「チェックメイトだ、スタン!」
ボクの声が最新鋭のサーバーラックと培養装置が並ぶ、ボクの神聖なるラボラトリーに響き渡った。手にしたカスタム仕様のエアガン──ボクが自ら設計し、3Dプリンターで出力した軽量かつ高精度な代物だ──から放たれたBB弾は、ボクの計算通り完璧な放物線を描き、書架の陰に潜む彼の死角へと吸い込まれていく。
跳弾角度は42.8度、空気抵抗による減衰率は0.12パーセント。ターゲットである彼の予測移動座標は、過去数十分の戦闘データから導き出した最適解。すべて計算済みだ。勝利の方程式は、今まさに完成したはずだった。
だがボクの宇宙は、いとも容易く彼の直感によって覆される。次の瞬間、ボクの計算には存在しなかったはずの方向から、鋭く風を切る音がした。パシッ、と小気味よい音。その音源はボクの白衣の胸元、NASAのロゴが誇らしげに刺繍された、まさにその中心だった。撃たれたBB弾の微かな衝撃が、ボクの理論の敗北を雄弁に物語っていた。
「…なに?」
驚いて顔を上げる。書架の陰から、まるで影が剥がれるようにして現れたスタンリ──―スタンが、最小限の動きで体勢を入れ替え、ボクが放った必勝の跳弾を、まるで未来を予知していたかのようにひらりとかわしていた。その琥珀色の瞳は、ボクの複雑な弾道計算そのものを見透かしているかのようだ。
彼の構える、無駄な装飾を一切排した漆黒のエアガンの銃口が、静かに、そして正確にボクを捉えている。
「あんたの負けだ、ゼノ」
15年の歳月はボクたちの関係をより奇妙で、それでいて強固なものへと変えていた。ボクはNASAの天才科学者として、国家レベルのプロジェクトをいくつも動かす傍ら、この地下の聖域で、誰にも明かせない個人的な探求に没頭していた。
そして海兵隊所属の某特殊隊長たる彼が長い"任務"から戻った時、こうして不意に現れ、ボクの気まぐれで、しかし真剣な「戦闘シミュレーション」に付き合わされるのが、ボクたちの間にある暗黙のルールとなっていた。
「おかしい! 今のボクの射線から、君の回避パターンと反撃位置を予測するのは理論上不可能だったはずだ! 君の身体能力、反射速度、過去の戦闘における意思決定パターン、その全てを変数として入力したシミュレーションでも、今の動きは導き出せなかった。どういう計算だ!」
悔しさよりも、知的好奇心が爆発的に勝る。ボクは手にしたエアガンを実験台に放り出し、興奮のままに彼に詰め寄った。ボクの完璧な数式を打ち破った、その未知なる法則を知りたくてたまらなかった。
「計算じゃねえよ」
まるで子供の問いに答える大人ように、スタンは静かに息を吐いた。その息と共に、硝煙と、遠い異国の乾いた砂の匂いが混じった空気がボクの周囲に漂う。彼はソファに深く身を沈めながら、使い慣れたジッポライターを取り出し、タバコに火をつけた。カチリという硬質な音が、ボクの焦燥感をわずかに鎮める。
「あんたのクセだ」
スタンは紫煙を細く吐き出しながら、続けた。
「追い詰められれば追い詰められるほど、あんたは必ず、最もエレガントだと思う数式を選ぶ。最も美しく、最もシンメトリーな解をな。…だから読みやすいんだよ、あんたの動きは」
「ボクの科学的思考が、クセだと!? ボクの宇宙の根幹をなす美学が、君にとっては単なる予測可能なパターンの一つに過ぎないと!? …ふ、ふははは! はーはっはっは!」
ボクは腹を抱えて笑い出した。涙が出るほど可笑しかった。そうだ、これだ。これこそがスタンリー・スナイダーという男だ。ボクがどれほど複雑で、どれほど高度な論理の城を築き上げようとも、彼はその城の設計思想、ボクという建築家の「美学」そのものを読み解き、最短距離で王の首を取りに来る。ボクにとって、これ以上の賛辞があるだろうか。
「…素晴らしい! 実に、実にエレガントじゃないか、スタン!」
ボクの爆笑をよそに、スタンはただ静かにタバコを燻らせている。その表情からは何も読み取れないが、ボクには分かっていた。スタンもまた、この高度な頭脳戦を楽しんでいることを。ボクという世界で唯一彼に「狙いがいのある」的を前にして、彼の才能も歓喜していることを。
「だがね、スタン。いつまでも君のその非論理的な直感に先を越されてばかりというのも、科学者として沽券に関わる」
