01.少し、笑う
「あなたを殺すのは、万夫不当の英雄でもなければ、神々に選ばれた勇者でもありません」
「ただの子供の癇癪に、あなたは殺されるのです」
逃亡生活 三日目 夜
オルティゼル王国 国境の町サロ
オッシアン商会所属宿舎「金鹿亭」にて
「うおー! ベッド、ベッドですよ!」
質素ではあったが、清潔感は保たれたベッドに妹のリアナは感嘆の声を上げた。
姉の留守中に屋敷から抜け出してから三日目の夜。旅人向けの宿に到着し、久しぶりに緊張が解けたのか、逃亡生活で一際大きな声だった。
「移動しっぱなしで、ろくに休む暇もなかったからなあ。でもここまで来れば、しばらくの間は大丈夫だと思う」
「なんとか国境を越えられましたからね。……私、人生初の外出でまさか外国に行くことになるなんて、夢にも思いませんでしたよ」
そう言って、妹はベッドに腰を下ろすと華奢な腕でぽふぽふと叩く。
「うーわー。なんですかこれ。硬い。すごく硬い。なんと……このベッド、シーツの下に藁を敷き詰めただけです。天蓋付きとまではいいませんが、もう少しまともなベッドで寝たかった。がっくしです」
「……仕方がないだろ。お金は少しでも節約したいし。でも夕食はつけてもらったから、それなりに贅沢したつもりだぞ。リアちゃんも野宿よりかはずっとマシでしょ」
「そうですけど。そうですけども。うぐぐぐ……」
屋敷を抜け出してからの辛酸の日々を思い出したのか、リアナが頭を抱えて悶え出した。この妹は基本的に無表情なのだが、表情以外での感情表現は無駄に豊かだ。
彼女がベッドに文句たらたらなのは、わからなくもない。何しろ妹の部屋にあった寝台は、天蓋の付いたそれはそれは豪奢なものだった。その寝台には数え切れないほど座ったが、体が沈むほど柔らかく、おそらくは一点物の品だ。
それは、今になって思うと、自分の娘を幽閉した父の罪悪感……もしくは、歪んだ愛情表現だったのだろう。彼女が幽閉された部屋は、寝台だけではなく、すべてが最高級の調度品で埋め尽くされていた。
「うううー。私が今までどれだけ恵まれた環境にいたのか、否応なく理解できてしまいますー。しくしく」
硬いベッドにばたんと横になり、顔を覆ってさめざめと泣き出した。どう見ても嘘泣きだった。
リアナは結構な捻くれ者なのだが、意外と甘えたがりでもある。これも頭を撫でて欲しいという、彼女なりのサインなのだろう。
旅具の片付けが終わったので、リアナの傍らに座り、黒くて長い髪を梳くように撫でた。
「よしよし。泣かない泣かない」
「うへへ。兄さんは私のご機嫌取りを心得ていますねえ」
相も変わらずの無表情だが、どこか嬉しそうにも見える妹の顔。
そんな彼女の髪と頭をひとしきり撫でてやると、くすぐったいのか身をくねくねとよじらせる。さながら、腹を撫でられて喜ぶ犬ようだった。……まあ、この妹を犬に例えるのなら、間違いなく駄犬だ。
少しして満足したのか、リアナは上体を起こし、俺の顔を上目遣いで覗き込んだ。
「それにしても、よく私をおんぶしたままで、あんな悪路を走り続けられたものです。妹は兄に感心しましたよ、ええ」
「リアは小さいし軽いからねえ。お兄ちゃん、これぐらいなんでもないよ。というか、軽すぎてちゃんとご飯食べてるのか心配になったぐらいだよ」
「……それについては余計なお世話です。兄さんは見たこともない奇病にかかって死んでください」
俺はこの三日、この非常識に口の悪い妹を背負ったまま、生まれ育ったアルメルから北部のオルティゼル王国に向かって、ひたすら走り続けた。馬車などの移動手段を使わず、自分の足だけで。
自分の国に留まれば、どこに隠れても姉に見つかるのは時間の問題だった。だから移動にも細心の注意を払い、国を繋ぐような主要路は避けた。人を背負った状態で走れば、どうしても人目に付くし、大きな道には姉の追っ手が張っている可能性があったからだ。
休むにしても、夜間に数時間程度。どこに姉の手が及んでいるのかわからないため、公共の施設や宿は使えない。客観的に見れば行き過ぎた警戒だったかもしれないが、あの姉を相手にして『やり過ぎ』なんて言葉は存在しない。
そうして、人目のつかない森や林で簡単な野営を作り、リアナを休ませた後、俺は周囲を警戒しながら寝ずの番をした。
