51.そうして箱舟は侵攻する
男が『箱舟』の存在を観測したのは、手元にあった研究材料の一部が消えたのとほぼ同刻のことであった。その性質上取り扱いを間違うと危険なことになると認識はあったが、もし盗んだ者がその研究材料の被害に遭ったのならば自業自得だと考えてその事態を軽視した。
目の前に『箱舟』という格好の餌も下がっていたこともあって、黒いスーツに身を纏った男はそれが何を意味するのかを深く考えることを行わなかった。もし男が『箱舟』がわざわざその存在を晒した理由に気が付くことができていれば、事態の解決はもっと容易だった可能性があるだろう。
男が自身の研究対象との連絡が不可能になっていることに気が付いたのは、『箱舟』の観測から数日後、自身が死の神アヌビスに襲撃されて自身の秘術たちが奪われたことに気が付いた後の事であった。
アロナが異常に気が付いたのは、自身が先生の手から離されその身を案じている真っ最中の事。
突然負荷を掛けられてシャットダウンさせられてしまったこともあって、前日のデータと差異が無いか照合を行っていたのである。
とある少女と先生のモモトークの履歴が消えてしまっていることに気が付き、モモトークのサーバーへ過去データの検索を掛けたのだが、アカウントごと完全削除されてしまったのか、そこも空っぽになってしまっていたのである。サーバーの方に残っていなくともせめて自分の過去バージョンに残っているトーク履歴だけでも取得しておこうと思って確認しても、そちらも彼女に関する何もかもがきれいさっぱり消えてしまっていて、復元が叶わない。
あの少女は先生が最近気にかけていた生徒のはずである。
それなのにも関わらずモモトークのデータを紛失してしまった。こんな大失態をどう先生に報告しようかと悩んでいるうちに先生の手に戻り、事態はめまぐるしく動いてしまう。
そして結論が出ないまま、ついに先生から今まで出会った生徒全員に協力要請をとお願いされてしまった。
そこでアロナはついに観念して、先生に『辰カタネ』とのモモトークデータが消えてしまっていることを打ち明ける。
怒られることも覚悟して、ぎゅっと目を
しかし、先生から返ってきたのは予想すらしなかった返答だった。
「『カタネ』って、誰だっけ?」
冗談でも先生はそんなことを言わない。ということは、先生は本気で忘れてしまっているのだ。
慌ててアロナはトリニティのプエラ分派の生徒だと示すべく、その写真を出そうとして、彼女に関するデータだけでなく、プエラ分派全員の記録が世界から消えていることに気が付いた。
そして本来プエラ分派があったはずの場所がもぬけの殻になっているという反応を返していることに気が付いて、アロナはそれを言えないまま事件の対処に追われることになった。
「あれ? セイア様、今日もお出かけになるのですか?」
部下に声を掛けられて、百合園セイアは足を止める。
昨日のお茶会の後に連絡を受け、今日も行うことになっていたはずだと昨日説明したはずなのだが、彼女の部下はどうやら忘れてしまっているようだ。
故に昨日設定したスケジュールを見せようと自身のスマートフォンを開いて、首を傾げる。
「おや、おかしいね。確かに昨日、今日の予定を設定したはずなのだが」
彼女が開いたスマートフォンのスケジュール帳には、今日の日付で人と会う予定は一つも入っていなかった。
不思議に思って日付を間違えたのかと月表示に切り替えるが、他の予定は全部見覚えのあるもので、履歴を見ても誤って削除してしまったスケジュールがある様子はない。
「セイア様、そもそも昨日は誰と会っていたんでしたっけ?」
「おや、それも忘れてしまったのかい。君も警戒していた彼女だよ。えーと、あれ、彼女はなんという名前だったかな」
昨日、誰かと会っていた記憶はある。
しかし、それを思い出そうとすれば記憶に靄が掛かったかのようにぼやけてしまって、形が定まらない。
そもそも昨日は、本当に人と会っていたんだったか。段々自分の記憶が疑わしく思えてくる。
「でも、そうだね。昨日と同じ場所に行けばきっとやってくるさ」
「また『勘』ですか?」
「ああ。もしお昼まで誰も来ず、連絡も来なかったら戻ってくるさ。先程出かけようとしていたんだ、予定は午前中のはずだからね」
