──── 4時限目。
「どうにかならないの、これ……」
悠二は、うんざりしたような、胸焼けを起こしたような気まずそうな顔で、教科書に顔を
しかし、返ってきたヘカテーの言葉は、実に淡白なものだった。
『今は無理です』
ぴーん、と教室中に張り詰めた緊張感。板書する中年の男性教師の手が、ベテランの領域だろう彼にしては、かなりぎこちない。
「そ、そうしたらここを……」
英文の一部の単語を伏せた形で、板書を終えた英語教師が、どもりながら生徒たちの方を振り向き、教室中を見渡した。
その視界の中に、不遜な様子でどっかりと椅子に座っている、小柄な少女の姿が入った。他の生徒と異なり、机の上には、教科書もノートも載っていなかった。
「こ、近衛さん!」
それを見つけた英語教師は、よせばいいのに注意しようと名前を呼ぶが、その声は裏返って甲高いものになってしまう。
少女は黙ったまま、腕を組んで椅子の上にふんぞり返っている。
「て、転校初日で教科書は、な、ないにしても、ノートぐらいとりなさい!」
「…………」
教師に言われたが、少女は態度を崩さずに、わずかに沈黙する。
何人かの生徒が、少女を振り返った。その中には啓作や栄太もいた。
やがて少女が口を開く。
「お前」
荒いわけではないが、どこかぶっきらぼうさを感じさせる口調で言う。
その言葉に、教師は一瞬、身を竦めるようにしつつ全身をビクッと跳ねさせた。
「その穴埋め問題、ぜんぜん意味のない場所が開いてるわ。クイズじゃないんだから前後の文脈で類推できるところを開けなさいよね」
少女は淡々とした口調ながら、糾弾するようにそう言った。
「正しい答えは『She is an Anglo-Saxon girl born to an English father and an American mother, but she herself has spent most of her life in Japan and her way of life is very Japanese.』だけど、原文を覚えていないと出来っこない。それに」
教科書も見ずにすらすらと英文を口にした少女が、さらに言葉を続けようとすると、緊張のあまりおどおどとしたような態度の教師は、再びビクッ、と身体を跳ねさせた。
「その板書も段落で見たら、あと2文足りない。マニュアルをページ単位で書き写してるだけだから、そんなことになるのよ」
「ぐっ……ぬ……っ!!」
教師は言葉に詰まり、顔面が蒼白を通り越して土気色になりながら、慄くような様子で少女を凝視する。
「教師のくせに学力がなくてマニュアル外に手が届かないし、説明も下手で、ダラダラ要領の得ない話をするだけ ──」
少女はズバズバと鋭く言うと、教師はひと言も言い返せず、もはや立ったまま半分気絶しかけているかのように、酸欠の金魚の如く口をパクパクとさせている。
「なってないんじゃない?」
「…………!!」
「私に教えるつもりがあるなら、ちゃんと勉強してから出直しなさい」
少女が死刑宣告の様に酷薄に言うと、教室内は一瞬静まり返る。
「◯✕▲□♠☆ ── !!」
ほんの僅かに間をおいてから、教師は訳のわからない奇声を上げながら教室を出ていった。廊下をバタバタと駆けていく音が遠ざかっていく。
「はぁ……」
悠二は、左手で胸元を押さえつつ、盛大にため息をついた。
4時限目が終わり、御崎高校は昼休みとなった。
近衛
朝の自己紹介から授業中までの様子からは一転、妙に楽しそうに袋の中から何かを取り出そうとする。
「別人みてーだな」
「ああいう顔もするんだ……」
本日ここまで、3人の教師が少女にズケズケとダメ出しをされて半狂乱で教室から飛び出していった。1人だけ、日本の高校教師にしては珍しく丸暗記主義ではない理科教師が、他の生徒置いてけぼりの授業そっちのけで丁々発止やっていた。しかも授業終了時はその教師は妙に満足そうな様子で教室を出ていった。 ── 閑話休題。
そんな少女を、クラスメイト達は遠巻きに見ながら、ヒソヒソと囁きあっている。
