ウェンディという女性はまだ20代半ばの若い女性だった。
青みがかった髪を肩まで伸ばして、微笑がよく似合う柔らかい雰囲気の美女であり、黒いスーツに身を包んで、肩には“正義”の文字が書かれた白いコートをかけている。
海軍少将の立場にある人間の中ではずいぶんと若く、嫌でも目に付く立場である。しかしそれは彼女の出世が早いばかりが理由ではなくて、その特殊な役目が大きな意味を持っていた。
海軍内部を調査し、不正を犯す海兵を逮捕する。
彼女の仕事は主に組織の膿を掻き出すことにあった。
祖父が行っていたという仕事を引き継ぐために海兵になり、努力で得た実力と天性の優れた勘、そして祖父が海軍将校だった事実を存分に利用して、彼女は多くの不正を検挙している。監査を行う海軍将校の中で次世代のリーダーと目されてもいた。
おかげで海軍内外に敵が多い肩身の狭い立場ではあったが、飄々としている態度からはその苦労を感じ取らせないのも特徴だった。
「ま~実際問題苦しいところよ。どうすりゃよかったのかって悩みと後悔の連続さ。だから今もこの判断が正しかったのかどうかを悩んでる」
彼女の前には海軍大将である“青キジ”ことクザンが居た。
負傷が治らぬ内から執務室に戻る姿は普段を知っていればこそ異常事態だと理解できる。
体の所々に包帯を巻いて、勝手に持ち込んだ人間をダメにしそうなソファに座り、自ら用意した足湯に両足を突っ込んだ姿でウェンディに対峙していた。
彼女は日頃からだらけている姿をよく知っているため叱責もせずに向き合っている。
「驚きましたよ。サカズキさんとの不仲は知ってましたけどまさか決闘までするなんて」
「不仲ねぇ……そんな程度で済む問題じゃねぇのよ。あいつが元帥になるだなんて、おれはどうしても認めることができねぇ。よっぽどここを去ろうかと思ったほどだ」
やれやれと大きくため息をつく顔はよほど疲れているのだろう。普段気の抜けている姿を見ることが多い彼がどれほど本気だったのかを色濃く物語っている。
ウェンディは特徴的とも言える微笑を消してしまうほど真剣に思案していた。
海軍の本拠地があるマリンフォードで大きな戦争が起こった後、世界は確実に変化していた。
元帥として海軍を率いていたセンゴクが一線を退く決意を固めて、引退とは言うまいが自らは若者の指導に専念することを決め、その座を次の世代へ継がせることにしたのである。
その際に候補として挙がった名前が、“青キジ”クザンと“赤犬”サカズキの両名。共に海軍大将としてその座に相応しい人物であるが、両者の信念とも言える“正義”が正反対であった。
以前から意見は合わなかった。
ある時期から腑抜けたクザンをサカズキは認めておらず、クザンもまた海賊を嫌悪するあまりやり過ぎるサカズキの考えを認めていなかった。両者の対立は海軍内部では以前から当然のものとして認識されている。
今後の海軍がどうあるべきか、意見の衝突から対立した二人はついに決闘を行い、次の元帥を決定しようとした。
人が住めない孤島で三日三晩戦った後。
決着がつく前にセンゴクが割って入ったことにより戦いは中断することとなり、二人が軽い怪我で帰還する状況を作ったのである。
戦争は世界を大きく変えることになった。
勢いづく海賊たちが“
“大海賊同盟”と“海賊共和国”。
男同士の勝負と知りながらセンゴクが割って入り、クザンが脱退を踏みとどまった理由だ。
「結局はあいつが新元帥だ。それでもおれは今もまだここに居る。本当にこの判断が正しかったのかどうか、今どころかいずれわかるのかさえもわからねぇよ」
「わかる人なんて居ませんよ。元帥もセンゴクさんもガープさんも。海兵なら誰もが迷っていると思います。けれど正解だなんて決められません」
「ハァ、こういうのがあるからよぉ、だらけていたいって思ったんだけどな」
「でもあなたが残ってくれたことで救われる命があります。海軍内部も、世界のどこかに居る自分を守る力を持たない人も」
ウェンディがにこりと笑いかけた。
ぐったりして指一本すら動きたくないといった風体のクザンはいつになく深刻な表情だ。
どんな選択をすれば正解だったのか、今を生きる人々にわかるはずもない。それでも決めたのなら後は行動するしかないのだ。心身ともに疲労困憊の彼へそう伝える。
「対立なんて今までもしてたじゃないですか。今更何を迷うことがあるんです。あなたの仕事は今も昔も変わらないでしょう?」
「んん……そうだが」
「対立上等。元帥がやり過ぎないよう監視して適度に衝突し、海軍内部の抑止力になる。それでいて死ななくて済む市民を守ること。それがあなたの役目ですよ。大将だろうと中将だろうと、掲げる正義が変わってもあなたの信念は変わらないはずです」
「あぁ~……直属の部下でもねぇのにお前だけだな、優しくしてくれんのは」
深く息を吐き出した彼は、だらしなく座る姿勢こそ変えないがわずかに目つきが変わった。
紆余曲折を経て新元帥がサカズキに決まった際、海軍を去ることも考えた。相反する正義を持つ彼の下では働けない、それも一つの決断だっただろう。考慮までして実行することもできたのにそうしなかったのは、その行動が逃げであると断じたからではない。
実のところを言えば、自分でもよくわからない。
目まぐるしく時間が進む中で気付いた時にはそうなっていただけだった。
人生は悩みと後悔の連続。海軍に未練があったわけではない。けれどそこには自分を尊敬してくれる者や支えてくれる人が居るのも事実。どうしてこの状況になっているのかは当事者にしてみても理解しきれるものではなかった。
