辰カタネという人物は、トリニティのティーパーティーだけでなく、ゲヘナの風紀委員会にとっても要注意人物として名前が挙がる人物であった。
去年の暮れに突然どこからか流れ込んできたその危険人物の情報は、情報部による調査によってその行動の不透明さが明らかになることで瞬く間に警戒リストに加えられた。
その警戒度の高さは、ティーパーティーが非公式とはいえ外部の人間である空崎ヒナを自分たち主催のお茶会に呼ぶという異事を発生させたことからも察することができるだろう。エデン条約を前にしていたとはいえ、異なる自治区の風紀委員長を自分たちの懐に招くという判断を下すほどにはその危険性が訴えられていたのである。
その集まりから戻った空崎ヒナが下した判断が当該人物の最重要警戒対象への引き上げであったことを考えれば、そのトリニティ側の警戒も大きく外れたものではないと考えられていた。
そこからいくらかの事件とその調査を経ても、その評価は変わらなかった。
戦闘能力の評価は落ちた。度々重傷を負っている彼女の姿が確認されていたし、回復力もそこまで特筆すべき点はなかったからである。
しかしその行動の破天荒さについては実績も相まってどう転ぶか判断がつかず、最新の査定においても最重要警戒対象であり続けている。
SRTの部隊と協調してのブラックマーケットに拠点を置く組織の排除に始まり、攻撃部隊を引き連れて突然のゲヘナへの訪問、そしてD.U.の廃テーマパークへの遠征、終いには戒厳令を無視して出撃し、誰も気が付くことができなかったアリウスの伏兵部隊と衝突しこれを練度で劣るはずの部隊で無力化して見せた。
最近ではシスターフッドの長と密談する姿も度々目撃されており、その会話を完全防音の個室でする徹底ぶり。最近ではスパイとして潜入していたはずの花羽リツカが寝返った可能性があるという連絡が入ってきたことで、エデン条約の調印式で何かを企んでいる可能性も懸念されていた。
花羽リツカの裏切り自体は疑心暗鬼に陥っていた桐藤ナギサの勘違いであったが、彼女がプエラ分派に取り込まれたことは本当のようで、所属をフィリウス分派に戻していないことが情報部の調査で確認されている。
それ故に彼女をエデン条約の調印式に参列させるという話を聞いた空崎ヒナは、自身の耳を疑ったものだった。
すぐに情報部に詳細を調査させれば、出てきたのは非武装でティーパーティーとして振る舞い、旗手として会場の外に並ぶ手筈になっているということ。情報も完全にシャットアウトさせているようで、会場の案内も当日別の場所から連れて行く形で対応するようだった。
これならば確かに要人に危害を加えるチャンスは彼らが旗手の前を通る一瞬だけ。衆人環視の中でそんなことをしようとすれば、本人の身体能力自体は高くない彼女を抑えるのは容易いはずだ。
そう納得して当日を迎えたものの、襲撃を受けたときにまず彼女のことを疑ってしまったのは仕方がないことだったように思う。
しかし、すぐに状況を判断して彼女がいた場所さえも襲撃に巻き込まれていたのを見て取り、彼女は先生を救出しに移動した。
その後ほどなくして敵がアリウスだと判明し、空崎ヒナの頭から辰カタネに関することは完全に意識の外に追いやられた。
故に、一度完全に折れた空崎ヒナが戦場に戻ってきて先生の指示を待つ中、予想外の方法で戦場に闖入してきた彼女に気が付いたのは単なる偶然でしかないのである。
それでも、彼女が文字通り地下から這い上がってきたのに最も早く気付いたのは自分だろうと、空崎ヒナはそう思っている。
戦場のど真ん中に唐突に出現した気配にヒナが視線を彷徨わせれば、比喩でなく地面を持ち上げて、加えてゲヘナ学園の旗を持って要注意人物である辰カタネが現れた。ヒナが自身の目を疑ったのも無理はないだろう。
