蒼也は母親のデビュー作になるはずだった漫画『透明悪魔』の物語を一人で考えていたが、
母親に諦めるように言われる。
その夜、蒼也の背中から鬼が現れ、心の闇に飲まれた蒼也と一体化する。
鬼は姿を見せずに、蒼也の家族や友人を襲う。
大悟は仲間と共に鬼と戦うが、鬼は見えないので、なかなか攻撃が当たらない。
明季子は蒼也のノートを見て、彼が『透明悪魔』の物語を諦めていなかった事に気づき、
小麦粉を使って鬼の姿を見えるようにする。
大悟は鬼の正体が蒼也の漫画の透明悪魔だと知り、蒼也を助けるために必死に戦う。
そして、鬼をツルギで貫いて倒すのだった。
大悟を包んだ蒼也の闇の中は、意外にもさほど暗くなかった。
薄闇の中に背中が見える。
机に置いた大きなタブレットに、熱心にペンを動かす背中。
(あれは、蒼也のおばさんだ。漫画を描いてるんだ)
明季子の邪魔をしないように、そっと見つめる蒼也の視点が、大悟に重なる。
「透明な悪魔?」
次に蒼也がいたのは、別の部屋だった。
所狭しと置かれているのは、油絵のキャンバス。
ネコヤナギや蛇苺など、山で見る草木が克明に描かれている。
油のにおいがツンと鼻についた。
「それ、お父さんの次の個展の話?」
首を傾げる蒼也に、百日紅の花を描く父親の繁が筆を止めて笑った。
「違うよ、お母さんのプロデビュー作になる読み切り作品の話。
悪役に透明な悪魔を出したいんだってさ」
「へええ! それすっごく面白い! ……けど、どうやって倒すの?」
「それだよ。母さんも倒し方が思いつかないって悩んでる。
だから、蒼也が手伝ってくれないかな、と思って」
「僕が!?」
「お前、ストーリーを作るの上手だから。こないだ作った物語も面白かったしな」
「でも、お父さんの方がいいアイデアを出しそうだけど?」
丸い回転椅子に座る蒼也が、くるりと一周する。
「お前がいいんだよ。母さんの漫画の一番のファンだからな。作品の良さをよく分かってる。
SNSに上げてた母さんの漫画が注目されて、ようやくデビューのチャンスが来たんだ。
ガツンと面白い作品にしたいだろ? 母さんは絵と構図にセンスがある。
そこにお前の物語が合わされば、最強だと思うんだよ」
繁は画家として活躍している。
本人は自分を「貧乏画家」だと笑うが、蒼也にとっては一流の芸術家だった。
繁の絵がとある本の表紙に使われた時は、学校中に自慢したほどだ。
その繁が明季子の漫画と蒼也の物語を認めている。
蒼也は誇らしく胸を張った。
「いいよ。僕がお母さんのデビューを後押しする。見ててね」
「頼んだぞ」
とても大事なものを託す目で、繁が頷いた。
しかし、蒼也の心は突然、色を失って暗くなる。
闇が、ぐんと濃くなった。
次に見えてきた母の背中は、すっかりしぼんで見えた。
居間に置かれた新しい仏壇には、繁の遺影が飾られている。
「大変、もう次のパートの時間だ」
夕食を慌てて用意しながら、明季子が疲れた顔で時計を見た。
「お母さん、これ見て」
蒼也がノートを広げる。
透明悪魔の物語を考えた、アイデアノートだった。
エピソードの中には、実際にコマ割りまで作って具体的になったものまである。
「これ、僕が考えたんだ。ラストはいくつか候補があって……」
明季子は聞こえないのか、食卓に食器を並べてこちらを見てくれない。
「お母さん、これ」
―がちゃん!
突然、明季子が皿を食卓に叩きつけ、蒼也は跳び上がった。
「蒼也! お母さんが頑張ってるのが、分からないの?」
「……」
「お父さんがいなくなっても、私達の生活は続くのよ。
売れるか分からない漫画なんて描いてる場合じゃない。
お願いだから、もう漫画の事は言わないで」
「でも、お母さんデビューできるんでしょ? 僕も嬉しくて……だから」
「諦める事が大事な時もあるの! いつまでも言わないでよ!
