クラフトは不滅である   作:最高司祭アドミニストレータ

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覚悟しときや。これは…重いぞ。暗いぞ。


『あのお方』の記憶 - (前半)

 その世界は、秩序によって保たれていた。朝が来れば太陽が昇り、夜になれば月が輝く。ブロックで構成された大地は強固で、人々は採掘と建築に勤しみ、慎ましい繁栄を享受していた。

 

 だが、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。この世界には、忌むべき禁忌が存在した。

 

 

「異常者」。

 あるいは、「エラー」。

 

 

 世界の理から外れた力を持つ者たち。生まれながらにして空間を歪め、天候を操り、あるいは死さえも超越する特異点。統治者たちは彼らを世界の秩序を乱す「有害」と定義し、徹底的な排除──すなわち「異常者狩り」を国是としていた。

 

 そんな狂信的な空気が支配する王国の片隅、深い森のそばにある小さな鉱山街に、一人の男が住んでいた。

 

 男の名は、スティーブ。飾り気のない青いシャツにジーンズ。陽に焼けた肌と、短く刈り込んだ茶色の髪。どこにでもいる、平凡な鉱夫だ。彼は街外れの質素な家で、愛する妻と、まだ幼い娘と共に暮らしていた。

 

 

「パパ! おかえりなさい!」

「ただいま。いい子にしていたかい?」

 

 

 夕暮れ時、仕事から戻ったスティーブを、娘が満面の笑みで出迎える。煤と土に塗れたスティーブの顔が、その瞬間だけは父親の優しいものへと崩れる。キッチンからは妻がシチューを煮込む温かい香りが漂ってきていた。慎ましくも、幸福な食卓。誰もが羨むような平穏な日常。

 

 だが、スティーブの心の奥底には、常に冷たい氷のような恐怖が張り付いていた。

 

 彼は、嘘をついていた。街の人々に、友人に。そして、何よりも愛する…家族にさえも。

 

 深夜。家族が寝静まったことを確認してから、スティーブは一人、地下室へと降りる。鏡の前に立ち、自らの顔を覗き込む。彼の瞳は、今は深い藍色をしている。彼が意識の抑制をほんの少しでも緩めれば、その瞳孔は消失し、内側から溢れ出るような強烈な白光が、眼球全体を覆い尽くそうとするのだ。

 

 彼は生まれつきの「異常者」だった。感情が高ぶると、周囲の空気が帯電し、雷鳴の幻聴が響く。手を触れずに物を動かし、時には数メートル先の空間へと瞬きする間に移動してしまう「転移」の力。それは採掘においては便利な力だったかもしれない。だが、この世界においてそれは「死」と同義だった。見つかれば、問答無用で断罪される。自分だけならいい。

 

 だが、家族は? 「異常者の血縁」として、妻や娘まで火刑に処される光景が、毎晩のように悪夢として彼を苛んだ。

 

 

「…隠し通さなければならない。死ぬまで、ただの人間として」

 

 

 スティーブは震える手で洗面台の縁を掴み、自身の内側で暴れようとする強大なエネルギーを必死に押し込める。彼にとって、この力はギフトではない。呪いだった。

 

 彼は誰よりも勤勉に働いた。誰よりも優しく振る舞った。疑われないように。目立たないように。ただ、家族との小さな幸せを守り抜くためだけに、彼は自分自身を殺し続けていた。

 

 しかし、世界の悪意は、そんなささやかな願いさえも…許しはしなかった。

 

 ある日、街に不穏な噂が流れた。「騎士団が来る」「密告があったらしい」「この街に『バグ』が潜んでいると」──その噂を聞いた時、スティーブの背筋に冷たいものが走った。心当たりなどないはずだ。自分は完璧に隠していた。誰も見ていないはずだ。

 

 だが、運命の歯車は、無慈悲に彼らを押し潰しに掛かっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 その日の朝は、不気味なほど静かだった。空は重苦しい鉛色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。スティーブは胸騒ぎを覚え、今日は仕事を休んで家にいようとした。

 

 だが、遅すぎた。ドンドンドンッ!! と、玄関の扉が乱暴に叩かれる音が、家の平穏を引き裂いた。

 

 

「開けろ! 異端審問官直属、聖騎士団だ!」

 

 

