真白は自分の呪力で人を傷つけてしまう事に苦しみ、源氏物語に慰めを求めていた。
ある日、彼女はクラスメートの海斗に声をかけられ、放課後にカフェに誘われる。
しかし、海斗は鬼の王・酒呑童子に憑依されており、
真白の闇に取り憑いていた鱗鬼を奪おうとする。
真白は酒呑童子に呪界に引きずり込まれ、鬼に食べられそうになるが、大悟達に助けられる。
彼女は自分の力の正体と、鬼と人の戦いに巻き込まれる事になるのだった。
真白が神社の井戸に身を投げたのは、小学校五年生の時だった。
「こっち」の世界から、「あっち」の世界へ。
逃げ出すように暗闇の中に飛び込んだ。
闇に落ちながら真白は意識を失い、気づいた時には、木の根元に倒れていた。
巨大な木々に囲まれた森は、紫色の不思議な薄闇に包まれている。
「気持ち悪い」
目覚めてすぐ、真白は腹を押さえて呻いた。
空気が重たく淀み、息をするのも困難だ。
乗り物酔いになったように胸がムカつき、真白はその場に嘔吐した。
ふわり、と奇妙な臭いが近づく。
水の臭いに似ていた。
臭いと共に現れたのは、揺らめく黒い影だった。
霧か煙に見える。
それが生き物だと分かったのは、その中にくっきりと浮かぶ黒い二つの目があったからだ。
「……青葉?」
そんなはずはないのに、弟の名を呼ぶ。
もう一度会いたかった。
しかし黒い目は、青葉ではない声で真白に言った。
「おまえの なまえ よこせ」
朦朧とした頭で、そうか、と真白は理解した。
「私、死んだんだ。もしかして……閻魔様?」
前に本で読んだ。
死んだら閻魔様がその人が生きている間にした事を聞いて、地獄行きか天国行きかを裁くのだ。
挿絵に描かれていた閻魔様とはだいぶ違うが、構わない。
「私は」
ぜえぜえと息をつき、言葉を吐き出した。
「弟を殺しました」
生ぬるい風が吹き、巨木達が葉を揺らす。
真白は、地獄行きを告げる声を待つ。
「おまえの なまえ よこせ」
しかし黒い目は、同じ事を繰り返して真白に近づいた。
「“呪界”? 結界みたいなもんか?」
大悟、雅、葵は空中に立つ酒呑童子を見上げた。
「人が作る“結界”は、鬼や邪気が入れないよう浄化した領域よ。
それに対して、鬼が作った不浄の領域を“呪界”と呼ぶわ」
雅の声を聞きながら、大悟は周囲の地形を見渡した。
山に入った亀裂のような谷底は、大きな岩が転がって足場が悪い。
しかも、足元のあちこちで水が流れているせいで滑りやすかった。
「見てごらん、僕が生きた時代の空だ。空気が澄んでいて青さが格別だろ? これこそ空だ」
青空を、酒呑童子が仰ぎ見る。
「昔、僕が取り憑いた宿主は山賊でね。
そいつは赤ん坊の時、野原に捨てられ、山賊の一味に拾われ育てられたんだ。
僕が取り憑くまで、屋根の下で生活した事がなかったらしいよ。
僕が空の開放感を好きになったのは、そいつの影響だろうな」
「おいコラ!」
大悟の罵声が谷間に響き渡った。
「真白は関係ねえだろ! こいつだけでもここから出せ!」
大悟が背中に隠す真白は、目の前で起こっている事態に愕然とし、座り込んだままだ。
酒呑童子は人差し指を振る。
「ダメダメ。まっしーがいないと始まらないんだから」
「まさか、狙いは真白ですか!?」
背後にへたり込んだ真白が、小さな声で「葵」と呼んだ。
「大悟、あれは……私の力じゃなかったんだ」
仏頂面しか見せた事のない真白が、泣き出しそうな顔で唇を噛む。
「真白のじゃ、ない? どういう事だ」
「チビちゃん達にも見せてあげる」
酒呑童子が右の掌に呪力を溜めながら言った。
「すぐに影に隠れちゃう、シャイな子なんだ」
とっさにウタキ、大悟、雅、葵が身構える。
しかし、酒呑童子から放たれた呪力の塊は大悟達から大きく逸れた。
「なんだよ、大外れか?」
大悟がほっとした瞬間、酒呑童子の右腕が長いロープを引くように、ぐいと動く。
呪力の塊が空中でブーメランのように弧を描いて戻ってきた。
「空中で曲がった!?」
呪力の塊が、ガラ空きの背後から真白を捉える寸前、真白の足元から大きな影が跳び上がった。
―バツン!