自身とそう変わらない身長の少女が、分厚い地面の岩盤を持ち上げてその隙間を通って地上に上がってきたのである。やれば真似をできる力を有している自信はあったが、それでもそれを実行しようとは露ほども思わない。そんな危険な行為をして体力を使った上でこの戦場の真ん中に顔を出すような真似、酔狂にも程があると言わざるを得なかった。
「私には、好きなものがあります!」
そう叫ぶ少女の声が耳に入らないほど、ヒナの頭は混乱する。
地上に上がってきたカタネがこの状態を知っていたかのように平然と通信を始め、こちらに歩き出したからである。しかも地上に上がってから近くに転がっていたトリニティの旗も拾って、瓦礫の山の上の方に歩いているのである。
彼女が何を考えてそんな行動をしているのか、ヒナは考える。
まず考えたのは、以前から警戒されていたように彼女が裏で糸を引いている可能性。
この場で一番危険なのは彼女がこの場を荒らすために出てきた場合で、その場合は真っ先に彼女を潰す必要がある。しかしその場合はトリニティ所属であるカタネをゲヘナ所属である自分が叩くという構図になってしまい、今まさに先生の旗下で団結しようとしているこの状況から考えると要らぬ不和を招く可能性がある。それ故にヒナ側からはなかなか手が出しずらく、ヒナとしては向こうに並んでいるのが見える正義実現委員会に彼女をどうにかしてもらうのを期待するしかない。
しかし、辰カタネ率いるプエラ分派が最近正義実現委員会と良好な関係を築いているという情報をヒナは知っている。その関係構築が今この場面で攻撃されないようにするためなのだとすれば、ヒナが取れる手段は諦めて彼女の策を正面から破壊する以外になかった。
次に考えたのは、先生が別動隊として彼女に何かを頼んでいた可能性。
当然ながらヒナは先生の行動を全て把握しているわけではないし、その意図を全て聞いているわけでもない。先程のアビドスの対策委員会を呼んでいたことも聞かされていないのだから、先生がカタネに対して何か別の指示を出して動かしていたとしても全く不思議ではなかった。
しかも先程彼女が現れたのは地下からである。今回の襲撃犯であるアリウスが通功の古聖堂の地下から現れたことを考えれば、先生が彼女に地下の探索及び別の任務を頼んでいたと考えた方が自然なのかもしれないとヒナは考える。
しかし、先程待機中に聞いた報告でそれはありえないと頭を振るう。
その情報が正しければ、辰カタネが地下へ落下したのは先生が目を覚ます前である。であれば先生の指示で動いていたとは考えづらく、今回の彼女の行動はただの独断である可能性が高いと考えられる。
「私たちの、青春の物語を!!」
空が晴れていく。
それをまるで予定通りとでも言うように笑みを浮かべるカタネの姿を捉えていたのは、この場においてヒフミではなくカタネを注視していた空崎ヒナただ一人だけであろう。
この奇跡は全て彼女の手のひらの上なのでは。
そんなことを考えてまさかと首を振ろうとしたヒナの耳に、先生の声が驚くほど鮮明に届く。
「"ここに宣言する。私たちが、新しい
たったその一言で、ユスティナ聖徒会の統制がおかしくなった。
その様子に目を瞬くものがほとんどの中、カタネだけがそれを当然のことのように受け入れ、まるでその結果に酔いしれるかのように空を仰いでいた。
その様子にヒナは確信する。
辰カタネは、この事態を引き起こせることを知っていた。目の前でつい先程起きたことは奇跡などではなく、起こるべくして起こされた再現可能な事象なのだ。
辰カタネは地下で、この事象を起こすための準備をしてきたのだ。恐らくはアリウスが地下のどこかで準備していたユスティナ聖徒会という
辰カタネがこの場に現れたのは、仕込みが終わってその結果を見ようとしただけの話。
これはただカタネが先生を英雄にするために仕立て上げた舞台で、先生や生徒たちの行動を読み切ったカタネが賭けに勝ったというだけの話なのだ。先生の思想を理解していた彼女が全てお膳立てをして、分派の人間を使って盤面を調整して巻き起こした