 鉄の匂い。暴力の予感。妻が怯えた表情で娘を抱き寄せる。スティーブは彼女たちを背に庇い、震える手で扉を開けた。そこには、全身を銀色の甲冑で固めた兵士たちが、抜き身の剣を構えて立っていた。その背後には、顔を見せない密告者のような影も見える。

 

 

「スティーブ。貴様に『世界律違反』の疑いがかけられている。同行願おう」

「な、何を言っているんですか! 私はただの鉱夫です。何か間違いじゃ…」

「黙れ! 貴様の掘った坑道だけ、異常なほど効率的にダイヤモンドが見つかっているという、報告がある! 透視か? それとも空間操作か? 貴様の『眼』、調べさせてもらうぞ!」

 

 

 言いがかりだ。それはスティーブが長年の経験と勘で掘り当てた成果に過ぎない。だが、彼らに論理は通じない。兵士たちが土足で家に踏み込んでくる。

 

 

「やめてください! パパは何もしていません!」

「ああっ、あなた!」

 

 

 妻と娘が叫ぶ。兵士の一人が、邪魔だと言わんばかりに妻を突き飛ばした。彼女は悲鳴を上げて床に倒れ込み、娘が泣き叫ぶ。その瞬間、スティーブの中で「何か」が切れかけた。

 

 

「妻に触るなッ!!」

 

 

 スティーブは無我夢中で抵抗した。だが、多勢に無勢。屈強な兵士たちによって地面に押さえつけられ、腕を後ろ手に捻り上げられる。冷たい手錠の感触。額を床に擦り付けられながら、彼は見た。倒れた妻の髪を掴み、乱暴に立たせようとする兵士の姿を。泣き叫ぶ娘の腕を、無理やり引っ張り上げる別の兵士の姿を。

 

 

「女と子供も連行しろ。異常者の血縁だ。同罪として処理する」

「やめろ…やめてくれ…! 彼女たちは関係ない! 俺だけだ! 俺だけを連れて行けばいいだろ!!」

 

 

 スティーブの懇願は、冷笑と共に無視された。絶望。理不尽。怒り。家族を守りたい。その一心だけが、彼の思考を埋め尽くす。だが、押さえつけられた身体は動かない。無力だ。自分は、ただの人間として振る舞ってきた代償に、あまりにも無力だった。

 

 いや違う。自分には「力」がある。忌むべき、隠し続けてきた、呪われた力が。

 

 

「……離せ」

 

 

 スティーブの喉から、彼自身のものではないような、低く、ノイズ混じりの声が漏れた。押さえつけていた兵士が、異変に気づいて顔をしかめる。スティーブの身体から、パチパチという静電気のような音が鳴り始めた。彼の周囲の空間が、歪み、震えている。

 

 

「おい、なんだコイツ…熱いぞ!?」

「離せと言っているんだァァァァッ!!」

 

 

 思考よりも先に、本能が炸裂した。スティーブが握りしめていた、愛用のダイヤモンドのツルハシ。それが眩い青白い光を帯び、過剰なエネルギーの奔流となって解き放たれる。それは無自覚な、制御不能の暴発だった。

 

 

 ドォォォォォンッ!! 

 

 

 轟音と共に、スティーブを中心とした衝撃波が発生した。彼を押さえつけていた二人の兵士が、紙切れのように吹き飛ぶ。そして、目の前に立っていた隊長格の兵士──妻の髪を掴んでいた男──に向かって、ツルハシから不可視の衝撃が直撃した。男は悲鳴を上げる間もなく、数メートル後方の壁へと激突した。ドサリ、と崩れ落ちる鎧の身体。

 

 動かない。鎧の胸部はひしゃげ、口からは泡交じりの血が溢れている。即死。心肺停止。人間の脆弱な肉体が耐えられるエネルギーではなかった。

 

 静寂が訪れた。舞い上がった埃が静まると、そこには、手錠を引きちぎり、青白く発光するツルハシを呆然と見つめるスティーブの姿があった。彼の瞳は、一瞬だけ白く輝き、すぐに元の色へと戻った。

 

 

「あ…あぁ…っ」

 

 

