそう都会のネズミを振り切って、帰っていきましたとさ。"
絵本を閉じる。
「面白かった」
微かな沈黙を打ち破るようにタイヨウがそう言う。その目はアキに向いていた。
「…うん面白かった」
だからアキも、自分の言葉を吐き出した。
「…そう。兄弟揃って好きね。この童話」
母は二人をその目に収め、少しニヤッと笑って言った。そこにはタイヨウの母ではなく、アキとタイヨウの母がいた。
アキは少々ガサツなためこの状況は些か照れてしまうが、嫌な気持ちにはならなかった。アキの人生の中で最も"今の家族"と向き合っていると、アキはそう思った。
今ならば、勇気を出せる。彼は若芽の勇気を振り絞った。
「タイヨウは、田舎のネズミと都会のネズミ、どっちが好きだ?」
「ぅえ!? ボクは、その、田舎のネズミが好き。だって、ボクは…いや……田舎のネズミは、これからいっぱい楽しいことがあると思うから、好き」
ぎこちない応答。しかし真摯に応えてくれた。田舎のネズミが好き。安寧を求め、危険を嫌う性分だと分かった。
アキは安堵した。これでもし答えてくれなかったなら、もう何もすることは出来なかっただろう。せっかくの勇気も燃えるゴミに捨てられるところだった。
そして勇気とは、伝播する。もしくは、再燃する。
まるで人生大一番の心持ちでアキはタイヨウとの会話を試みた。彼はそうしなければならないと心の底から思ったのだ。
2週間の付き合いの留学生のことは関係なく、今ここで、気づけばまとわりついていたこの負の連鎖を断ち切らねばならないと奮起した。
「タイヨウ…具合は大丈夫か」
「え、うん。ちょっと熱がある」
「好きなものとかあるか」
「えっと、絵本」
「なにか、俺にやって欲しいことはあったりするか」
「…一緒に、遊んでほしい!!」
縋り付くように言葉を発したタイヨウ。微熱のある微かな顔は希望で満ちていた。輝かんばかりの笑顔は、アキに向いていた。
まるで、今この瞬間が最も幸福だとでも言わんばかりのそれに、アキは照らされた。
「━━ぁ」
その姿を見て、アキはタイヨウに望まれていたと悟る。今までロクに相手にしていないはずなのに、アキは望まれていた。
そしてアキもまた気づく。己が「兄」を全うしなかったことに。自分ばかり求めて回って、無知蒙昧な堂々巡りを繰り返していたことを知った。
なんて愚か、なんて薄情、母を求め、父を求めていたくせに、兄を求める弟に冷たくあたったのは、アキだった。そんなもので得られるはずがない。
真っ当がまかり通るのは、それ相応に周りが真っ当であるからだ。出来ない自分に適応されるはずがなかったのだ。
後悔、幼さゆえの愚行に羞恥すら湧き上がらない。曲がりなりにもプライドがついた小学生の気概が自分を情けないと罵っていた。
酷い気分になってきた。だが今気づけて良かった。「兄」は「弟」を支え、「父」と「母」がさらにそれを支える。それが完成形。
それをもって、俺らの関係は「偏り」を抜けて、「普通」になる。
だから…
「明日! …明日、もし晴れたら、キャッチボールしよう」
「…うん!」
俺は、変わらなくちゃいけないんだ。
11月18日
約束の日、アメリカで銃を使った大きなテロが起こった。
そして、銃の悪魔が現れた。