それでもいいとウェンディは微笑んでいる。
支えてくれる者も多いだろう。今はただ進むしかない。
「悩んでたって後悔したって事態は進みます。海軍にはあなたが必要ですよ。なので、不貞腐れるのはほどほどにしてしっかり働いてください」
「厳しいねぇ。だがまあ、つまり、世の中がだらけさせてくれないってことだな」
姿勢こそだらけているが顔つきが変わった。迷いは晴れていない。それでも休んでいる暇はないのだと理解して、今すぐに動かなければと決断する。
ウェンディを見る目に力が戻り、クザンが気になる言葉を発する。
「戻ってきてからこっち、何もしなかったわけじゃないんだ。新元帥は早速動き出そうとしているらしい。まずは海賊をより追い詰める“徹底的な正義”のために戦力を補強しようとしてる。“世界徴兵”って言うんだと」
「聞きました。経歴を問わず世界中から新戦力を獲得すると」
「海賊側もずいぶん慌ただしくなってる。志願者の力量によっちゃ大将の人数も増えるらしい」
「それは大ごとですね」
「選出される人間次第じゃ、海軍が今後どうなるかも変わるだろうな」
怪我も癒えぬ内に仕事を始めて新体制への移行を考えているようだ。
就任からそう日が経っていない。早くも危機感を覚えるクザンに対してウェンディの笑みは崩れなかった。
「そんな時こそ対立する立場としての腕の見せ所ですよ。元帥はきっと海賊討伐を重視して選出するでしょうから、あなたがどうにかしないと。ファイト」
「えぇ~……なんか大変な役目を押し付けられてる気がするなぁ」
「それは事実ですよ。否定はしません」
「塩になって風に流されていきたい……」
「そうだ、ジョナサン中将を推薦されては? 元帥子飼いの部下ですし、それでいてあなたとも上手く付き合えるバランサー。大将には必要な人材でしょう」
それなりに真面目に言ってみたつもりだったが何と答えるかは容易に察する。
それでも試しに言ってみると、真剣に受け止めたクザンは一瞬思案し、やはりそう言った。
「あいつは、だめだな。実力と人格は問題ないがどうも覇気がないというか。あ、この場合の覇気は戦闘用のやつじゃなくてやる気が欠けるとかって意味で」
「わかってますよ。お気遣いいただかなくても」
「平和維持のために基地を任せるにはあいつほど魅力的な人材は居ない。だがあいつは優し過ぎるところがある」
額にあったアイマスクを下ろして目元を覆ったクザンが脱力する。
「海軍大将になるってのは責任が伴うだけじゃない。簡単に言えば天竜人の直属の部下になるってことでもある。実直で優しい奴だ。あいつにはさせたくねぇな。おれたちみたいな奴が大将になれたのはそれなりの理由があるってことだ」
「寝ないでください」
「寝てねぇよ。ちょっと体力回復を図ってるだけだ」
「私が居るんですよ」
「だから喋ってるだろ。心配すんな、このまま寝たりしないから」
そう言われてウェンディは口を閉ざした。
両者が黙ったことで室内は静寂に包まれる。
ほんの数秒、十秒も経たない内にぐうと聞こえて、嘆息したウェンディは静かに動いた。ズボンのポケットにあった硬貨を取り出し、力を込めて、指で弾く。
「おうっ⁉」
「寝てました?」
「ん、いや……寝ていました」
「素直でよろしい」
にこりと微笑むウェンディに見つめられ、威圧感こそ感じないものの、気を取り直したクザンは痛む額をさすりながら姿勢を正す。
相変わらず背中が丸まっていたが前傾姿勢で会話に臨んでくれるようだ。
「まあ、そういうわけで、しばらくは徴兵を含め新体制への移行に忙しくなりそうだ。あの戦争でマリンフォードはほぼ全壊。本部を別の島に移そうって計画もある。これはマリンフォードの件だけじゃなくて“最悪の世代”の存在もある。“新世界”に睨みを利かせようって腹積もりだ」
「そうですね……復興を考えればその方がいいのかもしれません。あれはひどい戦いでした」
「良くも悪くもあれが時代の分かれ目で、もうすでに新時代は始まってる。おれたちもさっさと備えないと取り残されるかもな」
「でもクザンさん、彼らはまだそこに参加してないでしょう?」
問われてすぐに理解し、あぁ、とクザンが生返事をする。
ウェンディは見るからに期待した様子だ。海軍将校としていかがかと思うが、以前からずっと目をつけていたらしい。少し時間を置いてから自身もそうなったとはいえ、決して他の人間には聞かせたくない話題だった。
「そうか、“麦わら”か」
「これから激動の時代が始まります。でも彼らが戻ってきてからが大きな変化なんじゃないかと思うんですよ」
「勘か」
「勘です」
「お前がそう言うとどうにも不安になるな。だがそれもいつになるかわからない。おれとしちゃ何事も起こらない方がずっといいと思うんだが」
嫌そうにため息をついて頭を掻き、またしても徐々に目が死んでいく。
よくある姿だ。わざわざ止めようとは思わない。
「ま、なんだ。これから色々あって協力を頼むこともあるかとは思うが、よろしく頼むわ」
ウェンディは優しく微笑み、静かに席を立つ。
「何言ってるんですか? 私の本職は内部調査ですよ。誰にも属さず己の正義に従う。祖父から継いだ行動理念です。特別扱いはしませんよ」
「おいおい……」
「さあ行きましょうイスカちゃん。世間話で長居しちゃった。お仕事お仕事」
ここへきて突き放すのか、との想いがあるが止める言葉は出てこなかった。
副官の大佐を連れて出ていくウェンディを見送り、しばしなんとも言えない疲労を感じ、しかし今なら止める者が居ないと気付いてクザンはすかさず昼寝を始めた。