お母様、お父様、あの日の事、覚えておりますか。
今になってようやく、お二人が私にトリニティに行けと仰った意味が理解できました。それまで私が地元の高校に進学することを否定しなかったお二人が突然言葉を曲げたことを当時はひどく驚いたものでしたが、恐らくあの日の出来事でお二人は私の異常性を見抜いていたのでしょう。
それは、中学三年生の夏のこと。
学校もなく、友達もなく、その日はカラッとしていて気持ちの良い、晴れた日だったと記憶しております。
ええ、走るには良い日だと思って、朝食を食べて落ち着いた私は「ちょっと走ってくる」と家を出たのです。
その日の私は人生で一番運のいい日だった覚えがあります。
信号は私が近づくとたちまち青に変わって、いつもは地元ですから道中一回は出くわしてしまう同窓生も、それどころか避けなければならないので少し減速する必要がある通行人ですら私の視界に入ることはなく、私の脚を鈍らせるものは何もありませんでした。
まるで羽が生えたかのような心身の軽さ。どこまでも走り続けたいとすら思う夢心地の中にどっぷりと身を預けた私は、その日、初めて曲がらなければならない壁を邪魔だと思ったのです。
それが私が絶対に怪我をするはずの落下を伴うパルクールを始めた日。
そしてその日、いえ、正確にはその後三日間、私は家に戻ることはありませんでした。
気が付いた時に見たのは、無事で良かったと安心しながら涙を流す両親の姿。
汗もかいてベタベタしていたので抱き着くのはちょっと遠慮したかったのですが、お二人の尋常ならぬ様子に押されてしまって、その抱擁を目を瞬いて受け入れることしかできませんでした。
ヴァルキューレの方にお話を聞きたいと連れて行かれ、ずっと走っていただけと説明すれば次は即座に病院に放り込まれました。
検査結果は、重度の脱水症状と栄養失調。三日間も補給なしに走り続けたのですからまあ当然と言えば当然の話。病院にそのまま入院させられた私は、甲斐甲斐しく介護されながら回復に努めることになりました。
ですが、当時の私には自分が危なかったという自覚は何もなく。
気持ちよく走り続けていたあの夢のような時間の余韻を楽しんでいるうちに体は勝手に回復しまして、予定よりも大幅に早く、僅か二日で退院して家に戻りました。
そしてその一件から一週間ほど経った後、私は両親からトリニティに進学するように言われたのです。
懐かしい夢によってそれを思い出した時点で、私のやることは決まっていました。
以前考えていた私の回復能力が精神状態によって変化する可能性というのはあながち大外れというわけではなく、本質を見誤っていただけで概ね正解と言っても差し支えはないのでしょう。
皆さんの声を聞いて満たされて、体を捩りながらベッドから降りれるほどに回復しました。
琴宮さんを
私の操作不良もありながらもステージをクリアしていくことで得られる達成感を積み重ねて、自力で食事をしたりお菓子を自分でつまめたりするぐらい体の自由を取り戻しました。
琴宮さんの幼馴染の膝枕で、缶詰を自力で開けれるぐらい力を入れても問題ないぐらい体の回復が進みました。
ここまでくれば、私もこの身体の異常性を正しく理解できるというもの。
きっと両親とはまるで似つかないこの身体の脆さは、その異常性があった反動のようなものなのでしょう。それはゲームで言えばユニークスキルが強すぎるが故にバランスを取るために用意された弱点や、はたまた最初からユニークスキルと併用することが前提で調整されている意図的に凹んだパラメータといったところでしょうか。
誰も、両親も、私自身でさえ自分にそんな異常性が備わっていることに気が付かなかったのは、恐らく私が故郷では羽を持つ異端児であり、友達と楽しくゲームなんて経験をすることがなかったからなのでしょう。
「ありがとうございました、琴宮さん。とても、いえ、心から、楽しませてもらいました」
どうやら私は、満たされることで異常な回復力を見せる力があるみたいです。そしてその状態が続いていれば、私は自身の身体の不都合を軽減ないし無視することも可能なのです。