そう言って昨日と同じ場所に向かった彼女だったが、時間ギリギリまで粘ったものの彼女の茶会に生徒が現れることはなかった。
昼前に来たのは先生だけで、自分は先生と話す予定だったのかと百合園セイアは少し疑問を持ちつつも、そうやって自分を納得させることしかできなかった。
シスターフッド。
多少の特異性はあるもののの、一つの派閥であることには変わりない彼女たちは、他の分派と同じように執務室が存在する。
その執務室に普段通りにやってきた自分たちの長に、一人の生徒が指摘を投げた。
「サクラコ様、今日は一日オフの予定だったはずでは?」
そう言われ、サクラコは執務室の壁にある予定表を見る。
確認してみれば確かに今日は別の予定を入れていたようで、十時半という時刻と共に待ち合わせ場所らしき場所が書かれている。
しかし、要私服と書かれたその予定にサクラコ自体は覚えがない。こうしてシスターフッドまで来てしまっていることがその一番の証左である。
そこに疑念を持ったサクラコが何かもっと情報はないのかと予定表のボードに近付けば、十時半の予定のところに何かが消えてしまったような、読み取ることができない部分があった。しかしそれは完全に滲んでしまっていて、何が書かれていたのかを復元することは難しそうである。
「今日行くと仰っていたのは、確かあの『エンデ・リ・ハジーネ』ではありませんでしたか?」
「私も覚えがあります。サクラコ様がいつになく楽しみにしている雰囲気を醸し出していて、微笑ましく思いましたもの」
部下たちに言われて、サクラコは目を瞬く。
彼女たちが口にした『エンデ・リ・ハジーネ』というのはサクラコが前から行きたいと思っていたが機会に恵まれずに行くことのなかった店の名前だったからである。
それを彼女たちが知っているということは、確かに自分は今日そこに行く予定だったのかもしれない。
そう思ったサクラコは、念のため店舗に連絡を入れる。
「はい、歌住様ですね。ええ、本日2名でご予約を承っております」
「2名、ですか?」
「はい、ご友人と話すので個室をと予約の際にお話しされていたかと思います」
電話を切って、サクラコは再び予定表を見る。
滲んでしまった部分に、共にその店に行くはずだった誰かの名前が書かれていたのだろうか。そんなことを考えるが、いくら見つめてもそこに書いてあった文字は戻ってこない。
予約を入れたのであれば向かわなければならないと言うのは単なる言い訳で、単純に行きたかったお店だったためにサクラコはお店へ向かう準備をすることにした。
私服に着替えるのが必要だと思い出したサクラコは、少し速足でシスターフッドを後にした。
D.U.地区、その郊外にある廃遊園地。
第三サンクトゥムの攻略開始の号令を待つ中で、一人の少女がふと思い出したように仲間たちに問を投げる。
「そういえば、あの子は参加しないんだね? あの子の性格ならこういう
いつか共にブラックマーケットの組織を潰して回った少女の事を思い浮かべていたモエは、当然同じ部隊の者たちは賛同を返してくれるとばかり思っていた。
しかし、返ってきたのは彼女が想像していなかったようなベクトルでの回答で。
「モエ、何を言っているのですか? もうすぐ作戦開始です。気を引き締めてください」
「あの子、っていったい誰の事だ? さすがにそれだけじゃわからない」
「えー!? 嘘でしょ!? 一緒に戦ったじゃん! この薄情者! え、ミユ! ミユは流石に覚えてるよね?」
確かあの作戦時、スナイパーとしてその存在感を消すことに長けるミユが何回も見つかって驚いた記憶がある。だからこそ彼女の印象に残っていると思っていたのだが、元々あまり詰められるのが得意ではないRABBIT4は、モエの質問に答えない。
答えられないということ自体が暗に覚えていないということに気が付かないほどモエは馬鹿ではなく、自分以外の三人の余りの記憶力の無さに憤慨する。
「ミユまで!? ちょっと、流石に勘弁してよー!」
「モエは一体誰のことを言っているんだ? 流石に一緒に戦った仲間を忘れるほど、私は薄情ではないつもりだが」
「えっと、私も……、思い出せないのは可愛そうなので、名前を教えて欲しいです……」
「ええ!? 名前って、そりゃあ……あれ? あの子、なんて名前だっけ?」