その影は強い閃光を放ち、酒呑童子の呪力を弾いて散らす。
「真白の影が、動いた!?」
大悟は思わず言ったが、自分の間違いにすぐ気づいた。
「影じゃない。あれは……鬼?」
黒い鱗で覆われた全身、獣のように長い顔、額には歪に曲がった二本のツノ。
黒目しかない両目が暗く光る。
ウタキが「そういう事か」と呻いた。
鱗鬼は大きな体で真白の前に立ち、低い唸り声を出している。
全身から、パシッ、パシッ、と火花を放っていた。
「あの電気みたいな力って、もしかして……」
「娘の呪力だと思うていたが、鬼の仕業だったのだ。あやつ、まだ肉体を得ておらぬ」
「真白の影に隠れてたの? でも、なんでそんな事?」
「そりゃあ、まっしーの体を手に入れるためだよ」
酒呑童子は楽しげに笑うと、鱗鬼に「おい」と顎をしゃくった。
「もういいから、さっさと喰っちゃえってば。計画が狂うんだよ。お前の家畜、殺すぞ?」
言うと同時に片手で、びゅん、と呪力の塊をまた真白に向けて投げつける。
すると鱗鬼も再び空気中に電気を走らせ、その呪力を散らす。
しかし酒呑童子はもう片方の手で、もう一つ呪力の塊を投げていた。
「引っかかってやんの」
「やっぱり男っていう生き物は、女を虐げるのね!」
真白が悲鳴を上げ、雅が叫び出す。
鱗鬼が真白の前にとっさに体を投げ出した。
呪力の塊を受け止めて、鱗鬼が地面に倒れる。
「おい、あの鬼……」
「真白を守ったぞ」と言いそうになり、言葉を呑み込んだ。
鬼が人を守るなんて、あるはずがないからだ。
しかし、横に立つウタキも口元に手を当て、鱗鬼と真白をじっと見ている。
鱗鬼は立ち上がり、低い唸り声を出して酒呑童子を威嚇した。
酒呑童子が、やれやれ、と大袈裟な溜息をつく。
「お前さ、誤解してない? お前の獲物を横取りしようなんて思ってないから。
お前がその子を喰えばそれでいいの! いい加減に言う事聞けよ。怒るよ?」
酒呑童子は両手でボールを持つような丸い形を作った。
空気がピンと張り詰める。
「……何ですか? 水が」
葵は地面を見た。
足元で流れていた水が、動きを止めたのだ。
そして、ピンポン球ほどの大きさになった水が、見渡す限りの岩間から一斉に浮き上がる。
「これやるの、久しぶりだな」
酒呑童子は両手を一旦ぐっと下ろすと、勢いよく空へ突き上げた。
水滴の群れがザアッと空に向かった。
遥か頭上で、花火のように広がる。
「綺麗だろ? 水を呪力でコーティングするんだ。そうするとね、水といえども……」
酒呑童子が腕を振り下ろした。
「岩だって打ち砕く!!」
水滴が猛烈なスピードで襲来し、ウタキが咄嗟に大悟達の周囲に呪力のバリアーを張る。
「逃げて、真白!!」
雅の声は落水の轟音に掻き消された。
落水は弾丸並みの威力で岩を割り、砕き、水煙が辺りを覆う。
攻撃が止んで大悟達が顔を上げると、真白と鱗鬼が折り重なって倒れていた。
「真白!!」
駆け寄ると、真白の周りにはキラキラと光る黒い鱗が散乱している。
傷ついた鬼は風に散るように揺れ、輪郭を失いかけていた。
あれだけの攻撃に遭いながら、真白は無傷だ。
(真白が無事っていう事は、やっぱり……いや、まさか)
大悟は混乱し始めていた。
「これでいいか?」
酒呑童子がうんざりと鱗鬼を見下ろしている。
「これで、お前が生き延びるには娘の体に入るしかない。ガキでもそれぐらい分かるだろ?」
それでも、鱗鬼は立ち上がった。
酒呑童子を見据えて真白の前によろよろと立つ。
間違いなく、鬼は真白を守っている。
「どうして……」
真白が呟く。
それは、そのまま大悟の思いだった。
(訳が分からない。鬼なのに人を守るなんて、あり得ないだろ?