少女はスーパーのビニール袋から、パッケージングされたチーズデニッシュをひとつ取り出し、満面の笑みでそれを開封しようとする。
そこへ、悠二が近づいて行って、
「近衛さん、って呼べばいいのかな?」
と、声をかけた。
「!?」
ちょうど、購買部から、啓作と、悠二と中学時代から付き合いのある
「お互いここじゃ話しにくいだろ、外へ出よう」
悠二がそう言うと、途端に少女は先程までの、どこか不機嫌そうな憮然とした表情に戻る。
「いいけど……」
しかし、少女は反論することもなく、そう言った。
少女と悠二は連れあって、教室を出ていく。
「坂井って、結構積極的なんだな……」
啓作が、教室から出ていく2人の後ろ姿を見送りつつ、つぶやくようにそう言った。
「…………そう、だったか……?」
速人は、怪訝そうに眉間に皺を寄せて、そう言った。
悠二と少女は、主に普通教室のある1号棟の裏側に来た。運動部のクラブ棟が近く、放課後であれば人気もあるが、校舎の北側にあり、それ以外の時間は生徒も教師もあまり近づかない。しかも、今は空模様もあまり良くないせいで、なおさらだった。
「このへんでいいだろ」
悠二は立ち止まると、人気があまりない周囲を一通り見回してから、そう言った。
その運動部の部員が休憩できるように、と、置かれているベンチに、2人は並んで腰を下ろす。
「それで、何が言いたいのよ」
少女が、憮然とした様子で、悠二に問い質すように言う。
「それは……あのさ、とりあえず、フレイムヘイズだから知識が並みの教師の比じゃないのは解るけどさ、あまり波風たてなくてもいいだろ」
悠二は、自身の昼食を買ってきていたコンビニ袋からおにぎりを取り出しつつ、ため息交じりにそう言った。
「?」
少女は、悠二に視線を向けつつも、キョトン、とした表情をした。
「別にフレイムヘイズだから知識が豊富なんじゃないわよ。確かに、フレイムヘイズは普通の人間より遥かに長く生きていることが多いから、その分蓄積される知識も豊富だけど」
「え、そ、そうなの?」
少女が表情を険がある表情に戻して言うと、今度は悠二の方が少し間の抜けたような表情で、そんな声を出してしまった。
『悠二、 “器を合わせる” のは私の固有……とまでは言い切れませんが、それに近い能力なのです。特にフレイムヘイズの “王” には当てはまりません』
少女に代わって、悠二の右手から、ヘカテーが答えた。
「あ、そ、そうなんだ……」
悠二は、その表情のまま『ニーベルンゲン』に視線を向けてそう言ってから、その視線を少女に戻す。
「その……やっぱり、僕を見張る為、だよね……」
『無論だ』
少女の胸元の『コキュートス』から、アラストールが答える。
少女はパッケージを開封し、チーズデニッシュを少し取り出すと、満面の笑みになってそれにかじりつく。至福のような表情で、それを咀嚼する。
『しつこいかもしれないが、 “頂の座” が何を企んでいるかも知れぬし、「零時迷子」の存在も捨て置けん』
「確かに……僕1人じゃ頼りないのは解るけどさ……」
『いや、むしろ逆だな』
悠二が僅かな苦笑交じりに応えると、アラストールはそれを否定する言葉を発した。
「逆?」
悠二はキョトン、としたように、『コキュートス』に視線を向ける。
『今の貴様は潤沢な “存在の力” を半永久的に行使できる存在……能動にせよ受動にせよ、放っておくには剣呑過ぎる。そういうことだ』
「そ、そこまで……」
アラストールに言われて、悠二は、ゴクリと喉を鳴らしつつ、半ば無意識に左手で胸元を押さえていた。
『悠二が自ら、
『ニーベルンゲン』から、ヘカテーが反論する。
「いずれにしても」
少女は咀嚼していた分を嚥下すると、悠二にキツめの視線を向けて言う。
「『零時迷子』は絶対に、他の “徒” に渡すことはできない、ってこと」
「まぁ……それは理解するしかないか……」
悠二は、一旦視線を上にそらしつつ、そう言った。
それから、視線を少女に向け直し、少し表情を引き締め直す。
