「はあ、はあ、はあ…はあ…!」
水平まで続くほどの銀世界を駆ける。足跡は地面が割れるように刻まれ、処女雪はどこまでも無垢に純粋だ。
駆けた熱気が冷気を絆し、白い息へと生まれ変わる。朝方のように綺麗に輝く空はどこまでも青かった。
そんな世界を駆ける。
「はあ…! どこだー! タイヨウ!!」
彼は弟を探していた。キャッチボールを終えて家に帰ったはずが、家には誰もいない。今日は休みのはずで、身体の弱いタイヨウは家から出ることはないと考えるとあまりにもおかしい。
火照った身体とは対照的に彼の顔は蒼白だった。必死に、血眼になって探す。全てはタイヨウの安否が心配なためだ。
馬鹿、ありえない、家にいるはず、でも、寝ていて気が付かなかっただけだ、まさか、あれだけ叫んで、家にいなかったら、もし、もし、
もし、
死んでしまったら。
「いやだ」
疲れた身体に力が入る。途切れ途切れの息の中、アキは感情を押し殺すように歯噛みする。
タイヨウが危ないんだ。俺が、守らなきゃダメなんだ。
静寂の世界を走る。生命の気配は無く、どこまでも白が続いていた。どこにもいない。アテもない。ただガムシャラに走るだけ。
無謀の所業。幼い彼の愚行だった。この広い銀世界の中で一人の人間を見つけ出すのは至難の業だ。そも方向が合っているのか、距離はどうかなど不確定なことも多い。
だが彼にはそんなことを気にするだけの余裕がなかった。
「絶対に嫌だ」
約束を交わした。いつかにまた、一緒にキャッチボールをしようと誓った。できないなんてあっていいはずがない。約束したから、駄目なんだ。
タイヨウを連れて行かないでくれ。
「アキは、都会を知るべきだ」
ふと、声がした。振り向くとそこには彼の親友がいた。
「ダイ…」
ダイと呼ばれた少年は妙に神秘的で、儚げで、それでいて活気を纏っていた。アキはその姿を認めて安堵する。かの少年ならば、この問題を解決してくれるだろうと、そう勝手に思った。
「お兄ちゃん!!」
またさらに後ろから声がした。またもや振り返る。
そこにはアキの弟であるタイヨウが寒さで顔を赤らめた状態で元気に立っていた。なんなら手も振っている。
白と青の境界で、タイヨウは笑っていた。
アキもここにきてようやく身体から力を抜いた。無事なら良かった。早く家に帰ろう。風呂に入れなきゃな。風邪をひかれても困るからな。そんなことを思った。
アキも笑顔を作る。タイヨウは笑う。ダイは無表情で言った。
「あーあ」
そしてアキの目の前でタイヨウが白の暴虐に身体をバラバラに壊され━━━━
「っはあ!!!」
カチッカチッと時計が規則的に無感情に鳴る。真っ暗な部屋のベッドでアキは飛び起きた。
混濁した記憶から今の状況を探る。己の精神が誰かに無茶苦茶にされた気分だった。正しく酷い気分だ。
「…チッ」
また悪夢を見た。かつてのように家族が殺される場面を延々と見せられるのだ。正気の沙汰ではないし、正気ではいられない。
悪夢の後は、いつも世界が吐瀉物を吸った雑巾のように感じられた。真っ暗な部屋で延々と時が過ぎるのを待って、自分の激情が時の流れで収まるのを待って、いつも虚空を彷徨うように思考を巡らせる。
それがいつものルーティン。成長してもなお、止まない悪夢が彼のパートナーだった。
銃の悪魔事件から早くも8年、アキは16歳になっていた。
起床したら、まずはうがい、そして顔を洗う。鏡に映る死んだ目の青年を無視して台所へと向かう。朝飯は安い二等分の食パンと目玉焼き。パンをレンジで焼き、卵を割る。
アキは都の郊外のマンション一室で生活していた。10畳くらいのそれなりの部屋で、机一つとベッドが置かれているだけ。吹き抜けも悪いし全体の建て付けも悪い窓は朝の明るさに染まり、室内は明るさを取り戻す。
そして同居人が目を覚ました。
「あさか…………………。」