自分も名前を答えられなかったことで、『お前も薄情者じゃないか!』と叱責を受けるが、そんなことよりもモエにとって衝撃だったのは、自分が思い浮かべていたはずの少女のことが、モエ自身も分からなくなっていたからである。
言われてみれば確かに、名前を覚えていない。その容姿も思い出せなければ、どんな声だったか、どんな話をしたかもダメだった。
そして、最終的にどの作戦で一緒だったかもわからなくなったモエは、その原因を自身の仲間が自分の意識を乱したからだと責任転換を行うことを選んだ。
「あーもー! サキが変なこと聞くからゲシュタルト崩壊したー! ブラックマーケット関連だってことは覚えているんだけどなー」
「なっ! 私はただ名前を聞いただけだろう!」
それからいつものようにあーだこーだと言い合いをしているうちに、作戦担当の花岡ユズからそろそろ作戦開始だと連絡が入る。
ヘリコプターで待機しながら作戦開始を待つRABBIT3は、どうしても思い出したくて密かに過去の作戦記録を漁ったものの、終ぞ自分が思い浮かべていた少女の関わった作戦を見つけることはできなかった。
「どうやら上手く行ったみたいです」
ナラム・シンの玉座でトリニティの端の地域を確認していたプラナは、自身の主である
ゲマトリアに所属する黒服という研究者が保有していたとある生徒の神秘のコピーの一部を拝借して『箱舟』で解析と編纂を行い、もっとも自分たちの計画にとって障害となるであろう者たちを隔離した。
「プエラ分派。たとえ彼女たちがその役割を忘却しようとも、奇跡の体現者であることは変わりません。理外の事象を引き起こしかねない彼女たちを真っ先に隔離しその存在を抹消しなければ、私たちは勝負の舞台にすら上がれない、そうですね?」
「そう。結局先生と私、そしてこの『箱舟』の力を使ってすら、琴宮サナ率いるプエラ分派の壊滅はできなかった」
「ですが、こちらの世界では琴宮サナは首長補佐を辞しているようですが」
「関係ない。あの合理主義者の首長が交代を選んだなら、そっちの方が脅威になる可能性が高い」
プラナは砂狼シロコの言葉に疑念を持っている。
確かに自分たちは元いた場所でプエラ分派を倒すことはできなかった。しかし、彼女たち以外の全てが斃れて何もなくなってしまった世界に取り残されたことを考えれば、自分たちがあの世界を去った後にどれだけ永らえているか。
プラナも今回の侵攻を安全圏からの相手の時間切れを待つような勝負の仕掛け方をした決断に多かれ少なかれ関わったであろう集団のことを評価しているが、自分たちが彼女たちを下せなかったように、彼女たちもまた自分たちを下せなかったことは事実なのである。どれだけ彼女たちが幸運に恵まれていたとしても、その牙が自分たちへ届き得るとはプラナは思わなかった。
だからこそ、ここまでの徹底的な封じ込めを行うことにその意義を疑っている。
「黒服の意識は『箱舟』で逸らしたから、手遅れになるまで気付かない。あの世界の全員からプエラ分派の記憶を消したから、誰も彼女たちを助けようと思わない」
「ここに加えて、あの聖女も投入するのですよね?」
「うん。そのつもり」
「過剰戦力では?」
「だと思う。けど、そのぐらい徹底的にやらないと。全部ひっくり返されるのは、嫌だから」
プラナには分からない。
彼女は先生や砂狼シロコとは違って、反転の影響を受けていないが故に。
ただ一つ、彼女でもわかることがある。
それは色彩がプエラ分派を脅威だと認識していること。
そしてその牙が惜しみなく、
本当はミネも書く予定だったのですが、サクラコ様とほぼ同じだったのでカットしました。
ちなみにサクラコ様はあのあとサクラコ様とほぼ同じ状態で店に辿り着いたミネと合流し、若干のピリピリさを残しながらもお茶会を楽しみました(ここで話したことが文化祭に繋がれ)。
以前あの子もわざわざ登場させましたし、黒服の時点で気付いている人は気付いていると思いますが、悪さしてるのは作者の別作品のキャラの神秘です。
単純な舞台装置として機能しているだけでそこをこれ以上深堀することはないので、最終編の数日前から完了までの間、プエラ分派は隔離されて忘れられてたと認識していただければOKです。
ねじ込んだのはどう理屈を付けても先生がカタネを助けに来ない理由が思いつかなかったから。