私がトリニティに来る理由になったあの日のことは言わずもがな。久しぶりの外という解放感からか治りきっていない状態で窓から飛び降りても傷が開くだけで済みましたし、先生に会いに行くという私にしては遥か高い壁に手を掛けた達成感は傷の直りを早めました。リツカさんに言うだけ言って満足して倒れたアリウスとの戦闘後も回復が早かったですし、逆にサクラコさんの確保を自力で達成できなかった調印式の事件後は傷の治りが芳しくありませんでした。
お昼寝で眠ってしまった琴宮さんを置いて、部屋を出ます。
朝からあーでもないこーでもないと言いながらも二人協力のゲームを進め、昼食を取りながら最後のステージをクリアしてクレジット表記を見送ったのが先程のこと。もう少し遊んでいたい気持ちに後ろ髪を引かれますが、戦闘が十分できるほどに回復したのならばこれ以上の達成感は必要ありません。
『ミタカちゃん、あのスナイパーどうにかしたいんだけどどう動いたらいい?』
『確かに、思ったより被害が出てますね。道を作って先に叩きましょうか』
『いや、私が狙うよ。この距離なら全然届く』
『確かに行けそうですね。合図を出しますので、そのタイミングでお願いします、リツカさん』
ミタカちゃんに運ばれたときに渡されていた通信機の電源を入れれば、リアルタイムで戦闘中の状況が聞こえてきました。
全ての窓にカーテンが引かれている分派寮の廊下を駆けながら、通信から聞こえる情報で状況を整理します。
聖女バルバラとトコさんは未だ戦闘中。他の人では抑えられないでしょうから、徹夜して丸一日戦い通しかもしれません。
リツカさんはスナイパーとして参戦中。話の内容的に屋上で銃を構えているのだと思います。
今はミタカちゃんが指揮中でミライさんが休憩中。しかし話を聞いているとミライさんの分析を待っているようなお話がありましたので、もしかすると今も何か作業をしてくれているのかもしれません。
脱落して部屋で休んでいるのは流石にゼロでは済んでいないようですが、死者はゼロ。
極限状態の環境でも、オペレーター二人のおかげでなんとか持ち堪えてはいるみたいです。
部屋の前に戻れば、そこには数多くの手紙が束になって積み上げられていました。積み上げられていると言っても私が部屋に閉じこもったことになってから一日も経っていないぐらいの期間ですから、精々が二十枚程度のものですが。
とはいえ、夜間シフト含めたローテーションで敵の攻勢をなんとかしている状況下で、五十人に満たないこの分派の約半数が私に向けた気持ちをしたためたと考えると、なかなか感慨深いものを感じますね。
まとめて拾い上げ、部屋に入ります。
トリニティの普通の制服は持っていませんが、プエラ分派の制服の予備は持ち合わせています。
動きを阻害する添え木も包帯も全て外して、制服に腕を通します。先日届いたオーダーメイドの一品も背負いまして、愛銃の二丁ショットガンを収納します。
クローゼットを閉じてふと横を見れば、机の上に青色のスナイパーライフルが置いてあるのが見えました。入れ替わりがバレたのでてっきりリツカさんが持って行ったかと思っていましたが、ここにあるということは彼女は『花羽リツカ』には戻りたくないということなのでしょうか。
今はそれを考えるべきタイミングではないと頭を振り、スナイパーライフルも背中に収めます。
『や、やりましたわ!』
私が部屋を出ようとしたとき、聖女バルバラと戦っていたトコさんの声が聞こえてきました。
続けて、歓声。
通信の画面に目を向ければ、どうやらトコさんがバルバラを倒したみたいです。通信の映像越しですがかなり息を乱しており、傷も浅くはない様子。それでもバルバラと言えばあのミカさんですら先生の助けがなければ危なかったと語る難敵ですから、大金星を挙げたことに違いはありません。
『トコさんは一旦休んでください! 体力が回復したらまた出てもらうので!』
『わかりま――なッ!?』
歓声一転、悲鳴。通信越しに、混乱が伝わってきます。
何か良からぬことが起こったことは明らかです。少なくとも、既に一日徹夜で戦っているトコさんを下げれなくなるぐらい、深刻な何かが起こったのでしょう。
私はそれを聞きながら、大急ぎで屋上へと向かいました。
『嘘ッ!』
『こんなのどうしたら!』
『わ、私がやりますわ!』
『トコさん、あなたはもう限界のはずです!