いや、寝た。
アキはそれを片目に内心くたばれと罵りながら焼いた目玉焼きをこれまた焼いた食パンに乗せる。そして同居人を気にせず食べ始めた。
この一人でいる時間が早川アキの心休まる唯一の時間だった。
食べ終えたら片付けて、洗濯して、気分転換にと散歩に出る。高校は今日は休みである。
春の陽気なんて、陳腐な言葉が似合う晴々とした今日この頃、アキが散歩に出かけて数分、同居人が目を覚ました。
「ねむ、ねむい…5月2日土曜日朝7時半………7時半に散歩!? はぁ…現役高校生はなんて規則正しい生活基準なんだ……」
開口一番、アホらしい言葉を吐き捨てたのはヤギっぽい角を持った少年、因果の悪魔ダインロットだった。彼は長年培ってきた規則に左右されない生活の負のループから抜け出せずにいた。
悪魔には義務も権利もない。毎日ぐーたらしても怒られることはまずないし、悪魔界の弱肉強食の中でもトップに君臨する彼は死の気配に怯える心配もない。
頑張らなくても生きられるのだから頑張ることはない。それが全てだった。
いつもであれば。
「5月初めの休日。This is 今日。つまり、始まりの日か…」
早川アキは16歳。高校一年生になった。8年前から画策された「とある計画」は遂に本格的に実行の時を迎えようとしていたのだ。
☆☆☆
暖かく心地の良い昼下がり、アキが洗い物をしているときにダインロットはコソッと隣につき、話しかけた。
「アキ、毎度毎度こんなこと言うのはそろそろ飽きてきたんだけど、僕と契約しようよ」
「あー、洗い物してるから」
「いや、いっつもそうやって何かしら理由つけて避けるからさあ!」
「はぁ…何か一つお菓子買ってやるから…」
「舐めるな! 今は子供の状態だけど成熟した姿にだってなれるんだよ。ってかアキよりも年上だからな?」
「あー、そうだったな」
アキはうだうだと話をずらしていく。目は洗い物に向いたまま、隣の同居人には一瞥もくれない。
もはやそれが平常運転へと成り下がった日常、ダインロットはさらに続ける。
「アキも高校生じゃん? そろそろ悪魔退治のために身体作りしないといけないんじゃない? 手伝うからさ!」
「身体作りはやってるし、別に手伝いはいらん」
「筋トレごときで悪魔に勝てるわけないでしょ」
「うっせぇ」
はあっ とアキはため息をついた。そして初めてダインロットへと顔を向けた。その瞳は平坦な感情を写していた。
「じゃあ、契約したら悪魔を殺せるようになるって?」
「そだよ」
「悪魔のお前と契約して? 悪魔を殺すのか?」
「いや、公安はそうやってるじゃん。知ってるでしょ?」
「……」
アキは契約の話を持ち出されると不機嫌になる。それはいつものこと。悪魔と契約を交わしてはいけないなんて、昔から子供でも知ってることだ。
犯せば重罪。普通の生活は望めない。噂では公安の人体実験の餌食になるとかならないとか。アキが契約を結ばないのはそれが理由だろう。
いや、本当にどうしよう。
「ほら! 契約してくれたら家のお手伝いするよ! その皿洗いもするし、料理も手伝うし、なんならバイトとかもするから!」
「ふーん」
「!? なら洗濯物も毎回はめんどいけどやる! あと━━━」
「なに手応え感じてんだよ。普通に無理だろ」
「━━っ!?」
洗い物を終えたアキはダインロットを隅々まで観察する。そして気だるげな様子で肩をパンパンと叩いて言った。
「銃の悪魔は体長100mだとかそれ以上だとかそんな噂が流れてる。それに対してお前の身長は精々140cm、138だったかな。まあそれくらいだ。何が言いたいか分かるか」
「えっ…と?」
「お前と契約しても銃の悪魔を殺せる保証がない。他に急くべき理由がないのなら、お前と契約する理由はないんだ」
あと、家の手伝いは普通にやれ。アキはそう言ってリビングに歩いて行った。
おう、喧嘩か?