 スティーブは我に返り、震える手からツルハシを取り落とした。カラン、と乾いた音が響く。やってしまった。隠し続けてきた力を、白日の下に晒してしまった。それだけではない。人を、殺してしまった。妻と娘が、信じられないものを見るような目で彼を見ている。その視線が、兵士たちの敵意よりも深く、スティーブの心を抉った。

 

 

「ち、違う…違うんだ…!」

 

 

 スティーブはその場に膝をつき、両手を上げた。戦意などない。あるのは、底知れぬ恐怖と後悔だけだ。

 

 

「わざとじゃない……! わざとじゃなかったんだ! 俺はただ、家族を……!」

 

 

 彼は死んで動かなくなった兵士と、恐怖に顔を引きつらせて剣を構え直す他の騎士たちを交互に見た。もう、言い逃れはできない。自分は怪物だと証明してしまった。だが、だからこそ──。

 

 

「頼む…慈悲を…!!」

 

 

 スティーブは額を地面に擦り付け、涙ながらに懇願した。プライドも、自尊心も、全てかなぐり捨てて。

 

 

「俺はどうなってもいい! どんな罰でも受ける! 殺してくれても構わない! だから……だからお願いだ、妻と娘だけは……彼女たちだけは見逃してくれ! 彼女たちは何も知らなかったんだ! 俺が騙していたんだ! お願いだ……お願いだぁぁッ!!」

 

 

 その悲痛な叫びは、鉛色の空に吸い込まれていった。騎士たちの目には、もはや侮蔑すらなく、ただ「未知の脅威」を排除しようとする冷徹な殺意だけが宿っていた。

 

 スティーブは再び拘束された。今度は、二度と抵抗できないよう、特殊な封印具を幾重にも巻き付けられて。彼の視界の端で、妻と娘が別の馬車へと押し込まれていくのが見えた。それが、彼が人間として見た、家族の最後の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 雨が降っていた。それは、世界が流す涙のように冷たく、スティーブの頬にこびりついた泥と血を洗い流していく。彼は家族から引き離され、馬車に揺られて遠く離れた岩場へと連行されていた。ここは「処刑場」。街から隔絶された、罪人の終着点。

 

 スティーブの手足は、対「異常者」用の呪術的な鎖で幾重にも巻かれ、自由を完全に奪われている。だが、彼の瞳に宿る光はまだ死んでいなかった。

 

 

(耐えろ……耐えるんだ、スティーブ)

 

 

 彼は自らに言い聞かせていた。自分が罪を被れば、家族は助かるはずだ。妻と娘は、きっと自宅で謹慎させられているに違いない。自分がこの理不尽な断罪を受け入れ、命を差し出せば、彼女たちの未来だけは守られる。そう信じることだけが、今の彼を支える唯一の希望だった。

 

 岩場の中央。断頭台の前で、兵士たちが乱暴に彼を引きずり下ろした。

 

 

「跪け、異端者め」

 

 

 背後から膝裏を蹴り飛ばされ、スティーブは泥水の中に膝をついた。冷たい泥の感触。目の前には、白刃をぎらつかせる処刑人が立っている。

 

 周囲を取り囲むのは、数十名の精鋭騎士たち。彼らは「バグ」という未知の恐怖を排除できる安堵感からか、あるいは悪趣味な好奇心からか、弛緩した空気の中で私語を交わしていた。雨音に混じり、彼らの会話がスティーブの耳に届く。

 

 

「…しっかし、あの嫁さんも不憫だったな」

 

 

 スティーブの心臓が、ドクリと大きく跳ねた。嫁さん? 妻のことか? 不憫とはどういう意味だ? 彼女は家にいるはずだ。安全なはずだ。

 

 

「ああ。『見せしめ』にするってんで、吊るされたんだろ?」

 

 

 時が、止まった。スティーブの思考が白く染まる。

 

 

 吊るされた? 見せしめ? 

 誰が? 誰を? 

 まさか…妻を? 