「――道は示されました」
考え込んでいたヒナの耳に、カタネの声が飛び込んできた。
意識を現実に引き戻した瞬間に目の前に飛び込んできた景色に、いつか見た女神の絵画を幻視させられたのは、きっとヒナだけではなかったことだろう。両の腕を広げ二学園の旗を掲げる辰カタネは、まるで宗教画のような神々しささえ感じられた。
「
堂々と言葉を口にする彼女の姿に、ヒナは辰カタネという人間が
何のために彼女はこんなことをしているのだろう。
何のために彼女は今まで疑われるような行動を取っていたのだろう。
こうしてエデン条約を為すための行動をするのならば、最初から反抗する姿勢など見せなければ波風立てずに事を進めることもできたはずなのに。
「
風が吹いた。吹き上げるような風だ。
大きく旗が風に
今この場で彼女だけが見下ろしていることも相まって、まるで彼女が自らがこの二つの自治区を見守る柱となるとでも言っているように錯覚してしまう。
「思うところはあるでしょう。恨みも怒りも、憎しみも少なからず存在するでしょう。それを忘れろとは言いません。今すぐに手を取り合えとも言いません。私の言葉を信じる必要もありません」
彼女は大げさに声色を変え、しかしまっすぐに皆に伝える。
それらは先程まで難しく考えていたヒナの思考を溶かすようにスッと彼女の心に入り込んで、カタネへの疑念を捨てさせるのには十分だった。
「ですが今この
ここまで言うのだ。
自分の言葉などどうでもいいと。ただ先生の事だけは信じて欲しいと。
どこまでが彼女の想定内であったかはわからないが、辰カタネの行動がこの瞬間のためであったことは疑いようもない。自分たちの団結を信じ、真にエデン条約の成立を信じてそこに立っているということは、誰の目にも明らかだった。
もう彼女の行動を疑う必要はないだろう。
あの奇跡が彼女が用意した仕掛けであったとしても、我々生徒に希望を与えたことは間違いないのだから。
「"それじゃあ、反撃と行こうか"」
その先生の号令に、ヒナも武器を構えて戦闘態勢を取る。
動き出した補習授業部の面々を補佐するように指示を出しつつ、自分たちの道を開くために攻撃を加えていく。
少し先に青い巨体が現れたのを見て、イオリたちを応援に向かわせる。
しかしそれでも暴れる巨体に苦戦しているようで、巨体が大技の予備動作のような行動を始めたのを見て慌ててヒナも加勢に行こうとした瞬間、突然どこからか攻撃を受けたのかその巨体が大きく仰け反った。
見なくても分かる。辰カタネの援護射撃である。
そこから一気に形勢を逆転した補習授業部たちは、あっという間に怪物を消滅まで追い込んだ。
それを見届けながら、帰ったら最初の仕事は彼女を最重要警戒対象から通常の警戒リストに戻すことになりそうだなとヒナは考える。流石にいきなり解除というにはこれまでの行動が積み重なりすぎており、今後も経過観察は行うことになるのだが、以前ほどの注視はしなくてもいいかもしれないと思ったのだ。
「やあやあ、風紀委員長ちゃん。私たちも手伝うよ~」
トリニティの正義実現委員会やアビドスの廃校対策委員会とも合流し、息をつく暇もないまま、そのまま次の戦闘へとなだれ込む。
ふとヒナが先ほどまでカタネがいた場所を見れば、そこには『エデン条約は為された』とでも言うように、二校の旗だけが残されていた。
これにてエデン調印式編完。ヒナからの警戒も解けました。
しかし調印式が終わったということはあの人が帰還します。書きたかった幕間がついに書ける。
コロナのせいで長い休憩を挟んでしまいましたが、実はもう主人公の物語の終わりは近いです。
いつも通り4話分の幕間が終わればそのままカタネのお話は最終章に入ります。
完結までは幕間4話→最終章(たぶん8話)→蛇足4~8話になると思います。
長くてもあと1か月ぐらい。最後までお付き合いいただけますと幸いです。