彼女は歌が好きだった。
幼い頃から一日と欠かさず歌っていて、喜びも怒りも悲しみも、幸福も不幸も歌にして表現することが当たり前になっている。
かつて、何気なく歌った声を褒めてくれた人が居た。その人は子供のように屈託なく笑う人で、お前の歌は特別だ、と言ってくれた。
ただ思い付きで言っただけかもしれないがその言葉がやけに嬉しくて、歌があって当然のものに変化したのはその日からだった。
囁くような優しい歌だった。
音楽はない。彼女の声一つが音楽となり、静かな夜にふわふわと漂う。
「きれいな歌……」
目を閉じて口元には笑みが浮かび、耳を傾けていたシルクが呟く。
やがて歌が終わりを迎えて、窓辺に座って外を向いていた彼女が振り返った。
少年のようなにかっとした笑顔。先程の思わず口から出てしまった呟きは聞かれていたようで、わかりやすく喜んでいるウタが駆け寄ってくる。シルクが寝転ぶベッドの上にぼすんと飛び乗って同じようにうつ伏せになって彼女へ笑いかけた。
「へへっ、ありがと」
「今の曲好きだなー。もちろん前にも聞いたことあるんだけど、トーンダイアルと違って音楽がないでしょ? やっぱりアカペラってすごいね。いつもと違う感じがして、特別感があって、心が落ち着くようなきれいな歌声に集中できるから」
「本当? いや~、まぁ~、そ、そっかぁ」
照れている様子のウタは全身で喜びを表現するかの如く、顔はついついにやけてしまい、もじもじしてシーツをぎゅうと掴み、両足をばたばたさせていた。
シルクはふっと微笑み、まるで姉のように優しく彼女を見ている。
聞けば年齢はウタの方が上だというではないか。ほんの二つ程度の違いとはいえ、子供っぽい仕草や行動が多い彼女にそう言われた時はずいぶん驚いたものだ。色々な話をしたが今でもやはり女性としてというより子供のような彼女を可愛いと思う。
隣の部屋に迷惑をかけないよう少しだけ暴れて落ち着いたのか、動きを止めたウタがシルクに視線を戻す。
“麦わらのルフィ”を探しに行こう。
遭難したらしい彼女を拾ってからたくさん話をして、そう決意して一緒に海へ出た。こうして眠る前に話をするのもすっかり慣れた時間である。
落ち着いた後でもわずかな頬の紅潮を残しながら、ウタはぽつりと呟いた。
「今の曲はね、昔からずっと歌ってたんだ。それこそ子供の頃から」
「そうなんだ。ルフィも知ってる歌?」
「うん。でもルフィはだめだめでさー、全っ然歌えないの。すっごく下手。歌詞は忘れちゃうし音程はめちゃくちゃだし意味なく叫び出すし、曲の雰囲気なんてちっとも考えないからどんな歌でもとにかくおっきい声出して」
思い出話をしている時、ウタは幸せそうにも寂しそうにも見える表情になる。
きっと素敵な思い出なのだろうと思う反面、それが今自分の傍にないことが浮き彫りになって、複雑な気持ちになるのだ。
懐かしむように目を細め、口元が微笑むと穏やかな声で語られる。
「それが好きだったんだ。私一人で歌うとみんな邪魔しないで聞いてくれるの。目を閉じたり応援するみたいにこっちを見つめてたり、手を叩いたり。でもルフィと一緒に歌うと必ず誰かが大笑いし始めて、ルフィに張り合っておっきい声で歌い出して、気付いたらみんなで歌ってるの。酒場で宴をする時は本当に楽しかった」
「素敵な一味だね」
「ルウが私とルフィを肩に乗せてぴょんぴょん飛び跳ねながら歌うの。もー声はブレブレだし息はできないしで歌はめちゃくちゃなんだよ。でもなんでかすっごく楽しくて、大好きな歌が歌えなくなるのにルウが突進してくると嬉しくなっちゃうんだ。そんなのがほぼ毎日」
「ふふ、体力つきそうだね。だからウタは元気なんだ」
「女の子には酷な環境だよー。可愛い服着てもみんなが暴れるからすぐ汚れてさー。お詫びのプレゼントもらっても微妙に可愛くなかったりさ」
文句を言っているようにも聞こえるがそこには親愛の情が感じられた。
ふと、はっきりと、寂しげな顔をしたウタは素早く掴んで引き寄せた枕に顔を埋める。
たとえ親しくなっても涙は見せたくないのかもしれない。なんとなく察したシルクは彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いてやり、黙って次の言葉を待つ。
「ごめん」
「ん? なんで謝るの」
「うー……」
