「ようこそ、ルーマニアへ。貴方の噂は聞いているわ。」
1932年1月22日の午前11時過ぎ、
私、レミリア・スカーレットは
ブカレスト駅に来訪した
イタリア首相であるムッソリーニを
咲夜、美鈴と共に出迎えていた。
本来こうした出迎えをする場合
警備が大勢控える物であるが、
ルーマニアに限りそれは無い。
警備より私達の方が余程有能だからだ。
私達以外にいるのは報道陣だけである。
それにしても、私が昼時に外を出歩き
自らの手で出迎えると言うのは
最上級の国賓を出迎える時ぐらいだし、
彼には名誉な事だと思って貰いたい。
私は手を差し出して握手を求め、
彼の顔をじっくりと見つめる。
残念ながら、そのポーカーフェイスから
未だ真意は読み取る事が難しそうだ。
「わざわざ出迎えて頂き感謝致します。
スカーレット女史やルーマニアについては
かねてから伺っておりました。
本日から3日間程滞在しますので、
どうか宜しくお願い致します。」
私に握手を返しながら、
表情筋を動かし繕った微笑みを見せ
形式的な挨拶を返してくるムッソリーニ。
正直、個人的には余り慣れない物だ。
「こちらこそ、3日間宜しくね。
それと、形式的なやり取りは苦手だから
フランクに接してくれると有り難いわ。
どうにも慣れない物なのよね。」
「…大変有り難い申し出ですが、
万が一失礼があるといけません。
私は国家の代表としてこの場に存在し、
女史も同じ様に存在していますから。」
苦笑しながら述べるムッソリーニ。
私は今のやり取りだけで
彼の私に対するスタンスを大方理解出来た。
言葉を選ばずに言えば、彼の本音は
“吸血鬼の事は信用が出来ない”
と言う事で間違いないだろう。
警戒すべき対象には安易に心を
開くつもりは無いと暗に述べているのだ。
「大丈夫よ。私は吸血鬼だけど
最低限その辺りの心得はあるし、
血を吸ったり取って食ったり
そんな事をする気は無いわ?
自分の機嫌位自分で取れるもの。」
私は肩を竦めてジョークを飛ばす。
別に私はそこまで心は狭く無いのだ。
…後ろにいる美鈴が顎に手をやって
考え込んでいるのは後で叱っておこう。
「でしたら、お言葉に甘えて
女史には出来る限り自然に
接させて頂きたいと思います。」
現状相変わらず硬いやり取りだが、
私にはこの男の仮面を剝がす自信がある。
果たして何処まで持つかは見物だな。
「…まぁ、取り敢えず行きましょうか。
余り貴方を立たせるのも悪いしね。
表に車を回してあるから乗って頂戴。」
「わざわざありがとうございます。
私としても、女史を立たせるのは
中々に心苦しい事ですから。」
咲夜が手で出口へと誘導し、
私達2人は並んで歩いていく。
カメラが焚いたフラッシュに
眩しさを感じながら外を目指す私は、
彼を少しからかってみる事にした。
「良かったら、一緒に乗る?
私は貴方なら構わないのだけれど。」
微笑みながら上目遣いで聞いてみると、
彼はお誘いに困惑した表情をする。
「…確かに私はイタリア人ですが、
流石にその程度の分別はあります。
別の車両でも構いませんよ。」
うーん。もしかして、この男に
ジョークの類は通じないのか?