こうやって振り返ってみると、無謀な計画だったと思う。俺の『身体強化魔法』とリアナの『回復魔法』があったからこそ、かろうじて成立した荒業だった。道中も迂回に迂回を重ねて、順路と呼ぶには歪な道のりだったが、なんとか予定通りに隣国のオルティゼルに辿り着いた。
これがもし春ではなく真冬に決行していたなら、兄妹揃って命を落としていただろう。
「だったら、運は良かったのかな……いや、この場合良かったのは悪運か」
「その、兄さんは何を突然かっこつけてやがるんです? まさかとは思いますが、ホントに頭の奇病にでもかかりましたか?」
「かかってないよー。リアちゃんのお兄ちゃんはいつだって元気だぞう」
「はあ、つまり兄さんは頭が壊れているのがデフォだと……メモメモ」
妹から盛大に馬鹿にされたが、こんな軽口は年中行事なので気にしても仕方がない。
さて、それはともかく。屋敷から逃亡を図ってから今に至るまで、俺は一睡もしていない。何かと便利なリアナの回復魔法があっても、睡眠不足による疲労はピークに達しており、全身の至るところが悲鳴を上げている。
ある程度身体を鍛えている俺でも限界に近い。口には出さないが、リアナも同じだろう。物心ついてからただの一度も部屋から出ることを許されず、外で遊ぶ機会すらなかった少女だ。この三日、何もかもが過酷だったに違いない。
そんな絵に描いた温室育ちが、野宿なんかでまともに睡眠を取れるはずがない。今は軽口を叩いて余裕があるように見えるが、俺以上に限界に近いのは容易に想像ができる。顔色もいつもより白く見えるし、長くて綺麗な濡羽色の髪も心なしか艶を失っていた。
「あとで手入れしてやらなきゃな……」
屋敷から持ち出した荷物は決して多くないが、妹のお気に入りの櫛は持ってきている。これからどんな過酷な生活が待っていようとも、妹の身なりだけはいつだって綺麗にしてやりたい。そんな兄心。
「さてと、無理をしたおかげでなんとかここまで辿り着いた。いまこの国とうちの国はあんまり仲良くないからね。いくら姉さんでも無茶なことはできないと思う。少なくとも私兵は出せないはず」
人探しの基本は情報だが、結局は数と足だ。この他国の地において、姉さんも私兵総出というわけにはいかない。
魔法に頼れば別だろうが、それについては策を弄したので心配なかった。つまり、魔法に頼れず、人海戦術による目立った捜索ができない。それは俺たちにとって大きなアドバンテージだ。
「えっと、オルティゼルとの問題ですか? 確か、領海上の無人島で発見された希少鉱石の採掘権がどーのって話でしたっけ? 当時はくだんねーと思ってましたが、お姉様から逃げ切れるのなら、今すぐに戦争でもなんでも、おっぱじめてもらいたいものです。マジで」
リアナがまたとんでもないことを言い出した。今はまだ国の往来は可能だが、両国間の緊張具合からして、その話は洒落にならなかった。
「いやいや、滅多なことは言うものじゃないぞ。ホントに」
頭を軽く小突くと、ポコンと小気味よい音が鳴った。
「あいた。……に、兄さんがぶった! 暴力反対! 暴力反対! 言論は暴力ではなく、言論で返してください! あなたはどこかの蛮族ですか!」
暴力では自分の主義主張を曲げない……とでも言いたいらしい。だが兄である俺には、コイツにそんな崇高な精神は持ち合わせていないと断言できる。
「お兄ちゃんは蛮族ではないけど、実は非暴力主義でもないんだ。というか、俺がもし蛮族だったら血の繋がったリアちゃんも蛮族だぞ」
「!! 言われてみれば確かにです! 私は蛮族なんかじゃありません!」
うん。実に都合がよい妹だ。
「それに、戦争なんてものはどんな理由があっても、起きないに越したことはないぞ」
痛くもない頭をさすりながら、リアナは尚もぶうたれる。
「でも私は、この世界の誰よりも何よりもお姉様が怖いですしー。あの人から逃げられるのなら、それこそ戦争なんかじゃなくて、神様にでも魔王様にでも祈りたいぐらいですよ、もう」
会ったことのない神様はともかく、魔王については少しばかし洒落になってない。最後に例の布告があったのは、はてさて何年ぐらい前だったか……。
「わはは。これまでろくに人と話したこともない箱入り娘が世間様を知ったふうな口を利く。リアちゃんが生まれてから接した人の数なんて、それこそ指の数で足りちゃうでしょ?」