ボクは笑いを収め真剣な表情に戻ると、実験台の上に鎮座する一つのバイアル瓶を恭しく手に取った。中では、わずかに粘性を帯びた透明な液体が、ラボの無機質なLED照明を反射して、まるでダイヤモンドのようにきらめいている。
「そこで次の『遊び』のために、新しいおもちゃを用意した。ボクの科学の粋を集めた、ささやかなハンディキャップだよ」
ソファに沈み込んだままのスタンが、興味なさそうに紫煙の輪を作る。ボクはこの無関心を承知の上で、彼の目の前にバイアルを掲げ、プレゼンテーションを始めた。その声は、NASAの重要会議で発表する時よりも、遥かに熱を帯びていた。
「これはボクの前世の記憶にある『俊敏のポーション』の概念を、ボクの科学で再構築したものだ。主成分は神経伝達物質であるノルアドレナリンとドーパミンの分泌を、外部からの電気信号なしに、化学的に強制的にブーストさせる新規合成化合物。更にボクの記憶にある『ウサギの足』の概念を、神経ペプチドYの受容体に特異的に作用する活性化剤として再定義し、それを加えることで、思考と反射速度を常人の数倍にまで引き上げることに成功した」
ボクは彼に見せつけるように、バイアルを軽く振ってみせた。
「エレガントな一滴さ。これを摂取すれば、君がボクの『クセ』を読んで行動を起こすよりも早く、ボクの脳は次の、更にその次の最適解を計算し終えることができる」
スタンはちらりとバイアルに目をやっただけで、すぐに興味を失ったかのように、長い脚を組んだ。
「…くだらねえ。そんなもんで、弾が避けられるかよ」
その言葉は、ボクが最も期待していたものだった。
「避けられるとも!」
ボクは満面の笑みで、彼の挑戦的な言葉を肯定した。
「少なくとも、ボクの思考は今の3.4倍の速度で回転し、君のあらゆる動きを予測するための計算精度は飛躍的に向上する。千手先を読むことが可能になる。そして、だ。何より面白いのは、君がこれを飲んだ場合だ」
ボクは彼の言葉を待たずにもう一本、同じバイアルをスタンの前のテーブルにカタリと音を立てて置いた。
「君がこれを飲めば、君のその人間離れした直感と反射は、もはや光速の領域に達するだろう。君が『避けよう』と思う前に、君の身体が動いている。思考というリミッターが外れた、純粋な才能の塊。それがどういうものか、ボクも見てみたい」
ボクの言葉にスタンの紫煙を吐き出す動きが、初めてわずかに止まった。スタンの琥珀色の瞳の奥で超高速で思考し反応し、弾丸を放つ自分自身の姿を彼自身の驚異的な演算能力でシミュレートしているのが、手に取るように分かった。それはスタンですら体験したことのない、未知の領域のはずだ。
「どうだね、スタン? 次のラウンドは、これを一本ずつ飲んでからにしようじゃないか」
ボクは悪魔が囁くように、彼を誘った。
「ボクの超高速計算と君の超光速の直感が、この狭いラボの中で火花を散らす。ボクが放つBB弾の軌道を、君が光の速度で読み切り、回避し反撃する。君の反撃を、ボクが更にその先を読んで予測する。互いの予測が、互いの行動を塗り替え続ける、無限のループ。まるでBB弾が、相対性理論の影響を受けるほどの、究極の鬼ごっこだ。考えただけで、実にエレガントだとは思わないかね?」
ボクの問いかけに、スタンは答えなかった。ただ静かに、テーブルに置かれたバイアルと、ボクの顔を交互に見ている。その瞳の奥には、いつもの退屈そうな色はない。代わりに燃えているのは獰猛なまでの闘争心と、自らの才能の限界を超えた先にある、未知の領域への抑えきれない好奇心の光だった。
やがて彼は、短くなったタバコを灰皿に、ぐり、と音を立てて押し付けた。そして、ボクが差し出したバイアル瓶を、無言で、しかし確かな手つきで手に取った。キャップを開ける乾いた音が、静寂なラボに響き渡る。
ボクたちの15年間は、いつだってこうだった。ボクが科学の力で不可能で、常軌を逸した「遊び」の舞台を創り上げる。そして彼がその舞台の上で世界でただ一人、ボクと対等に渡り合える最高のプレイヤーとなる。
ただそれだけの、共犯関係。世界で最もエレガントな、ボクたちだけの関係なのだ。
ボクは自分の分のバイアルのキャップを開けながら、確信と共に隣に立つ最強のパートナーを見つめた。スタンの琥珀色の瞳がボクと同じように、これから始まる光速の遊びへの期待に、爛々と輝いていた。
感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので是非よろしくお願いします。