 

 

「娘の方はどうしたっけ?」

 

 

 別の兵士が、欠伸を噛み殺しながら尋ねる。

 

 

「さあな。女友達と一緒に馬で逃げたとか聞いたが…ま、この森じゃ生きていられねえだろ? あるいは、母親と一緒に──」

 

 

 ブツン。スティーブの中で、何かが焼き切れる音がした。理性が、倫理が、人間としての心が、音を立てて崩壊していく。騙された。守りたかった。ただ、平穏に暮らしたかった。自分の命と引き換えに、愛する人たちの命を守れると信じていた。

 

 だが、世界はそれすら許さなかった。彼らは、俺の光を、俺の全てを、笑いながら踏みにじったのだ。

 

 

(許さない)

 

 

 スティーブの伏せられた瞳孔が、激しく収縮し、そして消失した。代わりに溢れ出したのは、純白の光。それは希望の光ではない。虚無と、絶望と、世界への呪詛が凝縮された、破滅の輝きだった。

 

 

「……殺す」

「あ? 何か言ったか、バケモノ」

 

 

 処刑人が剣を振り上げた、その瞬間だった。

 

 

 カッッッ!!!! 

 

 

 視界を焼き尽くすほどの閃光が、天空から一直線に処刑場へと突き刺さった。雷だ。自然発生ではない。スティーブの絶叫に呼応した、天罰のような雷撃。轟音と共に大地が爆ぜる。処刑人の身体が一瞬で炭化し、黒い塵となって風に散った。拘束具が弾け飛び、スティーブがゆっくりと立ち上がる。

 

 その両目は、もはや人間のものではなかった。白目。白一色の、感情を映さない虚ろな眼球。身体から溢れる青白いオーラが、雨粒を蒸発させ、周囲に白い霧を生み出している。

 

 

「な、なんだ!? 何が起きた!?」

「ひ、ひるむな! 囲め! 殺せぇぇぇッ!!」

 

 

 騎士たちが剣を構えて殺到する。だが、遅い。スティーブ──いや、覚醒した【ヘロブライン】は、右手を無造作に振るった。ただそれだけで、目に見えない巨大な力が騎士たちを薙ぎ払った。鎧がひしゃげ、骨が砕ける音が響き渡る。彼は一歩踏み出す。その足元から、紫色の粒子が舞い上がる。

 

 テレポート。瞬きの間に、騎士団長の背後へと移動する。団長が振り返るよりも早く、その首を片手で掴み上げた。

 

 

「あ、が…っ!?」

 

 

 慈悲はない。ためらいもない。ヘロブラインは万力のような力で首をへし折ると、ゴミのように投げ捨てた。次々と降り注ぐ雷。不可視の衝撃波。それは処刑ではなかった。一方的な蹂躙であり、虐殺だった。数十名の精鋭たちは、数分のうちに半数が息絶えた。

 

 生き残った者たちは、恐怖に正気を失い、武器を捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

 

 

「バケモノだ!」

「悪魔だ!」

「助けてくれぇぇッ!」

 

 

 逃げる背中に、ヘロブラインは興味を示さなかった。彼が向かうべき場所は一つ。真実を確かめるために。彼は地面を蹴り、風よりも速く森の中へと消えた。

 

 森の木々が、高速で後方へと流れていく。雨は激しさを増していた。

 

 

(嘘だ。嘘だと言ってくれ)

 

 

 心のどこかで、まだ人間としてのスティーブが叫んでいた。あの兵士たちの話はデマだ。妻は生きている。家で待っている。扉を開ければ、いつものようにシチューの香りがして、娘が飛びついてくるはずだ。そうであってくれ。そうでなければ、俺は──。

 

 森を抜け、街の入り口が見えてきた。そこは少し開けた広場になっており、街に入る者は必ずそこを通らなければならない。そして、そこには一本の大きな枯れ木があった。スティーブの足が止まる。息が止まる。

 

 

「…ぇ」

 

 

 そこに…彼女はいた。

 

 

 枯れ木の枝から、一本のロープが垂れ下がっている。その先に吊るされていたのは、見慣れた普段着を纏った、愛する妻の姿だった。ぐたりと垂れ下がった手足。土気色に変色した顔。閉ざされた瞳。雨に打たれ、風に揺れるその姿は、あまりにも無残で、あまりにも静かだった。そして、彼女の首には、粗末な木の看板が掛けられていた。

 

 殴り書きされた、赤い文字。

 

 

『TRAITOR(裏切り者)』

 

 