屋上の扉を開ければ、赤い空が私を出迎えます。
リツカさん含む先客のスナイパーの皆さんは私が入ってきたことに気が付かず、眼下の異常事態に目を奪われたままです。
私の推測が正しければ、犯人は私を警戒しています。それはもしかするとプエラ分派の首長をかもしれませんが、あの黒い不審者さんが私を『奇跡の担い手の一番手』と呼んでいたように、私をプエラ分派の中でも特別視しているのでしょう。
だからこそ戦闘が始まる前に先んじて私を潰したのだと思います。
であれば動けないはずの私が姿を現せば、その注意は一時でもこちらを向くはずです。
皆が落ち着くための時間を私が作りだすことができればいいのですが。
「どうしようどうしよう、私が、私がやらなきゃ……!」
「その必要はありませんよ」
憔悴するリツカさんの隣まで足を運んだ私は、バルバラを借り物のスナイパーライフルで撃ち抜きました。
するはずのなかった銃声と声に、困惑半分喜色半分の何とも言えない空気が広がります。
故に私は皆さんを安心されるため、自分がちゃんとここに実在することを宣言します。
「皆さん、
予想通り、相手の動きが私の方を警戒して止まりました。
しかし、それも私がゲヘナの空崎委員長のような圧倒的殲滅力を持っていないと彼らが気付くまでのお話。
その僅かな時間の中で、私は
私は先程バルバラを射抜いたスナイパーライフルを持って、リツカさんに向き直りました。
「リツカさん、こちらはお返しします」
「……え?」
リツカさんが驚くのも無理はありません。
この銃を彼女に返すということは、それ
彼女の返答を待たず、私はかつて彼女が私にしたように青いスナイパーライフルを彼女に押し付けて、彼女が使用していたスナイパーライフルを強制的に貰い受けます。
少し銃を触って特段変なカスタムがないことを確認して、背中に仕舞い込みます。弾が同じものだということはわかっていたので、そこは特に触りません。
「カタネちゃん、私は――」
「すみません、リツカさん。でも私は、『辰カタネ』で
本当はもっと彼女とお話しておきたいですが、今はそんなことをしている時間はないので後回しにさせてもらいます。
ひょいと彼女の右前髪に付けられた白い花飾りを外して、自分の髪に移します。
辰カタネを名乗るのであれば、その肩書は首長なのですから。
「行きます」
動き出しそうとしたバルバラに牽制の一撃を入れて、私は校舎の屋上から飛び降ります。
空中の私を狙おうとするスナイパーを逆に射抜いて黙らせますが、いつものクリティカルとは違って普通に怯ませるだけで撃破には届きません。以前の私の狙撃を見ていた皆さんから見れば物足りなく見えてしまうかもしれませんが、それが本来の私の実力。そこに対する物言いは真摯に受け止めるほかありませんね。
着地点にガトリングを向けるバルバラを見て空中で羽の制御を入れて少しだけ方向転換し、壁を蹴って早急に着地し、トコさんの前に割り込みました。
「トコさん、ありがとうございます。ここは私にお任せを」
警戒して動かないバルバラに目を向けつつ、トコさんに撤退を促します。
しかしトコさんは息を切らしながらも、その場を離れようとはしませんでした。
「そういうわけには行きませんわ。あなた、そこまで強くないのは知っていますのよ? これはあなたを傷付けてしまった私が最後までやるべき役割ですの。譲るわけには行きませんわ」
「それは違います。トコさんがここにいるのはその命を使い果たすためではなく、この場でバルバラに対応できるのがあなただけだったからです。今はその身をしっかり休めて、別の脅威に備えてください」
『トコさん、お願いですから休んで下さい! これ以上の無理は本当にヘイローが壊れかねません!』
「そんなのッ……、……?」
反論しようとしたトコさんの視線が、私の後ろへと向いています。
そこで動きを止めているのは、恐らくそこにあるはずの
「まずは、謝罪を。皆さんを騙していて申し訳ありませんでした」
未だこちらを睨んで動かないバルバラと対峙しつつ、全体回線を通して皆さんに言葉を投げます。
何か反応があるかと思えば、ミタカちゃんやリツカさん含めて誰も何も発することはなく、ただ私の次の言葉を待っているようでした。
「嘘を吐いていた私の言葉は信用できないと思います。ええ、ですから、無理に私を信じる必要はありません」
琴宮さんとゲームをしている間も、考えていたんです。
既に私とリツカさんの入れ替わりが露見している以上、入れ替わりを続ける意味はありません。だからどこかのタイミングで正式に分派の皆さんに私たちのことを周知する必要がありました。
先程リツカさんへ銃を返して髪飾りを受け取ったのは、まあその儀式的なものですね。
正式な告知はまた改めてやる必要はありますが、あの行動によって正式に私が『花羽リツカ』ではないことを認め、その入れ替わり状態を解消したという明確な意思表示にはなったでしょう。