「よしよし。違うこと考えようとしても、体が反応しちゃうことってあるよね」
最近になって時折こうした状況に陥ることがある。
出会った頃はとにかく元気で朗らかで、行動的でドジが多くて、自信満々に胸を張って自己主張する姿が印象的だった。それから一緒に旅に出ることを決めて、互いの考えを話し合い、良いことも悪いことも思い出を共有する内、そうして弱さを見せるようになった。
最初の印象が虚勢や嘘だったわけではない。
あれもまた彼女の一部であり、ただ親しくなる内に別の姿を知ることができただけだ。
自分を守ってくれる大人や、自分が守らなきゃいけない小さな子供とは違う。ウタにとっては久しく忘れていた、自分と同年代の友達だ。
ぐいっと枕に顔を擦り付けて、気を取り直した彼女は勢いよく顔を上げる。
「うあーっもう! センチメンタル禁止!」
「あはは。別にいいのに」
「う~やだよ。恥ずかしいし、バカみたいじゃん」
「そんなことない。ウタがそれだけみんなのことを大切に想ってるってことでしょ? 恥ずかしいなんて思わないでよ」
うぐっと声を詰まらせて、ウタは再び枕に顔を埋める。
体にある力を全て抜き出すかのように、深く息を吐き出して、そのまましばし動かなくなった。
「私を助けてくれたのがシルクでよかった……」
「ありがとう。私もウタに出会えてよかったよ」
「はあ~……」
大変なことがあったという話は聞いている。それについて何を思ったのかも。
いつ終わるかわからない旅は、やはりというか長引きそうだ。
“麦わらのルフィ”に出会うまで続くだろう二人旅。道中を楽しんでいて、多くの発見や驚きに目を輝かせて、時には悲しくなることもある。しかしだからこそ島の中から一歩も出ずに暮らしていた頃とは何もかもが違う。
横を向いて顔を見せたウタが小さな声で尋ねた。
気落ちした風にも見えるものの、悪い状態ではなさそうだ。シルクは笑みを湛えたまま心配せずに答える。
「ねぇ、シルクはさ、海賊になりたいって思う?」
「うーん……私はルフィに助けてもらったから。元々は海賊が嫌いだったよ。野蛮で乱暴で、何もしていない町のみんなを痛めつけたり怖がらせたりするんだと思って」
うん、とウタが頷く。
その話は以前に聞いていた。シルクは、海賊の捨て子であり、海賊たちが襲った町に置き去りにされていたのだという。赤ん坊だったその頃の記憶はないが町人たちは海賊の捨て子だからと邪険にはせず、みんなで協力して育て上げた。少々お転婆が気がかりだがすくすくと育つ彼女に十全の愛を与えたのだ。
特殊な生い立ちだが、だからこそ彼女は優しい人になったのだろう。当人たちに会った時は気付かなかったとはいえ、その町の人たちはすごいと素直に尊敬する。
その話を聞いて今のシルクを見れば、育てた町人たちがどんな人なのかさえ理解できた。
彼女が育った町が海賊に襲われた折、偶然にも訪れていたルフィが助けてくれたそうだ。
大事な宝物を踏みつけられたから、お返しに船を踏みつけたら沈んでしまい、奪われた金を取り返してくれたのだが総量は三倍ほどになっていたのだとか。
食料だけ異様に多くもらって去っていった彼のことを、シルクはずっと気にしていた。
「あの町は今でも好きだよ。自分の誇りだし宝物だって思う。でも……あの時ルフィと一緒に行かなかったことを、ちょっと後悔してるんだ。言えばきっとルフィは許してくれたと思う。だけど私にその勇気がなくて、海賊になるなんて考えがちっとも頭になかったんだ」
「うん……そっか」
「一人になって、じっくり考えて、やっぱり一緒に行きたかったなって。ずいぶん時間が経ってからようやく気付いたんだ。だから私は、海賊になりたいっていうより、ルフィの仲間になりたい。それがこの旅の大きな理由だね」
「すごいなぁ、シルクは。私よりずっとすごい」
枕に口元を埋め、ぎゅうと抱きしめて、遠い目をするウタは小さな声でそう言った。
「私はまだ、ルフィに会ってどうするかなんて決めてない……どうすればいいかわからない。ただこのままじゃだめだって思って、ルフィがこの海に戻ってくるって知って、早く私も何か行動しなきゃって思っただけなんだ。だから会ってみてどうなるのか、今もまだわからないままだ」
「それだっていいよ。ルフィに会えば何か気付くかもしれない」
「そうかなぁ」
「ルフィに会いたいって思ったんでしょ?」
「うん……」