お母さんがこんなに頑張ってるのに!」
(諦める? やめちゃうの? 僕が手伝う事はできないの?)
「もう遊んでられないって事だよ」
追い打ちをかけるように和也が言った。
怒っているような顔でテーブルにつく。
「病気が治ったら、俺も働くから。蒼也も漫画なんて言ってないで、勉強しろよ」
「兄ちゃん、専門学校に行くのはやめたの?」
和也はチラッと気遣う視線を明季子へ投げる。
「学校に行くより、現場で実践を積む事にしただけだよ」
「でもお父さんだって、お母さんの漫画を楽しみにして……」
「蒼也!」
和也が厳しい顔で蒼也の言葉を遮った。
「母さんが頑張ってるんだ。お前一人が我儘言うな」
(我儘? 大好きな母親が大好きな漫画を描けるように。そう考えただけだったのに)
何が我儘で、何が頑張る事なのか。
蒼也はよく分からなくなった。
ただ、二人に笑ってほしかった。
だから頷くしかなかった。
「じゃあ僕も……頑張るね」
「頑張る」は、「我慢する」事「諦める」事だった。
帰宅途中の公園で、蒼也は何度もノートを破ろうとした。
そのたび、手が止まった。
「頼んだぞ」と言った繁の顔が浮かぶ。
夢中で作品を描いていた明季子の姿が浮かぶ。
何よりも、蒼也自身が楽しくてたまらなかった。
頼ってもらえる事、力になれる事、作品を作れる事が嬉しく誇らしかったのだ。
「まだ諦められないのは、僕の我慢が……足りないからだ。もっと、頑張って、我慢しなきゃ。
じゃないと、お母さんが悲しむから」
気づくと、紫の霧が足元に漂っていた。
「おまえの がまん かいほう してやる」
霧の中から浮かび上がる目に、蒼也は見つめられた。
大悟が闇を振り払い、目を開ける。
青い炎に浮かび上がる鬼の輪郭が、溶けるように消えていった。
倒れる蒼也を受け止めたのは明季子だった。
「小麦粉はいい武器でした。蒼也はもう大丈夫ですよ」
大悟、雅、葵はぺたりと座り込んだ。
体のあちこちが痛い。
「蒼也のおかげなの」
明季子が蒼也のノートを指した。
開いたページにはこう書かれていた。
〈透明悪魔の倒し方〉
その① 砂を撒いて足跡を辿る。
その② たくさんの小麦粉をばら撒いて輪郭を浮かび上がらせる。
「蒼也、やっぱすげえな」
大悟が微笑むと、明季子は蒼也を腕に抱いて涙を落とした。
「本当は漫画を描きたいの。でも、それじゃあ生活ができない。
蒼也に漫画を描いてって言われれば言われるほど、苦しくて……。
一番、諦められなかったのは、私なのよ。
未練を引きずって、いつもイライラして、蒼也に我慢をさせた……。
ごめんね、蒼也。お母さんが悪かった」
和也がすかさず言った。
「父さんが死んで、母さんが頑張らなきゃいけない状況になったのは、誰のせいでもない。
俺だって蒼也だって分かってる。だから、俺達も頑張ろうって。
蒼也も同じ気持ちだったはずだよ。ただ、頑張り方が……少し、違っただけ……」
言いながら、和也は酷く眠たそうだ。
『鬼と生活し、鬼の瘴気を吸い込んでいたのだ。じきにこやつらも眠り、忘れる』
ウタキが話している間に、和也はどたりと倒れて眠ってしまった。
「私、もう諦めない……蒼也と一緒に……必ず作品を完成させる」
言いながら明季子の瞼も閉じかけている。
「ちょっと、まだ寝ないで! あのお札を誰にもらったか教えて!」
「私は知らない。蒼也が、夜になると自分の中で、
悪魔が暴れるって……そしたら、悪魔を閉じ込めるお札をもらったって……言って」
ことん、と明季子も眠ってしまった。
「誰なんだよ……一体、なんの目的で……」
頭を抱える大悟の中からウタキが出てくる。
蒼也を間近で観察しながら言った。
「夜になると悪魔が暴れる、か。さてはこの小僧、取り憑いた鬼を抑え込んでいたな」
「随分、精神力が強かったみたいね。
家族のために我慢しようと強く思うあまり、鬼に肉体を奪わせず、中に閉じ込めたのよ」
「我慢強いにもホドがあるだろ」
「ま、日本人らしいといえばらしいわね」
大悟が複雑な表情になり、雅は呆れる。
「あの壁の傷を見ただろう?