19時半
『襲撃は、暗くなったときにやるんやで』とは名探偵の談である。
「襲撃」とは「アキ補完計画」での契約及びチュートリアルフェーズを担当している。
作戦は至ってシンプル。悪魔を嗾けて、アキとの契約をもぎ取る。そしてダインロットの力を使って戦ってもらう。それだけだ。将来の身体の消耗を抑えるために必要なことなのだそう。
というわけで、
「アキ、悪魔だ」
「は?」
ゴゴゴッという地鳴りのような音が鳴って、部屋の壁が吹き飛んだ。
マンションの一角、アキが住んでいるマンションの部屋が突如として破壊されたのだ。
アキはダインロットに守られて無事だったが、部屋は悲惨である。綺麗好きなアキが苦労して掃除した部屋の秩序は崩壊した。
「はあ!?」
アキは先ほどの言葉と今の状況が繋がり驚きに包まれる。だが時間は待ってくれない。襲撃者はその鋭い鉤爪を目に追えないようなスピードでアキに振るう。
だがそこで待ったがかかった。その振るわれた必殺の一撃はダインロットの手のひらで受け止められた。その柔らかそうな手は鋭い鉤爪を物ともしない。
襲撃者は驚いた様子で後ろに跳躍し様子を伺う。困惑しているようだ。
粉塵舞う崩れた部屋の端でアキは放心していた。状況が飲み込めない。苛立ちすらも感じとれないほどに空虚な気分だった。
しかし、よく分からない状況ではあるが一つはっきりとしていることがある。
選択肢を間違えれば、死ぬ。
そしてそれは正解だ。暗闇の中で襲撃してきた悪魔のグルルッという声がアキを現実に引き戻した。
「ダイ!! 無事か!!」
「え、うん。これくらいなら」
「そうか…」
ほっと安堵するアキ。同居人の安否は分かったが依然として最悪な状況なのには変わりない。
悪魔という生き物は強い。年間何千という人が悪魔に殺されるのだから強いのは当たり前だが、彼らと人間では生物としての格が違うのだ。
丸腰の人間一人と人間っぽい弱そうな悪魔1匹。いつ死んでもおかしくない。
「ダイン。お前、あいつ倒せるか?」
「余裕だよ」
「そうか、ダメか……は、できるのか!?」
「そりゃあ、あんな木っ端悪魔なんて一捻りで殺せるよ」
「じゃあ、早く! 早く倒してくれ!」
普段であれば絶対に疑う言葉も、今では心強い言葉にしか聞こえない。アキも冷静になってきて、正しく焦りが出始めてきた。死の恐れである。
嘆願の声を上げる。だがダインロットは動かない。動こうとしない。その姿を見て、アキの中で困惑と怒りが湧いてきた。
「何やってんだよ! 早くやれ!!」
「あーあ、契約してほしいなあ…」
「っ!?」
その言葉を聞いた時、怒りで頭が沸騰しそうだった。まさか目の前の悪魔はこともあろうに8年間共に過ごしてきた家族のような存在を助けようとしないどころか、この時ですら契約を迫ろうとするのか、と失望にも似た怒りが込み上げる。
こっちはお前の世話を焼いてやったんだぞ!?
もう意味がわからなかった。何度も何度も何度も何度も契約契約と戯言を垂れ流し、毎日迫る悪魔の姿に苛立ちが治らなかった。溢れ出した激情が最後の理性も吹き飛ばし、正常の境界を超える。自暴自棄にも似た憤激の感情が鮮明にアキの心を塗り替えた。
「クソッたれ!! いつもいつも契約契約ッ!! 分かった…! 分かったからさっさとあの悪魔を倒してくれ!!」
「じゃあ、契約だ。僕の力を貸してあげる。代わりに君は僕の言う━━━」
「は、違うだろ」
「へ?」
「俺が契約して
「あ」
やられた。そう思う頃には契約は結ばれた。普通なら人間から迫る契約。逆パターンだから失念していた。主導権は迫られる方が握っていることに。
契約を何度も迫っていたことが裏目に出た。「契約を結ぶこと」が対価になり得ると判断されるなんて聞いたことがない。
なし崩しよりもひどい体裁だ。この契約は早川アキに対価を要求できない。
てかちょっと冷静になってないか!?
「馬鹿な、対価無しの契約なんて…」
「お前は俺と契約が結べるという多幸感を対価として、契約したんだ。ダインロット。だから早く、あの悪魔を倒してくれッ!!」
一つ救いがあるとすれば、この契約は無期限ではないことだった。永遠の無賃労働奴隷の契約ではなく、あの木っ端悪魔を倒せば終わり。計画に支障が出るほどでは無かった。
これだけ軽い契約だからこそ、対価が無しにも等しい契約を結べたとも言える。
アキが契約に疎くて助かった。ダインロットは微かな怯えとともに次から契約を懇願することはやめようと決意した。
「まあ、ちょっとは進展したということにしておこう…そうしよう…」
アキが不完全とはいえ、契約を結んでくれた。最善ではないけど、今回はこれで満足しよう。
ならばと、ダインロットがするべきことは定まった。疑われている実力をアキに見せつけてやるのだ。アキが自分の前で契約を懇願するほどの力を見せつけて本契約を取り付けてみせる!
だから目の前の悪魔は盛大に倒さないとね。
そしてダインロットは振り返り、未だに退いている悪魔に向かって宣言する。
「この部屋はさっきの衝撃でガス管が破裂し、漏れ出たガスは偶然ついてしまったコンロの火に着火。ガス爆発を起こしてお前は死ぬ」
「因果収束」
その言葉を聞いた悪魔は何かしらの攻撃を警戒して横にズレる。そしてズレた場所はキッチンだった。そのまま鉤爪がコンロを破壊し━━━
爆発、轟音。
破裂音にも似た衝撃がアキを包み込み、アキの部屋は爆発炎上した。
天井は崩落し、悪魔は燃えて、潰され、原型を留めなかった。
契約は一分で果たされた。
ダインロットには強気を貫くアキくん。
《原作開始前》は多分この一連が終われば終了です