 裏切り者。誰が? 彼女が? 俺の力を隠していたことが? 夫を愛したことが? それが、死に値する罪だというのか? スティーブの視界がぐらりと揺れた。膝から力が抜け、泥水の中に崩れ落ちる。彼は這うようにして妻の足元まで行き、その冷たい足に触れた。冷え切っている。もう、魂はここにない。彼女は死んだのだ。理不尽な暴力と偏見と狂気によって、殺されたのだ。

 

 

「あ…ああ…」

 

 

 喉の奥から、言葉にならない音が漏れる。涙は出なかった。悲しみという感情すら、今の彼には生ぬるかった。妻の死を確認した瞬間、スティーブの中で辛うじて残っていた「人間」の部分が、音を立てて砕け散った。娘の姿はない。兵士の話では逃げたようだが、この状況で生き延びられる保証などどこにもない。

 

 守れなかった。力を隠していたことも、今日抵抗しなかったことも、全てが裏目に出た。俺が弱かったからだ。俺が人間であろうとしたからだ。こんな世界なら。こんな、愛する者を理不尽に奪う世界なら。

 

 

 ──いらない。

 

 

 スティーブが顔を上げた。その瞳から、最後の理性の光が消え失せた。完全なる白目。そこにあるのは、無限の闇と、世界そのものを焼き尽くさんとする、灼熱の憎悪だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 夜が訪れた。だが、街は赤く染まっていた。業火が家々を舐め尽くし、黒煙が空を覆い隠している。ヘロブラインと化した、かつての英雄は街の大通りをゆっくりと歩いていた。彼の周囲には、もはや生きた人間はいない。あるのは死体と、「動く死体」だけだった。

 

 

「ウゥゥ…アァァ…」

 

 

 呻き声を上げて徘徊するのは、かつての隣人たち。彼を密告した者、傍観した者、そして妻の処刑に加担した者たちだ。彼らは一度死んだ。ヘロブラインの手によって命を奪われた。

 

 だが、彼はそれだけでは許さなかった。死による安らぎさえも与えなかった。彼の呪われた力が、死者たちを強制的に蘇らせたのだ。腐敗した肉体を引きずり、永遠の飢えに苦しむ「ゾンビ」として。

 

 

「行け」

 

 

 ヘロブラインが低く呟く。その命令に従い、ゾンビの群れが、生き残った人々が逃げ込んだ城塞へと殺到する。

 

 

 悲鳴。

 絶叫。

 肉が裂ける音。

 

 

 街は地獄と化した。かつて愛した故郷。家族と過ごした温かい家。それら全てを、彼は自らの手で灰へと変えた。

 

 ヘロブラインは、燃え盛る街の中央、噴水の縁に腰を下ろした。彼の背後では、妻が吊るされていた枯れ木もまた、炎に包まれて燃え落ちようとしていた。彼はもう、妻の亡骸を見ようとはしなかった。彼の心にあるのは、失った悲しみではない。空っぽになった空洞を埋めるための、破壊衝動だけ。

 

 逃げ延びた娘の行方は分からない。だが、今の彼にとって、それはもはや些細なことのように思えた。守るべきものは失われた。ならば、残された道は一つ。この間違った世界を破壊し尽くすこと。全てのプレイヤーと全てのモブ、全ての秩序を恐怖とバグで塗り潰すこと。

 

 白目の怪物は、燃え上がる炎を見つめながら、口元を三日月のように歪めた。それは、かつてスティーブが見せた優しい微笑みとは程遠い、狂気と邪悪に満ちた、魔王の哄笑だった。

 

 こうして、英雄スティーブは死んだ。そして、世界を恐怖に陥れる「あのお方」──ヘロブラインが、ここに誕生したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■□■□■□

 

 

 

 

 

 

 

 業火。視界の全てが赤と黒に染まっていた。街は、もはや人の住む場所としての機能を失っていた。木造の家々は松明のように燃え上がり、石造りの壁は熱でひび割れ、崩落していく。

 

 その地獄のような光景の中を、一頭の栗毛の馬が駆けていた。手綱を握るのは、鮮やかなオレンジ色の髪をなびかせた女性戦士、アレックス。かつてスティーブと共に採掘に汗を流し、彼の妻とも親友だった女性だ。

 

 彼女の腕の中には、小さな身体が抱えられている。スティーブの愛娘だ。少女は恐怖のあまり声を失い、アレックスの胸当てに顔を埋めて震えていた。

 

 

「くっ…! しつこい奴らだね!」

 

 

 アレックスが毒づきながら、馬の腹を蹴る。背後から迫るのは、異常者狩りの狂気に憑りつかれた騎士団の生き残りたちだ。彼らは、あの「白目の怪物」によって仲間を惨殺され、パニックに陥りながらも、逃走する「異常者の血縁」を見逃すまいと執拗に追いすがってきていた。

 

 

 ヒュンッ! 