「うぐぐぐぐ。だって、お姉様ですよ? 怖いですよ? おっかないですよ? もしかして……あ、あの人より怖い人が、外の世界にはいるんですか……? そうだとしたら私はもう世を儚んで死んでしまいます……」
妹の前では決して口には出さないが、その意見には全面的に同意だった。俺は幽閉されていた妹と違って、世俗にはそれなりに明るいつもりでいる。
それでも俺は、この世の誰よりも何よりも姉さんが怖い。
◇
「ねえ、あんたたちメシは食うかい?」
ノックもなしに部屋の扉が開いたと思ったら、俺たち兄妹は唐突にそんな事を言われた。
扉を開けた人物の正体は、この宿『金鹿亭』の女将さんだ。恰幅が良く豪胆な人物だが、人当たりはとても良い。記帳の際も、明らかに訳ありな風体の俺たちに何も聞かずにいてくれた。
まあ、宿泊費はきっちりと払う以上はお客なわけで、客商売として当然の対応かもしれないが。
「――――!!」
その一方でリアナは、背筋をピーンと不自然に伸ばし硬直していた。女将さんという予期せぬ来訪者に、目を見開いて全身をカチンコチンにさせている。
俺は部屋に近づく足音に注意を払っていたので気づいていたが、リアナにそういうスキルはない。これがもし姉の追っ手なら、こんなわかりやすい足音は立てないと断言できたので、扉を開けられた時もさほど警戒はしていなかった。
「おや、お嬢ちゃんを驚かせてしまったようだ。ごめんなさいね」
「………………」
こちらを気遣う女将さん対して、リアナは何も応えない。応えようとしない。……うん、知ってた。
彼女の生い立ちを考えれば仕方のないのだが、なんとも残念な妹だった。
でも、こんなつまらないことで、女将さんの心証を悪くするわけにもいかない。というわけで、ここは正直に話してしまおう。
「ごめんなさい。うちの妹は、コミュ障……ゴホン、人見知りなんです。気を悪くしないでやってください」
「…………ッッ!!」
無表情のまま、顔を真っ赤にしたリアナにバシバシと背中を叩かれる。痛い。とても痛い。
この妹ちゃんは、俺にはいらんことでもぺらぺら話す子なのだが、人様の前だと途端にこの調子でまともに会話すらできなくなる。兄には高姿勢、他人には極限の人見知り。そんな残念な子だった。
「わっはっは。まあね、そのぐらいの年頃の娘だと、みんな何かと拗らせているものさね。……それで、メシはどうするんだい?」
「はい。いただきます」
「じゃあ、一階の酒場まで下りてきてちょうだい……と言いたいところだけど、お嬢ちゃんが人酔いしそうだから、部屋まで持ってこようか?」
「えっ、いいですか? それはとても助かります」
妹の社交性向上のために、酒場の荒くれ者たちに揉みくちゃにされるのも荒療治でいいかもしれない――。
そんな悪魔じみた考えも一瞬よぎったが、よくよく考えてみたら好都合な申し出だ。今の俺たちは、人相を不用意に知られるわけにはいかない。まさかリアナのコミュ障……人見知りが、こんな形で役に立つとは思ってもなかった。
「じゃあ、少しだけ待ってな。運ばせるから」
そうして女将さんは踵を返すと、一階の酒場に戻っていく。
「……!! ……!!」
「痛い痛い。痛いよリアちゃん」
その一方でリアナは、俺を未だにバシバシと無言で叩き続けている。
ふうむ……コミュ障、もとい、人見知りとバレたのがよっぽど腹に据えかねたのか。女将さんの言う通り、妹もお年頃だから、気持ちもわからなくもない。
だけど、コイツは常時無表情だから、相手によって無視されていると思われかねない。旅先で、しかも今は逃亡中の身だ。余計なトラブルは避けたいし、我慢してもらうしかなかった。
少しして……つまり、リアナが俺への鬱憤晴らしという暴力に飽きた頃。ドアの向こうから人の気配を感じた。
「……ん?」
しかし、待てど暮らせどノックもないし、ドアを開ける気配もない。ドア越しから伝わってくるのは、多少の焦りを感じさせる息遣いだけ。……女将さんではない。足音が小さく、歩幅も狭く、歩調が少しおぼつかない感じだった。
はて? 誰かわからないが、どうかしたのだろうか? 若干の警戒心を抱きつつ、こちらからドアを開けようか迷っていたところ――。