これは私の見立てだが、鬼も完全に抑え込まれたわけではなかったのだ。
時折、肉体を乗っ取り、家の中で暴れた」
「それで、兄ちゃんを守ろうとしてドアに呪符を貼ってたのか」
「ああ。そして鬼を抑えるために自らにも貼った」
自分の手足をテープで縛ってまで、蒼也は家族を守りたかったのだ。
「みんな、起きたら全部忘れてるんだろうけど……
この状況を見て、何か思い出してくれるといいな」
見渡す室内は、小麦粉で一面真っ白だ。
「母親と兄は鬼に憑かれたわけではない、すぐに目覚める」
「だったら、ノートはここに置いておく。見れば、蒼也の想いが分かるはずだ」
蒼也のアイデアノートを、祈る気持ちで明季子の手元に置いた。
「蒼也、あんまり我慢するなよ。自分の事も大事にしろ」
大悟がぐっすり眠る蒼也に言うと、ウタキがボソリと呟いた。
「その言葉、そのまま己に言うがいい」
「さて、行くか」
口ではそう言いながら、大悟は迷わず立ち上がった雅と葵と違い、立ち上がる事ができない。
心が鉛のように重たかった。
「言いたい事がありそうね」
顎に手を当てた雅が大悟を見ている。
「……闇を祓った蒼也に、また鬼が憑いた。
つまり、ツルギで人の闇を祓ったとしても……また闇は生まれてくるって事だ」
「人間とはそういう生き物ですからな」
葵にさらりと言われ、大悟は奥歯を噛み締めた。
「そういう生き物……なのか?」
葵は黙って大悟に続きを促している。
「闇は鬼を呼ぶ。だからオレは闇ごと鬼を斬って人を守ってる……そう思ってた」
「その通りです」
「でも、人間が自分でどんどん闇を生むなら、
ツルギが闇を祓う事って、その場しのぎにしかならないんじゃないか?
そりゃ、鬼から人を助ける事は必要だよ。それが無意味だって言ってるんじゃない。
ただ……使い手は……」
言葉を探す大悟の代わりに、ウタキが言った。
「闇を祓うたびに闇を見る。それが苦しい、と」
「……そうだよ、苦しいよ。
どうせまた闇が生まれると思ったら、これから先は……きっと、もっと苦しくなる」
情けないと言われても、これが大悟の本音だった。
大悟は腰のツルギを見る。
自分が持つ唯一の武器だというのに、鋭い牙を向けられている気がしてくる。
「どうしてツルギは、使い手に闇なんて見せるんだよ?」
「その答えは、他人から手渡されるものではない。己の手で掴み取れ」
ウタキの言い方はいつも通りなのに、妙に冷たく感じられて大悟はウタキを軽く睨んだ。
突如、ウタキの視線が横に流れ、大悟の視界が黒一色になる。
「……え?」
ウタキが羽根の蓑で大悟を庇って立っていた。
「さっきから騒々しいんだけどねえ」
嫌味たっぷりの老婆の声がする。
首を伸ばすと、いつの間にか玄関に立っていたのは、
先程蒼也に挨拶をしたエプロン姿のおばあさんだった。
「来ましたね……!」
葵の言葉に、大悟が焦る。
「おい、この人は一階の……ん?」
老婆は、紫色の目をしていた。
その目を細めて葵に笑う。
「……酒呑童子!」
ウタキが呼んだ名前に、大悟の心臓がドキッと跳ねた。
「なんだ、もうバレちゃった?」
「酒呑童子? この人に、入ってるのか?」
大悟は老婆を見る。
鬼が持つ気配も臭いもない。
ここまで気配を隠す鬼は初めてだ。
「会いたかったでしょ? 僕も会いたかったよ。千年……いや、もっと経つかな?」
「どうやって封印を解いた」
酒呑童子はウタキに首を傾げてみせる。