咲夜から聞いた限りでは、
彼の女癖はそこまで良い物じゃ無いらしいし
食いつきは良いと思ったのだが。
或いは、まだ私とジョークを飛ばす様な
関係では無いとの判断かもしれない。
不服である事を表情や語気で伝える
ムッソリーニに対して、
私は真面目な返答をする事にした。
「残念ながら、私と乗らない場合
私のメイドと一緒になるわね。
客観的に見ても彼女は美人だし、
噂が立つのが嫌と言うなら
私と一緒に乗る方が賢明よ?」
断りに対する私の返答を聞くと、
嫌そうな顔をするムッソリーニ。
そうそう、それで良いのだ。
自然な表情で接して欲しい。
実際、車は2台しか無い。
当然運転手が2名いて、
後ろに2人が座る事になる。
助手席を開けると考えれば
私、咲夜、美鈴の誰かと
ムッソリーニは一緒になるのだ。
「…ここは厚意に甘えさせて頂きたい。
女史と同じ車を希望します。」
流石に私の誘いを断る事が
失礼な事位は彼にだって分かる。
私としてはそれを承知で断って来ても
一向に問題は無かったのだが、
流石にそれは出来なかったのだろう。
「からかってごめんなさいね。
残念ながら、私達の国は要職が
女性ばかりになっているのよ。
身内ばかりで固めていたら
自然にこうなってしまったの。
まぁ、余り意識しないで頂戴。
ちょっと口説く位なら構わないから。」
私が謝罪すると、彼は呆れた声で
私に対して物申してきた。
「この世界はまだまだ男社会ですから、
女史に相応しい男性の手駒を
数人程用意しておくべきかと考えます。」
「前向きに考えておくわ。」
平然と言ったが、嘘である。
…まぁ、男性が必要ならば
外務省や陸軍省辺りにいる
適当な役人を引っ張れるのだが、
警備の都合上この方が楽なのだ。
どう考えてもそこいらの男より強いし。
そうこうしている間に私達は
止めてあった車に乗り込み、
運転手が空港へ向かって車を走らせる。
無論、最終目的地は空港では無く、
あくまでクリムソンにある紅魔館である。
空路を使えば2時間もかからないだろう。
直接車で向かった場合には
完成途中の高速道路を一部使用しても
所要時間が7時間程かかるので、
流石にそんな経路は使わない。
道路が完成すればこれが5時間位に
短縮されるとは思うのだが、
それでも中々の距離がある事は確かだ。
流石にそこまで時間がかかるとなると、
アリスがブカレストに職場を置きたい気持ちも
分から無い訳では無い。
~~~~~~~~
…車が出発してから5分程経過した頃、
私は彼に気になっていた事を質問する。
「所で、貴方は無神論者らしいけど、
私が吸血鬼である事については
実際の所どう考えているのかしら?
多少は驚いたりしたんじゃない?」
私は後ろに畳んだ羽根をピクリと動かしながら
彼の横顔を見つめる。感情表現に乏しいのか、
相変わらず、殆ど表情は変わらない。
「勿論大いに驚きましたが、
私にとっては問題ではありません。
私は不確かな物を信じませんが、
私はこの目で女史の姿を目にし、
吸血鬼と言う存在が確かである事は
大方理解出来たかと思います。
それに、女史はルーマニアの支配者です。
それ以上でも、それ以下でもありません。」
「…つまらないわねぇ。」
私は肩を竦め彼を見る。
別に嫌いでは無いのだけど、
距離の遠さを感じてしまう。
私は敢えて言葉を選ばず、
彼に一言物申す。
「貴方、友達いないでしょ。」
私の発言に彼は顔を顰める。
流石に自覚はあるのだろうか。
「…女史の指摘の通りですが、
誤解されたくはありません。
私は孤独である事を恥じてはいない。
付き合う人間を選んでいるだけです。」
それが単なる虚勢である事位、
賢い彼は理解しているだろう。
それでも、虚勢の中にある
彼の本質的な部分と信念、
願い等は確かに伝わってくる。
要は、人間不信なのだろう。
彼は他人にまるで期待していない。
だとすれば、彼が無神論者と言う事も
納得が行くと言う物である。
自分の運命を神に委ねる等
馬鹿馬鹿しいと言う事であろうか。
私にも同意出来る部分はありそうだ。
まぁ、面倒な分析はさておき、
今は暫く彼の事を
玩具として遊ぼうと思う。
「付き合う人間を選ぶとは言うけど、
付き合う吸血鬼も選ぶのかしら?」