でも、それを全員が簡単に受け入れられるわけではないでしょう。
自分たちの信じていたものが偽物だったなんて、そんなのはあまりにも残酷すぎます。
「なので、皆さんがこの数カ月信じてきた『花羽リツカ』という虚像のことを信じてください。皆さんの信じる『花羽リツカ』は、この状況を覆すことができるはずです」
皆さんが見ていたのは『花羽リツカ』としての私で、『辰カタネ』という私ではありません。
だから分派の子たちは、そっちを見たままでいいんです。いつかその幻想が崩れる日は来るでしょうが、それが今このタイミングである必要はありません。
その幻想に縋って希望を得られるのなら、その希望を持ち続けるべきなのです。
ましてや皆さんが信じている『花羽リツカ』はリツカさんから預けられたあのスナイパーライフルによるフィルターが掛かっている状態の私ですから、きっと皆さんの心の家でとんでもない完璧超人が生成されているに違いありません。
「その上で、願わくば」
スナイパーライフルを背中に収納して、愛銃である二丁のショットガンを取り出します。
皆さんが本気モードだと思っていたこの二丁の愛銃で戦う姿は、ただ私が本来の戦い方をするだけの普通の姿に過ぎません。
なのでこれから皆さんに見てもらうのは、歪曲したフィルターの無いありのままの私。
「私を、『辰カタネ』のことを、見ていてください」
だって私は、辰カタネだから。
プエラ分派の首長であって、ティーパーティーからやってきた『花羽リツカ』とは別物。
でも、私の事をずっと見てきた皆さんであれば気が付くと思います。気が付いてくれれば嬉しいです。気が付かなかったら、ちょっと悲しいかもしれません。
何故なら私は今まで首長補佐として動いたことなんてなかったんですから。
「勘違いなんて、させてあげません」
私の行動が勘違いされたことはありました。
ですが私が自ら自分の行動を偽ったつもりは欠片もありません。私はずっと首長として、リーダーとして動いてきたつもりです。
思えば結局私もリツカさんもお互いの真似なんか全然していませんでした。ただ本当に名前と立場だけを入れ替えて、私たちはありのままにそこにいて、ずっと
故に『花羽リツカ』の行動は、全て私の行動でしかありません。
だからその名前を返したとて、『花羽リツカ』が受けた称賛も罵倒も全て私が貰い受けます。
私が今ここに立っているのが私の勇気と努力の結果なら、その権利はあるはずです。
「皆さんの首長である『辰カタネ』がどんな人間であるか、見せてあげます」
それは今に限った話ではなく、この事件が終わった後もずっと続く話です。
私はその立場故にその視線に晒されます。やってきた偽り故に疑念を向けられます。
ですがその全部をひっくるめて私が背負うべきもので、誰にも譲ってなんてあげません。
『解析出ました! あの赤い壁の向こうに六つのエネルギー体を観測したところ、臨界までは恐らく300時間と推定されます!』
私が語り終わったところでミライさんからの通信が入電。
正直反応があってもなくてもどうしようかと考えていたので助かりました。必要なこととはいえ普通にちょっと恥ずかしいですし。
しかしミライさんも慌てていたんでしょう。本来は首脳部だけに流すべき情報のはずですが、全体回線で垂れ流してしまっています。このミス、我々は若干やりすぎな気がしますね。機密情報のセキュリティは一体どうなっているんでしょうか。
それはさておき、私の知らない情報がありますね。赤い壁の向こうに六つのエネルギー体が出現した、と。分派の皆さんも知らなかったようで、戦闘部隊の皆さんにも動揺が見えました。
その動揺を突いて動き出そうとしたユスティナ聖徒会、その手前の
「皆さん、聞いていましたね。これは持久戦です。長くても300時間、つまりあと二週間の戦いです。元凶を叩くことのできない我々にできることは多くありません。ですがゴールは明確になりました。その先に待っているのが
この
そんなことは皆わかっているので、誰が元凶を叩くかなんて語るまでもありませんね。こんな異常事態が起こったのならば、あの人が動かないわけがないんです。
エデン条約での活躍を見せつけられて、トリニティに
でも、奇跡を目の当たりにしたあの場所で、先生が救世主へと成ったあの瞬間、あの場に味方の中でただ一人だけ、先生のことを信じていない愚か者がいました。
その人物は先生を
だからというわけではありませんが、今回ぐらいは信じてあげることにします。
状況が状況ですし、それぐらいしか希望がないということでもありますが。自分たちで元凶を倒すことが叶わない今、我々が助かる術はあの赤い壁の外にいる人間に頑張っていただくほかありませんから。
だから先生、どうか、ちゃんと世界を救ってくださいね。