「積もる話は今度ゆっくりね。ちょっと座らせて。手近な肉体がこれしかなくてさ。
ああ、階段しんどかった」
しわがれた声で、よっこらしょと老婆の腰を玄関先に下ろした。
「小鬼も、呪符も、お前の仕業だな」
「あら、ご明察」
「呪符は人間が使う呪術だ。鬼が使うなど妙な話ではないか」
「あれを作ったのは僕じゃない。計画したのは僕だけど」
「なんだと?」
「僕、面倒くさい事嫌いだからさ、効率的な方法を考えたんだ」
酒呑童子は老婆の顔で悪戯っぽく笑った。
「バネって知ってる? 小さく縮ませたら、大きく跳ね上がる奴。
人も鬼もそれと同じにならないかと思ってさ。潰す寸前まで抑え込む。我慢させる。極限まで。
そうすれば人の闇は深くなり、憑いた鬼の暴れ方も大きくなる。一人の人間、一体の鬼。
最小限の手駒を効率的に強くする方法だよ」
ウタキと葵の後ろで聞いていた大悟と雅は、怒りで頭がカッと熱くなる。
まるで遊んでいるような口振りが、さらに腹立たしい。
酒呑童子はさらに楽しげに続ける。
「ふふふ。結構効果あったでしょ? まさか透明になるとは思わなかったよね~。
すっごい楽しかった!」
「人の事、傷つけといて……ふざけんな!!」
耐えられず、大悟が叫んだ。
「あ、いたの? 小さすぎて見えなかった」
「くそムカつくな、お前。絶対に斬ってやる」
「私も戦うわ」
「ウチも」
「こんなチビちゃんとお姫様とくノ一が戦うって。ウケる~。関守って人手不足なの?」
「貴様、何が目的だ」
ウタキの声にも怒りが混じっている。
酒呑童子は、老婆の顔で不敵に笑った。
「決まってるでしょ。使い手を葬る事。関守を、根絶やしにする事。
そして、猿飛の血を継ぐ者を皆殺しにする事」
「ほう。大きく出たな」
「ま、今のままじゃ難しいって事は分かった。君、使い手の中に入れるんだもん。
鬼に金棒、いや、鬼にツルギか」
ウタキがジリッと動き、攻撃態勢を取っている。
「ああ、ストップ」
酒呑童子が両手を上げて降参のポーズになった。
「見れば分かるでしょ? この肉体は戦闘向きじゃない。
今日はとりあえず、再会のお祝いに来ただけだから」
そしてエプロンのポケットから、パーティー用のクラッカーを出した。
「これ知ってる? お祝いの時に使うんだってさ。行くよ。せーの!」
合図で紐を引くと、パン! と、カラフルな紙吹雪がクラッカーから飛び出す。
呆気に取られる大悟のすぐ耳元で、老婆の声が囁いた。
「プレゼントだよ」
「!!」
恐ろしく速い動きで、背後を取られていたのだ。
葵が振り返って暗器を突き刺そうとした時、老婆の体が崩れ落ちた。
大悟と雅が慌てて抱きとめる。
「肉体から出たか。犠牲を好むやり方は、相変わらずだ」
酒呑童子は既に消え、老婆は寝息を立てて眠っていた。
「相当、速いわね。それでいて、卑怯」
「大事ないか」
「うん、特には。……て、あれ? 背中があったかい」
大悟が肩甲骨の辺りを触る。
玄関の鏡の前でシャツをめくると、四角い紙が貼られていた。
「なんだこれ」
紙は呆気なく剥がれ落ちたが、その下の肌に、転写したような赤い線がうっすらと残った。
縦に四本、横に五本、格子のような線が描かれている。
「これは……九字紋? 魔除けの模様だ」
「魔除け? なんでオレの背中に?」
模様を見つめていたウタキが、ハッとする。
すぐに唸るように言った。
「……お前の中に、入れぬ」
「……え?」
「……どうやら、やられたみたいね」
雅が、ぽつりとそう呟くのだった。