「吸血鬼であろうと当然選びます。
尤も、私に選ぶ権利があればの話ですが。」
「あら嬉しい。やっと本音が出たわね。
やっぱり私と話す時は、
素を出して接して欲しいもの。」
私はズズっと彼の方に身を乗り出す。
「…今はメディアもいませんから。
私はあくまでも公人であるので、
私的なやり取りは最小限に
とどめておきたいのですが。」
溜息をついて、疲れを見せるムッソリーニ。
直後、天を仰いだ彼に私は告げる。
「聞いているとは思うけど、
今日は私の屋敷に招待するわ。
公式な宮殿では無いのだけど、
事実上の王宮と言った所ね。
当然メディアも入れないし
数日間はある訳だから、
プライベートな話も沢山しましょう。
貴方がどうかは知らないけれど、
私としては貴方と友達になりたいの。」
「有意義な時間になる事を
私としても確信しています。」
微笑みながら告げた私に対し、
彼は疲れ切った口調で
半ば投げやりになりながら述べてくる。
今の会話で仲良くなれた訳ではないが、
これで第一関門はクリアだ。
結局、この手の人間と関係を築くには
兎に角私的な会話をするに限るのだ。
ムッソリーニは他人の事を
簡単には信用しない人間らしいが、
恐らく一度信用した人間相手には
最後まで信用を置くタイプだろう。
そして、その信用は仕事の関係では
絶対に築く事は不可能な物で、
私的な会話が欠かせない物なのだ。
「陛下、間も無く空港です。」
私がそうこう思案していると、
運転手が空港への到着を告げる。
さて、紅魔館に餌以外の人間の男を
招く歴史的な瞬間はもう直ぐである。
~~~~~~~~
「この通り、湖の傍にある館なの。
中々風情があると思わないかしら?」
午後2時過ぎの紅魔館。
私レミリア・スカーレットは
ムッソリーニを中心とした
数人のイタリア外交団を
(外交団と言っても、ムッソリーニ以外は
イタリア大使館の職員だが。)
紅魔館へと案内していた。
ムッソリーニ本人はそうでもないが、
お付きの数人はせわしなく
あちこちに目線をやっている。
「風光明媚と言いましょうか。
風が心地よく感じられます。」
感心しているムッソリーニを見て
私は自らのセンスに満足する。
まぁ、館を建てたのは私では無いのだが。
「それは良かったわ?
早速だけど、中に入って頂戴。
報道陣は下がらせるから、
客人だと思ってくつろいでいって。」
私がそう言うと、背後にいた咲夜が
イタリア外交団を館の内部へと招く。
彼らを案内するのは、2階の一室だ。
真面目に歩くと5分以上は軽くかかる距離だが、
私達は2分と少しで部屋に到着する。
普段の館は咲夜の空間拡張によって
外見からは想像もつかない程広がっているが、
客人を招き入れるにあたって
空間を一部歪める事により
行き来が楽になっていた。
咲夜がドアを開けると高級な調度品が
イタリア外交団を出迎える。
ロココ調のベッドの存在感を前に
お付きの数人の目がまたも奪われていた。
ここは応接室では無く、宿泊を伴う来客に
使用して貰う目的で作られた部屋らしい。
“らしい”と言ったのは、恐らく使用するのは
今回が初めてだと思われるから。
私は部屋の存在すら昨日まで失念していた。
館は広いのだが、私は大抵自室、執務室、
大広間、大図書館、食卓位しか出入りしないので
咲夜の方が館内には余程詳しいのである。
「皆さんにはここに宿泊して頂きます。
お預かりしたお荷物はこちらの方に
置かせて頂きたいのですが宜しいですか?」
「それで構いません。」
「畏まりました。」
ムッソリーニの了承を聞いた咲夜は
次の瞬間時間を停止させ
入館に当たって美鈴に預けさせていた荷物を
瞬時にベッドの下に置くと、
ドアを閉じて目的地に向かい
再び先頭を歩き始める。
そう言えば、咲夜の時間停止能力を
この男は知らないかもしれない。
私はそう思い説明しようとするが…
「しかし、羨ましい能力ですね。
私にその能力があればとつくづく思います。」
ムッソリーニは知っている様だった。
お付きが誰も驚いていない事を見るに、
きっと事前に調べておいたのだろう。
それにしたって感心した私は彼等を称賛する。
「冷静に受け入れるのね。
もし知識として存在していても、