「それで一人で島から出てきたんだもん。ウタだってすごいことやってるよ。それに歌の活動も」
そういえば。そう思ってハッとしてしまうほど頭から抜け落ちていた。
自分には歌の活動がある。すごいとシルクに褒めてもらった活動だ。
気を取り直して身を乗り出し、ウタが笑顔でシルクの顔を覗き込んで主張する。
「そうっ。私、顔を隠して曲だけ出してるでしょ? あれはそもそも、島のみんなに褒めてもらえた私の歌で、聞いた人を幸せにできないかなって思ったからなの」
「うん。ウタのおかげで幸せな気持ちになった人は世界中にたくさん居るよ。だってファンがたくさん居るんだもん。私もその一人」
「えへ……そうだ、ルフィに会ったら言わなきゃ。私は歌を歌ってるんだよって」
話している内に希望を見出せたようだ。
笑顔が柔らかくなって、ウタは確かめるように呟く。
「曲を作って、歌を届けて、世界中のみんなを幸せにするんだって。私は……音楽家だから」
「喜んでくれるよ。きっと」
「そうかな……いや⁉ 別にルフィが喜ぶとかどうでもいいんだけどね⁉ 喜ばせるために会うわけじゃないし!」
「あはは。そうかそうか」
「含み笑い!」
「なんだいあんたたち、女二人で恋バナかい? どうしてあたしを呼ばないのさ」
別の声が聞こえてぎょっとして、ウタが顔を動かせばシルクと共に自身を挟み込むように、年上の女性が自身の隣でベッドに寝そべっていた。
入ってきた姿を見ていたシルクは驚いていなかったが、話に夢中になっていたウタは驚愕して飛び上がる。わひゃあと変な声が出てしまった。
「どうしたんですかアルビダさん。お話ししに来ました?」
「いつの間に⁉ 何の音もしなかったのに!」
「あたしの肌はスベスベだからね。素足で歩くとついつい滑っちまうのさ」
「絶対わざとだ! っていうか恋バナじゃないし!」
「恥ずかしがらなくてもいいよ。ルフィの話だろう? 気持ちはわかるさ……あたしも、あんなにときめいたのはあいつだけだからねぇ」
女海賊であり、二人居るというバギーズデリバリーの副社長の一人、“金棒のアルビダ”が驚くほどセクシーなシュミーズを着てそこに居た。
航海術を持たない航海の素人が二人ではやはり旅に問題が多かった。迷って遭難して、偶然島に辿り着けたのは奇跡であろう。このままではまずいと判断して、なんでも運ぶバギーズデリバリーに依頼して目的地まで運んでもらうことを決めたのだ。今はその航海の最中だった。
うふふと怪しく笑う彼女は妖艶で、大人の魅力にくらくらしてしまう。
ウタが赤面してごくりと息を吞む一方、シルクは二人の様子に苦笑していた。
「確かに、すごくスベスベ……え? え? ときめ、え? まさかルフィに?」
「そうだよ」
「うそっ⁉ ルフィにときめくことなんてあるのっ⁉ 大人になってからはまだ会ってないけど、だってあのルフィだし……」
「そりゃあすごかったさ。あいつの真っすぐな拳……感じたわ」
「拳感じっ、ええっ⁉ どういうこと⁉ ルフィ何したの⁉」
「お、落ち着いてウタ。アルビダさんは大人だし、私たちが知らないことも知ってるから……」
なんと声をかければよかったのかはわからないが、苦笑するシルクは激しく混乱しているウタを落ち着かせようと彼女の背中をさすってやる。
勝ち誇るわけでもなく、ただ良い思い出だと振り返るアルビダはふふふと小さく笑っていた。
「もうすぐ会えるんだねぇ。あんたたちだって楽しみだろう? ルフィなら海賊万博なんて大イベントを見逃すはずがないよ。あぁ、なんだかわくわくしてきた」
「ルフィのことを考えてそう思う人が居るんだ……海って広い」
「あははは……この話でそう思ってほしくない気もするんだけど」
目的を達したらしなければならないことが増えた。
この件について本人と話さなければ。
拳という単語がやけに気になるし、それで感じたというのも理解ができない。
仮に女性を殴ったのだとしたらちょっと見過ごせない問題だ。
少し考えて、あのルフィならあり得なくない、とウタは嘆息する。
興奮を隠せないアルビダと苦悩するウタ。穏やかなやり取りから一転してしまった。しかもまだ終わるようには思えずアルビダが話し始めようとしている。
シルクはこの状況をどうしようと真剣に悩み、彼女の発言で顔色を変えながら一喜一憂するウタを心配しながらも、表情がころころ変わる彼女の反応を楽しんでいた。