静寂が、戦場を支配していた。先ほどまで世界を揺るがしていた轟音も、鋼鉄が軋む悲鳴も、今はもうない。ただ風が吹き抜ける音と活動を完全に停止したゼノゲリオンの巨体が、ギシっと小さく軋む音だけがコハクの鼓膜に届いていた。
コクピットの中で、コハクは浅い呼吸を繰り返していた。
全身を包む純白のプラグスーツは激しい戦闘の負荷で身体にぴったりと張り付き、汗でじっとりと湿っている。普段は鍛え上げられた筋肉が隠している女性ならではの柔らかな身体のラインが、その薄い生地の下で生々しい存在感を主張していた。特に大きく上下する胸の豊満な膨らみは、彼女の生命力の証そのものだった。
眼前のモニターには黒煙を上げて天に昇る、デストロイヤーの残骸が映し出されている。あの絶対的なまでに理不尽だった脅威は、もうこの世にはない。
疲労は、骨の髄まで達していた。だがそれ以上に、確かな達成感がじわじわと心を温めていく。コハクはふっと息を吐き、勝利を噛みしめるように呟いた。
「ハ! …やったぞ、千空…」
その小さな確かな勝利宣言は、仲間たちへの最高の吉報となった。通信機から、堰を切ったような歓喜の声が一斉に流れ込んでくる。
『うおおお! やった! コハク、テメー最高だ! 100億点だ!』
千空の、いつになく素直な賞賛の声。その声にコハクの口元が自分でも気づかないうちに、わずかに緩んだ。
『オッホー! 儂の最高傑作が、化け物を倒したわい! このカセキ、生きてて良かった!』
『ブッハハハ! 見たか、あのザマを! 科学の勝利だ!』
カセキの感涙にむせぶ声、ブロディの豪快な笑い声。地下で共に戦ってくれた職人たちの声が、コハクの胸に熱く響く。一人では、決して立てなかった。科学の力、仲間の力。その全てが結集して、この勝利を掴んだのだ。
張り詰めていた緊張が解けプラグスーツに包まれた身体から、ふっと力が抜ける。シートに深く身を預けると自分の心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえた。
その、和やかで、心地よい勝利の余韻を、切り裂く者がいた。ゼノのいつもと寸分違わぬエレガントで、しかしどこか楽しげな声が通信機から涼やかに響いたのだ。
『ふふ。見事な操縦だったよ、コハク。君は最高のパイロットだ。その獣のような戦いぶり、実に見応えがあった』
その言葉に、コハクは少しだけ眉をひそめた。獣、という表現はあまり好ましくない。だが、彼の賞賛に嘘がないことも分かっていた。
「…礼を言う。君たちの作ったこの巨人がなければ、勝てなかった」
『ああ、その通り。…ちなみに、一つ言い忘れていたことがある』
「? なんだ?」
コハクが素直に問い返した、その時だった。ゼノはまるで今日の天気の話でもするかのようにあっさりと、そして残酷な事実を告げた。
『ゼノゲリオン初号機には、自爆機能があるよ』
一瞬の、沈黙。コクピット内の、全ての音が消えたかのような錯覚。コハクは、自分の耳を疑った。今、この男は何と言った?