人間は大抵驚く物だけれど。」
「あるがまま、それが全てです。
それ以上でもそれ以下でも無い。
そうでも無ければ理解しえません。
ただ、彼女は時間を停止出来る。
そして、彼女は女史の使用人。
それだけの事なのです。」
彼らしい発言ではあるが、
少し訂正を加えておく。
「彼女は私の家族で、所有物よ。
確かにメイドで使用人だけど、
私の中では明確に、
メイドや使用人以上の特別な存在ね。」
「…女史らしいです。」
咲夜についての私の訂正を聞いて、
回答に含みを持たせるムッソリーニ。
彼が何を思ったのかは何と無く理解したが、
この件について議論する気は無かったので
私は会話を一度切っておく。
~~~~~~~~
そうこうしているうちに、
私達は馴染み深い執務室に辿り着く。
私のデスクこそいつも通りだが、
彼等に用意されていたソファーは
いつもより高級そうな物に見えた。
「さ、早速だけど座って頂戴。
エスプレッソは無いけれど、
うちは紅茶が名物だから
ゆったり味わって行くと良いわ?」
私の言葉にムッソリーニは席に座り
お付きの外交団は後方に立っている。
ちゃんと躾はされているが、
別に遠慮しなくても良いのにと思う。
わざわざ指摘したりはしないが。
ムッソリーニは瞬時に現れた
紅茶のカップを手に取り
一口で半分程すすった。
「…確かに名物なのでしょう。
しかし、私は紅茶に自信が無い。
それが些か残念に感じますね。」
「あら、そこはお世辞でも
褒めておく所じゃ無いかしら?」
紅茶の感想を述べるムッソリーニに
私が笑みを浮かべながら指摘すると、
彼は毅然とこう述べてくる。
「知らない物を知っている様に語ると
どうなるのかは学んでいますよ。」
大切な教訓だな。私は割とその辺り
虚勢を張ってしまいたくなるタイプだから
彼の事は結構尊敬出来るな。
しかし、そろそろ本題に入ろうでは無いか。
私は真剣な眼差しで彼にそれを伝えると
会談のテーマを提示する。
「紅茶も振る舞えた事だし、
早速だけど始めましょうか。
手紙にもあったけれど、
貴方が今回求めているのは、
ルーマニアとの不可侵条約と
経済協力協定の締結らしいわね?」
私の確認に対し、ムッソリーニは
首肯して意図を述べてくる。
「そうです。私はルーマニアと
友好的な関係を築きたいのです。
貴国は石油を武器に英国と同盟を結び、
日本とも距離を縮めています。
私達もその流れに追随したい。」
ストレートに切り出すムッソリーニを見て、
私も単刀直入に聞いて置く事にした。
「不可侵条約に関しては
手紙にも書いた通り、
こちらとしても異存は無いわ?
後で書面を用意させるわね。
経済協力協定の方は…
要は石油が欲しいって事よね。
条件次第では前向きに考えるわよ?」
今回の“前向きに考える”は本当である。
ただ、石油資源に関して言えば
増産を指示するにしたって
内需と備蓄に回す分もあるので、
余りあちこちにバラ撒くのは
こちらとしても望ましくは無い。
英国と日本は流水と言う
吸血鬼の弱点を補って余りある
海軍戦力を保有している事や
仮想敵国のソ連への対抗と言う面で
接近したいとは考えているが、
別にイタリアはそうでは無い。
精々、民族的なルーツが近いだけの国だ。
私の見定める様な目線にも怯む事無く、
彼は取引材料を提示してくる。
「石油を融通頂けるのであれば、
こちらからは貴国に対して
資金援助や技術供与を行いましょう。」
私は彼の言葉に少し驚く。
彼の事だから、もっと具体的な内容を
こちらに提案してくると思っていたが。
「あら、イタリアも恐慌で
苦しいのでは無いのかしら?」
「無論恐慌で経済は苦しいですが、
石油が安定的に安価で入手出来るならば
そこまで悪い話にはなりません。
又、我が国は貴国と状況が似ています。
私達にとって必要な物の多くは
貴国でも必要性が高い物であり、
私達にとって不要な物の多くも
貴国では不要とされている。
である以上、対価となるのは
資金援助や技術供与になります。」
「そうね。よく分かっているじゃない。」
私の指摘に対し、ムッソリーニは
自国の状況を提示しながら述べてくる。
果たして、ルーマニアはこの条件を
どう解釈すべきだろうか?