「それで……その、近衛史菜って、君の本当の名前……じゃないよね?」
「そうよ、私はただのフレイムヘイズ」
悠二の問いかけに、少女は素っ気ない口調で言う。
「誰かの存在に
悠二は、眉を歪ませるようにしつつ、少し不安そうに訊ねる。
「安心して、この街のトーチは使ってないから」
少女はそう答えた。
「
悠二は苦い顔をして、軽くため息交じりに呟く。
少女は、それを意に介していないように、今度はビニール袋の底の方から、パック入りのみたらし団子を取り出した。
「でも……それでさ」
話題の方向を変えるように、悠二は改めて切り出す。
「“ただのフレイムヘイズ” って呼び方、良くないと思って……」
「?」
串の先の団子を頬張りながら、少女は視線を悠二に向ける。
「昨日……結局言いそびれちゃったんだけどさ、もうしばらくは四六時中一緒にいるつもりなんだろ? 今夜も」
「そうよ」
悠二が問いかけるように言うと、少女は短く答える。
『“頂の座” の真意がはっきりするか、「零時迷子」が貴様の手を離れるまでは、我らは貴様の傍にあるつもりだ』
続けて、アラストールがそう答えた。
「それじゃあ、僕は……君が僕の傍にいる間、僕は君のことを “シャナ” って呼ぶことにする」
悠二は、力強さを感じさせる低い声で、そう伝える。
「…………」
シャナ、と呼ばれた少女は、ジロっと悠二に視線を向けつつ、僅かな間沈黙したが、
「勝手にすれば」
と、悠二から視線を外しながら、素っ気なくそう言った。
「呼び名なんかどうでもいいし、私は私の役目を果たすだけ」
「どうだ田中、聞こえるか?」
「ぬぅ……全く」
啓作は栄太と共に、何故か木の枝を頭にくくりつけながら、クラブ棟の傍らの生け垣に隠れつつ、悠二とシャナを見ながら、ひそひそと囁きあっていた。
「そこまでして気になるか? 普通……」
「しっ」
普通に声を出した速人に、啓作が怒ったように、声を抑えるように言う。
「だいたいそんなこと言って、池だって気になるからついてきたんだろ」
「いやそれは……まぁ……」
啓作の潜めた声に、速人は決まり悪そうに言い、視線を泳がせる。
「!?」
悠二は思わず立ち上がり、周囲を見渡した。
シャナは、反射的に立ち上がることはしなかったが、みたらし団子の串を下ろしつつ、表情を一層険しくする。
「ヘカテー、これって……!」
『
緊張した表情で、腕を泳がせるようにしつつ周囲を見回す悠二の言葉に、ヘカテーがそう答える。
「アラストール、私から誘いをかけてみる。今の状況なら乗ってくれるかも」
シャナは、ベンチの上に拡げた昼食の包みの類をビニール袋に片付けながらそう言って、立ち上がった。
『よかろう』
アラストールはそれを肯定したが、
『待ってください、 “炎髪灼眼” 、 “天壌の劫火”』
「封絶」
と、ヘカテーが止めるが早いか、シャナは封絶を発動させる。
自在法の式が、アナログ時計のムーヴメントを思わせる円形の光の模様を描いて地面に広がり、御崎高校の敷地内を世界の因果から隔絶した。
「ご主人様、今!」
「ああ、気付いているよ」
白いスーツ姿の青年は、空に漂うように舞いながら、その腕にデフォルメされた少女の縫いぐるみを抱き、それを優しく撫でながら、不敵な表情でそう言った。
「間違いありません! 昨日現れたフレイムヘイズ、 “炎髪灼眼” です!」
縫いぐるみの少女は、表情を変えることこそできないが、緊迫感のある言葉を発した。
しかし、青年は動じる様子もなく、不敵に笑う。
「軽いノック、いや挑戦状といったところかな? 勇ましいことだ」
どこか見下す、と言うか、未熟な者を相手にした時のような様子で、青年はそう言った。
「もう少しで計画も完成……その前に久しぶりの狩りを楽しむとしようか、ふふ……」
「しかし、 “蔵の君” はどうしますか?」
縫いぐるみの少女が言う。
「確かに2人のフレイムヘイズは厄介かもしれないが、
そう言って、青年は縫いぐるみの少女を愛おしそうに抱きしめる。
「何も心配はいらないよ……私の可愛いマリアンヌ」