 

 

 風切り音と共に、クロスボウの矢がアレックスの頬をかすめ、前方の木の幹に突き刺さる。

 

 

「逃がすな! あのガキも同罪だ! 生かしておけば災いとなる!」

「殺せ! 神の名において浄化せよ!」

 

 

 騎士たちの怒号が、燃え盛る炎の音に混じって響いてくる。彼らは自分たちが引き起こした惨劇の責任を、全てこのか弱い母娘──今は娘一人となってしまったが──に押し付けようとしているのだ。己の正当性を保つために。

 

 

「クソが! か弱い女性を追いかけ続けるとは! そんなんじゃ、一生モテないぞ騎士団ども!」

 

 

 アレックスは馬上で身を捻り、剣で飛来する矢を払い落としながら叫んだ。彼女の軽口は、恐怖を紛らわせるためではない。腕の中の少女に、少しでも「頼もしさ」を感じさせるための、精一杯の強がりだった。

 

 状況は絶望的だった。前方は崩れた建物の瓦礫で塞がれ、後方からは殺気立った騎馬隊。左右の路地からは、火の手が迫っている。更に悪いことに街のあちこちから、生者ではない者たちの呻き声が聞こえ始めていた。

 

 

「アァ…ウゥ…」

 

 

 地面に転がっていた死体が、不自然な動きで起き上がる。黒く焼け焦げた皮膚、虚ろな目。ゾンビだ。スティーブ──いや、あの「あのお方」の力が、死者たちを強制的に蘇らせているのだ。騎士たちもまた、ゾンビの出現に悲鳴を上げているが、それでも彼らの殺意の矛先はアレックスたちから逸れない。

 

 

「こっちだ!」

 

 

 アレックスは咄嗟に手綱を引き、馬を狭い路地へと向けた。建物の隙間を縫うように駆け抜ける。熱気が肌を焼き、煙が肺を刺す。少女が、ふと顔を上げた。彼女の瞳が、流れる景色の一点を捉える。それは、彼女の家があった場所。その近くの広場。

 

 そこには燃え落ちる枯れ木と、その下に力なく横たわる母親の姿があった。その傍らに佇む、青白い光を放つ人影も。

 

 

「……パパ?」

 

 

 少女の口から、掠れた声が漏れた。その人影──ヘロブラインは、ゆっくりとこちらを向いた。だが、その目には黒目がなかった。白一色の、虚無の眼球。彼は、逃げていく娘と親友の姿を見ているはずだった。だが、そこに認識の色はない。ただ、動く物体を見つめる無機質な視線だけがそこにあった。

 

 ヘロブラインの周囲には、無数のゾンビが侍っている。彼らは主人に忠実な下僕のように、周囲の生者を襲っていた。

 

 少女は見た。近所の優しかったパン屋のおじさんが、ゾンビとなって徘徊しているのを。昨日まで遊んでくれた近所のお兄さんが、騎士に噛みついているのを。

 

 

「パパが…みんなを…壊しちゃったの?」

 

 

 少女の言葉は、質問ではなかった。絶望的な事実の確認だった。優しかった父。頼もしかった父。それが今、世界を壊す魔王となってそこに立っている。母を殺され、自分たちを捨てて、化け物になってしまった。

 

 

「嫌…嫌だ…あんなの、パパじゃない…っ」

 

 

 少女の身体が、先ほどまでとは違う種類の震え方をした。それは恐怖ではない。心の底からの拒絶と、深い悲しみ。彼女の小さな手が、アレックスの服を握りしめる。白くなるほど強く。

 

 

「お化け…あそこにいるのは、パパの皮を被った、悪いお化けだ…」

 

 

 少女の呟き──その「怖いセリフ」に、アレックスは胸が締め付けられる思いだった。まだ幼い子供に、実の父親を「化け物」と認識させなければならない残酷さ。

 