実際の所、ルーマニアは現状において
困っている点は少ないのだ。
現状は平時であるが故に、
大量に不足する物資は特に無い。
また、技術面においても大抵は
魔法の改良でどうにかすれば
特に問題にはならなさそうなのだ。
…いや、しかしそうなると
私達の国は魔法への依存度が
些か高過ぎるかもしれない。
賢者の石作成工程の改良や
組み立て人形の増産等
日夜研究は続いているが、
国家単位の生産業務を
個人に担当させるのは
幾ら不老長寿の魔女達とは言え
かなりの過労になる筈だ。
とすると、結論は殊の外決まっていて。
「…そうね、資金援助があるのなら
こちらも前向きに考えましょう。
ルーマニアに不足しているのは、
兎にも角にも生産力なのよ。
私は科学の知識には疎いけれど、
生産の為には優れた工作機械が
大量に必要な事は流石に知っているし、
そうした工作機械の自給が難しい事も
政治をする上でよく理解したの。」
ムッソリーニは私の発言に首肯し
若干乾いた笑いを浮かべる。
「分かりました。詳しい条件は
後々詰めていく事にしましょう。
…それにしても、つくづく
イタリアにも石油があればと
思わされる物ですよ。
我が国の課題は重工業化の遅れと
著しい南北の格差にありますが、
発展の為の資源には限りがある。
嘆いた所で何も始まりませんから、
勿論発展に邁進はしますが。」
愚痴を瞬時に引っ込めて
気を引き締めているムッソリーニ。
私は彼に慰めの言葉をかける。
「まぁ、イタリアがルーマニアより
優れている点も沢山あるのだし、
気にし過ぎ無い事だと思うわよ。」
「…そうかもしれません。」
イタリアには歴史と伝統がある。
国際政治での場において、
その発言力は世界屈指の物だ。
建国こそ最近の出来事であるが、
ローマ以来の伝統は確かなのだ。
…さて、象徴的な作業でもするか。
「話も落ち着いた事だし、
約束した通りルーマニアとイタリアで
不可侵条約を結びましょうか。
お互い特に他意は無いでしょうから、
期間は10年で、都度更新って事で
そちらとしても構わないかしら?」
「えぇ、構いません。」
ムッソリーニは私の提案に同調した。
その瞬間、イタリア語、ルーマニア語、英語で
記載された不可侵条約の書面と万年筆が
ムッソリーニの手元に現れた。
彼は慣れた手つきで書面にサインすると、
私にそれを差し出してくる。
“完璧”な条文案に改めて目を通した私も
自分のサインを丁寧に記していく。
ここに、不可侵条約は締結されたのだ。
「…まぁ、こんな物かしらね?」
サインを終えた私が声を掛けると、
彼も首肯を以て同意の意を示す。
「最低限予定は果たせました。
速やかな準備、感謝致します。
…この後何も無い様であれば、
部屋に下がっても構いませんか?
少しばかり整理をしたいのですが。」
断りを入れてくるムッソリーニ。
まぁ、長時間の移動の直後に
短時間とはいえ首脳会談を行ったのだ。
少し位休息を取りたいだろう。
ついでに、私は会談の主催者として、
彼にこの後の予定も伝えておく。
「えぇ、構わないわ。長旅だったし
きっと疲れているでしょうから。
それと、多分昼食抜きで来たでしょ?