「ごめんなさーい! 部屋のドアを開けてくださーい! 今、お料理で手が塞がってましてー!」
自分が何をすればいいのか気づいたのか、ドアの向こうから女の子の声が響く。
「はーい。開けますねー」
言われるがままにドアを開けると、そこには十歳ぐらいの女の子が立っていた。赤毛の長い髪を一房のおさげにした可愛らしい娘だ。そして、これまた可愛らしい子供用のエプロンに赤い料理頭巾。この店の従業員の一人なのだろう。
それに、多分だが、髪色から察するにこの娘の正体は――。
「女将さんの娘さん?」
「はい! お母さん(女将)の娘です! ベリンダって言います! 当宿のお夕食をお持ちしました!」
ハキハキと元気な声で、ベリンダと名乗る少女が答える。うちの妹にも大いに見習ってほしい愛嬌の良さだ。
少女が持つ大きなトレーの上には、鶏肉ときのこのシチューが二皿と、ライ麦のバゲットがまるまる一本乗っている。熱々のシチューからは、ローリエやナツメグなどの清涼感のある香草の香りが漂っていた。
「美味しそうなシチューだね。ありがとう」
温かい食べ物は久しぶりだ。あまりの疲労で食事も喉を通らないかと思っていたが、その懸念は一瞬で吹き飛び、思わず唾を飲み込んでしまった。
今日まで水と高エネルギーの固形食(別名、妹のお茶菓子用のクッキーともいう)だけで食い繋いできたのだ。涎が出ても仕方がないだろう。
「はい! シチュー作りは私も手伝いました! うちの名物料理です!」
「おー、それは楽しみだ。俺も妹もお腹もペコペコだったから。本当に嬉しいよ」
「わあ! そう言ってもらえるとお母さんも喜びます! わたしも嬉しいです!」
リアナは身体が小さいこともあって驚くぐらい小食だが、これなら食べきれるかもしれない。それくらい食欲を刺激される香りだ。
「うんうん。ベリンダちゃんは小さいのにお家のお手伝いの出来るいい子だね。そうだ……そんないい子には飴ちゃんをあげよう。ちょっと良い飴だからじっくりとお舐め」
荷物の中から飴を一つ取り出し、今までトレーを持っていた小さな手に握らせてやる。地元の『ノインベルト』で買った少々お高いミルクキャンディ―だ。
少女は大事そうに飴を受け取ると、エプロンのポケットにしまった。
「ありがとうございます! あとでいただきます!」
ちなみにこれは、リアナがぐずりだした時のために用意している飴だ。舐めていると機嫌が良くなるので、何かと重宝している。それと、まったく関係のない話だが、妹は今年で十五歳になる。国によっては成人の年齢だ。
「…………!」
屋敷を抜け出す際、補充する暇がなかったので、残る飴の数はもう心許ない。でも、こんな愛くるしい子供には何かチップの代わりに渡したくなるじゃないか。
俺を盾にしてベッドに座る妹からの視線がちくちくと刺さる。だけど、コミュ障の人見知りには、睨むのが精一杯で何も言えやしまい。くくく。
「それでは失礼しました! 温かいうちにどうぞ! …………えーっと」
「失礼しました」と言いながら、全然失礼する様子がないベリンダちゃん。何か探すように、キョロキョロと室内を見渡している。
「ん? どうかしたの?」
「あ!」
少女は、ベッドの上で居心地が悪そうに何度も居住まいを正すリアナを発見する。そんな妹を見た瞬間、ベリンダちゃんが割れんばかりに破顔した。
「おねーさんもごゆっくりしてください!!」
「はひっい!?」
リアナは声を掛けられる事態を想定していなかったのだろう。素っ頓狂な悲鳴を上げて、女将さんが来た時と同じように背筋を反らして硬直してしまった。
「ウフフ、お母さんの言ってた通りです。本当にお人形さんみたいでキレイなひとです!」
「~~~~!!」
身内にしか(俺にしか)外見を褒められた経験のない妹は、どうしていいのかわからずに慌てふためいている。落ち着きがなさすぎて、どう見ても挙動不審だった。
「長くて黒い髪キレイです! 赤い目なんて初めて見ます! キラキラしてて宝石みたいです! それに着ているお洋服もステキです! まるで、ご本に出てくるお姫さまみたい!」
ベリンダちゃんは、憧憬の視線で頭からつま先までリアナを観察すると、矢継ぎ早に褒めちぎる。
この旅宿にリアナのような身なりをした子供が泊まるなんて、滅多にないのだろう。