 否定は出来なかった。あの広場に立っているのは、もうスティーブではない。アレックスが知る、はにかみ屋で誠実な友人は、もうどこにもいないのだ。彼女は少女の頭を抱き寄せ、視界を遮った。これ以上、あの地獄を見せないために。

 

 

「…そうだよ。あれはもう、違うナニカだ」

 

 

 アレックスは唇を噛み締め、前を向く。涙が溢れそうになるのを、気合でねじ伏せる。今、泣いている暇はない。この子が生き残らなければ、死んでいった親友に顔向けができない。

 

 

「心配しなさんな。不良騎士のアレックスお姉ちゃんがいるんだから」

 

 

 彼女は努めて明るく、そして力強く言った。自分が、この子の盾になる。剣になる。親になる。その覚悟を込めた言葉だった。しかし、少女の反応は、アレックスの予想を少しだけ裏切るものだった。少女は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、アレックスを見つめると、小さな声で、しかしはっきりと言ったのだ。

 

 

「おばさんでしょ」

「……」

 

 

 アレックスの手綱を持つ手が、一瞬ピクリと止まった。背後では爆発音が響き、頭上を火の粉が舞っている。死と隣り合わせの極限状況。そんな中で飛び出した、あまりにも容赦のない一言。

 

 アレックスの年齢は、まだ20代半ば。この世界の基準で言えば、確かに「お姉ちゃん」を名乗るには少し苦しいかもしれないが、「おばさん」呼ばわりされるほど老けてもいない……はずだ。

 

 これは、彼女なりの強がりなのだろうか。それとも、子供特有の残酷な正直さなのだろうか。あるいは、恐怖で麻痺した心が、ふと日常の距離感を思い出そうとした結果なのかもしれない。

 

 

「…そんな歳じゃないのに泣いた」

 

 

 アレックスは小さく呟き、苦笑した。目尻に滲んだ涙は、煙のせいにしておこう。おかげで、肩の力が少し抜けた。そうだ。この子はまだ、生意気口を叩く元気が残っている。まだ、心は死んでいない。なら、守り抜ける。絶対に。

 

 

「舌が回るなら大丈夫だ! しっかり捕まってな! 飛ばすよ!」

 

 

 アレックスは馬に鞭を入れた。馬がいななき、加速する。前方に、街の出口である城門が見えてきた。門の前には、数人の騎士が立ち塞がっている。

 

 

「止まれ! 止まらなければ斬るぞ!」

「どきなァッ!!」

 

 

 アレックスは叫びと共に、インベントリから「スプラッシュポーション」を取り出し、足元に叩きつけた。

 

 

 パリーンッ!! 

 

 

 割れた瓶から広がったのは、跳躍力上昇の粒子。馬の脚力が爆発的に強化される。アレックスは手綱を引き絞る。馬が大きく跳ね上がった。騎士たちの頭上を、炎の壁を、そして城門のバリケードを、一息に飛び越える。空中で、アレックスは一度だけ振り返った。

 

 遠ざかる街。燃え上がる紅蓮の炎。その中心で、孤独に佇む白い目の男。彼は追ってこなかった。こちらを見ているようで、何も見ていない。その背中は、世界中の誰よりも孤独で、そして恐ろしく見えた。

 

 

(さよなら、スティーブ。私の親友。そして……私たちが殺してしまった英雄)

 

 

 心の中で別れを告げ、アレックスは前を向いた。

 

 着地。馬は衝撃をものともせず、夜の森へと駆け込んでいく。背後の喧騒が、炎の赤が、徐々に木々の闇に遮られていく。静寂と冷気が、二人を包み込む。もう、追手は来ない。騎士たちはゾンビの群れに飲み込まれ、ヘロブラインは破壊の衝動に身を委ねて動かない。

 

 少女はアレックスの腕の中で、静かに眠りに落ちていた。緊張の糸が切れ、気絶するように意識を手放したのだろう。その寝顔には、まだ涙の跡が残っている。アレックスは馬の速度を落とし森の奥深く、誰も知らない隠れ家へと針路を取った。

 

 世界は──変わってしまった。




次回は後半だ! 元スティーブ視点ダゾ! ちな登場したアレックスは転生者じゃないで〜。
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