重い物は難しいかもだけれど、
私のメイド…咲夜って言うのだけど、
咲夜が後で部屋に伺うから、
もし何か希望があれば部屋に用意させるわ。
夕食に関しても、時間になったら
咲夜が呼び出しに来る筈だから、
楽しみにしておいて頂戴。」
「ご配慮ありがとうございます。
楽しみにさせて頂きましょう。」
硬かった表情筋が少しだけだが
柔らかくなった気がするムッソリーニ。
私はそれを見て、1つお願いをしてみる。
「…それと、夕食が済んだら
貴方と2人だけで話がしたいわ。
実は、屋上にテラスがあるのよ。
世間話をしたいだけだから、
良かったら付き合ってくれる?」
「…分かりました。
楽しみにしておきましょう。
それでは、私は一度失礼します。」
断りづらい空気感を作ってから
ムッソリーニにした私の提案は、
彼の本心は兎も角承諾された。
彼自身は逃げる様に部屋を出るが、
咲夜が前に出て再び案内している。
彼も道くらい覚えているだろうに。
…取り敢えず、今出来る事、したい事は
粗方終える事が出来たに違いない。
明日は図書館、明後日はクリムソンを
見学していって貰う予定なので、
ゆっくり話せるのは今夜位なのだ。
私は大きく伸びをすると、
冷めてしまった紅茶を煽った。
---------
「…あら、こんな時間にどうしたの?」
ありふれた冬の夜の事。
私、アリス・マーガトロイドは
仕事を片付け気分転換でもしようと
自室からリビングへと出てきていた。
時間も時間だし1人だと思ったのだが、
どうやらそこには先客がいた様である。
私の視界には、窓枠に頬杖を突きながら
空を見上げる少女の横顔があった。
宵闇に同化する様な黒髪と、
物憂げな青い瞳が私に強烈な印象を残す。
数秒後、彼女、メアリー・レーガンは
声を掛けた私に気が付いた様で、
苦笑しながら向き直ってくる。
「…こんばんは、アリスさん。
少し考え事をしていただけなので、
お気になさらないで下さい。」
「いえ、大丈夫よ。私もここには
気分転換に来ただけだもの。」
口ではそう言ったものの、
どうにも彼女の事が気になった。
ここで私が彼女に関わる事は
きっと大切な事なのだと、
ハッキリとそう感じられた。
特段やる事も決まっていなかった私は、
メアリーの横に椅子を置き
共に空を眺めてみる事にする。
空気の澄んだ冬の夜空には、
燦然と星が煌めいていた。
この星空を前にしてみれば、
見とれる気持ちも理解出来るな。
「…意外ですか?星を眺める何て。
らしくない行動に見えますか?」
私が彼女の横で星を眺めてから数分後、
彼女が私に話しかけてきた。
心地良い間合いを感じながら、
私は言葉を紡いでいく。
「…まぁ、ちょっとだけね。」
「はは…ですよね。」
息が白くなる寒い夜に、
星灯りでメアリーの苦笑が
儚げに照らされている。
ゆったりしたこの平和な時間が
ずっと続いてくれれば良いのに。
心の底からそう感じられた。
「…いつか私が母親になって、
おばあちゃんになって、
いよいよ現世から旅立った時、
私を知っている人が存在するなら
私の人生には悔いが無いです。」
冷え込む空気を割る様に語るメアリー。
普段はあどけなさを感じる彼女が、
今この瞬間は大人の女性に見える。
「なら、貴女の人生は大成功ね。
私はそれなりに生きるつもりだから、
ずっと貴女の事を知っているわ?」
「“それなり”ですか…。
それはかなり心強いです。」
「えぇ。“それなり”よ。」
私は別に不死では無いが、
不老長寿である事は間違い無い。
妖怪ですら老いるこの世界で、
私は悠久の時を生きるのだ。
必然、私が覚えている限りは
早々メアリーは消え去らない。
「ですけど、忘れたりしませんか?」
「嫌でも忘れない気がするの。
何せ、私の初めての弟子なのだから。
術式の理解も当時の私より速いし、
その内抜かれちゃうかもしれないわね。
1日に1つは覚えていくなんて
私からしたら狂気の沙汰よ。」
「…そこまで褒めて頂けると
ちょっと照れちゃいます。
見様見真似で必死ですから。
直ぐに覚えれば、沢山役に立てます。」
不安そうに聞いてきた彼女は
私の言葉に安心したのか、
私の方へと寄りかかってくる。
この辺りは弟子と言うよりも
妹っぽいなと不意に思う。
「…アリスさんはご存知ですか?