妹の混じり気のない黒髪はこの国では珍しいし、深紅の瞳はさらに珍しい。黒を基調とし、レースで彩られたワンピースなんて見たことがないのかもしれない。
この妹は身内の贔屓目を抜きにしても、とても整った顔立ちをしている。彼女のように、話しかけたくなる気持ちもわかる。……というか、妹が他人から褒められると、兄である俺も滅茶苦茶嬉しいことに今判明した。
「…………」
あ、いかん。リアナが限界だ。極度の緊張と羞恥に耐え切れなくなったようで、視線が中空を彷徨っている。試しに目の前で手を振ってみても、何も反応を示さない。
「いけない! お客さまにごめーわくをおかけしちゃいました! ごめんなさい!」
「あ、ああ、気にしなくていいよ。それよりもまた妹の相手をしてやってね」
そんな謝罪を言い残し、ベリンダちゃんは少しだけ申し訳なさそうに、それでいてどこか楽しそうに去っていった。
その後、シチューが冷めきった頃に、リアナがようやく正気を取り戻した。
「……ふん!」
「痛い!」
いきなり尻を蹴られた。本気で痛い。くそー、お兄ちゃんが何をしたっていうんだ。謂われない暴力に文句の一つも言いたくなるが、妹の理不尽に兄は耐えるのが美徳だと誰かが言ってた。誰かって誰だ。誰か許さん。
トレーに載せられていた料理をテーブルに移すも、シチューから湯気はもう立っていない。うーん、温かいご飯はまた次の機会か。せっかくの名物料理を美味しく食べてあげられなくて、ベリンダちゃんと女将さんに悪いことをしてしまった。
それと仕方がないとはいえ、リアナの人見知りもなんとかしないとなあ。今日の様子を見る限りでは、とてもじゃないが無理そうだけど。
「……うん。嵐みたいな子だったね。でもリアちゃんを褒めちぎられて、お兄ちゃんとしても悪い気はしないよ」
「そうですか。そーですか。兄さんは今すぐそこの柱に頭を打ち付けて死んでください」
まともに口を開いたと思えば、相も変わらずの憎まれ口。でもそんなところも含めて、俺にとっては可愛くて仕方のない妹なのだ。
――――それはもう、ずっと昔の話。
屋敷の敷地内にある研究棟の最上階から外を俯瞰している少女を見た時。
俺は驚きと同時に『人形みたいに綺麗な子だな』と思った。
本物の人形のように綺麗で、本物の人形のように無表情。
窓辺で、外を眺める赤い目をした女の子。
あの時の俺は、父の言いつけを守るだけで何もできない存在だった。
いいや、それは違う。『何もしなかった』の間違いだ。
俺には姉のような勇気も行動力もなく、妹だという少女を庭から見上げていただけ。
そんな、兄という立場すらも希薄な存在だった。
冷め切ったシチューをスプーンでかき混ぜながら、赤い目の妹がぽつりと呟く。
「……自分より小さい子供が、あくせく働いているのを見るとなんとも惨めな気持ちになりますね」
「妹よ。その惨めさを忘れずにいなさい。いつか立派な大人になるための社会勉強だ」
「ぷぷ。なんですかそれ? 社会勉強って。立派な大人って。……まったく、おかしなことを言う兄さんですね」
偉そうな口調でそれっぽいことを嘯いてみたら、意外とリアナのツボだったようだ。てっきり、また兄を兄とも思わない罵倒が飛んでくるかと身構えていた。妹を信じ切れないお兄ちゃんを許しておくれ。
「そして私は、そんな子供相手にもまともに会話もできないチキンですよ。こんちくしょー」
「お、さっそく自己分析ができるようになったじゃないか。また一歩大人に近づいたようだね、お兄ちゃんは嬉しいぞ」
「ふははは、さすが私です。さすわた。……うわー、死にたい。今すぐ死んでしまいたい」
ガックリと机に突っ伏して項垂れる。この妹は兄に死ねと言うのと同様に、自分も死にたいとたまにのたまう。どちらも本心じゃないと切に信じたい。
「はははは。そんなことで死なないでくれよ。もしリアが死んじゃったら、お兄ちゃん泣いちゃうからな」
「あ、それについては大丈夫です。私が死ぬ時は兄さんも死んでいるんで。泣くようなことはありません」
「はははは……じょ、冗談だよね?」
逃亡生活三日目の夜。
終着点はどこにもない、暗雨のなかを俺たちは走り回っていた。そんな、いつか訪れる破滅の日を先延ばしにするだけの逃避行の旅。
どうにもならない現実に目を逸らしながら、俺たち兄妹は、少し笑った。