「……は?」
かろうじて喉から絞り出した声は、ひどく間抜けに響いた。通信機の向こうで、千空が絶叫するのが聞こえる。
『おいゼノ! テメー、今なんつった! ふざけてんのか!?』
だがゼノは慌てる千空を意に介さず、まるで大学教授が学生に講義をするかのように優雅に説明を続けた。
『この機体の動力コアは、ボクらの科学ではまだ完全に制御できない、実にじゃじゃ馬な代物でね。活動停止後このまま放置すれば、いずれ暴走してメルトダウンを起こしてしまう。そうなればこの一帯は、数百年は草木も生えない死の大地になってしまうだろう。それは、エレガントじゃない』
コハクの背筋を今まで感じたことのない、冷たい汗が流れ落ちた。プラグスーツと肌の間に、その冷たい感触が生々しく伝わる。
『だからそうなる前に、安全に処理する必要がある。高熱でコアごと全てを焼き尽くし、汚染物質を完全に蒸発させる、最も合理的でエレガントな後始末機能を付けておいたのさ』
「なっ…!」
『ああ、心配しなくても大丈夫。爆発までには、5分間の猶予がある。君の驚異的な身体能力なら、余裕で脱出できるだろう? ボクはそう計算しているよ』
その言葉が、全ての肯定だった。コハクの脳が、ようやく現実を認識する。この巨人は、自分の棺桶になる寸前なのだと。
ゼノの言葉とシンクロするようにコクピット内のアラートが、先ほどの歓声とは打って変わって、甲高く無機質な警告音を鳴らし始めた。眼前のモニターには、冷たい赤色のデジタル文字が無慈悲に点滅していた。
【SELF-DESTRUCTION SEQUENCE ACTIVATED: 04:59】
【04:58】
【04:57】
勝利の余韻は、一瞬にして消え去った。残されたのは、絶対的なタイムリミットと自らの生存本能だけだった。
「…っ」
無慈悲なカウントダウンが、コハクの思考を現実へと引き戻した。感傷に浸っている暇も、ゼノの非情さを詰っている時間もない。今はただ、生き延びることだけを考えなければならなかった。
「千空! 脱出口はどこだ!」
コハクはパニックに陥りそうな自分を、理性で無理やり抑えつけ、叫んだ。通信機の向こうで、千空が焦りながらも的確な指示を飛ばす。
『落ち着け! エントリープラグのメインハッチだ! コンソール右側の、赤い手動レバーを引け! それで開くはずだ!』
コハクは、言われた通りに赤いレバーへと手を伸ばす。だが戦闘の衝撃でコンソールの一部が歪んでおり、レバーが固くて動かない。白いプラグスーツに覆われた腕に、ぐっと力を込める。鍛え上げられた上腕の筋肉が、薄い生地の下でしなやかに躍動した。
「くっ…!」
【03:45】
渾身の力でレバーを引く。ミシミシと嫌な金属音が響き、ようやくロックが外れた。だがハッチは数センチ開いただけで、完全に停止してしまう。衝撃で、開閉機構そのものが歪んでしまったのだ。これでは彼女のしなやかな身体をもってしても、通り抜けることはできない。
「駄目だ! 開かん!」
『クソッ! 物理的にぶっ壊すしかねえ! コハク、テメーの馬鹿力でこじ開けられるか!?』
千空の無茶な提案に、コハクは「やるしかなかろう!」と即答した。彼女はプラグスーツのヘルメットを脱ぎ捨て、乱暴に床に放り投げる。金色の髪が、狭いコクピット内にふわりと広がった。汗で濡れた髪が首筋や頬に張り付き、普段の凛々しさとは違う、どこか艶かしい色香を漂わせる。
【02:59】
コハクは狭い空間で器用に体勢を入れ替え、ハッチの隙間に両手足をかけた。そして全身のバネを使って、その隙間を内側から押し広げようと試みる。
「うぅ…ぬぅぅん!」
獣のような唸り声が、彼女の喉から漏れる。プラグスーツが極限まで引き伸ばされた身体のラインを、これ以上ないほど露わにした。特に大きく反らされた背中から丸みを帯びた尻にかけての曲線は、この絶体絶命の状況下でなければ誰もが見惚れたであろう。まさに、生命力に満ちた芸術品だった。
ミシミシ!! バキン!!!