星を構成している成分。」
「星の成分?」
唐突に変わる話題に私は付いていく。
これはメアリーの癖なのだろう。
出会ってからまだ2週間程度だが、
もうすっかり慣れてしまった。
「星は、主に水素とヘリウムで出来ています。
ほら、飛行船の燃料に使う物質です。」
「そうなの?じゃあ、星って軽いのかしら。」
「あ、信じてくれるんですね。
てっきり否定される物かと。」
目を丸くするメアリーに私は私見を述べる。
「生憎、天文学には詳しく無いのよ。
貴女がそう言うならそれなりには
根拠がある話なのでしょうし
私は信じる事にするわ。」
魔女として天文学にも触れた事は
私にだって当然あるのだが、
ほぼ間違い無く“常識的”な
天文学とは違う学問ではあろう。
もう少しそう言った学問にも
触れてみるべきかもしれない。
私がそう思案していると、
メアリーは口を開いた。
「まぁ、まだ証明はされてないみたいですけど。
1925年のセシリアって女性の論文に
そう言った学説があるみたい何です。
…この国だとそうでも無いですけど、
女性研究者って本当に珍しいですし、
ちょっと尊敬しちゃいます。」
別に自分の事でも無いのに
誇らしげに語るメアリーに
私なりの見解を告げてやる。
「証明されていないとすると、
実際は違う可能性もあるんじゃない?
例えば、愛情で出来ていたりして。
食べた時に甘い恋の味でもしたとしたら
夢があるとは思わないかしら?」
「アリスさんってロマンチックですよね(笑)
多分、アリスさんが生きている内に
ちゃんと成分は証明されると思います。」
はにかみながら語るメアリーに、
私は苦笑しながら伝える。
「それは、“それなり”にかかりそうね。」
メアリー・レーガン。魔法を使える人間。
前向きなのに、何処か物憂げ。
地に足を付けつつ、浮いている。
私の元にやって来た、難解な一番弟子。
…私達は空を見上げ、
輝く星に思いを馳せる。
ただ、明るい未来が訪れる様に祈った。
ブカレストとクリムソンの距離…現代ならば高速も使用して3時間強、4時間弱程度らしいが、1930年代の車の最高速度と耐久性等を諸々考慮すれば道路だけ整備しても恐らくは5時間位は必要になる。
ムッソリーニの友人関係…他人を殆ど信用しない孤独な人だったらしい。インテリらしく思考をグルグル回す時間が有意義だとでも思っていたのかもしれないが、独裁者をやっていれば嫌でも孤独になりそうな気がする。周りに人妖を侍らせているレミリアみたいなタイプはかなり稀だろう。
セシリア・ペイン=ガポーシュキン…イギリス出身のアメリカ合衆国の天文学者。ケンブリッジ大学で植物学・物理学・化学を学んだあと、アメリカ合衆国に移住し、ハーバード大学で1925年に天文学の博士号を得た。恒星の組成の大部分が水素からできていることを証明した事で高い評価を得た。1956年に女性として初めてハーバード大学天文学部の教授となり、男性が支配していた学問研究のシステムに本格的に進出した女性となった。
星の成分…アリスが70年以上後の世界で、甘い味がする星の存在を知るのはまた別のお話。彼女が思うようより甘ったるかったとかそうでも無かったとか。