自分の獲物を取られたくないのか? そうだとしても……)
自分の命までかけるだろうか。
「ウタキ、この鬼どうなってんだ?」
「この娘、鬼を調伏したのかもしれぬ」
「ちょうぶく?」
「鬼を下し、鬼を“式神”として使役する主になるという事だ。しかし……奇妙だ。
式神が主の影に潜み、命じられもせず動くなど聞いた事がない」
酒呑童子も首を捻っている。
「おっかしいな~。まっしー、こいつと契約か何か結んだ?」
「そんなもの、知らない」
真白が力なく首を振る。
酒呑童子の目には苛立ちがはっきりと浮かんでいた。
「ま、何でもいいや。言う事を聞かないなら、邪魔なだけだ」
スッと、空中で立ち上がる。
鱗鬼に向かうと再び両手でボールを持つような形を作った。
「失せろ」
岩間を流れる水が、再び動きを止める。
「させません!」
酒呑童子が次の動作をする前に、葵が思い切り跳んで下から忍び刀で突く。
攻撃を中断し、酒呑童子がひらりと葵に体を向ける。
すっと右手を突き出すと、人差し指と中指で、忍び刀を摘まんで止めた。
「くっ……!」
たった二本の指に挟まれただけなのに、葵は忍び刀を動かす事ができない。
「くノ一さん、よく跳ぶねえ? 半人前の癖に!」
「ウチは姫様を命がけで守ると誓いました。あんたを倒します!」
酒呑童子は、指で摘まんだ忍び刀ごと葵を引き寄せる。
逃れようともがく葵に顔を寄せ、囁いた。
「僕、強いでしょ? 肉体があるって最高だよね」
「ええ、最高です……」
「……なっ!!」
そう言って葵は左手を振ると、平手打ちによる、渾身の一撃をお見舞いした。
「……!」
顔面に平手打ちを食らった酒呑童子は白目を剥き、鼻から血を噴いて落下していく。
そこにウタキが呪力を放つ。
地響きと共に酒呑童子が岩壁にめり込んだ。
(もらった!)
着地するなり岩を蹴った大悟を、ウタキの呪力が押して加速させる。
岩壁にめり込んだ酒呑童子を狙ったツルギは、しかし、岩を砕いただけだった。
「!?」
「懐かしい味だ」
振り返ると、酒呑童子が事も無げに立っている。
顎まで滴る血を指先で拭い、舐めていた。
「痛みも、血の味も、肉体があればこそだな」
指先についた血をピッと弾く。
「避けろ!」
ウタキが叫び、大悟は横に跳んだ。
大悟が立っていたその場所に、無数の鋭い釘が突き刺さる。
酒呑童子が飛ばした血が釘となって大悟を襲ったのだ。
「ちぇっ、惜しかったな」
「お前……水だけじゃなくて血も武器にするのか」
酒呑童子は「後、お酒もね」とにっこり微笑んだ。
「要するに、液体そのものを操作できるのね」
「昔よく宴会で、こんな風に酒を飛ばして、無礼なヤツを殺したんだ。
で、そいつの血を混ぜた酒を皆で飲む。風流だろ?」
「へーえ、そうかよ。そんなに強いなら、わざわざこんな場所に連れてくる事なかったろ」
「それがさ。あまり大騒ぎするなって言われてて。仕方なくね」
その言葉に、ウタキが怪訝そうに呟いた。
「言われている……?」
酒呑童子がウタキを見て肩を竦める。
「契約しちゃったんだよね~。だから面倒でもやんなきゃいけなくてさ」
酒呑童子は、座り込んだまま動けないでいる真白を見た。
傍に倒れた鱗鬼はもう動く事もない。
「その子を利用しようと思ったんだけど。今回は失敗かなぁ」
ドン! と大悟が足を踏み締めた。
「おい、酒呑童子」
ツルギを両手でがっちりと握り、大悟は酒呑童子を見る。
もういい加減、腹が立って仕方なかった。
「言ってる事も、やってる事も、まどろっこしいんだよ。
陽多、蒼也、真白……みんなを巻き込みやがって。
オレ達が狙いならてめえが真正面から来い!!」
大悟の目は、腹の底からの怒りに燃えていた。
「あらら。もう僕に相手してほしいの?」
ギラリと酒呑童子の瞳が光り、手元で水が動いた。
日本刀の形になって手に収まる。
「おいでよ。まとめて潰してあげる」