凄まじい音を立てて、歪んだハッチの金属が悲鳴を上げる。そしてついに、コハク一人がなんとか通り抜けられるだけの隙間が生まれた。
【01:40】
コハクは休む間もなく、その隙間へと身体を滑り込ませる。だが隙間はギリギリの大きさしかなく、身体の様々な部分が鋭い金属の破片に擦れた。
「いっ…!」
純白だったプラグスーツの胸や太ももの部分が、何か所も黒く裂けてしまう。その裂け目から汗で輝く健康的な肌が、挑発的に覗いていた。だが今の彼女に、そんなことを気にしている余裕はなかった。
ようやく、コクピットの外──ゼノゲリオンの背中へと這い出る。
そこは、地獄の一歩手前だった。機体のあちこちから高熱の水蒸気が間欠泉のように噴き出し、内部の動力コアが心臓のように不気味な赤い光を明滅させている。装甲に触れれば、一瞬で大火傷を負うだろう。
【01:15】
眼下に広がるのは数十メートルの高さから見下ろす、荒れ果てた大地。ここから飛び降りれば、いくら彼女でも無事では済まない。
コハクは、即座に判断した。「登る」のではなく、「降りる」のだ。彼女は機体の装甲の凹凸や剥き出しになったパイプを、即席のクライミングホールドとして利用し、驚異的な身軽さで巨人の身体を駆け下り始めた。
その姿はまるで絶壁を舞う、一匹の美しい獣だった。風に煽られ、破れたプラグスーツがはためく。その隙間から覗く肌が、爆発寸前の機体が放つ赤い光に照らされて妖しく輝いた。
【00:30】
地面まで、あと十数メートル。だが機体の劣化は、もはや限界に達していた。コハクが足をかけた肩部の装甲が、轟音と共に崩れ落ちる。
「きゃっ…!」
思わず、可愛らしい悲鳴が漏れた。体勢を崩し、宙へと投げ出される。このままでは、地面に叩きつけられる。だがコハクは、そのコンマ数秒の落下時間で、冷静に状況を判断していた。彼女は空中で身体を捻り、近くにあった動力ケーブルへと手を伸ばす。指先が、辛うじてケーブルを掴んだ。
【00:15】
ケーブルを伝いターザンのように振られながら、コハクは地面へと向かっていく。そして勢いが弱まったところで手を離し、地面へと着地した。数度、受け身を取って衝撃を殺してすぐに立ち上がる。すぐに、全力で機体から離れなければ。
『コハク! 伏せろ!』
千空の、最後の絶叫が響き渡った。コハクは言われた通りに、咄嗟に地面へと身を伏せた。
【00:00】
その直後だった。世界が、音を失った。背後で太陽がもう一つ生まれたかのような、凄まじい閃光が全てを白く染め上げる。遅れて、地鳴りのような轟音が世界を包み込んだ。ゼノゲリオン初号機が、巨大な火球となって爆発四散したのだ。
熱風と衝撃波が、嵐となってコハクの身体を襲う。小さな身体が、地面の上を数メートルも転がされた。全身を、灼熱の空気が舐め回していく。
やがて、衝撃が過ぎ去り、あたりに再び静寂が戻ってきた。コハクは、ゆっくりと顔を上げる。そこにはもう、あの紫色の巨人の姿はなかった。ただ大地に穿たれた巨大なクレーターと、天へと昇っていく黒いキノコ雲だけが、その壮絶な最期の証として残されている。
コハクは荒い呼吸を繰り返しながら、よろよろと立ち上がった。全身は泥と煤で汚れ、誇りだった白いプラグスーツは見るも無惨に破れ、その肢体をほとんど隠せていない。だが、そんな自身の姿を恥じる気力もなかった。ただ、生きている。その事実だけを、噛みしめていた。
遠くから千空たちが、自分の名を呼びながら駆け寄ってくるのが見えた。コハクは疲労困憊の身体で、フっと息をつくとその場にぺたんと座り込んだ。そして、悪態をつくように小さく笑った。
「ハ! …全く、最後まで人使いの荒い巨人だったな」
その呟きは誰に聞かせるでもなく、勝利と生還を祝う青い空へと吸い込まれていった。
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